神とは誰か?

確かにこれは私たちに与えられている問題としては大変重要なものの1つである。この神に関する認識のあやふやさにつけ込んで回答を提示しようとする宗教およびカルトが、この世界には非常に多く混在する。この課題の出現を受けて、私たちは全ての神観が等しく有効ではないということを確認しておくべきである。もしあなたに比較宗教学を学んだ経験がおありなら、神論において妥結不可能なほど大きく対立する宗派があり、納得のいく解決が得られないことは十分お分かりいただけるだろう。この場合、一方が正しくて一方が間違っているか、あるいは双方共に誤信しているかのいずれかであり、理論的な整合性から双方共に正しいとすることはできない。

東洋思想では混交主義および多元論的価値観が重んじられ、各支流が同じ真理の貯水池に至るように、全ての道が同じ現実につながっている。しかしこの度を過ぎた単純化はこの分岐を評価するという意味においては不実であり決定打に欠ける。むしろ1つの神観の貯水池から溢れ出た水が文化的背景を基に新しい水路を切り開き、そこを流れる過程で希釈および汚染されていくという喩えが適切である。類似した宗教の核や本質の部分を辿れば幾つかの共通項があるいは見つかるかも知れない。独立した1つの宗教でありながら他との共通性を認めるということと、キリスト教を仏教と同一化することとは別次元である。これを花に置き換えて見ると、有名な言葉にもあるように「飽くまで薔薇は薔薇(その本質は変わらないという意味)」であり、薔薇が菊になることはない。同じ神を別々の宗教的テーマのもとで解き明かす行為は、各宗教の独自性を崩しその宗教的世界観を非現実的かつ非個性的なものに貶めることになり、したがってお互いに根本的な違いがあることをここに認めなければならない。

たとえばもしもあなたが神の性質を特定しながら、ただ一つの定義と根本的原則を宗教に対して当てはめようとすれば、無神論、アニミズム、汎神論、多神論、有神論、理神論などに基づいた、数多くの目的論的相違に直面するだろう。

伝統的仏教に見られる無神論や古典的キリスト教信仰の代弁者たちによる有神論は、神観について相手との折り合いがつかず互いに排斥し合う。また悪魔崇拝はキリスト教とは真っ向から衝突し、キリスト教信仰において神聖と思われているものを徹底的に汚す。冒瀆的な黒ミサを開き悪は善であり善は悪魔などと告白しながら、人間の価値を貶める行為にその極みを見る。

類似性を説き宗教家たち全てが別々の宗教的主題に基づいて同じ神を崇拝していると考えたくなる気持ちも分かる。しかしこの道を正しいと考えあるいは語るのは、神を定義する上では理に合わないこの平等性の正体について、誤認あるいは看過していることの証拠である。ここでは人間について論じていることは分かっている。だが”類似点”に焦点を合わせた場合、身体の大部分が水から成っていることを鑑みると、私たち人間はその体質においてスイカと多くを共有していることが分かる。たとえ私たち双方が共通の起源を持つ生命体であるとしても、独立した物質として私たちをお互いから区別する相違点が間に存在する。例話にスイカを持ち出すのは馬鹿げてはいるが、宗教全てを調和させようとすることもそれに劣らず非現実な試みである。

私は宗教間に認められる幾つかの類似は、私たち全人類がある特徴を共有していることを示唆している。より具体的に言うとおそらく1つの神が存在し、その神が全ての人間をご自身の属性を持つ似姿に創造したゆえ、人間には普遍的な価値が認められるのだ。神という存在を一神論的に捉えようとすれば、そう考えた方が妥当ではある。だが遺伝子と知識を共有していることが必ずしも、人間が同じ神、あるいは神という概念を崇めることにはならない。聖書によればそれは人間の性質が堕落していることに起因しているが、この問題については新たに論じる必要のあるテーマであり、この投稿では割愛させていただく。

聖書的観点から言えば、私たち人間は知性をもって世界に鏤められた一般啓示から直感的に神を知ることができる。なぜなら私たちには良心と呼ばれる道徳的センスと、神についての包括的なメッセージを語り伝える被造の摂理を捉える認知能力が備わっているからだ。しかしローマ書の著者は、人が嘘っぱちの哲学および宗教に傾倒し不義に身を委ねながら真理を抹殺することでこの知識を蔑ろにしていると、その中の1章18節〜2章16節で忌憚なく語る。彼の発言は実に共感し得るものであり、まさに科学者、心理学者、そしてユダヤ・キリスト教的思想を持つ社会主義社に散見される傾向である。もしかするとこの世界の見事な調和や、人間が持つ精神の緻密さにつながる目的論を投影した圧巻のステージに最も近い場にいながら、その裏付けとして神の存在を認めようとしない輩がいることに、驚きを隠せないのである。偏見からの反抗に伴う思惑には、全ての事象を自然主義的に説明付けることに固執する私的な固定観念によって、人が新たな発見への敷居を跨げなくするような力がある。彼らは神という概念を形状学的な迷信の世界に歪曲しながらそれを信仰だと言い張りながら、二枚舌をもって熱く饒舌に説明の付かない仮説を真しやかに語りながら一方では神の概念を嘲っている。例えば私が臨死体験を扱った番組を見ていた時、その番組の最後にその制作者が番組を通して何を意図していたのかが理解できた。彼らは人々から死への恐怖を取り除こうとしたのだ。だが彼らは地獄を体験した人々が存在することについて説明できず、それは少数派または異例の体験として片付け、結局その放映時間の大半を天国の体験者ために割いていた。また彼らはそのような体験を脳内物質の分泌に帰そうと試みたが、自分たちの理解を越えたケースの体験者については回答を出すことが出来なかった。つまり、症例者が体験時に脳死状態であったにも関わらず自分の周囲を認知できていたケースや、盲人が初めて物理的実態の視像を持ったケース、さらに何の社会生活の経験も持たない幼い児童が自らの能力の幅を越えた内容について語っていたケースなどである。

人が科学のように、最も禁欲的な勤勉さを要求する学問からの偏見に屈してしまうなら、なおのこと哲学や宗教に関わる抽象的な概念によって欺かれやすいことは言うまでも無い。

人間には限界があるにしても、もし自らを内省しその動機を吟味しながら神への探求を始めることで幸先良いスタートに立つことができる。祈り心と謙虚さをもって神を尋ね求めるなら、パズルのピースが繋ぎ合わさって現実を映し出す1つの絵が浮び上がり、より鮮明な像を得られよう。

Josh McDowell

さらにもしあなたが躊躇わずに答えを掴もうという誠実な心でこの探求を始める気になれば道は開ける。あなたが自分の人生を委ねるに値するお方として神を信じることができるように、神は現実感に訴える形であなたに自分自身を顕されることを、私は確信しています。ここまで論じた結果私が思うに神こそご自身をあなたに顕し、そしてあなたが神を見出す事に関心を持っておられる。これは隠れん坊のようなお遊びなどではなく、神は自らの被造物との間に愛の再現を通じて成就する、親密な関係の構築を切望しておられるのだ。母が子に見せる世話と養育の行為に反映されるような、私たちに与えられている人間愛という賜物からも、そのことは容易に想像がつく。それは正に私たちのお母さんを創造した、愛なる神に帰属する人格の縮図である。

このブログでは出来る限りキリスト者としての主観を挟まずにおこうと務めているのだが、自らの信仰を前面に出さずにこの主題について深く踏み込んで論じることに限界があるようだ。しかし人はどこかで自らの模索を始めなければならないのだから、あなたには世界最大の宗教母体が依って立ちその信者の世界観の土台となっている、一神論的の見方をぜひ検討していただきたい。いずれにしても、あなたが他の宗教観との比較に取り組む際にはこの見解が1つの評価基準となるだろう。キリスト教界の株を上げる点については枚挙に暇がないが、その卓越性を可能ならしめている要素を1つ挙げたい。それは抽象的な宗教的思想に留まらず、私自身を含めその人生が劇変した甚大な数に上る人々の経験的な裏付けを持つ現実性である。

イエスについての私の証し
www1.cbn.com/700club/episodes/all/amazing-stories

キリスト教を考える上でもう一つ触れておきたいことは、不実には必然的に厳しい結果が伴うとする、誠実という価値観構造を原則として重んじている点である。それゆえたとえ偏見があってもそれは真理によって是正されるのである。とにかく学びを始める上で格好のキリスト教webサイトを幾つか紹介する。これらには他の宗教やキリスト教信仰に挑む哲学との比較検証にも役立つ豊富な情報も提供されている。

www.apologetics315.com
carm.org
www.probe.org

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またそれらに加え、文学、歴史、考古学、そして科学上の疑問について、信頼ある学びを行う上で有効に活用できる補足的資料があることを申し添えたい。このような問題に興味のあるかたは以下の私のブログへどうぞ。

日本人

この課題に対して各々の宗教的イデオロギーは独自の表現形式を固持しながらのぞむが、それら全てが正しいことはあり得ず、したがって必然的にいずれを選択することが不可欠となる。また真理とは私たち人間の移ろいやすさに支配されないゆえ、私たちが自分自身の要望にそうものを無作為に選び出すことは許されない。そうかといって私たちが至高の現実に対する意識を断ち切れない理性の生き物として、責任ある立場から退っ引きならない立場にある以上、私たちは現実逃避や懐疑的な不可知論を押し通す事もできない。

神とは私たちが深く掘り下げて語ることの出来ない、知られざるお方であるという考えは、私たち人間をその実像とは異なる全知なる者とみなす考えに等しい。

かといって逆に全てを理解する事を促しているわけではなく、同じ理由からそれも誤謬とされるべきである。しかし少なくとも、現在あるいは未来において神について何かを知ることができるという主張に関しては的を射ていると言える。

もしあなたがどうしてもこの冷笑的な姿勢から転向できないと言うなら、自らの人生の他の側面に対しても同じような懐疑心を向け続けるおつもりか?あるいは先を見越しながら何かを注意深く選ぼうとしている最中か?

このような辛辣な発言でこの回を閉じるのは申し訳ないと思いつつ一言。もし神が「いる」ならその事実を心に受け入れ根付かせる必要がある。特に神が私たちに命の息吹を与えたとしたら、私たち人間を特徴付けるための、何にも替え難い重要な資質となるからである。

エレミヤ書29章13節
13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

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