神との平和と調和

平和と調和という語ついては、個々人を取り巻く自然的成り行きに委ね葛藤ないまま静寂に時を過ごすという定義を耳にする。私たち人間は自らの人生に大破壊をもたらしかねない、ネガティブな外因的影響を遠ざけながら、痛み苦しみという歯車のずれを無くすか、あるいは何らかの形でそれに対処をはかろうとする。その結果、私たちの抱える問題がとても自分たちの手に負えるものではないことを悟り、死に物狂いで「心の安らぎ」を探り当てようとする。

制御し切れない何かが起こった時にも平常心を保つことを理想とし、その実現のために私たちは処方術を模索する。自助グループのグルやヨガ行者などの偽預言者に影響され、幻想や知覚鈍魔法、または悦に浸らすマントラなどにより精神を現実乖離や無感覚の状態に陥れながら、東洋思想的な宗教または哲学から派生したスピリチュアリズムの虜になっている。

形而上学的なものより自然主義的なアプローチを探求している人々は薬物乱用、薬物または精神療法を生活上の葛藤を緩和させる手段として選ぶ。
一方で他力本願を好まない人々は、豊富な経験を誇るように「何があってもわたしは平気」と豪語し実のところ穴だらけであるにも関わらず、起業家さながらの処世術に確固たる自信を覗かせて自力本願的な態度を貫こうとする。常に人間は工夫を凝らしながら問題解決の道を編み出すことに余念がないが、もし適切なアプローチと理解に基づいていなければ、真理を嘘とすり替えるような見せかけの方法を選んでしまいかねない

人は時に安価なワインを飲む貧しい酒飲みのように、しらふ時の現実に真摯に向き合うことをせずに、この切望する理想と現実の狭間にある葛藤を忘れさせることで、苦痛を紛らそうとする。このような形で問題の解決をはかろうとする試みは、ほんの束の間の効果と熟知しながらも「いつかきっと」という希望を標榜のもとで行う、生温い緩解的措置に過ぎない。

事実、通常外界から起こり得る悲惨な事態は必然的であり、私たちが制御し切れるものではない。しかし問題の核心はそこにはない。 仮にそれらの事態を何とか回避あるいは解決できたとしても、そのことで心中にある聖所に安らぎを得られるとは限らない。「持つ者」、つまり夢のような生活を送っている「持つ側の人間」でも、その内に不安を秘めている人々が大勢いる。私たちは、富も名誉もありながらその豪華絢爛なライフスタイルから転落し、人生の旅路における儚さに他者と同様に気付く人々を思い浮かべる。とにかく安らぎという凪の状態は、外側ではなく内側から沸き起こる安らぎによって成就するものである。

この内側の安らぎという概念については、この不穏さの陰に隠れる秘密を解く鍵となる良心によって、私が神と信じる究極的現実との相互関係の下、人間に与えられたアイデンティティが明らかになることで私たちに伝えられる。これは人生に必須の要素となる。なぜなら私たちの心の中には人間が人間であるための根本的要素として、至高かつ超越的な真の現実と交わる本能が意図的に備えられているからである。それは人間の霊性が持つより深遠な属性への表面的かつ周縁的な感情という枠を越える。まさに私たちの差し迫る審判に対する緊迫感に訴え、道徳的腐敗からの予後を解決する最後通牒である。また、私たちが責任義務からの道徳的ジレンマから解放され魂に安堵を得るために、罪責の念や恥という症状を通じて私たちに適切かつ効果的な治療法に窮乏していることを痛感させてくれる。

聖書はこの統合失調状態を神からの隔絶として説明する。神はこの緊張を治めるために、  必ずしも宗教を探したり開宗させたり義務を人間に負わせない。真理を探求し、かつそれが指し示す方向に従う覚悟がなければ何も始まらない。たとえそれがあなたの固執する価値観と全く相容れないとしても。
さらに聖書の診断によれば、この疾病の根幹にある問題および原因は、聖なる神に対して憎悪と反逆心を抱く人間の罪深い性質である断定される。もしやこのブログ記事を読んでいるあなたも、既に神に対して敵意をぶつけているかも知れない。

生まれ持った喪失感と空虚感から生ずる自意識が働き、既にこの不安に反応を示している人もいるだろう。正義に基づき義とされていることへの、確証および確信に対しての思いを示す霊的なバロメーターが作動している証拠だ。このプロセス全体は私たちの神を求める意識を呼び覚まそうとする神ご自身からの心の声として、人の心のメインフレーム内に伝わっている。たとえ私たちから遠く離れてはいないにしても、神はご自身の負担を減らすために私たちを目覚まし音で急き立てて、その問題の解決法を要求するお方では決してない。むしろ内容に富んだ特別な啓示を見出し、私たちの創造主との本来埋められない差を除去するための呼び出しである。

このような過敏な状態に陥っても、恐怖と絶望にはまり込むことを案ずるには及ばない。神は愛をもって私たちとの交わりと関係の回復とを願っておられるからだ。その事実は、神がイエスの人格と業を通して人類の間に内住してくださったことから、肉眼でも確認可能である地上での体現によって証明される。イエスは比類なき優秀なピースメーカーとして、人類と神との間を取り持ち、双方の間で和解を成立させてくださったお方である。私たちは、天の父との緊密な関係から与えられる永遠の命によって、イエスにその破損した人生を変えていただき神との和解を得たのである。こうして私たちは息子および娘として神の家族に加えられたのである。このダイナミックな神との関係については、下のリンクでより踏み込んで詳述している。
この救いのプロセスを理解するためには必見の記事なので是非読んでいただきたい。

神と関係を持つ方法

最後、あなたがこのブログを読み始めた当初、あなたの興味と関心は私からあなたへ持ちかける、あなたの人生に深く関わるような、堅固で恒久的な平和へと至る大切な境地よりも、むしろ実用的でかつ手頃に入手できるような平和にあったかも知れない。
既にあなたは我流でこれを達成するべく、ピースをかき寄せ集めながら心の穴を埋めようとした挙げ句に、収拾不能な状態に陥って途方に暮れているのかも知れない。そんなあなたの破損した心を再びつなぎ合わせる力がイエスにはあるのです。

さらに神の安らぎは、乱高下するローラーコースターのような人生からあなたを解放します。神は決してあなたを見離しません。あなたが天にも昇るような最高潮の最中にいる時も、奈落の底に落とされたように沈んでいる時も、神は常にそこであなたと共にいます。さらにあなたが人生の重荷を背負いながら問題の中をかい潜って歩んでいる時、神は恵み深くも脱出の糸口を備えてくださいます。それゆえあなたにはあらゆる逆境にも打ち勝つことができ、どんな嵐が吹き荒れようとも人生のボートの中、あなたの魂の船頭を知りそして信頼しながら、安らかに憩っていられるのです。

終わりに一言。聖書は、もしあなたが心を尽くして神を探し求めるなら神を見出すと約束します。それに応答するあなたに「平和の君」からの安らぎが豊かにあるように祈ります。何にも替え難く、あなたの理解を遥かに超えた安らぎを。

マタイによる福音書 11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。

ヨハネによる福音書16章33節
33 I これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書14章27節
27  わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える、わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
ピリピ人への手紙4章7節
7 そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

テサロニケ人への手紙第Ⅱ 3章16節
16 Nどうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。

ガラテヤ人への手紙 5章22節
22 Bこれに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Peace and Harmony with God

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