神は愛している

60年代の漫画シリーズ(米国)の「Love is(愛とは)…」というフレーズのように、私たちもつい自分で愛を熱弁してしまう。ある人にとって愛とは対象や物事への心酔を意味し、また人間の性的な表現にまで貶められることもある。他にも愛を温かく曖昧な感情か、もしくは一時的な気分の昂揚として解釈されることもある。霊的であると自負する人は、愛とは神であり相応しく行動することで悟りを得て神的な存在と結ばれるといった、神秘主義的な汎神論の視点で愛を説明しようとする。一方、人間関係の麗しさに真の尊い愛の現れを見る人もいる。しかしそのいずれも愛の豊かさや純粋さを語る上では不完全と言わざるを得ない。慈愛そのものである神のみがそれらを表現できるからだ。従って愛とは、ヨハネの手紙第1の4章8節にあるように、神の本質を示す際の鍵となる、根本的要素である。

神は愛なり、この告白はこれ以上説明を要さないほど、それ自身で完結している。そしてこれこそ人間が渇望している愛の型なのである。なぜなら私たち全て、人間関係が壊れ不完全な人間の愛への失望を経験するなど、不幸の先にこそ得られる愛があることを信じないで、それを荒唐無稽な形に歪め、条件付きで一時的、不完全で浅薄、主観的で信頼性に欠ける愛と摺り替えてしまうからだ。偽りの宗教ですら、この愛不足というジレンマには手を焼いているようだ。それゆえ愛の足りなさを哲学的に思索し自我忘却によって欲を退けるか、または誰もが愛を訴えもしない中でただの絵空事として愛を扱い、それとは真逆の概念である暴力を必然とする世界征服に焦点を定めるしか選べない。

状況を取り繕ったり、愛の喪失感を処理しようとカウンセリングやセラピストを探したりするなど、自然主義的な解決方法を模索する人も多い。こうして人間社会に蔓延する疫病を治療しようと、何十億単位ものお金をつぎ込む。聖書もこの自己陶酔に陥った人間が抱える深刻な傷害を指摘する一方、人間にはその傷心を癒すために、魂の欲する真の愛と出会う道が用意されているという福音を示す。

テモテヘの手紙第2 3章2〜4節  「自分を愛する者」
2 そのとき人々は自分自身を愛し金銭を愛しほらをふき高慢になる神をあざけり良心に従わず恩を知らず神に恐れなくなります。3 また情けを知らず和解せず中傷し節度がなく残忍になり善を好まず 4 人を裏切り軽率になり思い上がり神よりも快楽を愛し、

ルカによる福音書 4章18〜19節  “イエスは愛が人格化したお方”
18主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。種が私を遣わされたのは、捕われた人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。

私たち人間にとって神の愛は、愛という言葉により豊かで深遠な意味を与え、限りある人間的価値とは異なり、推し量れないほど高い標準とその適用を要求する。

神に言わせると、愛とは状況に左右される陳腐な、古い金言で「愛迷」と表現されるような、一過性の出来事や瞬間に制限される薄っぺらなものを指す言葉ではない。むしろ元来堅固かつ持続的で永遠不滅のものである。神がその慈愛により、私たちを愛する被造物としてご自分と和解させようとする、懸命な試みにその愛の重みと権威が裏付けられている。

Romans 8章35-39節
35「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。36患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か、私たちはあなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37しかしこれら全てのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利をおさめています。私は確信しています。38 死も命も天使も支配するものも現在のものも未来のものも、39高い所にいるものも低いとこにいるものも、他のどんな被造物も私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

コロサイ人への手紙1章20〜22節
20その十字架の血によって平和をうちたて、地にある者であれ天にある者であれ万物をただ御子によってご自分と和解させられました。
21あなたがたは、以前は悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし、22今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なるもの、傷のないもの、咎めるところのないものとしてくださいました。

私たちが理解可能な最も高潔な愛の形は母性/父性であろう。確かにそれに劣らないかもしれないが、天におられる父の愛がそのような人間同士の親密さの根源である。したがって親の愛を神の愛と比較することには自ずと限界がある。

マタイによる福音素7章11節
11 このようにあなた方はわるいものでありながらも自分の子どもには善いものを与えることを知っている。ましてあなた方の天の父は求める者に善いものを下さるに違いない!

神の愛は、「愛する」という動詞が示す行動を、自分のひとり子を犠牲に差し出すというレベルにまで引き上げている。それゆえその愛が本質的に犠牲的であり、私たちはイエスの人格およびみ業にその明らかな受肉を見るのである。

ヨハネによる福音書3章16節
16神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じるものが1人も滅びないで永遠の命を得るためである

神の愛は生まれながら神を敵として憎悪するような者たちの心を勝ち取ろうとして手を差し伸べるほど、忍耐強いもの。

ローマ書5章8節
8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。

ローマ書5章10節
10敵であった時でさえ御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

ヨハネの手紙第一 4:10
10わたしたちが神を愛したのではなく神が私たちを愛してわたしたちの罪を償う生け贄として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

この回を結ぶ前に皆様にお聞きしたい。あなたは今まで愛を空想上のおとぎ話として片付けてはいませんでしたか?あるいは代替のジャンクフードで空虚感や心の隙間を埋めようとするなど、人工的な解決で妥協してはいませんでしたか?その何れにしてもあなたを不健康かつ無気力に陥れだけで、本当の満足を与えてくれるものではないのです。一時だけ空腹を抑えるだけの間食では満たせない、魂に健康に不可欠な要素を盛り込んだ真の栄養食への飢え渇きが続くからです。

こういうわけで、あなたに欠乏しているものは神の愛であると断言できます。あなたの知らない、また経験したこともない快活さや満足感を得ることでそれがはっきりと分かるでしょう

コリント人への手紙 13章4〜7節
4 愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず高ぶらない。
5礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、罪を抱かない。;
6 不義を喜ばず真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを忍ぶ

ガラテヤ人への手紙5章22〜23節
22 これに対して霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和寛容、親切、善意、誠実
23 柔和節制です これらを禁じる規定はありません

最後に一言、以前にも書かせていただきましたが人間の愛は限定的です。何よりも人の一生が極めて短いこと、そしてたとえ人間関係は不可欠でも、それが究極の現実と満足感を約束するものではないことが理由にあります。神のみがこの期待に応えることのできるお方なのです。

もしやあなたは間違った場所に愛を見出そうと、神を別の贋物と取り替えてきたかも知れない。しかしそれでも神はあなたを「Lover of your Soul(あなたの魂を愛する者)」として慈しんで下さいます。その愛は完全な愛であります。親愛なる皆様、どうか神の愛を今日からとこしえまで体験してください。以下のリンクで神からの愛の賜物を知って、それを受け取るための方法を紹介しますので。是非ご覧下さい。
神と関係を持つ方法 
終わりに、神の愛によって人生の変化を経験した人々の実話を紹介します。この後の選択はあなたに委ねます。
イエスについての私の証し
www.cbn.com/700club/features/Amazing/

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

God is loving

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