地獄は本当にあるの?

人は一般的に死後の霊が行き着く場として、地獄の世界を受け入れずに天国という現実を信じやすい。人は地獄という複雑な命題について論じ合うことを避けようとする傾向があり、また真剣に扱う際にも、そこには懐疑心が伴うこともしばしばである。非個人という考えに抵抗を覚えて地獄を否定する見解は、本来あるはずの個人的責任に対する無関心さが表面化したものであり、自衛本能メカニズムの産物あると言っても過言ではない。

さながら精通すべき責任を負いながらそこから逃れようと、知っておくべきことも「何も知らない」と強く言い張る、ホーガンズ・ヒーローズのシュルツのごとく恍ける人もいる。そんな弁解が司令官に通じるわけもなく、増してそれを以て全てを知り尽くしている神のみ前で無罪を主張することなど言語道断である。

一方、裁きという必然的存在を知りながらも、聖書主義的なキリスト教信仰から心を逸らしつつ沈黙し続ける輩もいる。彼らにとっては、その必然から一時的に逃避して場を凌ぐための唯一の手段なのだ。罪を前面に打ち出すTVの宗教番組に不快感を表し、まるで西部劇の「早撃ち」シーンを見て触発されたかと思わせるくらいに、目にも留まらぬ速さでリモコンを操りチャンネルを変える人もいる。

ローマ書2章14〜16節およびヨハネの手紙第14章18節などは、罪と裁きを忌憚なく語り、永遠の刑罰があることを知らしめながら、強烈な警告アラームとして私たちの神に対する良心を呼び覚ます役割を果たす。

アラームから逃れるために、ハッとさせるブザー音から気を逸らすにしても、あるいは苛立ちながら部屋の外めがけて放り投げるにしても、目を覚ますベき時が来たという事実を打ち消すことは不可能である。

私たちの道徳意識を呼び覚まし私たちを永遠へと導こうと、内なる心の声のごとく目覚まし時計が鳴り響く。人はこの衝動に対して無知を装うか、あるいは延々と重たく響くアラームの煩わしさを打ち消そうと必死に抗う。しかし私たちがこの人生を終えるまでこのチャイムが完全に鳴り止むことはないのだ。

永遠の苦しみと罪の宣告をもたらす、身の毛もよだつような場所として地獄を描く聖書に共感することに抵抗を覚える人々が、地獄に関する自分独自の考えこそ現実であると言って憚らない。

地獄の概念を一切抹殺するために地獄の非存在を訴えたり、また仮に地獄があってもそこに収容されるのはサタンかその子分である悪霊か、あるいはヒトラーのような悪魔的な人間であると語る。

この他、地獄を見くびり、その世にも恐ろしい様相を喜ばしい「ビッグパーティ」風の混沌にしか考えない人たちもいる。ある者にとって地獄とは、さほど深刻に考えるべきものではなく、煉獄のような苦しみと瞬時に肉体を消滅させる炎のちょうど中間的な領域である。

私は最近、天国と地獄という題材を、聖俗両方の研究者による証言に基づいた臨死体験から紐解こうとする趣旨のドキュメンタリーを見た。彼らは自分たちが検証あるいは質問の対象にした臨死体験は体験者の知覚に基づき、それゆえこれを死への先入観、および脳内麻薬による幻覚症状として一括りにすることはできないと認める。

世俗の研究者の1人が心理学的介入の可能性をも否定。死ぬ間際に地獄を夢想するにはそれが逆効果だからである。蘇生技術の発達に伴いこういった臨死体験のほとんどがその発生頻度を増加しつつある。因みにアメリカ人だけで臨死体験者が約1200万〜1500万人いるとも言われている。

解説者の1人によれば臨死体験者の多くが、キリスト教に入信しているという。なぜならそれを幻覚としただけでは説明がつかないためである。
世界を股にかけたインタビューによって300以上の症例について調査を行った者もいる。その結果によれば、地獄および天国に関する証言には一貫性があり聖書の描写とも一致していた。

ハロウィンという異教の祭りを見ると、多くの人々が死または地獄というものをその祭日そのものと同等に扱っている様子が伺える。この悪魔的な儀式の裏に潜む霊的な現実に気付くことも、また意識して注意を払わない人も少なくない。彼らにとって無害で楽しいゲームでしかないハロウィンも死のようにリアリティに満ち、さらにその背後に潜む悪魔的な要素が私たちの目を眩まし、「トリック」によってあたかも悪魔、悪霊、そして地獄というのはハリウッドか、もしくは聖職者たちによる産物と錯覚させる。

地獄が些細なものとして、しかも商業的に扱われるようになっており、それと時を隔てずに、もはや人間の心に取り憑く存在としてより、むしろ新しい役割モデルを持った病的な飢え渇きを掻き立てる存在として捉える必要が生じている。「ハリーポッター」はまさにその骨頂であり、ヒーローまたは慕われるキャラとして定着している。

これとは裏腹に、死後に関する知識を真剣に考えたいと願う者や、少なくとも興味を示す者もおり、この潮流を受けてある有名な本が出版されるに至った。「90分の天国と23分の地獄」である。

私が個人的に親しくしている友人のうち数名が臨床体験を持っている。そこで天国を体験したうちの1人の女性は、あまりの畏敬の念にうたれた驚きのゆえに、生き返ることを拒むほどであったと証言している。彼女は自分の夫に、彼との生活に戻る気を失った理由を理解してもらえなかった。はからずも、これと同様の証言が同テレビ番組に出演したインタビュー回答者からも寄せられている。
牧師婦人をしている私の別の知人などは天国を訪れ、そこでイエスと出会い彼と語り合ったと話してくれた。

霊的な事象に遭遇した当事者たち曰く、彼らの目に新旧約聖書に含まれている黙示文学を彷彿させる情景が飛び込んできたという。

さらに昏睡状態下にいた時の部屋の様子を事細かく説明していることも、このような臨死体験を裏付ける要素である。肉体を離れた霊体となったがために、部屋の外側についても詳細に描写し、さらに人知を越え、説明しようの無いような常軌を逸した物事を見たり体験したりしていたという。

世俗の研究者たちはこの問題について、どうやって人間の経験と認識の幅を逸脱した出来事に遭遇したかが理解できないゆえ、調査発見から結論が出せないでいる。すなわち、この超自然現象についてはまだ議論の余地があることを意味する。

死後の命への飽くなき探求心をもって、聖書はどのように地獄を語っているかを見ていこう。「地獄」という言葉に訳されたヘブル語の「シェオル」は旧約聖書に見られ、洞穴、くぼみ、そして自然の摂理である肉体的衰えを表すにも適用される。また死者の住まい、みすぼらしく曖昧な存在を表す言葉に使われる。

私たちがすでによく知られている肉体的な死のプロセスに限らず、かの研究者たちが明かす臨死体験者による生々しい霊的レベルの現実を紹介することが私の関心事である。

この問題について旧約聖書は、明確な定義と詳述を残す新約聖書に比べて、さほど多くの手掛かりを提供してくれてはいない。預言者ダニエルが死後の世界という概念の魁となる。ダニエル書12章2節にはこうある。2多くの者が塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

ここで死後に限らず「肉体的なよみがえり」について触れていることに注目したい。このブログでは詳しく扱うことはしないが、死者の骨を納めた納骨箱にその痕跡が残っているように、この復活がユダヤ人およびクリスチャンによって信じられていた。イエス自身が死から実る初穂としてすでに復活を体験されている。これこそ救いにおける最終的な業である。不思議な事にこれら復活した肉体は、人間の歴史が完全に終わりを告げる時点でこの世から離れ、ここにクリスチャンの信じる贖いが最終的な結末を迎える。

とにかくダニエル書に話しを戻そう。ここでは新たに「永遠」の命と「永久」の侮蔑が対比されている。無上の喜びに満ちた永遠の住処を思い浮かべるのは簡単だが、この永遠と永久という類義語を一方にのみ偏って適用すれば、この聖句と2つの概念との間にズレが生じてしまう。

旧約聖書時代の社会では「シェオル」が義人と不敬虔な者が、深い淵を隔てた状態で住まう住み家と理解されていた。一方がアブラハムの寵愛を受ける義人の居場所であり、もう一方が苦しみに満ちた場所として描かれている。福音書中のたとえ話で紹介されているイエスによる申し分ない描写は、このブログで後ほど扱う永遠の居住地について、限定的に触れている。

出エジプト3章6で神が自らをアブラハム。イサク、ヤコブの神であると称していることに絡み、マタイによる福音書22章32節ではイエスが神は生きている者の神であり、死んだ者の神ではないと宣言している。ここからも明らかなように旧新約聖書からは死後の命を示唆する、副次的な手掛かりを得られる。それによれば私たちは肉体的生命の限界を越えたところで存在し続けるのだ。

また第2列王記に代表されるように、旧約聖書では神が人をその死亡時に、先祖の数に加えるお方であることに言及する。
第1サムエル書の中に、預言者サムエルが地中の眠りからよみがえりサウルと対話する場面が登場。

永遠の命に与る者たちが記される「命のリスト」と、そこに記されないか、または削除されて永遠の滅びへと定められる者を記載した「破滅のリスト」に関する言及がある。詩篇69節28節、出エジプト32章33節、ピリピ書4章3節、黙示録3章5節、13章8節、17章8節、20章12〜15節、21章27節など、旧新約聖書の聖句を参照していただきたい。

地獄および義人の住処という概念について、新約聖書はその表現の豊かさという意味で進歩している。それはルカによる福音書16章19〜31節の「金持ちとラザロ」の喩え話からイエスが示す、死後の暮らし場所の全体像に裏付けられるだろう。

金持ちの男とラザロは、往来ができないほどの大きな淵を挟みながら、全く対照的な環境の中で暮らしている。平安と慰めを得ながら居心地良い場で暮らすラザロに対して、金持ちの男は苦悩、渇き、そして容赦ない業火に悶えているように、場所同士の濃厚なコントラストがその話しの中で浮きぼりにされている。

他にもイエスもしくはその使徒たちが叙述する地獄に該当する言葉があり、それが新約聖書中のハデスおよびゲヘナである。マタイによる福音書3章12節では永遠に燃え続ける炎として、同じくマタイの福音書8章11節では追いやられて泣き叫び、歯ぎしりする暗闇として描かれている。マタイ13章は燃えさかる炉、マタイ18章8節は永遠の炎、テサロニケ人への手紙第2の1章9節は絶えず続く破壊、黙示録14章10〜11節は延々と起こり続ける苦しみ、黙示録19章20節は燃える硫黄の湖、そして黙示録20章10節は昼夜を問わず常に人を苛む苦悩として、地獄を定義している。

クリスチャンまたはユダヤ教に認められた正典内には煉獄という概念は登場しない。
またヘブル書9章27節において、人は一度死んだ後に裁きを受けることを明言する聖書が、生まれ変わりについて教えることはない。また聖書は死の瞬間に現実として訪れる霊的状態を、肉体的復活とすり替えかねない「霊の眠り」教理を否定する。コリント人ヘの手紙第2の5章8節によると、肉体から離れることが主のもとに住むことを意味するからである。

臨死体験下の人々が即座に向かった先は無の状態ではなく、むしろ天国もしくは地獄と表されるような場所および情景であった。さらに霊体が備わっていたという彼らの一致した証言があるし、こちらの世界に戻って来た体験者は肉体的な再生を遂げたわけではなかった。

私たちが地獄に関わる聖書的説明を受容できない大きなわけは、私たちの神に対して抱いている誤解にあると考えられる。神が完全に善なるおかたであるなら、人々が永遠に苦しむことを神が是認するなど常識的にあり得ないと訴える者がいる。そして人がその罪に関わらず、それを購うことすら厭わない神の憐憫によって無償の恵みとして私たちに永遠の命が与えられることも同様に信じ難いのである。

本来の地獄とは悪魔とその使いのために用意されており、人間を収監する意図はなかった。しかし神の敵を自認している人々に対しては、マタイによる福音書25章41節にあるように地獄への道を辿ることが定められている。神が堕天使の群れを保護する意思を持たないとすれば、それよりも僅かばかり劣ったものとして創造された私たちが同様に神への反逆心をむき出しにすれば、順風に暮らせるはずがない。

私たちが神無しに生きることを人生の指針に据えるならば、私たちが自分の望むことを適えることはできないし、この願いとは裏腹な体験をこの人生を越えた先にある世で味わうことになる。今の現時点で神の影響下にあることを拒むのに、将来において神が自分の人生に優しく干渉してくれることを欲するのは馬鹿げている。

この臨死体験にスポットを当てた半宗教半世俗的な番組がことさら執心するテーマは、人の生き様はその死に様に現れ、塀の向こう側の現実に反映される。悪魔の統治は神の支配とは真逆に位置する。神は光であり、地獄は闇である。地獄は苦しみに満ち、天国には苦しみの立ち入る隙が一切ない。地獄が憎しみに満ちる一方、神は愛である。天国は平和の満ちた領域、地獄は暴力、悩み、苦痛の満ちた領域。

ローマ書1章21章で指摘されているように、自らの創造主として神に畏敬と感謝の念を払うこともせず、天国の恩恵に与ろうとするのは実に滑稽である。神を宇宙の娼婦として扱い、その関係に対する責任を逃れ、さらにはその責任を神自身に押し付けながら、ただ私たちの自己満足のために神を利用することが許されるのか?

神が支配および臨在する御国から離れ、神への不敬に身を委ねてこの地上での生活を歩む人間が、なぜ生涯かけて否定してきた神とともに天国で住まおうなどと考えるのか?望めば容易に手が届く選択肢があったにも関わらず、その時点における自分の立場や運命についてなぜ神を責めるのか?マタイの福音書11章28〜30でイエスはこう言って私たちを招いている。「28疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得られる。30私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

地獄への道に定められるのはどのような人々か?死刑囚檻房内の囚人、連続殺人犯、強姦魔、または幼児性愛者など、社会のゴミとして片隅に追いやられる連中だけがそれに該当するのか?彼らもその一部かも知れない。しかしマタイの7章13~14節で語るイエスが想定する聴衆の規模ははるかに大きい。「13狭い門から入りなさい。滅びに通じるもんは広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
黙示録21章8節は地獄を臆病者、不信心者、不道徳者、殺人者、性的不品行者、魔術を行う者、偶像崇拝者、偽証する者が行き着く、燃え盛る硫黄の湖であると定義している。

コリント人への手紙第1の6章9~10節では、以下のように別の地獄行きリストが紹介されている。9正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10泥棒、強欲な者、酒に溺れる者、人を悪く言う者、人の者を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。11しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

このみ言葉は私たちが犯す罪過をも巻き込みながら、ある逆説を示している。地獄の居場所を確保するような下劣で悪徳な行為を逆手に、神の裁きが麗しい贖いへの昇華を見せている。もはやこれらの者は神の赦しによって栄光に満ちた姿に変えられ、依然のライフスタイルを改め新しい生活を始めることができるのだ。

神の義を犯してしまっているがゆえに境界線を越えられないと感じているあなたには、ローマ書6章23節を読んで私たちの立ち位置を確認していただきたい。この聖句では罪は分類されていない。つまり、包括的にまた宇宙規模で考えても義人は1人もいないとすれば、罪とは人生の方程式内にある公分母であることが理解できる。

私たちは自分の罪過を小さく見積もり、それに伴う結果をも過小評価しさほど重大で致命的であるとはみなさない。他人の山積した罪に比べれば自分の「手違い」の小山が小さく見えるかも知れないが、他人の些細な「事件」を基準にすれば、その小山は克服し難いほど巨大なものである。

罪の大小に関わらず罪であることに変わりはない。1円玉1枚を盗んだ者も1000札1枚を盗んだ者も、両方が盗人である。1回嘘をつくことも100万回嘘をつくことも同じ嘘つきのレッテルが付く。他人と比較することで罪の程度を小さく見せようとするのが私たちの本性だ。

最後に言わせていただきたい。いかに聖なる神に対して自分の「称賛に価する行い」を誇示しようとも、全宇宙の裁き主である神は人の心と思いとを全て見抜いておられます。あなたは自分の行いだけを通じて自分の義を積立てることはできないのです。聖書ではイザヤ書64章5節にあるように、私たちの良い業が生理用品のような汚れた布切れに準えられています。私たちの善行だけを頼りにすれば、神の御国に存在して住まうことの神聖さを汚してしまう恐れがあります。神の観点からすると、罪には大きく2つの領域が存在します。1つは堕落した世界、そしてもう一方が地獄であり、もし罪を洗い清めなければ、汚れた洗濯物を天国に吊るすことは断じて許されないのです。

決して侮辱するつもりはありませんが、ただイエスはこんな「薄汚え」布切れのために死んだのではないことを覚えていただきたい。イエスが受肉し人となることの目的は、人を代表し私たちの代わりにその罪責と罰とを引き受けることにあったのである。仮に私たちがその甲斐性や長所によってのみ天国への切符を得ることができるなら、ガラテヤ書2章21節に書かれてあるように、キリストが無駄に死んだことになります。ヨハネによる福音書3章18節によれば、神を敵対視する不敬行為に該当するのは罪を通して神に背くことのみではなく、その深層には神の一人子を拒絶し、救い主による神の救いの贖罪行為をも遠ざける態度も含まれます。

私たちが犯す罪のうち最も重大なものは、イエスによる申し分なき有効な供物と対して、神の前で私たちの行いを「旨味のある」供物としてひけらかすことである。イエスの犠牲的な奉上物だけが完全に神の義を満たすものであり、それ以下については全て聖なる神の目には不愉快な物としか映らない。エデンの園における「些細な」不従順的行為が人類に「甚大な」悪の洪水をもたらすことで、人間全てが呪われてしまったことを忘れないでいただきたい。アダムの「ミス」と比べて自分の罪過をどう計りますか?「超重い」ですか、それとも「取るに足らない」ものですか?判断してみて下さい。

さて、話題を地獄に戻しましょう。聖書のテキストを嫌い、それを否定する多くの人々は、その内容を比喩的に解釈することで、実践が困難な適用を避けようとする。

しかしイエスは、全ての切断を上回る究極の切断を意味し、何があっても避けるべきである地獄の現実を伝えようと、敢えて大げさに誇張しながら地獄について語った。マタイの福音書5章27〜30節を参照していただきたい。

身体の一部を失うよりも大きい苦しみが伴う霊的報いの重大さおよび深刻さを、文字通りに語る。それにも関わらず、この聖句が示す厳しさゆえに、多くに人々がこの箇所を字義的に解釈したがらない。もし地獄という現実が存在しないのであれば、イエスは軽々しくこんなことを言うはずがない。

最後。地獄への恐怖ではなく、むしろ「愛」こそが神への従順と服従の動機となるべきであることを再確認したい。
私たちには畏敬の念と愛に満ちた称賛の心とを併せ持つバランス感覚を大切にする必要がある。神を分かりやすく喩えると、さしずめ天国の親と言い表すことができるのではないか。その親は自分の子どものためなら自身の命すら犠牲にする。子は親の躾の手に掛かるが、それは健全であり続けさらに成長するためである。その管理責任が親としての「神」に帰されるのだから。

この手の先には慈愛に満ちた神のみ腕が伸ばされ、あなたを守り安全を保証してくれる。この手と腕を絶妙に働かせながら神は子を適切に訓練するのだ。もし正しく子を扱えば、子が神の手に敵意を抱くことはなく、むしろ警告を発しながら制止を促し、自分を救いへと導いてくれる存在と認めるはずである。

親を心底愛し信頼する子はこの関係を理解し、神の手が上がった時にはその忠告を素直に受け止める。自分を丸ごと抱きかかえる愛のみ腕によるものと悟っているからだ。

我が子が道路にとび出し走行中の車にぶつかろうとしている時に、何も言わずまたは何もせずに、ただ平然と眺めている親がいたとしたら、親として大罪を犯していると考えるのが普通だろう。それでもなおあなたの永遠の魂を守るために、わめいたり叫んだりしながら必死にあなたの注意を引こうとする神を蔑ろにするのか?神の「止まりなさい」という怒鳴り声にただ怯えたり、あるいは子供騙しとして軽んじたりする理由は?

子は警告や自分を案ずる親の声に疑問を抱かない。そこで私たちも地獄について警告を発し、悔い改めを必死で促す神の声をどのように捉え、そしてまたどのように応答するかが問われているのだ。神は時に私たちの注意を引こうと呼ばわり、いやそれどころか叫び立てるお方なのだ。その声に耳をすまし、私たちを愛している父と認めて信じてみてはいかがか?

このブログを閉じるに当り、神との関係の築き方を紹介させていただきたい。これが理解できれば救いの成就、および神に自分の命を委ねる方法についても明るくなるでしょう。プロセスは至って単純ですが、私たちの視野と実践に深遠な影響を与え、人生に転換をもたらすのです。

どうか信じて欲しい。私も20年以上前に同じことを経験し、もう2度と悪魔を喜ばす偽りの人生に戻る気はありません。あなたが死後に選ぶ人生とはどんな人生でしょう?死後に命を得るか、それとも命の後に死に至るか、あなたはどちらを選びますか?罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエスキリストによる永遠の命なのです(ローマ書6章23節)

 

 

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