生長の家

生長の家は混合主義の宗派の1つで、キリスト教、仏教、神道各々からの要素を組み合わせ、そこに新しい思想を取り込んでいる。神想観と呼ぶ独自の瞑想法と特定の経文および標語以外には、特に目立った部分は見受けない。宗派の開祖である谷口雅春博士は元々大本の一信者であった。また非常に多くの先人たちに豊富な情報源を負いながら、引き出したものを自らの哲学/宗教に同化させている。

このムーブメントは新宗教または新興宗教と呼ばれる、この島国発祥の数百に及ぶ新ムーブメントに交ざりながら他と拮抗する、日本特有のカルト現象の一端を担っていると考えられている

神道主義

仏教

谷口の目的の1つは、真理の核となる部分を見出すために宗教的世界観の真髄を見極め、その主要な成分や要素を抽出することによってそれらを結合させることにある。しかし、このような分析を行う者は、偏った共通性に行き着くバイアスや偏見を持つ可能性を免れない。その先入観ゆえに奇跡や預言を信じず、正統的な聖書信仰に対して批判的な立場をとるジーザスセミナーと称する、リベラルな学者たちの学派が存在する。彼らは聖書本文を選別または区分しながら都合良くテキストを排除し始め、超自然的主義な聖句を欠く一貫性のない、より自然主義に迎合したような印象を聖書に持たせる。谷口雅春博士が重要視しながら世に発信したものは、現実に対しての彼自身の認識に基づく主観によるもので決して客観的な真理を基準としていない。むしろ彼の主観主義と好みを下地にした判断からのものだ。結局、以前にも投稿記事でも取り上げたように、それら宗教運動はその本質的な見解において非常に多岐に亘っており極めて互換性に乏しい。従ってそれらを何とか結合させて人々の納得を得る形態に仕上げる試みは、真理を突き詰める誠実さにもまた知性的手法にも欠いた、宗教的三頭獣を産み出すことになる。

一体だれが何を根拠に、彼がここまで複雑な宗教的見解を盛り込みながら真理が正しく再構築したと言えるのか。むしろ彼自身の宗教活動への関心事および目標を達成または満足させるためだけのものではないのか?取り入れたり排除したりするものについて、なぜ彼が理解し実際に行う正当な権威を主張し得るのか?果たして彼の選別主義が、悪魔崇拝やイスラム教などの他の破壊的で悪名高い宗教概念を含んでいない証拠はどこにあるのか?彼が産み出した信条の坩堝は、まるでチョコレートの箱を区分するような単なる宗教的な味覚に基づく、偏好的なものに過ぎないのではないのか?

生長の家の教義に話題を移そう。そこには申し分ない世界観を伴う理想主義が掲げられているが、聖書は明確にその信用性を否定。むしろ人間性に関わる罪と悪に満ちた現実とみなし、その結果、その高潔な良心の断固たる証言に基づいて、人は最終的に審判を受けることになると語る。結局、法とは完全な人間を形成するための土台として構築されるものではなく、むしろ市民とその社会にとって現実的脅威となる法の侵犯者たちに対して設けられるのだ。

ローマ書 2章15節

15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

物質主義的世界という概念は幻影であるという立場と、さらにそのような急進的な信条告白については、人が幻想であるかのように生きていないことからも、特に信憑性に欠けていると言わざるを得ない。かつて元ヒンズー教信者から、インド人は未だに道路を横断する前に両サイドを見るという話しを聞いたことがある。それゆえこの思想がいずれ消滅の道を辿るのは明らかである。この定説は蓋然性の面でその反論に劣っている。日々の生活こそこのような疑わしい思想への立派な反証となる。さらに痛みと苦痛を強いる問題への対処法について、その哲学的な視点および目標が、生長の家それ自体の行動様式とは真逆である。堕胎に順向的であったり軍国主義に加担したりしながら、現実世界に蔓延る社会悪に共鳴している。特に後者などは、人を改心へと導く戦略としては全く意味を為さない。

人間は完璧ではあるが真理に対して無知であるとする言明は、完璧という言葉の概念をはき違えているとしか言えない。人間がもし完璧な存在であったならなぜ完璧以下の知識を欠いたままにされなければならないのか?この集団の信条や信仰告白からのマイノリティな見地は、人間にとっての自明の真理とは対照的な執心による精神的無知の投影に過ぎない。そんな中、生まれつき論理性に欠けている人間で、この集団が自己欺瞞に気付かず思想的ジレンマに陥っていないと保証できるものなどいるのだろうか?谷口の突飛な観点が国際社会からの情報提供無しでは成り立たないことから、その答えは明白である。また悪魔による病気に罹患した自分の娘の癒し体験も含め、彼の思想は集団内においてすらも彼を孤立へと陥れる。

私たちの存在の根幹部分を占める常識的分別を否定することは、私たちが行うことの大半が間違いとすることを意味し、さらに科学によって発見された理性的かつ経験に基づく実証すら否定することになる。物質界は想像上のものであるとする教義によって、この教派が目指すべき境地の存在があることを言い含んでいる。認知可能な世界を通して訪れる喜び、健康、繁栄といった理想を認め、そのような肯定的な面を確言することは、その逆もまた存在することを告白しているに他ならない。さもなければ、この楽観的で完全な状態が訪れたことを判断するための、照らし合わせるべき基準を持たないことになる。健康であることを知るには病気が、また喜びについて語るには憂いへの理解が、そして繁栄に気付くには貧困を知ることが不可欠である。ある1つのことに言及すすれば、自ずとその対照が存在することを認めることになる。善であり完璧な何かがあるとすれば、それは確定的に不完全とみなされる或いはそう呼ばれる概念と対峙せざるを得なくなる。悲観的な境遇に対して懐疑的になることは、楽観主義に対しても同様に懐疑的になることを意味する。人生の方程式から負の要素を斥けてしまうことは、プラス面も同様に排除することになるからだ。結論を言えば、現在の世界情勢を鑑みないまま人間を有望視する見方は物事の実情と矛盾する、過度の楽観主義に取り憑かれた非現実的な世界観であり、それを単に目に映り心に投影されるものに過ぎないと告白することで、益々論理性を乏しくする。

その行動とは裏腹に人間の本性とは生来、あるいは少なくとも潜在的には完全無欠であるなどと確信をもって証明することは、あたかも茨の茂みからイチジクが生育すると考えることと同様、とんだ思い違いとしか言いようがない。結局のところその教義を徹徹頭徹尾遵守した挙げ句、完璧さ悟りに達することができたであろうか?もし答えがノーならば、何を根拠に再びまたそのような夢想の裏付けを取ろうと思うのか?このような世界の末端で起こった宗教的ムーブメントの内的な変革力があるのか、また私たちの共同社会に変化を起こすと訴える根拠は何か、など疑問が絶えない。この思想には、人間はその自由意志に依り頼んでいては自分自身を癒すことはできず、神という外的な力が働くことで救われなければならないというジレンマに絶えず付き纏われ、完全な成就が起こらないまま自滅する。宗教的な欲求または訴えの新しいうねりの中に別の答えを見出すことの不可能さを直視せざるを得なくなる。

懐疑心で言わせてもらえば、ある特別な悟りを開いたことで人間性の無知を克服したと言って憚らない、僅か数名の人々の影響下で継承されたエリート主義集団によるこのような怪しからぬ信条を掲げるところに、実にカルト的特徴が窺える。この類いの精神性に人生を預けることは、現実離れした空想上のごっこ遊びに耽る心理ゲームを楽しんでいるようなもの。この楽観主義による洗脳技は現実に対する一般的な認識を奪い、マインドコントロールの方法論を開発したカリスマ的人物の魅惑的な影響下で、人を欺瞞と妄想に支配する。他人をして究極の真理に精通する能力を備えた唯一の特権的な選民であると信じ込ませ、一種の服従および依存へと駆り立てるような実態もまた、カルト指導者に一貫して見られる傾向である。最後に人が感化されやすくなる理由は実に多く千種万様である。しかし この種のムーブメントは人生に降り懸った災難によって、何らかの部分で安定性に著しく欠いた人々を餌食にする。しかし皮肉なことに自らの思いとは裏腹に、彼らは教祖の心中に浮かぶ世の仕組みに対応できるイデオロギーによる犠牲者となる。そのようなものに客観的な現実および真理など存在しないにも関わらず。真の真理とは本来、精神的な渇望を満たし心に安堵をもたらすために私たちが信じたいもの、あるいは正解とされるべきものではない。むしろ私たちの感情的な執着心に左右されず、己の力で立ちもするし転びもする。人生の困難から被害を受けた自分を自力で治癒できるとする精神を信じるのはあなたの自由だ。しかしこの類いの信条は宗教的な蛇遣いに死を招くものであることを覚えていただきたい。実質、あなたの思考型式の如何に関わらず、どんな形式のマインドコントロールも死までの猶予を与えることはできない。死が必然であるように、人の心に巣くうだけではなく、私たちの社会全体の拍動そのものも支配してしまう悪の現実もまた避けられない存在である。悪の概念は歪んだ知覚や判断を原因とした、人生に対する総体的な誤認ではない。それは、悟りの境地を得た精神だけに途方も無い痛みと苦しみの方程式に正解をもたらす神秘的力があると信じる、極度に単純化した見方だ。

結論として言わせていただきますが、この楽観的な概念自体は魅力的であり、世界に完全無欠な状態が訪れる日は、やがてキリストの支配下で最終的に悪の要素が消滅した時に訪れます。しかし同時に、私たちは未だに聖なる神に対し反逆的であり続け、その罪深い性質に応じて傍若無人に振る舞うこの世に属さなければならないのです。つまり神との平和を持つことが許され新しい性質をいただくことで、私たちは神によって自らの心と人生を根底から覆され、人格に宿る悪の支配に打ち勝ちながら義に従って生きることができるのです。

エペソ人への手紙 2章1〜10節

2 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちのうちに今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。— 3 わたしたちも皆、こういう者たちの中に、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、— 6 キリスト・イエスと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9 行いによるのではありません。それはだれも誇ることがないためなのです。10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

ローマ書 8章1〜11節

8 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒になったパウロから、2 この福音は、神が既に預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。5 わたしたちはこの方により、その御名をすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるようにめされたあなたがたもいるのです。7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしたちの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証してくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、10 なんとかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへいける機会があるように、願っています。11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。

イエスは「命の真理」の体現者として、境地に関する厳格な宗教的規制や要求から解放し安らぎを与えて下さる、完全な代弁者であることを最後に申し添えます。

ヨハネによる福音書 14章6節

6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

マタイによる福音書11章28〜30節
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしはにゅうわで謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

生長の家に関する情報資料

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Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pgs.6573-6574, Robert S. Ellwood, Shimazono Susumu

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6587, Dell DeChant

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

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