大本

大本は数ある神道宗教形態の1つであり、宗教民話に含まれる迷信に起源を持つ。その信仰の1つが国常立尊および素戔嗚尊(スサノオノミコト)として知られる二人のカミ(神道の神格)または神格で、最初に日本を治めた統治者たちである。大本の霊界物語によれば世界の混沌は、両者が邪神によって追放されたことに起因する。この説は、皇族の先祖である太陽の女神である天照大神崇拝の神話に対抗し、その背後には天皇の神性を否定し、さらに自らの宗教の正当性を訴える意図があった。

この種の信仰が伝説に基づくものであることはよく知られているが、霊的な力や勢力が働いていると告白している点で、真理的要素を含んでいると言える。しかし悪や欺きの霊であるこれらの主体の性質について、根本的な見過ちがあることに触れなければならない。

とにかく、教祖の出口なおは他の神道主義の霊的指導者から漏れることなく、独自の形式で卓越した啓示的傑物としての自らの人格および性質の重要性を訴える。その啓示は、世の終わりに起こる破壊的出来事からの大転換に対する切望をかき立て、平和と憐れみと調和とに満ちた差し迫るユートピア時代を前にした、終末における刷新と希望を約束する。転換の時代への渇望は、深い闇のごとく社会を覆う問題に直面しながら、壊滅的な装いを見せる世界情勢に挑む上で非常に魅力的かつ必要なものであるが、もし即座に予言が成就しなければ単に幻滅と失望感、そして遂には懐疑心を与えるだけに終わってしまう。おそらくこの宗教的セクトが面している衰退は、この非現実的な期待を裏切られたために多くの信者が脱退したことに起因している。

この大衆受けする終末思想はなおが見たとされる夢の結果に端を発する。そこにはよく知られた聖書的なテーマが含まれるが、彼女の霊的な協同者の出口王仁三郎という異名を持つ上田喜三郎がそれを歪め、なおのお筆先の成就による世界の破滅および新天地を伴う救世主王国の到来に応用した。しかし綾部市が政府の首都になるという彼らの見通しが見事外れてしまい、大正維新と称される時代は訪れなかった。それにも関わらず1928年に王仁三郎はそのお筆先に則り、聖書でサタンを象徴する竜神の時代に訪れる救世主または生き仏(菩薩)の体現者が自分であることを公式に宣言した。さらにこの新しい時代は、世界の新秩序、つまり人類救済が実現する弥勒菩薩の時代を告げる理想世界が打ち立てられるような、大転換を迎える時代とされた。しかし1948年、世の破滅とも思われた日本敗戦の後間もなくして王仁三郎が逝去。結局救世主の時代は訪れず、実質その予言は外れたことになる。

これらに加え彼ら各々の霊的な営みに関する疑わしい性質に、議論の余地が認められる。なおは自分自身を霊的な案内人と称し、信者たちには彼女が艮の金神による神懸かりを受けながら、開始時に狂気じみた状態に陥るお筆先によってその神諭を伝えていると信じるように導いた。再度言うが、私は霊的な影響を疑ってはいない。私が異を申し立てているのはこのカミのような存在とのかような緊密な遭遇に対して覚える欺瞞に対してである。王仁三郎に関して言えば、彼は鎮魂寄進の儀式としても知られる、霊憑依のテクニックを持つ降霊術者であると同時に神秘的指導者でもある。

このように、大本はオカルト的な教理、影響力、そして儀式の上に成り立ち、今日もシャーマニズム的霊媒術や降霊術の実践に加え、出口なおの悪魔を出所とする自動筆記からの教義のもとで活動を続ける。

納得のいかない別の問題は、霊的指導者である王仁三郎による、全ての宗教が出所を共有していると教示している点である。しかし比較宗教研究に真剣に取り組んでいる誰もが、本質的に宗教の間に同一性がないことを知っている。確かに人間または人間性を生み出した根源、すなわち神が存在することについては共感できる。また、私たち人類はみな同じ人類であるという真理への信仰のほか、私たちの宗教的観念と共通する面が散見される。しかしこの教えは私たち人間が紛れもなく不完全な存在であるという必然を重要視していない。したがって私たち皆が等しく、本質的かつ究極的な真理を表明しているわけではない。哲学的に言えば、私たち皆が誤謬を犯すことが可能であっても、宗教の教理および実践上の本質を占める部分と相容れない思想や無神論が存在する以上、私たち皆に無謬を認めることは不可能である。さらにこの考えについて、当宗教の立場との内部的な矛盾をも孕んでいるように見受ける。大本教自身、世界をまたぐような名もない組織の傘下でアイデンティティを混合させ、信仰告白に特徴も個性も持たないような宗教であってはならず、他宗教とは一線を画した存在でなければならないはずだ。さもないと自らの宗教的世界観に基づく宗教行為を維持させることも、また他と共存することも不可能となるだからだ。さらに全ての真理が同一であるとする教義は、真理を相対的あるいは主観的にし、命を単純化し過ぎている。もし仮に客観的真理が存在しないのであれば(実際あるのだが)、全宗教が市場に並ぶ魚のように、霊性維持への個人的欲求および渇望に応じて取捨されるような、卓越性も意味を為さない嗜好の対象となってしまう。それはむしろ調理人が誰であるかも気にしないままフグを買うようなものであり、現実として致命的な結果を招くか恐れもあり、あるいは栄養に変わる場合もある。

結論、大本教は現代における希望と悟りを約束する、日本の数多い新宗教ムーブメントの中の1つであるが、教祖や霊的指導者たちへの告知とは裏腹に世界的な知名度を誇るには至っていない。隣人に対する実際的な支援を達成してきたことは評価できても、彼らの向かう世界刷新という最終ゴールを達成する力についてははなはだ疑問である。

この問題への賛否をめぐり集団内部に亀裂が生んだことで、事態はより複雑さを増してきている。会衆を去り他のカルト集団に入信した者もいれば、既存の集団には属さずに自分たちで新しいムーブメントを生み出した者もいる。さらに自らの宗教的イデオロギーとの衝突が絶えなかった政府当局に対し、当集団が何ら意義ある影響を及ぼさず、結果、内部においても対外的にも平和を築き損なったことを鑑みると、この宗教に世界はもちろん、日本復興の実現を期待できるほどの安定性があるかが疑わしい。

ある情報筋によれば、大本教は活動のローカル化をはかり日本国外の人々の入信については積極的ではなかったという。世界一致を果たすはずの宗教団体にとっては、これ以上の皮肉はないだろう。このように当集団が信じる真理について、その告白に伴うはずの実が乏しいことからも当集団が奉ずる信仰対象は信頼に価しない。

最後にあなたに奨励したいことがあります。神から与えられる聖霊があなたの内側に宿り、命溢れる経験から得られる生ける真の神についての知識を享受するために神とのつながりを待望するなら、あなたの選択は間違っていません。これは私たちが神と同質または同一の存在になるからではなく、神と関係的に結ばれ、その神と1つになることを可能にするキリストにあって成就するのです。そしてこのイエスとの関係こそが最終的にあなたを代々に続く平和と、永遠の命へと導く道なのです。

この回を締めるに当たり、あなたに是非お勧めしたい。クリスチャンたちを通じて全世界にその影響を波及し続け、無数の人々の人生を変えてきたイエスの人格と働きの業を、どうか吟味していただきたい。www.cbn.com/700club/features/amazing/から素晴らしい証を閲覧できます。またこれと合わせて イエスについての私の証しで、私の個人的な体験談をご覧いただければ幸いです、

マタイによる福音書11章28〜30節
28 「疲れた者。重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

大本の資料

Omoto

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.7, pg.4790, Joseph M. Kitagawa and Gary L. Ebersole

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pg.5622, Lewis R. Lancaster

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573, Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pgs.6824-6826, Murakami Shigeyoshi and Shimazono Susumu

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.8, pgs.947-948, Omoto

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