このセオリーを考察するときに質問者がまず自分自身に問わなければならないことは、この問いの解答を探す動機は一体何であるかということである。
目を凝らしながら過去の時代を振り返って見る時、その心に事実を知りたいという純粋な願いがあるのか、それともバイアスや偏見というフィルターが掛かっているのか?もしかしたら私が真理を追求した果てに本当に探し当てたいものを、あなたは自分自身に問い質しているのかも知れない。
もしあなたが誠実または真摯に中立的なアプローチでこの解決を探るなら、この定説の土台が科学的問いとはほど遠いことに衝撃を受けるだろう。このイデオロギーは実質があるように見える化粧張りのように薄い1枚の貝殻を持つが、その実、科学界に訴える持説には中身がなく、実質的には空想科学小説という見方のほうが妥当である。
データの収集と解説のためのあらゆる科学的方法を採用しつつ、答えを恣意的に導き出そうとして立てた前提に基づき議論を運ぶのが、いわゆる科学者と呼ばれる人たちの姿だ。彼らの目標について簡潔に述べるなら、神が存在しない無神論の世界を支持することだと言える。彼らは真理に関する持説を補強するための証拠を操作または制御することに必死になっているが、それは真正な科学というよりむしろ哲学または宗教的な営みである。
彼らはあたかも真実であるかのようにジャーナルや学術書に研究成果を発表し、またテレビでも披露できる立場にある。また想像や創造を通して人をあっと言わせる不思議な離れ業を示すプロの芸術家としての立場を固めるため、その内容を装飾することもできる。この哲学の支持者たちは考古学的な発見の裏側で、自ら研究した事例をPh.D.の称号を翳しながら専門知識として提示し、難解な解説や人を驚嘆させる映像をもって自己を顕示する。こうして聴衆の心を捕えて科学コミュニティに十分な信仰を植え付けたと確信するのである。しかしこれは回心者を募る目的で学界という講壇から語られるプロパガンダに過ぎない。
あなたはこの問題について自分に本当か嘘かを見分ける資格がないにも関わらず、私たちは何の助けもないまま、あらゆる事柄を識別し個人的な決定を下していると考えているのではないか?どこか思い当たる節があるなら、政治家や社会の他分野の専門家たちに対して行うように、科学者たちに彼らが流す情報についての説明責任を課してみてはいかがか。あなたはきっと彼らが知的で教養があり、自分たちの信念に対して情熱的でその学問分野に全てを捧げている人たちと信じているのだろう。だが真実か否かについての原因追求に身を捧げることは他のどの種の集団にも言えることである。また世界史の流れを通じてその時代の専門家たちにいとも簡単に騙されてしまう人々がいたことを忘れてはいまいか。
人が容易に騙される要因として、有神論的世界観と対峙する自然主義のように、人を信じる気にさせるような魅力さが挙げられよう。またこのことを理由に私たちは、自らの存在を脅かしかねない階層システムがあることも鑑みずに、その未来に責任を持つ神としてこの世界で孤独に生きることを選んでいる。
これこそ私たちがこのような科学的グルによって、いとも容易くその教理に感化される理由がそこにある。
道徳的選択かそれとも知的探求かという問題がこの議論の要因として横たわっている。
そこでどれだけ証拠が熟慮・検討されているか、あるいは証拠不足が指摘されるのかを判断しなくてはならない。実際にこの分野において提示された科学データやでっち上げを見た人は、進化論に結びつけようとする事柄に対して疑問を抱かざるを得なくなるに違いない。
第一、私たちは科学の時代と呼ばれる今日に置いて益々技術的進歩を遂げているにも関わらず、生命について説明付ける根拠としてその存在が信じられている、あらゆる中間的な生命態を未だに示すことできない。私たちが分子から進化したという自らの学説を補強するに十分な、持続的信用を持った証拠を提示せずにいる人類学者にも当てはまる。進化論者たちは私たちの先祖を原始的な単細胞アメーバの液状物体に遡らせておきながら、いわゆるヒト科内における人間の進化すら証明できないでいる。
たとえば、ラマピテクスのあご骨については科学者たちの間で随分議論されているにも関わらず、その標本からは納得のいく結論が導き出せていない。1953年に捏造が発覚したピルトダウン人事件を思い出して欲しい。当事者は古代のものと見せかけるようにヤスリで削りシミをつけた歯や骨を使用した。また1922年に発見された1本の歯からネブラスカ人の存在がでっちあげられた。数年後、その歯に合致する窩を持った頭蓋骨が発見されたが、後にそれが豚のものであることが判明した。
進化論者の中にはネアンデルタール人やクロマニヨン人が普通のヨーロッパ系「ホモサピエンス」であると信じる者もいる。
もう1つの例を紹介したい。最早見つからないとされている北京原人の骨について、もしそれが発見された場合には大変な話題になるところだが、胡散臭くも、その発掘を支援している人物とは例のピルトダウン人事件の共犯者である。
ジャワ原人を発見したユージーン・デュボワ博士はそれをホモエレクタスと名付けたが彼は晩年に自分の発言を撤回し、発見した断片を区別して頭蓋冠を巨大猿人または類人猿に帰して、足の骨についてはホモサピエンスに属したものであると改めた。こうして私たちの先祖の末席に加わりつつ、彼は自らの発言に対する信用を損ねてしまった。
ハイデルベルグ人は歯の付いた低い顎で構成されるたった1つの化石であって、このような骸骨の発掘には未だに不明な点が残る。
また、近隣ではあるが間近ではない場所で発見された様々な発掘物で組み合わされた、ルーシーと呼ばれる骨格の発見も同様、未だに特定するための決定打に欠けている。
実際浅い墓穴を埋めるだけのいわゆる化石化した人間の断片が十分には存在していない。結論を申し上げれば、これらの骨格は霊長目の動物か人間であり、決してその中間層のものではないのである。
それにも関わらず彼ら進化論者は、無神論という自らが信じる宗教に対立するインテリジェントデザインの反駁に焦点を置いた、観念的な科学を貫くための有効なモデルを発見したと言い張っているのだ。
霊長目動物と人間との間には折り合いの付かないほど大きな違いが31点ある。たとえば類人猿の足の親指には手の親指のように物を掴む機能があることから、人間のそれとは随分と異なっている。彼らが適者として生存し次世代を残すには、この足の親指の機能が不可欠であるため、この特徴無しに彼らが進化の過程を踏む事はあり得ない。それに加えて、この親指が移動したという突然変異説を支持するための目視可能な証拠が確認されていない。
また霊長目動物と人間との間に見る頭の位置の違いが別の良い例である。私たち人間の頭は直立体勢で歩いたり走ったりするために脊柱の天辺で平衡を保っている一方、類人猿の頭は四方移動に向くように背骨の前方に位置している。
両者の頭の位置が段階的に変化したという説を援護する有力な証拠が存在しない。また1つの進化に目を奪われるばかり、種の生存の問題がなおざりにされている。
類人猿の乳児は人間のそれとは異なり、人間の子供が生後には完全に非力である一方で、類人猿の場合は生誕後間もなくして走ったり母親の背中に上ったりするなど、ある程度のことを独立して行えるようになる。この退化現象から類人猿生存を導き出そうとするのは甚だしい信仰の飛躍である。寧ろ自然淘汰の概念からすれば、地上で発生した偶然かつ劣性の存在は絶滅するはずである。
一体、一組の類人猿の両親が(男女の)二卵性双生児をつくり、それが最初の非類人猿の乳児として生存し、生殖活動の循環を巡りながら自分たちの子孫を繁殖するなどという偶然が起こり得るのだろうか。
他にも進化論神話をすっぱ抜くために話題にすべき事柄は、どういう訳か人間が既に100万年この地上に存在するという進化論者たちの持説である。もしこれが事実であれば数学的定理から1970年までには人口が10の5千乗に達するなど、この世界が存続し得ない規模の人口過多が発生するはずである。病気の蔓延や止まない戦争から史上最も血腥く疫病に満ちた時代とされた前世紀に続き、全人類に致命的打撃をもたらしかねない一層進化した手段によって、益々人類に破壊をもたらし続けるグローバル化および産業化が進んだ今にも残る戦争、疫病、および飢饉などを加味しても、人口がその数を下回ることの根拠にはならない。
確かに技術の発展によって生命が維持されてきた一方、産児制限、堕胎、乳児殺し、安楽死などによって人口の増加は食い止められてきたのは事実だ。もしそのような夥しい規模で人類が地上から消失し人口統制がなされてきたというなら、死んだ人を葬った浩々たる人墓の存在を示す化石上の証拠はどこにあるのか?
実のところ、人類はそれほど長期間にわたって地上に生息していないため、そのような化石の証拠は存在しない。さらに現在における人口の静的状態を鑑みても、人類誕生を100万年前とする進化論者たちの仮説モデルたちに対し、数千年前に人類が創造されたとする聖書モデルが有力であることが裏付けられる。
私たち人間はその生命の存続のために、緻密に調整された酸素、二酸化炭素、日光、磁界、地球の自転および公転速度、月からの距離、太陽からの距離、オゾン層、水、重力などを、適切な時と場所においてお互いが調和された状態で享受しなければならない。
つまり、そのような人間原理と表されるものを制御してくれる超越的な外力に自らの存続を負っているため、遺伝子プールの創造および維持には決まって熟練したデザイナーの存在が浮上する。こうした分析の結果から私が思うに、進化論の全てをはぎ取られその脆弱さを露呈してしまった進化論者たちは、隠れ蓑にするための別のモデルを探し当てるのに必死なのであろう。
その他のリンク
Copyright Permission by “The Evolution of a Creationist” by Dr. Jobe Martin
Henry M. Morris, Biblical Cosmology and Modern Science (Nutley, New Jersey: Craig Press, 1970), p.75
Shattering the Myths of Darwinism by Richard Milton, Park Street Press,
© 1992, 1997 Inner Traditions / Bear & Co.