幸福の科学

エル・カンターレの至上霊の化身または体現者とされる大川隆法を教祖とする幸福の科学は、別名ハッピーサイエンスと呼ばれ(経験的実証を伴う科学とは全く無関係)、新々宗教として知られる、数ある新カルト集団の1つである。教祖の大川は怪し気な
オカルト的チャネリング術によって、モハメッド、キリスト、ブッダ、孔子などと交信をはかる降霊術者としての役割を持つ。それにしても、真理と悟りの震央として自らを偉大視するような、自画自賛的グルまたは霊的指導者は後を断たない。無論、全てを正しいとするわけにはいかない。

それだけではない。他の霊的指導者たちがその使命下で果たすことができずにいる中、自分だけが全人類の一致を実現できると信じるとすれば、そのような自負はエゴと言わざるを得ない。

この宗教ムーブメントによる論議では、地球最後の日を予言する終末論的シナリオに基づいた陰謀説を展開する。それによると北朝鮮と中国が核戦争通じて最初に武力制圧を果たした後に、日本への侵略と植民地化することを企んでいるという。これは実際に起こり得るシナリオとしては余りにも信じ難いし、この事態が現実的かつ継続的な脅威である限り、人をあおり立てるようなこの偏執的思想の信憑性を疑わざるを得ない。殊に国際社会は自由市場における事業の自律を重んじる日本に対して、今までと同様に関心を持ち続けているからである。

この団体の基本的教義では心の探求を主な関心事に据えるが、私からすれば心の啓発と定義した方が妥当に思える。このグループは、修練者に対して権威を持つある種の超然的行為を除いて、その本質的メッセージを伝えるに当たっては、必ずしも宗教的なプラットフォームを必要としないセルフヘルプのモチーフを採用する。彼らが伝えるのは感情が潤う良質な感覚を促進し、他者や自分自身にポジティブな影響を与えることができるという、過大に評価された幸福のメッセージである。一般的には耳触りが良いが、果たしてこれらの新宗教が掲げるような、似通った教条教理同士が競り合う日本社会において、その卓越性をアピールすることが可能なのだろうか?

この団体は自らのアイデンティティの中心を仏教との繋がりに認めているにも関わらず、その基本的な教義を歪曲している。瞑想や正気という概念に言及しながら、三宝、達磨、僧伽などの仏教の表現法や語彙を借用が見られる。例えば、特別な時間次元に基づく理想郷と汚れなき世界が到来すると信じる、終末的時代に目を向ける当集団に対して、正統的仏教は涅槃の境地を諭していることからも、双方の間に矛盾があることが明白になる。

仏教は延々と巡る輪廻転生からの深い執着心や苦悩しかもたらさない、今現在の現世における願望や欲を打ち消すことに焦点が置かれる。一方、この団体では明らかに自分の執心する幸せを強調し、自己中心的な性的快楽を味わいながら現世の幸福を謳歌し、仏教のカルマおよびその報いの教義と関連付けられるような、ストイックかつ宿命論的なネガティブ志向を遠ざけているように窺える。

4の数字を付した象徴的な徳目(四徳)を都合良く使用しているが四諦で概観される釈迦由来の根本的教義が唱える、苦行に因んだ思想からは著しく逸脱している。さらに伝統仏教は無神論あるいは良くても不可知論を支持する立場である一方、幸福の科学はエル・カンターレのように特定の名と形を持つ、神聖な崇拝対象との一体を説く。このように数々の矛盾点を考慮すると、それが確信的でほんの細微な差であれ、教祖大川の召命または任命が釈迦牟尼を出所とする説に疑問を抱かざるを得ない。

この宗教の主眼が真理開悟よりも人気取りにあることは、一般的に馴染み深く受けの良い主題を持ち出すような団体の性格からも疑う余地は無い。伝統仏教の短所以外の宗教的様式を巧みに抽出しかつ歪曲しながら、仏教的アイデンティティを持つ独自の宗派を形成している。したがってこの宗教ムーブメントは、本来の道の回帰などではなく、むしろこの現代主義社会を反映する移ろう時代において、波及効果と大衆の支持が期待出来るような霊性運動の誘発である。私は元々仏教の擁護者ではない。しかし多様化する宗教集団間において夫婦のような関係が生まれる一方、伝統仏教とこれらの集団との間には折り合いの付かない違いが存在し反目し合っている。

教義に関する別の側面について紹介すると、幸福の科学は多元論的な世界観を持ち、どの道も宗教も同じ1つの出所を共有すると信じている。またこの主流を逸脱した自分たちこそ、元来のメッセージにある奥義を示す真理の受容体への扉を開く器として選ばれた群れであると信じる。しかし何を間違ったのか人間のための普遍的なメッセージ発見をめざす人類学的な科学となってしまった。愛が今昔問わず文化的な垣根を越え、さらに人間の満足にとって決定的かつ不可欠であり、人類全てが必要とするものであるという真実の中の真実を悟ることにおいて、さほど大きな創造力が求められるとは思えないのは私だけだろうか。

またこれに加え、人が災難との遭遇を避けられない以上、苦しみや悲しみは人間にとってごく自然な感情表現である。この点を鑑みても、やはり教団の幸福の哲学を問題視せざるを得ない。そして人命の尊厳を重んじかつそれを保護しようとする率先した取り組みが蔑ろにされ、人々が目下の現実的な健康上および生命上の危機に晒されているという、深刻な事態を見落としている。この実現には実際に手を汚しながら人々の福利厚生に仕えるための義に満ちた使命感が強く求められる。

こうして相応しい行動を起こさないことは、犠牲者に対する愛と憐憫と貢献の価値観に対する否定を意味する。不道徳と蒙昧が蔓延る世界で、悪と憎しみを克服し倦ねている人間には俄然無理のある愛と平和への努力を説くような、少数の人間の誠実さ以上のよりダイナミックな対処を要求する。

この教団の成功と存続が社会問題を解決する根源の教えと解答とに負っている以上、教団が無くならないという保証はどこにあるのか?現在、多くの人々が勝てば官軍を豪語する中、教団のメッセージが仮に真実だとしても、全員がそれに聞き従う必要はないと理解され、結局、平和実現への努力によって大衆を改心させることができなくなる。今日の血まみれの世紀において、空前の終末的出来事の後に誰かが何かを提唱することで事態が急変し、平和的な進展が訪れることを裏付ける証拠がどこにあるのだろうか?すでに2つの世界大戦と国連創設を経て平和が提唱されてきた今も問題は未解決のまま、人間性善説に基づく使命および憲章達成への懐疑心は募るばかりだ。この希望を訴えるメッセージの波及効果が幾分か認められても、いまだに真逆の価値観に固執する輩が絶えないままである。 彼らは自分たちに無抵抗を示す弱者と思われる人々を判別しながら、異質な存在から身を守るために力を行使する。このような傾向は世界征服に固執したイスラム教勢力がアラーの名を借りて武装し、他の宗教および宗派グループの抹殺をはかっている特定の地域にて認められる。つまり、蒔いた種の実を刈り取るという原理は、単なる世の努力とその結果に応用されるものではないのだ。

さらに人類が協力のもとで利他主義的な価値観をお互いに共有し合うという考えは、道徳的な限界を持つ人間に背負い切れない負債を負わせるものである。人間は生物の中で最も道徳的であることを期待される一方、その人間がこれまで動物界では滅多に見られない、身の毛もよだつような暴力行為に及んできた。そしてこのような大量虐殺を達成するのに大多数の人間を要さず、ポルポト、アディアミン、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、サダム・フセイン、ビンラディンなど、ある限られた僅かな独裁者や君主がいれば十分である。「言うは易し、行うは難し」と言われるように、この思想全体が人間的な努力によっては実現不可能と言わざるを得ない。

また個々人の幸福とは他人にとっては主観的であり、仮に相対的な「幸福」という概念についての規格が設けられても、全人類の経験および認識と合致するとは限らないため、全世界で幸福に関する定義を統一することは不可能である。極端な例を挙げれば、地上に様々な形の憎しみをもたらすことに幸福を見出す者さえいる。

好意的な見方をすれば、神と同じく情緒的で気高い道徳的属性をたたえている人間が、神のイメージを限定的に備えていることを認める教団の肯定的な価値観は、賛同する価値があるように思う。しかしそのような性質が人間に備わった経緯や起因となる存在については異論がある。繰り返し言うが、幾つか評価できる点はあるにしても、そのような目的の成就を退廃した人間の歴史に期待することはないと断言できる。同教団はこの社会の破壊的な性質を正しく見抜き、より良い明日を切望しながら人々の心の琴線に触れてはいる。しかし問題の発生者は同時にその解決者にもなり得るという、そのジキルとハイド的な意味不明の論法には首を傾げざるを得ない。傷付けながら治すなどという非理論的な誤謬によれば、人間は自らの肢体を切り刻んでいくような者として存在することになる。

最後に誠意を以てお尋ねしますが、あなたには客観的に見て、自分が
懸命に取り組んでいる目標を達成しているという確信がありますか?それともいまだ日常起こる痛み、苦悩、そして失望という現実と対峙していますか?もしかすると教団のメンバーでありながら、あなたは「心配ご無用」の世界が存在する証拠の在処について、自問する心の声を聞いているのかも知れない。
また、あなたの宗教団体は本当に勢いを増しているのか? それとも数カ国で布教活動の失敗に反映されるように、自らの教義を広め改宗者を起こそうとする精力的活動に陰りが見え始めてはいないか。もしも今現在あなた方が信じるような幸福を手に入れてないなら、過去にそれが訪れたことや、今後も再び訪れることを裏付ける有効な証拠があるのか?要するに、余りにも話しが好過ぎるところにこの教団の欠点と問題があるのだ。

しかしクリスチャンの世界観に立つならば、命の新生、または有限的存在から永遠の魂への昇華を通じて、至高の権威をもって人間の反逆心を打ち砕く神が中心的媒体として変化を生み出し、この悪質な葛藤からの緊縛は解かれる。
神は未だその正義の鉄鎚をこの地上に下ろしてはいない。しかしその延長をして正義の否定と考えるべきではない。むしろ神の心中には誰1人神から離れて滅びることがないことへの願いがあり、神に対する考えを改めるように忍耐深く待っておられる。聖書的に言えば、同教団が訴える理想郷が完全な形で到来する終末の時に、私たちが最終的な成就と完成を見る平和に満ちた神の永遠の支配と統治に対し、それを阻もうとする敵対的な勢力の駆逐には神ご自身の介入が不可欠である。

イエスは道徳的退廃に満ちた今現在の現実から逃避したり否定したりはせず、むしろそこに内在し、ライオンの傍らで子羊が寝そべり、大量破壊兵器が人命維持の道具に改造される千年王国を築くことを宣言された。神がその真理を伝えることによって人間の心と命を新たに作り替えている今日も、私たちは部分的に過ぎないがその片鱗を確かに認めることができる。言わばこの新たな創造は努力と長所を駆使した人事によるではなく、それを実現へと至らしめたのは、神ご自身の天的な性質をたたえた新創造を果たす神ご自身の力であった。私を含めた無数の人々がその証人である。

イエスが強調した、神を愛し自分自身を愛するように隣人を愛するという古くからの黄金律は、人道支援と実践的救援の発展を焦点に孤児院や病院などの組織を設立・運営し、神や教会に敵対する者たちですらその恩恵に与るような世界的影響を及ぼしてきたイエスの教会の働きによって、今日まで脈々と受け継がれている。

幸福の科学の信者と同様、聖書も創造された命の秩序が回復されることを切に待ち望んでいることを明言する。神が定める時と目的のもと、全てのことが成就するような完全なる御国が訪れるまで、私たちはその縮図である自らの人間社会で奉仕することが許されている。神の助けと導きのもと、この地上に神の御国の前味をもたらす働きに仕えつつ、その時を熱心に待ち望もうではないか。

この回を閉じるに当たって、イエスの言葉を1つ紹介しましょう。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」しばしば起こる患難や軋轢のような環境下に置かれても、人は語り尽くせない栄光に満ちた喜びを味わうことができるのである。

御子イエスが、神の真理の光を覆い隠すことで心中を曇らせていた暗雲を、朝陽の如くかき消しながらあなたの心の中に輝き出るように、心から祈っています。親愛なる友よ、あなたに神のみ恵みが豊かにあるように。

マタイによる福音書11章28〜30節
28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

幸福の科学およびIRHに関する資料

Kofuku no Kagaku

 

 

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

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