天照皇大神宮教

「踊る宗教」という異名を持つ天照皇大神宮教は、戦後の敗戦ムードの最中に産声をあげた日本の新宗教の1つであり、世界の内在的崩壊が差し迫っていることを予言する

終末思想のカルトである。不安や恐怖を煽りながら大戦後の荒廃に見るような様を想像させ、そのような事態からの救済計画に対する渇望を刺激するなど、この種のカルトは効果的な人心掌握術に大変長けている。しかしこのような世界的事件が起こらないまま60年間の時が経過した今、世の中が核縮小の動きを見せる中でこの即時的崩壊の可能性は低下している。原子爆弾の投下は壊滅的な惨事を招来したことを世界中が認めており、たとえ依然世界が核の脅威下にあるとしても、政情不安定な地域に対しては他国からの監視の目が注がれている。同じ20世紀の間で2つの大戦が連発したことを思えば、確かに同レベルの人災が再び起こってもおかしくないかも知れない。だがその憶測とは裏腹に、国際連合創設に始まる外交関係の構築や人口衛生テクノロジーなど、将来かような惨劇が起こらないようにするためのより洗練された防止策が講じられつつ、世の終末を回避する努力が為されている。

このような終末予言は未だに現実味を帯びているが、歴史を振り返って見る時にノストラダムスにせよオウム真理教にせよ、いつの世にもこの類いの預言者が現れてきたし、またこれからも現れ続けることは論を待たない。しかしご存知の通り、世の究極的終末とは決してテクノロジーの進化や人間による手の業によって到来しない。神ご自身が最後の審判を下し、罪と反逆に満ちた人間に対して怒りを発する時に訪れるのである。

ここでこのムーブメントの起源について触れよう。教祖の北村サヨは自らを天照皇大神宮(神道の女神、天照大神)と名乗り、北村を世の救世主に任命したとされる悪意に満ちた悪霊の憑依によって感化された。数回の連続的な憑依の後、彼女は生き女神になったとされる。聖書は驚くほど頻繁にサタンおよび悪魔を擬人化しながら、狡猾な存在として描写している。とにかくある1つの霊体験を根拠に、最高位かつ本質的な真理との霊的遭遇者の地位に経験者を押し上げることは許されない。そのような独善的な持論を喧伝する同種の人物が量産的に存在するからだ。たとえ癒しや奇跡を売り込んでも、その力を欺瞞の悪霊に負っている以上この状態の本質を確認する術にはならない。

マタイによる福音書 24章 23〜24節
23 そのとき、「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。

ヨハネの手紙第Ⅰ 4章1節
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

当宗教団体ではこの救済の使命を完遂するため、世界崩壊という大激変が差し迫っているこの時代に平和と調和を呼び込むための、踊りの儀礼を方法論として採用する。しかしこの宗派の創設以来別の戦争が勃発している。そのような武力紛争を抑え切れていない事実を鑑みる時に、世界に対して及ぼす何らかの影響力に関してどこまで定かであるのかが疑問である。ありったけの敬意をもって言わせてもらうがそのプログラム全体、日本がその歴史上最も凄惨な荒廃を味わった後に展開されたことを考えると、時代の潮流とのズレを指摘せざるを得ない。さらに、集団の宗教行為が未来への備えを促す警鐘というよりは、むしろ反動によるものだと考える方が明らかに妥当である。なぜなら彼女はそのような指示または啓示を広島および長崎への原爆投下以前発信するべきであったからである。

この踊りについては、心の抑圧を抱えた人を悪霊から解放し自由を与えるとされている。だが皮肉にも、カミの悪霊に憑依されそれを締出すどころか、取り憑かれた者が救われるという虚偽を信じて心を許し自分の魂をその住処として提供した彼女が、

悪霊から解放されるなどと約束することはこの宗教グループにとってまさに自虐行為である。彼らに欠けている理解とは、盗み殺し、そして滅ぼすといった意思および任務を改めることをしない悪霊を呼び込むことで、自らを蝕んでいるという事実である。さらにこれらの偉人を装う悪霊はその信者たちを欺き、自分たちが悪と格闘する試練の道を経ながら救済に向かっていると信じ込ませるが、その実態は宿主に巣くい自分たちの主人であり指令者、即ちサタンの計画と意思を遂行しこの誤謬に浸かったインチキ宗教を創設する寄生虫のようなものである。

恍惚的な舞の儀式に見る激しい狂乱ぶりはお祈り(仏教用語で南無妙法蓮華経)の原則と結び付いており、また即興的な音楽がどういうわけか神秘的に宇宙の秘技に関する特別な英知を会得させ、その天授の知恵と力による自己管理を可能にすると信じられている。一般常識的に解釈すればその修練には妖術としての性格がより強く現れており、エデンの園で神と同等の聡明さが得られると囁きながらエヴァを罠に貶めた、狡猾な蛇による誘惑と何ら変わらない。さらにその舞には他人の心を浄化する効力があると語るが、この小グループの努力の結果としてそれが実際に起こったことを、現実的な形で確認できる証拠がどこにあるのか?彼らはまた、自分たちが全ての悪霊に対処できると信じているが、元々北村に取り憑いた霊が他ならぬ欺瞞に満ちた悪霊であるという事実についてどう釈明するのか?それとも、それらの霊を変えることすら可能であるとでも言うつもりか?

さらに、別の快癒効果が無我の境地で捧げる祈りによって達成されると彼らは信じている。しかしその霊的指導者の全容を見る限り、世界および人類の救世主としての自分に大神様という尊称を与え信者に崇拝を強要する態度からは、自己陶酔的な自我を膨らましている印象しか受けない。

この祈祷形式を苦悩の原因である情欲や執着心を打ち消す手段とする即席的な仏教哲学には、その教団自体に傷を付けることになる。なぜなら苦悩や不幸の払拭という、個人的なご利益祈願を本懐とする教義に抵触するからだ。

この新宗教について結論を申し上げると、人間性の退廃やこの世界に作用する諸悪の霊からの影響に気付いている点は評価したい。そのような要因に反応を示すのは人間の本能ではあるが、そのようなアプローチこそが世界に違いを生じさせる元凶となっている。宗教的努力を通して人類を統一するために、バベルの塔を現代版に再建またはリニューアルし、天国への道を築くことはその実現を見る前に事態の混乱を招くだけである。その願望の実現についても客観的な判断ができない、主観的で儚い人間による無益な努力は失望という結果に終わる。その権威と力は唯一全能の天にまします神ご自身の御手にのみあるのだ。神は絶対的な権威者として秩序を回復しつつ、その平和のプロセスを世にもたらす。煎じ詰めると、全ての民族と言語、そして国家が1つとなる世界とは、ご自身が支配する永遠の御国の到来と同時にイエスが打ち建てる世界である。

私たちは既に道徳的不具を克服しようと努めることの難儀さを痛感し、自然災害による壊滅的な被害を目にするが、これらの現実は平和の実現と、ある方の訪れを待望する思いを私たちの心に芽生えさせてくれる。そのお方とは終わりの時代に、その全能さと絶対的な支配の下、平和の君として平和に満ちた新しい世の秩序を招来させるお方である。従って平和と幸福とは、キリストの地上への再臨と彼が完全に支配する御国の建国まで完全には成就しない。

ローマ書8章18〜23節
8 現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20 F被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の購われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

黙示録 21章4節
4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

イザヤ書 2章4節
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう

イザヤ書 11章6〜10節
6 狼は子羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
7 牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう
8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
9 わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
10 その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。

地震、津波、経済破綻、太陽の爆発、隕石衝突、無政府状態、ゾンビ、ノストラダムスの大予言、マヤ暦、他の陸生生物による侵略、極地移動、人口爆発、病気、疫病、生物または細菌兵器を用いた戦争、北朝鮮またはイランからの核爆弾発射、地球温暖化、その他どんな脅威に対しても、詰まる所、あなたが出来る最善の備えとはイエスをあなたの主および救い主として受け入れることである。

ヨハネによる福音書 16章33節
33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書 14章27節
27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

マタイによる福音書11章28〜30節
28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

踊る宗教の情報資料

Odori Shukyo

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pg.8369, Brian Bocking

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.11, pg.637, Tensho Kotai Jingu-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

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