私たちが幸運な出来事あるいは偶発的に訪れた機会による産物とする考えは、科学によって完全に証明されていない。私たちの宇宙に関する知識が増し加わるに連れて、この洞察への真摯な検証が可能になった。さらに私たちが天性の意識によって、人間だけがこの不条理な宇宙に存在しているわけではないことを知るに至った。その背後にあるのは偶然を超越した現実の存在である。
生命については、その美しく精緻で、かつ説明しがたい複雑な性質を裏付ける膨大な量の証拠がある。それによって、私たちが観察できるものも仕切れていないものも、目的と計画を持った設計者兼管理者によって創造されたことが証明される。
創造の背後に意図および配剤を認める目的論の確証に貢献する、目を見張るようなデータを以下にリストアップした。様々な現象についての圧倒的観念を支持する幾つかの真実を紹介したい。
もし宇宙の膨張率が1055分の1速かったら銀河は形成されず、またもし100万分の1遅ければ地球の温度は1万℃に達する。
もし地球の軸が傾いていなかったなら、地球は生命を維持できる表面温度を確保できない。
もし地球から太陽までの距離が少しでも違っていたなら、水分の安定した循環が損なわれる。
もし星同士の間隔がほんの少しでも違っていたら、地球の軌道は変わり深刻な温度変動を招く。
もし地球の地殻が少しでも厚ければ大量の酸素がその表面に流れ込み、逆に少しでも薄ければ火山活動および地殻変動が著しく活性化する。
もし重力による月と地球との距離が違えば、潮が大いに乱れ深刻な大気上の問題が起こるでしょう。
もし重力が1040分の1でも違えば、太陽は消滅し月が地球に飛び込んでくるか宇宙空間に向かって方向転換してしまいます。
もし重力が少しでも増加すれば、太陽は急速かつ不規則に燃え上がり、生命体の存続は不可能になる。
もし地球の重力が少しでも大きければアンモニアやメタンガスが溜まり、逆に少しでも小さければ地球上の大気から大量の水が失われてしまいます。
もし一日の長さが異なれば気温が極度に上下しさらに風速が上がることで、生命存続が極めて難しくなるでしょう。
もし酸素レベルが上下に関わらず今よりも5%違った場合、酸素過多によって制御不能な火事を引き起こし、酸素不足によって人間は窒息してしまいます。
もし惑星運動にかかる遠心力と重力とのバランスが損なわれた場合、太陽を取り囲む軌道経路に存在するものはなくなってしまうでしょう。
もし光速にわずかな違いが生じた場合、様々な定数を変えてしまい寿命の予測が立たなくなります。
もし木星が現在の位置になかったら、宇宙の塵屑が地球に降り落ちてくるでしょう。
ここで見たようにただ偶然的な巡り合わせと一概に断定し難いほど、多くの「もしも」が存在する。これら全ての出来事や物理的動作が全知全能なる存在の介入とは関係のない、単なる偶然の出来事であると明言するのは少し無理があるのではないか。科学にこそ極端に走る傾向が認められ、一般市民とは全く関わりのない地球外生物の存在を信じ、SETI(地球外知性体探索)のような神秘主義的な調査からの論理によって、これらの事象に関する弁解をはかり、さらに有神論的世界観を否定し、何の裏付けも無い哲学的な多元宇宙論的な発想を生み出している。
科学者は自然主義と同じく、自分たちを有神論から救ってくれるような、無人格の神的存在としてその持論や仮説を信奉する。さらにそれらを進化論に結びつけようとする大自然主義は、科学というより寧ろ民話・神話・想像・そして迷信じみた下世話なおとぎ話を、あたかも魔法の杖を振るうごとく巧妙に利用しながら、生命を真しやかに組織立てて管理するものである。
スティーブン・ホーキングはそのような神格について触れることは避けている。そんな彼も生命が「どうやら」「明らかに」に何者かによって設計されていることを認め、なぜ宇宙が存在するかについては実際のところ分からないとして切って捨てます。アインシュタインはさらにもう一歩踏み込んで、ビッグバン的宇宙論や自然淘汰などの無生物的力とは異なる、人格に語りかけるような知性を創造者の属性に認める。一神教的な思想を抱く宗教でも、生命を持つ力について抽象的に言及する。一方科学については、観点が宗教的あるいは非宗教的であるかを問わず、実に明白な真実を軽んじながら、自己の関心に都合の良いバイアスに執心しているかが分かる。
無神論者および不可知論者は当然のように、聖書が語る人格的な神に対して敵意を抱く。また惨禍や混沌を「神の仕業」に帰したり、呪いの言葉として神の名を語ったりするなど、ネガティブな形で神に言及するが、何れにせよ、自分たちの想像の域を超えた虚空の存在を援用する皮肉からは自由になれない。
ローマ書 8章7〜8
7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
聖書の神に対する反論の一つによれば、信仰を持つ前にその存在を確かめるに十分な証拠がなく、要求する人々の期待とは裏腹に、その存在に確信が得られないと言う。それはずる賢くも神を無視して遠ざけ続けることを正当化し、うさん臭い弁解を繕いながらカモフラージュであり、誠実かつ平和を装いながら、実質神を軽んじながら拳を振るう態度に他ならない。
だがもし神が神であるなら、人間が神の介入と顕現に関するルールを設けることが果たして許されるのか?もし神が一般的かつ基本的啓示を通して、既に十分な証拠を与えて下さっているにもかかわらず、人がその本能的知識を伝達かつ共有しながら、なおもそれらを適切に活用または統合しようとしない中で、どうして神の性質に関わる特別かつ詳細な啓示を要求し得ようか?さらに、陶器を形造る陶器師のように、被造物に対して絶対的な権威を持つ創造主の永遠の摂理を、一時的な不慮の出来事をもって規定することがどうして正当化できよう。信仰対象が何であれ、言うまでもなく懐疑論者はあくまで懐疑的であり続け、批判者は間違いなく常に批判的であり続ける。それはキニク主義の神に仕える信者とて同様だ。
これはまさにイエスが行う多くの奇跡を目の当たりにしながらも信じようとはせず、さらなるしるしを要求した当時のユダヤ人宗教家たちと同様である。彼を批判する者たちは神の概念を持ってはいたけれど、イエスを救い主として受け入れることを拒否し、断固として極端主義的な道を曲げようとはしなかった。
これは金持ちのたとえ話を通して、自分の兄弟に差し迫っている地獄の危機について兄弟に警告しに戻ってくれる誰かを探し求めている男に暗示されている。これでも彼らを悪から立ち返らせるには至らなかったが、預言の通りにイエスの復活することで要約イスラエルの国に成就した。
神に全ての開示を要求しても、人間が完全に理解することは不可能である。少なくとも信仰の旅路を出発するには、神が既に与えてくださっている情報で十分なのだ。
実験台の明かり下で照らしながら、人間の道具を持って神を検証または解剖することを欲するかもしれない。しかし神はこのような形で観察されることを了承しないし、まさにアインシュタインが指摘するように、神の全知と比較すれば実に限られた知性しか持たない私たち人間には断じて不可能である。さらに神は霊であって有形の物体におさめることは不可能である。例え神が宇宙の中において働かれることはあっても、そこに拘束または収納されることをあり得ない。私たちは人間であるがゆえにその知識は極めて限定的であり、断じて神たり得ない。さらに天におられる建築家が手塩を込めたこの物質世界における雄大な構想を理解するために、私たちにも認識可能な証拠が十分そろっている。それゆえ人間側のより豊富な情報に係る要求に応えない理由だけで、神が無視されるようなことがあっては決してならない。
神による創造の業について、研究による認識に留まるような有限な被造物には、物質的事象からの分析が不適切であり、それゆえ氷山の一角を発見しただけで、氷山全体である神にその全てを曝け出すように要求することは正に愚の骨頂である。
とにかく言葉や文字によるコミュニケーションは、グノーシス主義の曖昧で分かりにくいメッセージとは一線を画す、現実的な発見方法として意味がある。私たちを神存在に関する基本的理解にのみ導くのではなく、神が創造された摂理に仕える僕として私たちが神と他人とを愛することを念頭にし、神の卓越した知性に応答できる道徳的主体であることの自意識を通し、神に結ばれながら親密な関係および交わりに至らしめる。この知識は神の存在に関する一瞬のひらめきからの仮説より、私たちの創造主に対する畏敬の念を触発させる証人として私たちに仕えるのであり、脳内の前頭葉を刺激するような陳腐な脳内トレーニングとはわけが違う。
詩篇19章1〜4節
1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
おそらく神を無人格な時計職人のように、宇宙のネジを回した後は一切関与せずただ成り行きに任せるような存在として観るような、いわゆる理神論を好む人々もいるだろう。しかしこの立場も信用性に欠いている。なぜなら様々な場面や行為において鮮明に現れる愛の性質を肌で実感し、さらにそれを関係構築の道具として用いる能力を持つような人格的かつ社会的な被造物を、無人格な神が創造することほど荒唐無稽な話しは無いからだ。私たちが調和を保ちながら互いに結び合う一方で神だけが孤立を選ぶのは信じ難い。それに加え、理神論では神が時間と労力を費やしてまで創造を行った理由について十分な説明がつかない。他にすることがなく時間を持て余していたため嫌々創造を行い、その後、自分の作品が破壊されている間、傍観者として何の感情も覚えずに、ただ漫然と遣り過ごしているとでも言うのか?
まるでカウボーイやインディアンになり切る子どものように空想と現実とを錯綜させながら、神は人生に起こる災禍に対して責任を負うべきだと言い張る人もいる。だが神にとって公平な愛も気まぐれも同じく混乱や混沌をもたらすもの。それは私たちにも確認できる神の秩序を受容する人生とは明らかに異なる。神の地位は諸悪の問題に対処する領域を超えているのだ。しかし誤解が無いように言いたい。問題の根源は神にはなく私たちの側にあり、それは私たちの良心がこの現実や責任について証しているところと合致する。
ローマ書2章14〜16節
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。15 Tこういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。16 そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリストイエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
学問の対象として神を検証するような特権は私たちに与えられておらず、神の方にこそ私たちの考えを露にすることで私たちの心の動機を探り出す権利を持っている。
たとえ私たちが真理を確認するために真剣な努力を積んでいるという自負があっても、最も義なる永遠の裁き主として人間を鋭く見分ける知識を持ち、人間が隠蔽しようとするその心の内を読み通す全知なる神は、私たちをいとも簡単に丸裸にしてしまう。
神を切り離したまま自分の考えに確信を抱くことは愚かであり、それは単なるまやかしに過ぎない。まるで壊れた松葉杖のごとく、もたれ掛かることで折れてしまい奈落の底に落ちてしまう結果を招くのが目に見える。詳しくは詩篇139編とエレミヤ書17章9節の言葉を参照していただきたい。
ヘブル書4章12〜13節
12というのは、神の言葉は生きていて、力があり、もろはの剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の前には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
仮に無神論や不可知論から嘘偽りのない答えを引き出せたとしましょう。しかしそれらの論理が抱える問題の本質は情報不足による知性の欠如になはなく、むしろモラル上のジレンマにこそ認められるものである。自己陶酔に浸りながら、行く末も考慮しないまま傍若無人に心と人生を支配する者として、自分を崇めるような高慢さがそこには見え隠れするからだ。
しかしパスカルは、特に人間に分が悪いことを考えると、自分自身にその一生を賭するような立場には同感できないと語っている。神を否定してまで自治を追求することに何か価値はあるのか?イエスは自分の魂以上に価値あるものがあるだろうかと問う。この全世界を手に入れたとしてもそれで十分だと言えるだろうか?世界を手中に収めても幸福や満足を得ていない人を思い浮かべるだろう。神無しの人生はその人生を壊滅させることを約束し、あなたが見返りとして期待していたものを決して与えはしない。
終わりに際して、神学ではなく物理学を基とする人間原理の概念は神についてのあらゆる側面に答えを出すことはできませんが、神を誠実かつ真剣に知ろうとして一歩を踏み出すならば、神を求めていく先でより多くのものを見出せます。何にも先んじてお勧めしたいことは、リー・ストロベルの「Case For(弁証)」シリーズやジョシュ・マクドウェルの著書を通して、懐疑論者と同じ道を辿った挙げ句人生に行き詰まった過去の無神論者たちの知的営みを参照しながら、人間としてのイエスからご自分の探求を初めてみることです。より深く高度なレベルに踏み込みたいと思われるなら、ウィリアム・レーン・クレイグのようなタイプがお勧めかも知れません。とは言え、科学者も含めたあらゆる職業の人々の中に、その合理性を認めながら生涯にわたってキリストへの信仰を貫き通した人々がいることを覚えていただきたいのです。あなたの学びに役立つリンクをご紹介します。
www.leestrobel.com
www.josh.org
www.reasonablefaith.org
en.wikipedia.org/wiki/List_of_Christian_thinkers_in_science
科学の専門家としてあなたは科学的かつ統計分析的な思考過程を与えられているかも知れません。情報やデータを獲得・集積・解釈を行う使命を帯びる人間として、この問題の複雑さを肌で感じている誰かに対して責任を負っているのです。よりよい調整法や思慮深さからも、この深遠な真理に対してあなたが与えられている弁解の余地は少ないのです。さらに研究の結果が誤用され、思い上がったメッセージを研究所という説教台から言葉巧みに語り、思いがけない魂を転向させてしまった場合、それは専門職としての質を疑われるばかりか、科学の背信者として異端視される恐れもあります。
中立性の真空地帯の中でバイアスを排除しながら自分の専門分野の研究に取り組んでいると思われている方々が入るかも知れません。しかし神という要因を除外するなら、それは全く信憑性のないものに成り下がってしまいます。何ら確証性がないまま、用意済みの科学的枠内での解釈的予想に合致させながら、説明可能なモデルまたは成果を望む本人または他人の期待に応えるだけのものだからです。多元宇宙論や循環論など、ある特定の宇宙論モデルの立場を強くすることは、世界で唯一正しい自然主義的論理があることを前提とする。さらに自身を仮説へと閉じ込めて何の根拠も無い馬鹿げた説を信じる類いの行為は、偽科学の名の下で立てられた祭壇において、神を冒涜する迷信的な宗教的儀式を行いながら、目に見えない想像上の自然主義の神に心酔する行為と何ら変わりはありません。
中立性の保証は結果もしくは真実を前提として要求するため、たとえ科学界の共通理解の範疇を超えていたり、ジャーナルの紙面外での紹介しかなくても、そこには真の探求的姿勢を認めることができます。その探求が新奇なため確信が持てないために恥を覚えるかも知れません。しかし人間の恐怖感がその結果に影響を及ぼしてしまうなら、科学としての信頼性を損ねてしまいます。自らを内省しその誠実さの度合いを計り出すために自問してください。神が本当に実在する場合、自分にはその神を知ろうとする意思があるのか、あるいは神に自分の人生の主権を譲ることを躊躇して、神を遠ざける懸念や理由があるのかと。きっとあなたがこれまで神という概念に拒絶反応を示してきた根源を見出す助けとなるでしょう。
またおかしくもあり羨ましくもあるが、明らかに一つの正論しか存在しない弁論の場で、双方の立場から上手く弁舌を振るうことができるほどの豊富な教養の持ち主がいます。
イエスに敵対するパリサイ派ユダヤ教から改心し、改心前からほぼ全て備わっていた知識を武器に、多大な功績を残すキリスト教の護教者となった使徒パウロがまさにそうでしょう。もしかすると例えば科学の専門家が同じ役割を担うことができるではないでしょうか?その道を閉ざす唯一の問題は好みや趣向であって、真理への固い確信ではありません。
とどのつまり、神は絶対に存在しないなどと語るための十分納得のいく理由はないのです。たとえ完全には知覚されたり理解されたりしなくても、神の存在を疑う余地がないほど、人目憚らずにご自身を明らかにされるからです。チャンス・偶然・幸運の神に信仰を置いてしまえば、ライバルである有神論者に差し置かれたまま盲目の悪循環にはまり込んでしまうでしょう。
もしやあなたの信仰は現実の極みとしての物質主義的な世界観にしっかり支配され、神を探求することは目下の研究や専門分野からは全く乖離しているのかもしれません。しかし科学的発見の持つ高尚な目的とは、結果ではなく元の原因を見出すことにあるのです。自分が誰でありなぜ存在するのかという、私たちの存在の根幹を占める深遠かつ個人的な関心事である人生の最終目的の発見は、重大な発見すべてに対して意味を持つからです。
したがって物質主義的な箱の中にすべてを収めようとすることは単なるその場しのぎにしかならず、顕著な結果を残さないままただニーチェのニヒリズム的袋小路にしか行き着かないでしょう。
あなたの専門分野とは違う、神学者の仕事または関心事としての超越的な現実を否定しても、神秘主義の産物を理解するよりも容易な、重要かつ直接的な推論に満ちた偉大なメッセージを否定することはできません。これもまた要点全体が見落とされる点ですが、科学は第1に万事に起こる効果や現象を超えた崇高な発見につながる道として期待されているのです。科学は大切です。しかしそれ自体では、最終的に出ている結果や現実を超えた大きな問題に対して、メッセンジャーとして役割を果たすだけの答えはほとんど持ち得ません。
宇宙論や天文物理学的発見に存在する、神の存在論の目的論的証拠を見過ごすことは、自然主義または自然主義的哲学への深い傾倒の根拠となる包括的な原則を見過ごすと同様、不誠実に見られます。より深遠な神学的応用へ移行しないままただ探求に止まってしまうなら、ただ皮相に過ぎない知識の表面を削るようなものです
結局、個々の事象全てを窮屈な定数の領域に収めようとすれば、闇に覆われようとしている地球を振り返りながら、その魅惑的かつ美しく他の全てと見事なコントラストを描く生命に満ちた青色の珠玉を眺めるような、神の栄光を現す壮大なショーを世界で初めて観る、宇宙飛行で最前列にいた宇宙飛行士のように、言葉を失う経験をするでしょう。科学も同様、DNA発見を例に見るように、様々な専門分野が有神論とのかけ橋を照らす光となるのです。あなたはそんな貴重な知的産物を間近で確認できる特権や責任を与えられているのです。これをお読みになるあなたがその1人になることを切に望みます。
最後、簡潔化できない複雑な仕組みを持つ人の眼の中にも、神による創造の摂理を観察できます。眼球が適切に機能させるために40以上もの異なる部分が同時に働くことが前提であり、もしそれを果たさない場合は退化していた可能性もありました。果たして眼球はどうやって自らを機能させ、脳と連携することを覚えたのでしょう。深く考えさせられます。
有名なラビがかつて、見る目を持っていながら知覚しない者は神の現実に対して盲目であると語りました。しかし、堕落し罪で汚れた状態の人間が陥る、神に反抗する道しか目に入らないような近眼とは異なり、イエスが癒すものは理解されるべき真理を悟るでしょう。皆様が神に出会うことを切に願います。神は遠く離れてはいません。その驚くべき創造を通して神を理解しようという意思を持つ人に、神はご自身をはっきりと現して下さいます。
その他のリンク
Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pgs.8180-8192, Ted Peters
Holman QuickSource Guide to Christian Apologetics, copyright 2006 by Doug Powell, “Reprinted and used by permission.”