様々な形態の浄土教の起源は、 多分インドにあります。インドは3.3億の神々で構成される神話を背景に描かれた宗教的登場人物にまつわる迷信や民話で知られています。この運動の背後にある話の一つは、阿弥陀仏、阿弥陀とも呼ばれる伝説的な人物、世自在王仏で、僧侶として何百万年も勉強したとされていますが、歴史的証拠は何もなく、架空の伝説を背景にした作り話です。
驚いたことに彼の今日ある特徴と矛盾するのは、 彼は多くの人に独占して崇拝されていますが、元来、最古の大乗経典においては他の多くの仏のうちの一人であり、崇拝の対象として選び抜かれてはいません。
また浄土宗徒の目標の一つは、阿弥陀の第18番目の誓願が成就して、極楽浄土と呼ばれる阿弥陀如来の至福の浄土の西浄土において生まれ変わることです。浄土に到達するための超自然の蓮華座上に生まれるという方法は、これらの様々な宗派や分派ごとに異なる意味を持っています。
本願によるところの必要条件は、5つの深刻な罪を犯して正法を濫用しないかぎりは、阿弥陀の名を10回唱えることでした。しかしながら、もっと長い経典にはこれに矛盾しているような内容があり、浄土に入るための前提条件として価値ある行為が 含まれていて、そのことが恐らくこれら異なる見解の混乱の元となっています。浄土宗徒の慣習の一つに、浄土で様々なレベルの往生を得るための13の革新的な観法について語られている観無量寿経で説明されているように、視覚化のテクニックがあります。この慣習における重要な焦点の一つは、仏陀のイメージに焦点を絞ることですが、そのイメージが本質的に価値がある、あるいは重要であるのなら、彫像は単に誰かの創造や芸術的想像の産物にすぎないのに、どうしてそこから恩恵を受けることができるでしょうか。その上、阿弥陀が実在したのか誰にも分からないし、ましてや象徴的な芸術品を付き添いの菩薩とともに思い描くことで彼の容姿を認識できる人も一人もいません。浄土は、悟りの手段と言うよりはむしろ、いくら良く見ても単に想像上のものでしかありません。同様に、観法のもう一つの疑問点は、聖観音と勢至菩薩という菩薩を中心にしており、個人が死の瞬間にその二つの菩薩の容姿を区別することができれば歓迎すべきしるしですが、代わりに他の仏や菩薩が見えたら、それはその人を浄土に入れまいとする悪しき霊が変装しているものとして無視するべきものだというものです。私の疑問は、すべてが欺こうとしている霊かもしれないのに、どうしてこれらの未知の人物のうちのいずれ かでも正しく識別したり認識したりすることができるのかということです。 とにかく、浄土(浄土宗)信仰の主な表れの一つは、ある人々には崇拝者にとって大きなメリットを実現すると言われている 「南無阿弥陀仏」として知られている阿弥陀仏に敬意をはらう真言にあります。これは後に法然の弟子の一人で浄土真宗の開祖である親鸞によって改定されました。親鸞は、源信、善導、法然の影響とその儀式的な発声と瞑想から離れ、浄土運動の伝統的な慣習を縮小して、誓願への信仰により大きな強調を置きました。よって、親鸞にとって、念仏とは、何かの功労に関してというよりもむしろ、自力への反動的反応として、感謝や尊敬に関するはずのものでした。
皮肉なことに、法然は、弟子の幸西をその「一念義」の教義が異端であるとして、公然と批判し、否認しましたが、私は彼が親鸞のこの縮小された教義についてはどう思っただろうかと思います。
他のグループは、仏陀の念に関して、大変な宗教的熱意でもって引声・瞑想の概念を全く新しいレベルにまでもっていったため、誤って適用されました。このような慣習は、一日に5万回であれ50万回であれ、真言が語られた回数に焦点をあてるために数珠を使用します。宗派の中には、お辞儀と組み合わせてこの真言を繰り返すのに、一日のうちの特定の時間を定めているものもあります。他には、死の直前というような、真言をいうタイミングの重要性に重点を置くものもあり、単に一度言うだけでよいとするものもあります。
そんなに適応の仕方に差があっては何を信じればよいのでしょう。結局みんなが正しいはずはなく、もし真実が明らかになるのであれば、どれ一つとして正しいものがないかもしれません。
さらに、親鸞が過度にこの手順を単純化したのは、たぶん、すべての魂を救おうとする阿弥陀の目標が、この慣習にならない慣習を採用する者たちにとって、実現しやすく達成することができることを保証しようとする試みであったのでしょう。したがって、おそらくそれは、簡単な方法/道として、より広範囲に適用され受容されるために、実用的また実践的に浄土教を操作するための方法でした。けれども、人を天国への近道に置いてすべての魂の救いという結果を正当化する手段としての、このようなその起源に伝統的に沿わない適応は必ずしも真理を必要とするものではありません。瞑想や引声の方法論は浄土信仰の中心であり、この種の還元主義は、仏説般舟三昧経、観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経からのすべての教えを取り入れて、伝統的な信念や慣習から離れ、それを全く別の領域に位置づけるものです。
このことは私の次の論点につながりまが、それはこれらの文書が、かなり古いものであるとはいえ、本当に原典であるかどうかということです。というのも、長い経典も短い経典も元来のサンスクリット語の書としては残っていないからです。これにより、それが中国語に翻訳される折に、他の影響や、混合主義的あるいは多元的な信念が入ってくる余地を与えた可能性があります。その理由は、この運動と、日本の真言宗のみならず、中国の禅や天台宗派との間に密接な関係があり、これらすべては共通してその慣習と信念に強い浄 土の要素を持っているからです。さらにこの運動の創始者の一人は、道学者の曇鸞で、彼は地上の楽園が西方にあるとか、神の秘儀の名を繰り返し唱えたり、超自然的存在を視覚化するといったようなアイデアを借りてきたようです。浄土はこれらの他の文化的宗教との間に多くの共通点を持っているので、それほど純粋あるいは真正なものではないかもしれません。さらに中国には呪文の詠唱や、ざんげの儀式やこの運動の遵守と組み合わされた良い行いというような他の儀式的な形態があります。
とにかく、疑わしい事項が他にもあり、浄土に入る人たちが死んだら一番最後に冷たくなるのは頭だというような、時代遅れで科学が発達する以前のようなことを信じています。これは、いかなる霊的重要性とも別にして、医学的な見地から説明するのが一番よいかもしれませんし、逆に、浄土教義を遵守していない人が異なる現象を経験していることが同じように実証できるでしょうか。
この信念体系にある誤信のもう一つは、浄土に向けて出発した人たちは、火葬後に遺品つまり舎利を残していくというもので、これはサンタクロースがプレゼントを置いていったり、歯の妖精が私たちが夜眠っている間に枕の下にお金を置いていったりする幼年期のファンタジーに似ています。これは現代社会に生きる人々が現実と照らしあわせて通常ではないと認識するべきようなものです。
このイデオロギーのもう一つの要素は末法の概念を中心にしています。私たちは現在あまりにも堕落してきている時代に生きているため、悟りを達成することが不可能であるというものです。このような見解を提唱したのは曇鸞、道綽、善導で、同時期の出来事と経験的知識・洞察をもとに、教義の最終段階が実現したとしました。戦争や災害、僧団の崩壊も含め、人間の不道徳な行いや、聖職者の堕落、専制政治のような、社会における悪の影響を認識したからです。しかし、以前には人間の性質が全体として、一度でも道徳的な完全さに達するほどの全く清純な状態を達成する ことができたと示すどんな証拠があるでしょうか?
ともかく、他にも私が議論の余地があると思う事項は、輪廻転生と因果に関連する話題であり、私がこれらの主題についてヒンズー教の観点から書いた記事がありますが、これらの概念に関して仏教の哲学や思想にも同様に適用できるように書いたので、共通の異議があるかどうかを知ることはあなたにとってもおもしろいかもしれません。また、臨床体験をして死後の世界を僅かな時間だけ体験した人たちのことを記述したリンクも含めておきます。
jesusandjews.com/wordpress/2010/02/16/hinduism-and-reincarnation/
続けて、信仰と行いの間の緊張を調和させるための、3経典の間の対立した見解とともに、仏典の曖昧さなど、私はこの運動にいくつかの哲学的な問題や疑問を抱いています。言い換えれば、人はどのようにして、至福の地に入るために十分な功徳と献身あるいは十分な信仰を持っているかどうかについて、確信し安心すること ができるのでしょうか?この真理について手に入れることのできる実体があるというどんな証拠があるのでしょうか、またはそれは目下どのように測定され認識することができるのでしょうか?信仰のみに過程を簡略化した方たち、信仰が、いかなる自己の努力や人間の意思とも別に、阿弥陀の選択によって完全に決定されるというなら、阿弥陀仏はすべての衆生を救うことになっているのに、なぜすべての生き物が阿弥陀仏の崇拝者ではないのでしょうか?また、浄土真宗派の信仰運動はその融通のきく理論において非常に退化をしたので、阿弥陀仏の誓願をすべての魂に無条件に適用して誰もが悟りを開いたと宣言して、すべての生き物は阿弥陀仏の誓願の効果的適用のもとに生まれ変わると宣言するような普遍主義を抱擁するにまでいたるのを引き留めるものがあるでしょうか。これは特に無知な人か、または阿弥陀信仰に関する知識を全く持っていない人にとって有益なことでしょう。また、なぜこの容易な道がもっと繁栄していないのかという疑問がわいてきます。日本人の大半は阿弥陀を信じないで、日本で新興宗教として知られているカルト的な現 象にますます傾倒しているからです。同様に、阿弥陀仏の目的がすべての衆生を救うことであれば、なぜ世界的視点からすると、キリスト教に見られるのと異なって、信者の数が比較的少ないのでしょうか?
またすべての人を本質的に悪とみなす末法のアイデアに関してですが、彼らは極楽に到達するまでその性質が変わらな いのですから、どうしたら良い選択をしようと動機づけられるでしょうか。その上、往生することができると信じている人たちは、なぜ苦しみとそれに続く死を体験しながら残りの人生を過ごす上で、輪廻の影響下におかれ続けなければならないのでしょう。なぜ彼らは至福の国に直接移されるか、案内されないのでしょうか。さらに、これが現在の現実であるなら、この信念に固執している人がなぜまだ罪悪感や 恥を経験するのでしょうか?また、人は、効果のある召しに並んで、自分自身の個人的な信仰の決意の影響下にあるのか、生まれ変わることを確実にするために阿弥陀仏によって与えられた贈り物としての信仰なのかを、どうすれば見分けられるでしょうか。
終わりに、私はこの宗教組織には、人間の性質に道徳的堕落を認めて、人類の愚かさと我々の社会にある悪と罪の現実についての査定といったような、肯定的な側面もいくつかあると思います。私が何よりも問題とするのは、彼らが往生や涅槃に達する上で救世主として信頼を置く人物のことです。これらの宗教的文書意外には、彼の存在について信頼できる裏付けとなる歴史的資料が存在しないからです。
私は真宗は浄土の慣習について正統的信念を代表するものでないため、いくつか問題点があると思いますが、それでも、人間が自分に欠けているものによって何かを達成するのに無力であり、別の力、すなわち他力の助けを必要としていると認識しているように、末法の思想との間に、もっと一貫性を有しています。しかし浄土真宗が信念を厳密に阿弥陀仏への信仰に制限することは現世において彼らを道徳的責任から免れされたり、彼らに道徳的責任を持てなくさせたりするものではありません。そうでなければ、人間の法律は何の妥当性もなく、人道的という言葉は、人間の定義に適切なものではなくなるでしょう。人間には道徳的に限りがありますが、そのことは私たちを責任から解放するものではなく、法を無視する許可や権利を与えるものでもありません。よって、行いは、必然的に生活の一部であり、私たちはそれから完全に自分自身を切り離すことはできないのです。
信仰が浄土真宗派の間で強調されるのに対し、他の宗派は阿弥陀仏への誓約告白に並んで、彼らの意図的行為に応じて、献身・崇拝の行為を通した本物の応答としての行いを以って引声を補うことが必要であるということを認識し、道徳に対してただ陰鬱なアプローチをとることから自分たちを引き離す証明しようとしています。そのようなアプローチは、自分たちの非道徳的状態についての現実に対処することから人間の条件をとりのぞくので、無責任で致命的なものとなります。しかしながら、私は彼らが現在の状況がまだ罪で堕落しているのに、どうやって十分なレベルの信仰を得ることができるのかと疑問に思っています。
真の浄土宗派の教えの下で説かれているもう一つの撞着的概念は悪と因果負債が善に変換されうるというものです。人は同時に悪と非悪になりえないので、これは、根本的に非矛盾律に違反するものです。善は常に善であり、悪は常に悪であって、それは互いに反発し合う磁石の反対極のようなもので、この二つの概念は正反対の力なのです。
浄土真宗にとってのもう一つの困難な立場は、信仰のプロセスを通じた道徳的債務の根絶にあり、害を与えた者を放免しますが、被害を受けた相手の正義を確保するためには何もしないので、もちろん、その人の因果応報のためにどうにか貢献しているのだと議論するのでなければ、その人は不正の被害者としてとり残されることになります。
とにかく私は、これがキリスト教の世界観が悪・罪の葛藤をどう見ているか紹介するのにちょうどよいポイントになるのではないかと思います。キリスト教はすべての人は罪を犯して神の栄光に達することができませんが、道徳的な負債の取り消しによってすべての人は寛大に赦されることができるとし、それに等しくこの不正な事件に対しても正義の概念を適用するものです。
キリスト教世界観の説明力と領域は、悪から生じうる善をみて、私たちの代わりに罰を受けた救い主イエス・キリストの意図的行為によって、聖なる神の意思と性質をそこない、汚した私たちの罪と恥とを取り除き、結果的に正義と慈悲の両方をもたらします。これは、私たちが自分自身のように隣人を愛するように教えられているように、縦だけでなく横の領域でも適用され、私たちが他の人を不当に扱ってしまった場合には賠償が必要となるかもしれません。これは、私たちの堕落した性質によっては不可能で、私たちが今この場で生まれ変わる、すなわち新生することによってのみ可能となります。したがって、永遠の実体に適用する単なる義の宣告によってではなく、神が人間に聖霊を与えることで私たちの性質を変えるのにしたがい、新しく創造された新しい人として、実質的に私たちがこの現在の悪の時代から救われることで、罪が効果的に取り扱われます。したがって、信仰は義の実を結ぶ点で倫理の働きの現れによって明らかになります。これは下記のリンクでご覧いただける私の個人的な証しとキリスト教を受け入れた数多くの人々の証しによって確認できます。
www.cbn.com/700club/features/Amazing/
浄土真宗の場合と同様に、信仰はキリスト教にとっても非常に重要な要素ですが、それは多くのレベルで 検証できる歴史上の人物に表されます。キリスト教信仰の実体は、単なる告白や聖餐ではなく、むしろ神の力によって変えられた人生として示され、行いの伴わない死んだ信仰とは異 なり、行いを生み出す信仰として確認されます。
結論として、私はきつい言葉遣いで自分を主張しすぎて、私の記事があなたに嫌な思いをさせていなければよいと願っていることをお伝えしておかなくてはいけません。このブログの読者を傷つけたり害を加えるようなつもりは絶対にないからです。実際、私はかつて私自身の謝った信念と向き合わされたことがあるので、私の信仰を他の人々に伝えざるをえないのです。私にとって、特にキリストのそのような啓示体験を受けた後に、この責任を無視することは、嘘の人生を生きることであり、この良き知らせを人に伝えないのは、人に対して嫌悪をもって行動していることになります。それで、もしも私の発言がきつかったり、失礼だったり、忍耐のないものであるかのように聞こえたらお詫びいたします。私はただ信者の方々に、その信仰体系の枠を超えて考え、他の機会にも心を開いていただきたいと挑戦したいだけなのです。締めくくりに、私が友としてあなたにお願いしたいことは、イエスについて調べてみることに受容的であることと、イエスを信じるために個人的かつ現実的な方法であなたにイエスを顕してくださるよう、ただ神に自分の言葉で祈ることです。
最後に、この記事の目的は、誰の哲学的見解がより優れたものであるかを議論することではなく、むしろ、どこででもすべての人々にとっての真理に到達することです。すべての道は同じ方向に向かっているという考え方は実際の生活では通用しませんし、ましてや霊的領域ではなおさらです。比較宗教に関する研究を行うと、人間とは本来どうしようもなく宗教的であると言う意外には、すべての宗教的見解の間には和解 や調和が存在しないことが明らかになります。
とはいえ、私が初めて浄土について読んだとき、多くの類似点に気付きました。特に浄土真宗派内に共通の概念がいくつかあります。あなたが高く評価し、共鳴されるかもしれない聖書箇所をいくつか揚げておきたいと思います。
末法に類似して、イエスは終わりの日について語っています
マタイによる福音書 第24章3節から14節
またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
定義上、イエスは計り知れない、無限の光です。
ヨハネによる福音書第1章4節
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
ヨハネによる福音書第8章12節
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
イエスが唯一の道です
使徒言行録第4章12節
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
イエスは彼の義と功徳により私たちのために永遠の命を得ました
コリント人への第二の手紙第5章21節
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
ローマ人への手紙 第5章19節 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
ローマ人への手紙第6章23節 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
イエスは自分の命を捨てると誓いました
ヨハネの第一の手紙第3章16節から17節
主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。
人は自力や努力とは別に、信仰によってイエスの名を呼ぶときに罪と裁きという永遠の成り行きから救われます
使徒言行録第2章21節
そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。
エペソ人への手紙第2章8節から9節
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
イエスは私たちに神と正しい関係を持つための簡単な方法を与えてくれました
マタイによる福音書第11章28節から30節
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
ローマ人への手紙 第3章24節から25節
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。
万人の救いの可能性
ペテロの第二の手紙第3章9節
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
私たちは永遠の命を受ける者として神の恵みによって義とされ、神の憐れみによって生まれ変わることができます
テトスへの手紙第3章3節から7節
わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。
ヨハネによる福音書第3章3節
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
信者のための霊的な聖職
ペテロの第一の手紙第2章9節
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
イエスは、痛みや苦しみから私たちを最終的に解放します
ヨハネの黙示録第21章4節
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
イエス様は私たちのために至福に満ちた天の楽園を用意してい ます
ヨハネによる福音書第14章2節から3節
わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
神と関係を持つ方法
その他のリンク
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