禅宗

日本から持ち込まれた禅は、アメリカ合衆国内だけでも数十万人の信者を擁し、欧米で流行の宗教となっています。

この形態の仏教は仏陀(釈迦)にその起源があるとしていますが、現実には伝統的形態の仏教から分岐、新生したものであり、もしも仏陀自身が現在生きているとすれば、彼自身がこの新形態を持つ宗教の集まりを認めることに困難を覚えるであろうと思われます。

この結果として生じた仏教哲学の非永続性は、自己陶酔的見地へ更に進んだだけのものであり、多くの信者、特にアメリカ合衆国で、またハリウッドでさえ、この生活様式をすでに承認し、この信仰という車の後部座席に乗り込み、悟り到達へのよく知られた快楽的ドライブを楽しんでいる人たちの心を惹きつけてきました。

禅宗においては、主観主義と神秘主義とが、何らの従うべき一連の儀式や聖典を伴うことなく宗教的性質の秩序となっています。

瞑想が行いに取って代わり、悟りは即刻到達できるとされています。

禅宗の危険性は、倫理相対主義という棘のあるバラを摘んでしまったことにあります。一見、それは自己表現の美しい形態のようにみえても、本質的には無法、混沌、そして最終的には無秩序へと繋がっていきうる見解なのです。

禅宗はまた、それ自体の動向に従い、進むべき方向を決める方法として直感に頼るため、正しい方向であれ、誤った方向であれ、どちらに向かうべきか、人々を様々な方向に導くことになります。最終的に、この種の哲学は、車のハンドルをコントロールしたい支配者の導き以外には従うべき交通規則というものがないために、人を衝突が避けられない路へと導いていきかねません。

また、この形態の無神論的信念には究極の道徳律や、人々の心を律する立法者がないために、その哲学は社会的責任という意識を付随するものでもありません。それは歩行者でごった返している下り道をブレーキのない車を運転して下るようなものです。私たちは、この種の神を恐れない向こう見ずな行動が、そのプロパガンダを最終的解決法として布告しながら、その道筋に大殺戮の犠牲者たちを残してきたのを目撃してきました。

人道主義だとか利他主義だとして主張されているものが共産主義や社会主義の領域を通じて働き、皮肉にも、この理想主義の惑わしのもと、人間の命の本来の価値や尊厳を無視した社会病質的な何百万人もの殺害へと繋がりました。

このことについては、私がブログに記載したものこちらのリンクにありますので、ご興味のある方はお読みください。

宗教は世界における諸悪の根源である

禅宗はかつてこれらの極端な犯罪を犯したことがないとはいえ、理論的にはそのまま放っておけば、その最終的に向かっている方向から判断して、何も抑制力を引き出すものがないであろうことが十分に考えられます。

それは、禅宗には他者を侵害することとしての罪の概念が全くないために、支配的権威に対して反逆的であり、むしろ、個人を仏心を持つ者としての自己神聖化の可能性と権利を持つ究極の権威者としてみなしているためです。

この宗教は自己に中心をおいてはいますが、それでも社会との接点が不可避であるため社会的です。

そこでお尋ねしますが、あなたは本当に禅精神の教理にコントロールされ影響された世界秩序をお望みですか?

個人的には私はその主目的が自己実現の瞑想に焦点を当てるような自己中心的で自己支配的ないかなるカルト的運動団体にも懐疑的です。

ですから、この哲学体系に関してあなたのとられるポジションを、客観的真理の理論解釈分野に向かってこの運動の概念的見解を見越して熟考し、再評価されることをお勧めいたします。

また、テモテへの手紙二第3章15節に、イエス・キリストに対する信仰によって救いにいたる知恵を与えられるのは聖書の神の御言葉を黙想することによってであると述べている聖句について思いを巡らしてみていただきたいとお願いしたく思います。

 

 

 

神と関係を持つ方法

禅宗資料

Zen Buddhism

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