私たちは窮地に陥った時、「神様、助けて!」と悲痛な叫びをあげることが少なくない。しかしそれも束の間、葛藤が過ぎ去るかあるいは問題が解決されればすぐに私たちは独り善がりの世界に退いてしまう。こういう危機からの改心は表面的に過ぎない場合が少なくなく、また予期しない状況下での苦肉の策である場合が多い。私たちは神を「レッツ・メイク・ア・ディール (アメリカのクイズ番組)」のモンティ・ホールになぞらえて見てしまうことがある。つまり、私たちは人生という神のゲームの意欲的な競技参加者として、どうにかして神を喜ばせることを期待されているとする発想だ。そして神は私たち自身の関心に応えるより、私たちに救いを与えることを望んでおられると聞くと、神がブービー賞のようなもので私たちを欺いているかのように思い込んでしまう。
苦境に喘ぐという経験が、実は神による恵みと憐れみのみ業である場合がある。どんなに親密な関係にある人々も私たちを救い出せない、あるいは救い出そうとしない様を見、絶望的な状態に遭遇するからだ。人生の荒波による衝撃と混乱の中で溺れかけている時、このような窮地こそ現実を映し出すバロメーターとなることがある。私たちが自身の限界に直面し心が最も刺激されやすい状態になって、自分と神とに対して正直になる瞬間と言っても過言ではない。まさに身の安全とボートの退避、またおそらく嵐の小康化を願って自分の手を神に差し伸ばした、使徒ペテロがそうであったように。
しかし神に対する反逆心から拳を振り上げるような、私たち自身の行動によって窮状を招くこともしばしばある。しかし神から差し伸ばされた手は、私たちを取り巻く世界が壊滅な状態になっている中、拾い上げられた後も再び転落しないようにしっかりと握られたままでいる。
私たちは神を呼び求める時、その動機が何であるかを吟味しなければならない。そえは苦境から脱するまでの間、神の機嫌を取るために猫をかぶるような、ただの欺瞞によるものではないだろうか?
神の助けに反発する人々はおそらく宗教や神を批判し、そんなものはただの杖にしか過ぎないとお考えかもしれない。しかし実際に困難に面したとき、自分たちがプライドという実に儚い下肢に支えられた、有限かつ脆弱なものである事実を受け入れざるを得ない。その支えは人間の体験によって脆くも崩れ去るのである。
問題の最中、彼らは神に頼る代わりに自力で事を解決し自己治癒を試みた挙げ句に失敗し、完膚なきまでに叩きのめされて初めて助けを求めようとする。災難が降りかかる中、宗教に手を染めて瞑想によって苦痛を取り除くことを試み、ネガティブなエネルギーを遮断しながら処理しようとする。また宇宙を覆う因果の原理やカルマの法則など、極端な運命論によってその状況を容認しようとする。またある者はこのような経験を錯覚だと判断し、催眠術による現実逃避をはかりながら、自分自身と問題とを切り離そうとする。
また自助プログラムに手を出し、ボブ・ザ・ビルダーの「そうだ、修復は可能」的態度を地でいくようなアプローチで事態の鎮静化を図る者もいる。またさながら小さい蒸気機関のように、「できると信じる自分」のイメージをさらに進化させ「できたと信じた自分」を思い描きつつ、お題目を猪突猛進的にひたすら読み上げる人々にも出会う。しかし結局、人生の終わりには蒸気も尽きてしまい、自分たちの最終的な定めに対しては、いくら自分ができると信じてもそれには至らないことを悟らざるを得ない。他にも一般的な心理学による解放術が世の主流となっている。人生の困難を処理するため、まるでオズの魔法使いに登場する機能障害のライオンが魔女を求めるように、心的障害による苦痛を薬物治療や専門技術によって除去するというものだ。
物事をコントロールできる無敵な存在という自負は、自身の限界に気付くまでの錯覚に過ぎない。傾向として、四面楚歌の状況下で改心する無神論者にように、必然的な何かに直面すると人生観がガラリと変わることが多い。
神が最後の頼みの札として位置づけられることはよくある。人々は神を全宇宙の親として、まさに10代の若者が時折、自己中心的な理由で幾度となく両親に助けをせがむように、ほんの一時的に神に寄りすがるのだ。このようなSOSの嘆願は、神を出し抜くために誠実さを装いながら、その全能なお方に一時的な厚意をせがむための、死にものぐるいの足掻きにも映る。
私たちが何とかして神を避けようとする本当の理由は、神とは誰であるかという問題に絡み、それは私たちを取り巻く環境よりも遥かに重大である。第一に私たちにとって現実的かつ重大な問題とは神に関わることである。私たちがより重要かつ深遠で人間にとって永遠に意義深くあり続ける疑問を思い巡らしながら我に返るのは、人生のローラーコースターが底に目がけて急降下する危険に晒されている時であることが少なくない。こういう事態が起こる前は神を潜在意識下に追いやり深く立ち入らずに逃れようとし、個人的な願いや必要についての独立した考えに基づいて行動することを好みがちだ。物事が自分たちの思い通りに運んでいる間はこの状態を保ち続け、一旦歯車が狂い始めると埃まみれの聖書を命綱として引っ張りだしてくる人もいるだろう。
この憎しみ、敵意、疎外について触れながら聖書は、私たちの罪の性質が私たちに真剣に神を探求させることをさせないことを指摘し、神の正義の基準に照らし合わせる時に全人類が罪人でありその基準には達していないと述べる。人はこうして罪責の念と恥に陥り、先ほど触れた本質的な問題を増幅させていく。ただし、神が私たちをご自身の憤懣による窮地に放置したままにせず、求める私たちに「助け」の手を差し伸べることを願っている事が、私たちにとっての救いである。
凍死しかねないほどの人生の厳寒地に追いやられてしまう経験を持つ時、神が提供する避難所や暖を求めて、ただ事が足りる範囲で神に近づこうとするが、決して炉の炎には近づこうとしない人々が大勢いる。そういう人々は神の介入によってもたらされる暖みと慰めだけに関心があり、神を単なる一晩の宿泊所としかみなしておらず、彼に深入りしようとはしない。
さらに、その私たちとこの世が直面する混乱の原因を神に帰して、挑戦的態度を正当化しつつ神を全面的に回避し遠ざけようとする人々もいる。この様子については別のブログで、苦痛と苦悩を題材にした記事を投稿しているので、是非参照していただきたい。
しかしこの方程式の裏側には、ご自身に近づき出会わせるために神が敢えてトラブルの迷路におびき出した、正真正銘の選ばれた民がいることを確信している。
人が裏切られ傷つき、この敵意に満ちた世界に絶望しながら途方に暮れている自分に気付いて、人生の津波から自分を守り心の渇望を満たす事を期待する全能なお方が常駐する避難所を求めることで、このことが実現する。この種の気付きによって得られる謙虚さと感受性によって、これまで大勢の人々が悔い改めへと導かれ、自らの霊的な状態の真の有様に気付き、仮面を被り全てに満ち足りているかのように装いながら生きるより、自分そのものも含めて人生に何かが欠けていることを思い知らされている。自力で生まれ育ってきたかのような偏見に取り憑かれ、依然傲慢であり続ける者たちは、人間の非凡さを過大評価する錯覚に支配され自分を神格化する愚行を犯す。しかしやがてその姿を映す鏡が粉々に砕け散るときその態度が致命的であることが証明される。
最後に申し添えておきたい。私たちの人生における真の悲劇とはこの世で私たちが被る一時的な苦境ではなく、私たちが聖なる神に対して責任を負う道徳的性質に関した、永遠かつより重々しい問題である。私は決してあなたが直面している状況に配慮しないまま、その問題の重さを軽視しているわけではない。必要な時に応じて私たちを助けてくださる方も、「わが避けどころ、わが力、苦難のときの永遠の助け」である神なのだから。神に助けを懇願した人物が聖書には数多く描かれており、特に詩篇にはそのような聖句に満ちあふれている。しかし神が今まで私たちに与えてくれた「助け」の中で最も偉大で尊いものは、イエスの人格と業を通しての永遠のいのちである。
終わりに際して一言。神またはイエスについて、聖書が語る空腹の大群衆に食物を与えた話や、井戸の傍らで渇きが失くなるように最初にイエスに「助け」を嘆願したサマリアの女の話のように、「助け」を供してくれる一時の特典としか見ていない人がいるだろう。両者とも共感し得る喫緊な課題を抱えていたが、イエスこそが彼らの絶え間ない飢え渇きを真に満たす「いのちのパン」、そして「生けるいのちの水」であることを悟り得なかった。
あなたが唯一神のみにある、自分自身にとっての「助け」の源を見出すように祈りながら、締めの言葉とさせていただきたい。
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