神道主義

現代的な思考に基づいて「神の道」を意味する神道主義を見る時、古事記や日本紀に描かれているようなこの宗教的世界観の持つ神話主義に容易に気付くはずである。この宗教はその多神論的な見解を特徴とし、その中にはまさにギリシャ社会に見るような神々の集団という概念を含む。さらに神殿から剣に亘り、全ての物に宿り支配する霊または神々八百万の神を崇めるアニミズム信仰に立つことでも知られている。この類いのアニミズムは原始的な信仰体系を持ち、今日でも未開の部族社会において迷信によって畏怖の念を植え付けながら人を支配し続けている。

これほど豊富な量の神々がいることを考える時に、私にはどうしても腑に落ちないことがある。特に先人たちがこの世を去るに連れて神々の数が増えていくとすれば、いかにしてその数を正確に算出することができるのかが疑問である。また本来ならば相容れない要素を、皮肉にも無神論主義の仏教や儒教から取り入れて統合していることから、この宗教には独自性も純粋さも認められない。さらにこの宗教体系を構成している多数多彩な教派が混在し、そのため実態を押さえることも信仰のニュアンスを調整することも難しく、その結果その統一性が失われている。

神道について問題となる別の側面として、以前行っていたものの第二次世界大戦の日本の敗戦後に天皇裕仁によって放棄された天皇崇拝がある。戦後、彼は自ら現人神の座から降り、その神話化がペテンに過ぎなかったことを証明した。果たして天皇家に間違って帰された神格との関連性を、神道が奉ずるカミに適用して良いものか?日本人の創造主でありなおかつ守護者でありながら国を奪われてしまったのに。

とにかく、神道はその真理を裏付けるための後ろ盾を失ってしまった。もはや国教としての地位を奪われてしまった背景には、恐らく神道が他の劣性であるはずの被造物や文化に敗北したことへの弁明が適わないまま、その宗教的指針の内部構造が瓦解してしまった事実があるのではないか。西側のカミの方が力で優っていたという見方の他に、日本のカミがその信者たちに憤り彼らを見捨てたが故に、彼らが史上空前の窮地に陥っていた時にも救援に来なかったとも考えられる。しかしそれは宗教的迷信からの想像上の民話に基づくカミにまつわる人為的な神話ではないのか?確かにカミの存在を有効化するには後者のほうが尤もらしい説明には聞こえるかもしれないが、逆にカミを行動が起こせないほど弱々しくその存在が疑われるものにしている。

これらの説話が危険な理由は、カミによって想像された島に住みそのカミの血筋を直接汲むことから、日本人がどれだけ優性な民族であるかを描いている点にある。日本は美しく発達した産業を誇る国であることは理解するが、自分たちをカミの子孫としてエリート視することは全くのエゴである。そこよりも遥かに広くて創造のスケールも大きい 世界が外にあることは、誰の目から見ても一目瞭然だ。

特別で唯一無二な被造物としての誇りと独立心から、自分を他者よりも高みに上げようとするのは人の集団に見られる典型的な傾向であるように思える。人間の性質を競う態度には文化の中に広く浸透しかつ有力な、自分たちを特別な人種とみなす見方が付きものだ。

このような宗教的イデオロギーを掲げた日本は、不幸にも同種のエリート主義で凝り固まったムッソリーニおよび悪の権化アドルフ・ヒトラーと三国協定を結ぶ失敗を犯した。皮肉なことに、彼の白人至上主義的なアーリア民族思想は、実は大東亜主義と真っ向から対立するものであった。とにかく自分の考えを拡散させヨーロッパ全土を初め恐らく世界全土を手中に収めようとするヒトラーの企みは、彼の憎悪に満ちたプロパガンダ活動に起因する。それが自分たち以外の民族を存在価値の低いものとして見るべきだとする、暴君の偏執的な観念のもとで彼らを脅かすあらゆる形態の差別と偏見を招く偽りの優越感を植え付けた。

この無神論的文化では人間を他の動物種と同等にしか見ないため、人間は単なるタンパク質を納めた袋に成り下がってしまう。この種の考えは 無慈悲な大量虐殺に精を出す神を持たない社会からの、おぞましき惨劇を正当化するものだ。結局、この社会のアウトサイダーに対して悪に満ちた行動を取る者たちは、彼らを後進的な生命形態に過ぎず人間に分類されるに相応しくないとみなした。このような偏狭な文化の下で人は人命の神聖さと価値を意識することはしないため、彼らにしてみれば大量虐殺用の強制労働キャンプなどはバクテリアが働く汚水処理場にしか見えないのである。その元を辿れば、それに適した者こそ生存すべきだとする考えを支持するダーウィン進化論が影響していることが判明する。

同じく優劣を強く意識した国家体制は東南アジアおよび太平洋諸島への侵攻へと舵を取りながら最終的には失敗し、自らを大国として自画自賛する声は完全に打ち消されてしまった。
自国を世界列強国の1つに押し上げようとする力業は、自らの文化を正直・礼儀・誠実を重んじ、原則善人として振る舞うことを美徳とした倫理の象徴として描く宗教への帰依と矛盾しているように見える。しかし行動によって言葉を無に帰し、彼らは第二次大戦中に征服者の座に就いた。

今日、日本では社会上層部でも反抗期の10代の間でもモラル低下が目立ち、このような倫理上の問題をほのめかす証拠を見る。日本では中毒性の物質主義や姓奴隷などの氾濫に並び反社会的かつ暴力的なカルトの増加を見る。この事実からも日本社会を神聖な地と位置づけることに違和感を覚えざるを得ない。

大量殺戮を企てたオウム真理教や日本赤軍を初めとする無数の反社会グループ、また極右グループなどの何れにしても、日本社会の瓦解を示唆している。

私は敬愛する日本の人々を中傷することを意図して発言しているのではなく、むしろその文化圏の悪化傾向を見る時、日本社会がその宗教的意図に関わらず世界各地にある別の共同社会と全く同等であることを訴えたいのだ。私は個人的に、一般的に認められる温かさゆえにアジア文化圏の人々を愛し交流を楽しんでいる。しかし本を正せば彼らとて、全人類が共有し日本の文化を侵蝕する罪の問題に苦しみ葛藤する人間であることに違いはない。

神道主義はこのことを触れることを罪として嫌厭する。持説とする人間の性善説がそうさせているのだが、しかし様々な証拠がこの定説が支持されるに値しないことを証明している。こうして神社が聳え立つこの地にも巣くう社会悪を認め、さらにそれに取り組むこともしないのだ。皮肉なことだが、神道にもある程度自らの社会の堕落を憂う感覚が備わっていることを確信する。その裏打ちが神道流の十戒または神道の訓令からの「すべからず」形式のネガティブな禁止令から取れる。

日本の社会は日本人を貪欲に駆り立てる霊的空虚感を残した、この宗教の二重性を目の当たりにしてきたと思う。この宗教の教義が抱える空しさが彼らをして幻想へと陥らせ、人生の意味への疑問に対するより肝心な答えを暗中模索させてきたことは疑う余地もない。でなければ毎年約100もの新宗教が誕生する現実をどう受け止めたら良いのか?

この事態を聖書的観点から見ると、新約聖書のテキストと私たちが目撃する日本の宗教に関わる現況との間に関連性を見出せる。使徒パウロがアテネを訪れた際、古代ギリシャ文化の一要素となっていた宗教または神々への熱狂主義を目にした。それが彼にとってアテネ人やアレオパゴスの哲学者たちに近づき、その宗教的なアイデンティティを悟らせるための好機となった。これらのギリシャ人はまさに現代の日本人のように、自らの宗教的コンテキストと噛み合う新しい案や考えを模索しており、パウロはそのコンテキストの中で、彼らの宗教的行為と一致する真理について弁証することができたのだ。

使徒行伝17章22〜31節
22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあついかたであることを、わたしは認めます。」23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう
24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにと言うことなのです。実際、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。28 皆さんのうちにある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。30 さて、神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。31 それは、先にお選びになった1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。

このパウロの発言によって、かの哲学者たちが創造者または創造の神について思いめぐらしながら格闘していた宗教的疑問の解決法を概観できる。

もしかしたらあなたも彼らのように、存在または人生の意味など全く同じ問題と格闘しているのかも知れません。おそらく神道ではあなたの生き甲斐や、あなたの心中の奥深い所で谺する疑問についての答えが得られていないのでしょう。あなたが深い祈り心を持ちながら考え、私が自らの証言を通してあなたとシェアしたいものに心を開いていただくように願います。

神と関係を持つ方法

イエスについての私の証し

私たちは罪によって汚れているため神に対して負い目があり、「祓い」を受けることで霊的な再生を果たしながら洗い清められなければならない。それは聖霊様によってイエスが私たちと結び合うことで実現するのです。イエスを信頼するとき、彼はあなたの人生にこの関係をもたらし、あなたを神から引き離していたこの罪と死の法則から解放し、永遠の命という賜物を授けて下さるのです。これは無償で与えられる贈り物であり、人間の自己実現または自助行為によっては決して獲得できない物なのです。

最後に申し添えます。真理は私が語る命題の域を凌駕していますが、私自身の個人的な人生経験によっても確認および証言することが可能です。文字通り私が自分の人生にイエスを迎え入れたとき、それはまさに心が清められる内面の沐浴とも言える経験であり、今は神に近づくことができているのです。中にはキリスト教が外国の宗教であるという理由でこの前提を受け入れられないと内心思い、あらゆる西洋の概念に対して拒絶反応を起こす人もいるかも知れません。しかし実際キリスト教は東洋にその起源を持つ宗教です。また神道とは異なり、地理的な制限など持たずに世界中を網羅するまでに拡がりを見せています。逆説的にも、主なムーブメントの1つとして世界から隔たったままでありながら、逆説的にも神道は自らの訓令の5項目目で大家族主義を掲げるように、世界共存の価値を認めているのです。

イエスはヨハネによる福音書3章16,17節でこう言いました。 16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエスの恵みはあなたにも注がれています。日本にも約200万人ものクリスチャンがいることが何よりの証拠です。あなたの価値観が神道の宗教的イデオロギーに基づく文化的な縛りに支配されるようなことがあってはいけません。これまで見てきたように神道には多くの過ちが散見されます。既に日本文化は突如席巻した宗教ムーブメントによってその伝統的形態の殻をすでに打ち破り、その結果、人生の本質発見を期待する人々が他の運動に流れ込みました。どうか、その道へ進む前にこの記事の内容を真剣に考えイエスを信じてみてはいかがでしょう。「サン」(「太陽」ではなく「子」の意味)であるイエスは、国民一人ひとりの魂を照らす心の光を届けに上空に昇り日本を覆っているのです。

マタイによる福音書 11章 28〜30節:
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。

 
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神道の情報資料

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