人間が神を創造したという憶測があるが、私が以前宇宙論および目的論的証拠と合わせて紹介した議論に基づけば、可知・不可知に関わらず全ての結果に対する第一の主因または動因である神こそが、生命の創造者であり起源である。
この偶然という命題を何の疑いもなく普通に神にも当てはめようとしているが、原因と結果の法則が基準とするのは私たちが把握しているところの宇宙の法則のみである。しかし、もし神がこの世界の枠外において存在しこの現実を創造しているなら、全能の神が時間と空間という基準または規則に縛られ、無力にもご自分が造り出した秩序に支配されるとは限らない。
このように神「こそ」全てに優る存在であり他の要因に支配される付随的な結果に成り下がるべきお方ではない。すでにビッグバン説や使用可能エネルギーの枯渇を訴える第2熱力学の法則に基づいて宇宙がやがて終焉を迎えることが証明されており、永遠の宇宙という概念を唱えた以前の科学的および汎神論的立場は支持され得ない。したがって非常に大きな結果を残す何かしらの原因が最初に存在したと考えるのが妥当である。 またこれと同時に、無限は数学記号以外には存在せず、また絶えず他の何かを方程式に加えながら増幅し続ける累積効果によって最終到達は妨げられ、実質的無限の不可能性が証明される。それゆえ最初の効果を生み出し、宇宙の形成と発展を開始した最初の原因が存在しなければならない。神秘的で神話じみた非人格的な生命力を尻目に、神こそご自身の目的と秩序を創造する行為者として、最も妥当な説明の付く存在である。科学は、反動と推測に過ぎない脆弱な定理によってこの有限説の鼻を明かそうと、宇宙人説をも含めた別の宇宙論モデルを考案することでこの緊張をほぐそうとしている。こうして理論を犠牲にしてまで自分たちの理想主義を貫こうとし、飽くまで時の被造物ではなく時の創造主である永遠の神への信仰を否定しようとする。.
宇宙に存在するものに全てに関する概念については、決して絶対無謬の真理ではないが有望と呼べるカール・サガンが提唱した推察がある。宇宙を神として拝むことは、想像上の生気の無い対象や哲学に真の支えと価値を期待しそこに権威と命を認め、木製や石製で人の型に彫った像を崇拝していた古代における異教の偶像崇拝と何ら変わりはない。この説は経験から確認できる中立的な真実ではなく、理想とする世界観に基づいて選択した好みであり、その範疇で人格の無い無作為な偶然という「アクション指定」への忠誠と心酔、および人格的なインテリジェンスデザインに対する一貫した敵意を表しているだけである。知性を持つ者にはレンブラントならびに現代アートに見る最高作品を創作する場合、キャンバスも絵の具も偶然には揃わないことが直感および本能で分かるように、この問題についても同様なことが言える。これは科学的手法というよりも魔術、神話、民話、迷信に等しい陰謀論である。
それにも関わらず、もし別の選択肢も説も提示せずただこの不可能性を宇宙にあてはめるように人間に強要しようものなら、それは有神論的世界観に対する敵意に支配された偏執的バイアスの越権行為に当たる。この無神論的見方は、科学が熱狂的に崇拝されて物質主義や自然主義が主および基準として全存在を支配する世界から神を締め出し、この無神論宗教への信仰を補強するためにダーウィン説という預言者を使用する行為に等しい。しかしこの件について最終的にはかりに掛けられ不足を指摘されるのは人間である。なぜなら神は魂を裁く最高権威の審判者であるからだ。
終わりに際して一言。あなたは「誰か」よりも「何か」が世界を創造したと認識しているかもしれません。またもしもあなたがあらゆるものに恵まれた人に敵意を向ける反社会的傾向をお持ちなら、その動機から、真理とはかけ離れたあなたの現実の立ち位置が見えてくるでしょう。あなたの幸福にとって支障を来すという理由で神という概念に嫌悪感を覚えるなら、おそらくあなたは中立的な研究に裏打ちされた確信よりも、恐れに支配されているのでしょう。
文献を舞台とした現実を根本原理とし、それに反する有神論をサイバースペース中の仮想現実に類する発明とみなすのは、科学よりむしろ空想科学小説的な発想である。
詩篇 90章2節
2 山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神
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