聖書では、使徒パウロがマーズヒル(アテネのアレオパゴスの別名)において、信念の定まらない宗教派哲学者のアテネ人に対する防戦者として紹介されている。
ギリシャに滞在中のパウロは「知られざる神」に奉納された祭壇に気付いた。
パウロはこの重要な公共の場を利用し、外国の神の擁護と思しき彼の斬新な思想に疑問を抱く、ストア派およびエピクロス派の前で公然と語り始めた。
知識人の関心を勝ち取ったパウロのアプローチとは、彼らにとっては知られざる存在であったが、実際には「知り得る」お方であるこの神の啓示を伝えるものであった。
体験的知識に乏しいために神に関する哲学的現実を信じこみ、また神を知らないことを超絶巧みに論ずる不可知論に対して、反駁を展開する際の根拠をなすものである。
この徹底した不可知論的考えは神を理解できる可能性を一切否定するが、この立場は被造物が有限な存在であり、神が「知られざる神」であることの完全な確証を得る能力に欠けていることから、立証が不可能だ。
神の現実を断言するためにその方を「知られざる」と定義するだけの知識が前提となることからも、この立場が孕む皮肉がうかがえる。
これは無神論者が抱えるジレンマと同列に置くべきである。両者とも決定的な知識に欠けているゆえ、神の存在についての信念も神を知る力も疑わしく、完全な知者にはなれないからだ。
神は存在しない、あるいは神を知ることは不可能だとする主張は、無神論の場合と同じく、私たちが批評の対象とする説や信仰の域を出ない。せいぜい人間が現実に主張できるのは、神についてごく限られた識見しか与えられていないことである。これがこの方程式を解決する、唯一論理的な帰結なのだ。
聖書もこの主張と同じ立場に立ち、神に関する一般啓示に言及しながらこの考えを支持している。しかし現代において人を支配する霊が現代哲学的アプローチによる進化論の発展を促進し、この啓示の本来持つ純粋なメッセージを不純にしたり、あるいは薄めたりしながら、それを迎合的なものに作り変えている。
これにも関わらず、神の手の業は必要不可欠な機構および被造物の存在の根源であることが明らかにされる。この創造された摂理は昼夜において現れ、それは人の視神経の網膜によっても十分確認できる。この荘厳で息を呑むような素晴らしさから、被造物同士が調和を保つように、細心の注意を払いつつ計算高く設計されたものであることが明らかだ。まさに詩篇19編が言及するように、これこそ宇宙全体が共有する言語である。これに加え、ローマ書1章および2章では被造物の現実と、人間が先天的に備えている道徳心および良心の普遍性についての青写真を提供してくれる。相対論哲学の出現からの挑戦にも関わらず、この道徳的規則は若く幼い人間の魂や、人間が支配し治める社会において有効に働いている。
結論を申し上げると一般啓示は、人間の現実を認識させてくれる究極的な真理としての特別啓示を、私たちが会得し保持し続けるための先導役を果たしてくれる。
申命記4章29 節の聖句が、心を尽くし、魂を尽くして主を尋ね求めるならば、私たちが神に出会うという、真理へ到達するための原点を伝えながら私たちに奮起を促す。私たちは純粋な探求者となる必要がある。さもなければ私たちは似非宗教、カルト、そして神懸かりな人間への忠誠または崇拝に真っ向から挑むような、世俗的な哲学の罠に掛かってしまうだろう。
最後に、あなたが堅い信仰を持つような神聖な対象が何であれ、内省的な態度を大切にしつつ、神という概念に関わるあなたの信仰の目的および動機が何かをよく見つめ、自分の立ち位置について再吟味をはかることをお勧めしたい。
もしかしたらあなたにとって本当に知られざる事とは、あなたの心が渇望する知識を唯一知っている、その心自身の欺瞞かも知れない。
ある1人の知人を紹介してこの回を閉じようと思います。この問題について私が迫った相手は自分の神観に真摯に向き合い、ついにはある答えを出すに至った。私はその答えから、彼が誠実に神の存在を検証する準備や意思がなかった自分の罪を認めながら、自己同一を果たしたという確信を持っています。
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