これは盛んに復唱され世界中にこだましてきた神話であるが、未だにその確証は得られていない。この合言葉は、宗教家たちの偽善を暴くことで、神を宇宙から締出し死んだ存在として扱う論議と共に持ち上がっている。
20世紀はこの地上において史上最も多くの血が流れた時代であったが、その大半は神という概念を持たない人間に由来していた。その代表者であるイディアミン、ポルポト、ヒトラー、スターリン、裕仁、そしてレオポルド11世たちは、大量虐殺によって社会を混乱へと貶めた。
無神論の共産主義政権は1億以上もの人命を奪った。例えば中国では7200万人、ソ連では2000万人、カンボジアでは230万人、北朝鮮では200万人、アフリカでは170万人、アフガニスタンで150万人、ベトナムでは100万人、東ヨーロッパで100万人、そして南アメリカで15万人にも及ぶ人々が虐殺された。
人間と至高の存在を分け隔てずに同一視する世界観から、自ずと「勝てば官軍」という思想が芽生えるのは瞭然だ。責任や人間に帰される価値や尊さに対する感覚が損なわれたとき、人は正否の基準を定めることで自分自身を「神」の座に据える。
人間が真に目を留めるべき究極の目的や価値を持たず、また自らを高め有頂天になっていることが明らかなとき、「適者生存」という進化論的プロセスが唯一無二の真理と化してしまう。
この人命に対する観点は人の目標、関心、そして人類を再び破滅へと陥れる立場へ上り詰めるために、目下必要な権力などを基にした相対的考えを構成する。
しかし人命や人間の神聖さという視点から、特にユダヤ教およびキリスト教ではこれとは反対の立場を固持する。聖書は人間を神の似姿を帰した被造物として紹介することで、人類に与えられた保護を受ける権利を示唆するからだ。
ユダヤ教ならびにキリスト教の価値観を求めている者は多い。しかし神が個々人を尊ぶお方であるにも拘らず、彼らはその支配下あるいは影響下に置かれることを拒む。これは1つの逆説である。人がその心を神に明け渡さなければ、すなわち、絶対的権威のもとでそれを守り抜く神の超越的な力を遮断したままでは、やがて人間社会の絶滅を引き起こす種となる。
また過激派イスラム教徒、ヒンズー教国粋主義者、急進的仏教徒など、自分たち以外の者たちを殺戮するような、過激な排他主義の宗教が存在することも忘れてはならない。どの宗教にも関わらず、自らの存在意義を殺人に求めるものはその影響を把握しておくべきだ。キリスト教を名乗る宗派にも、イエスに楯突きながら自分たちの人生を異端者および偽聖徒で構成される宗教組織に捧げ、流血沙汰を起こすものもある。
イエスはその名を語りながら十字架については触れようともしない輩について警告を発している。信徒にとって十字架とは、自らの命を神と隣人への奉仕に捧げることを意味する。十字軍戦士たちは十字架を剣として用いない。イエスは敵への飽くなき愛という概念を踏まえて、暴力および他者への侵害行為に対する神の評価を改めて強調する。最初は馬鹿げた立ち位置に思えるかもしれないが、やがて神が敵対関係であった私たちを愛して下さっていたことに気付く
ルカによる福音書6章27〜36節の中で、イエスは敵を愛することについて以下のように述べる。
27 「しかし、私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33 また、自分に善くしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でさえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがありいと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」
人間の良心からすれば人命保護は極々自明のことであり、いずれかの哲学または宗教が人間の価値をゴミとしか扱わないなら、それは人間に命を与えた神との対立または矛盾を意味する。死は避けられないが、果たして私たちが生まれたのは生きるためか。それとも死ぬためか?あなたの世界観とは異なるかも知れないが、無力な幼児であった私たちを嘗て援助してくれた両親の保護および養育を通して、神は人間が果たすべき責任に関する手掛かりを与えてくれている。
安全と庇護の感覚を保つため、親の世話という賜物を神は与えて下さった。これは子が父母から自立を果たした時点で止んでしまうものではない。神は人を愛しているし、人類を保護することこそ、神が創造した秩序における最大の目標であり、最優先課題なのだ。
別の時代に神は人間を裁いているがその意義は、神ご自身と隣人に対しての振る舞いに基づいて義を貫き人命を守るという秩序を維持することにあった。明らかな原因や理由もなく不注意かつ無駄に人間を地上から掃討したわけではない。ご自身の審判を通して神は社会で虐げられている弱者が持つ尊厳を確保するのだ。
神がその愛と許し、そして誰をも傷つけたくないという思いから全ての事件を見過ごしているだけなら、果たしてそのような裁きを「良い」と評価できるのか?これらの犯罪行為によって虐げられる犠牲者たちはどこに逃げ場を求めたら良いのか?何に憐れみを請うべきか?神はその審判において、人が法廷における赦免では決して矯正されないこと把握している。また各々がその行為に応じて犠牲が課せられることで、命を保護し秩序を保つための裁きに意義があることを熟知している、
だが御国の法廷については、神の義と憐れみが拮抗しており、正にイエスの人格および業にこそ、その極みを見るのである。
世に注がれる神の思いはただ「愛」の一言に尽きる。その愛は、自ら無実の罪で悪人からの拷問を受けたイエスを通して私たちに差し伸べられた。私たちに注がれた彼の自己犠牲の愛は、上述した憎悪を赦免される道を私たちの前に開いてくれる。なぜなら、その程度が悪の逸材ほどではないにせよ、私たち全人類は他者に対する不断の犯罪行為に対して責めを負っているからである。
命がけの場面で他人のために自分の安全も幸福も省みないような、勇敢な行為で人を魅了する「ヒーロー」を思い浮かべると理解しやすい。私たちのために宇宙全体を網羅しながらこれを実践してくださったのが神なのである。しかしたとえ神の法廷での協議を経て赦免されたとしても、この地上で私たちが犯す人間性を害する行為の結果と責任からは目を逸らすことは許されない。
とにかく神が如何にしてこの贖いの業を完遂されるかに注目してほしい。私たちが罪を赦す救い主として神を受け入れ、その支配と統治に心と人生を捧げるべき主と認めるときに、神は奇跡的に私たちの人生に介入してくださる。
ひとたび神を受け入れれば、神は石の心を肉の心と取り替えることで私たちを再創造して下さる。まさに聖書が「新生」と呼ぶように、この改造によって私たちの内面の状態および性質に変化が訪れるのだ。
このように新しい者とされることで神や隣人と真の和解を果たすことができるのです。この恩恵に与ることを通して不必要かつ的外れの人命破壊と、私たちの創造主への敵意を制止し、損なわれた関係が回復されます。
最後、この「命」という概念について最も上手く解き明かしかつ簡潔にまとめた、ヨハネによる福音書3章16節でイエスが語る言葉をご紹介しましょう。
16 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
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