黒住教

教派神道である黒住教は、日本の新宗教カルトの1つに数えられる。もし関心がおありなら、この神道信仰の迷信および民間伝承について言及した私の投稿記事を一読いただきたい。

神道主義

黒住教の教えと価値観については、太陽でありかつ自然界の神々を従える女神、天照大神が憑依することで、天と一体化するという主観的な体験の持ち主として、自分自身を神聖視する教祖の黒住宗忠の自我自賛的な態度と重なる。
教派の設立当初、神秘的儀式を伴う魔術からの病気治癒にフォーカスしていたが、その後次第に一般的道徳行為による救済をモチーフとして強調し始め、健康や経済的繁栄に関わる教えに専心しながら徳を養うという、実利的な教義へシフト。皮肉にもそれは教団自身の信仰体系である自我忘却と相矛盾しているように思える。

この宗教は、人生上の試練や患難に甘んじるような運命論的観点に立ちながら、一方では他人の幸福に貢献することを要求するなど、哲学的な自己矛盾を孕んでいる面で批判の的とされてきた。前者に基づいて自らの人生に起こる状況や運命を受け入れ、その克服に励むことを諦めてしまうなら、後者を全く無に帰してしまう結果となる。信者を繁栄のご利益に向けて邁進するように鼓舞する一方、封建制度の最下層に置かれ、人生の定めを容認する以外道が無かった平民たちと同じく恩恵に恵まれない人たちを宥めなければならない。この方程式の両サイドを都合良く釣り合わせようと苦心した結果と思われる。

この現実を変えることもできずにこの厳しい現実に対して消極的に臨む人たちにとっては自分の思考を支配し、逃避・解放型のマインドセットに自らを投じながら物質的平等をあきらめつつ、必然として訪れる境遇に左右されないはずの真の幸福をもたらす霊的力に望みを馳せることしかできない。

しかしたとえその仕組みが有効とは言え、現実との相互関係を要さないこの対処法は、およそ薬物のようにただ一時的に現実の苦々しい感覚を鈍らせるに過ぎない。当団体が「持つ者と持たざる者」という対照的な立場の間に横たわる緊張の緩和を試みながら、自らの正当性についての確証と権威を何とか保ちつつ存続してきたことは明白である。こうして全信者をそのサクセスストーリーに取り込むことで破綻を免れてきたのである。

それゆえ個々のケースはどれも、人生の苦境の最中、幸福感いっぱいに欣然と心や態度に変化を起こすか、あるいは風を追うように非現実的な夢物語を追うことに終始するかのいずれかに該当する。いずれにせよ未来を展望させることで希望を与えることができ、「キャッチオール」を果たすことになる。だからといって冒頭で私が問いかけた質問への答えにはなっていない。御陽気修行または御日拝とも呼ばれる奇妙な呼吸法を伴い、太陽光を飲込むことをイメージしながらの儀式を行いながら、一体何故そこまで遮二無二ご利益を追求しなければならないのか?変化にも現状維持にも不平をこぼさずにそれらを受け入れ、分に応じた生き方に人事を尽くすような人生観と、全く矛盾していると言わざるを得ない。

さらに、真摯かつ熱心な信者を抱えているなら、なぜ報いに与る者とそうでない者とに分断されるのか理解に苦しむ。もし脆弱な者が頑健に、そして頑健な者が突然病気に掛かったとしたらどう答えるつもりか。このような問いに対しては、与えられた人生において病気にも健康にもなり得、同様にボロから金持ち、あるいはその逆もあり得るという詭弁しか成り立たない。この団体のセールストークによれば、その途上で何が起ころうとも、人生の結果は信心による超越的力によって最終的に決まるそうだが、私にはそれが非現実に思えてしかたがない。私たちは必然的に人生の津波や地震の中をかいくぐりながら、人生の終局には若さの泉を枯渇させよろめきながら衰退の一途をたどり、少なくともいつの日か必ず肉体的寿命を迎えるのだ。それゆえ、この団体は他のカルト宗教にもあるような特定の価値観または美徳の実践以外には、本質的にいかなる現実も可視的なご利益も与えないまま、人生の答えを握っているかのような幻想を人々に抱かせるのだ。

彼らの持つ存在論的な問題に焦点を移そう。この宗教グループは神と共にあることを本質的なアイデンティティとする。しかしその根底には、別個の存在として神と緊密に関わるというよりも、神の投影的存在であるという自負が強調される。確かに聖書は、全ての被造物に対する優越性を認められた者としての栄光と尊厳を、神をイメージして造られた人間にも認める。しかし理性、意思、道徳心そして自意識などの感性を備えるという意味に限って、創造主である神を反映しているに過ぎないのだ。

もし人間にこの教団が主張するような極めて親密な連帯性を認めるとすれば、第一に完全な神と比較しても分かるように、私たちがその神から離れて道を見失ってしまった理由をどう説明するのか?神が道徳的に優れている一方で人間がその性質を損ねているのはなぜ?私たちの善い行いや働きへの微々たる努力では、実際に私たちが神と「一体化」するための徳を積むことはできない。私たちは本来、著しい道徳的な機能不全に陥ってしまっているからだ。たとえ周囲の仲間たちと比較して若干良心的であることを自負できても、一瞬たりとも完璧ではあり得ずに罪責感や恥の感覚を消し去ることはできない。そのため神の持つ神聖さの域には決して達し得ないのだ。

さらに永遠に関する彼らの教義に対しても一言触れさせていただきたい。宇宙に衰退に伴い利用可能なエネルギーが失われているとする、アインシュタインの相対性理論に基づいた熱力学の法則によって指摘され、さらにハッブル宇宙望遠鏡による物理的な証拠が裏付けるように、被造物すべてに世の起源の存在が反映されている。結果として、宇宙が永遠なる存在であるとする従来の定説の非信憑性を揺るがないものとした。

永遠の存在である神が、必然性と純粋さから離れ不安定で他に左右されがちな存在へと変容し、統合失調状態になりながら一時の訪問者としてこの地上の世界に降ることが果たしてあり得ようか?脆く、無知で、限られた枠組みの中でしか生きられない人間が、全知全能かつ遍在的な神の化身になどどうしてなれるのか?したがって、私たち人間が一過性の存在として世に生まれたことを支持する方が、永遠の彼方からの存在と信じるよりもはるかに理に適っている。非統合的人格に起因する精神状態にある人間が、統合失調とは唯一縁の無い創造主の一片または一部になれないことは一目瞭然である。

哲学的に言えば、もし二つとない絶対的存在である神が自分自身を別の主体に複製すれば、創造主であると同時にそれよりも劣った被造物に成り下がり、その結果、神は存在しながら同時に存在しないお方になってしまうのではないか?その時点で神は存在することを止めてしまい、完全さを失うことで分断可能となり変化を避けられなくなれば、完全さとそれよりも劣った部分が同時に内在してしまい、必然的に無矛盾性の原則に背く結果となる。神は本来、唯一無二の存在であることを考えると、神の役を担おうと自分を神格化する者が数人同時に存在すれば、それは霊を欺くことで自分自身を貶めることに他ならない。

男女の肉欲的な性行為によって生み出される私たち人間は、いくぶん虚ろで不完全な存在であるとする物質論的な見方に対して、あなたがた教団はただそう見えるだけで実質は異なると主張しながら反論する。だがこの論法に基づいて自分たちの日常生活を見れば、そこには一貫性も永続性も無いことが分かるだろう。また他宗教の考えと同様、十分な省察を伴わないただの作り話であるとする自分たちへの評価についてどうお思いか?さらに神が私たち人間を欺きながら、嘘と言った方が相応しい見せかけの妄想生活を営む場として私たちに仮想現実を設けたとする考えは、あまりにもお粗末ではないか?根本的には、神が完全無欠以外の、あるいはそれ以下の存在に成ることはあり得ないと強く断言できる。他からの証明を要さない自明の現実は、私たちの有限性をもって理解することは不可能である。たとえ特有の知的能力によって優位な立場から世界の奉公人として仕えることはできても、それで神となるための資格が備わることにはならない。自分たちを神格することなく、有限で別の実質さを備える存在として、私たち人間を見る方がはるかに妥当であるように思える。

さらにもしあなた方が本当に自分を神だと信じているのなら、なぜ崇拝の対象を神道の神にまで拡大する必要があるのか?自分自身を神格または神の化身と自負する者にすれば、本来崇拝の対象は自分にあるとした方が理に適い、自己矛盾は生じないはずである。なにゆえ自分自身よりもさらに向こう側に何か究極的現実を見ようとするのか?永遠の彼方から既に存在する神の心を解放しながら自分自身の外側よりも内側に目を留めれば良いのではないか?言うまでも無く、私たちは現在過去未来においても決して達し得ない超越的な存在への渇望を内に宿している。その生まれ持った性質から、ほぼ全ての人々が本能的かつ直感的にこの考えを拒絶するのである。

私たち人間は被造物としてごく限られた存在である。たとえその内に備わる人間性によって、生物学的特性を越えた非肉体的な精神の存在が私たちに現れても、それが必ずしも私たちに神格化を認めることを意味しないのだ。
ここでもう1つ私が疑問に思う、肉体的および生物学的機能からの分離を伴った死後に関わる視点について触れたいと思う。そのため、自らの患者に起こった出来事から、天国と地獄に関するキリスト教的世界観に合致する現実を受け入れた、元無神論者の医者による証言と実証に基づく映画を紹介しよう。永遠に関わる重大な視点と適用を得るために、是非この映画をじっくり鑑賞していただきたい。

最後、この宗教運動の求心力についても疑問を隠せない。実質、他の零細グループ同様、宗教マイノリティからは脱し切れずに停滞もしくは衰退の方向へ進んでおり、世界中の人々の人生に影響を及ぼすには至っていない。かたやキリスト教は3人に1人がクリスチャンであると言われるほど世界中にプラス面のインパクトを残し、しかもそこには含まれない世界2位の数を誇るイスラム教徒の中にも、イエスの人格および働きに敬意を表する者がいる。聞いて驚くかもしれないが、キリスト教はアジアに起源を持ち、その後西洋全土へと伝わった。そして現在、それが巡り巡った結果、自国文化に代々伝わる悟り信仰では見出せない答えに飢え渇いている、愛するアジアの大勢の友人にもとへ舞い戻ったのだ。つまり神はどの大陸および島よりも巨大であり、その神を矮小化し選ばれた少人数の中に閉じ込めようとすれば、宗教的な献身のあり方を繕うことに気を奪われてしまう。

この団体はその教義の要求に応えることはできないというのが、私の個人的見解だ。なぜならその拠って立つものは、 「宇宙の創造主」であり、また「唯一真の神」であるイエスの人格および働きのまがい物であるからだ。イエスこそが「世の光」として神格を体現する者であり、聖霊の内側に満ちあふれる臨在によって、信じる者すべてに永遠の命をお与えになる。

この回を閉じるに当たり、これまでの私のコメントが必要以上に皆様の気持ちを害していないことを願います。私は皆様が霊的な現実との結びつきやつながりへの熱心さと願望に、敬意を表したいからです。私が挑む相手とは、生きた神よりも悪魔的現実との関わりへの扉を開く実体の性質であります。悪魔はあなたを欺き魅惑に満ちた好奇心をあおるもので誘惑した挙げ句、私たちを神から断絶させることで喪失状態ヘと陥れることに精を出します。その悪と破壊に満ちたその性質に気付かないまま、悪魔を喜ばせることになるのです。

最後に、私は懐疑心や悲観主義を共有するために声を張り上げているのはありません。皆様には真理が導く現実に心を開いて従う、あるいはより探求する意思を持つように自分を仕向けていただきたい。神は道徳的な良心という自然啓示だけを与えて、私たちを放っておくことはしません。むしろ特別かつ中身が豊富な啓示により、神に依拠しながらの個人的な関係を通して、真理の全てを悟る道を私たちの前に開いて下さったのです。つまり、もし命をかけて神を信じる意思があなたにあるのなら、神は道徳的な弱さや欠如から解放することができ、またそれを実現なさることについて念を押したいのです。神はご自身を熱心に慕い求める者に、その義に相応しく報いるお方であります。それは神に至る道を自分で切り開こうとして努めるような敬虔な行いによってではなく、あなたの罪による責めを担い、それを永遠に取り去ったイエスにおいて、申し分無く人格化された神から贈られる永遠の命をただ受け取れば良いのです。

この回を閉じるに当り、あなたに1つお尋ねしたい。現代が抱える重大な核の脅威のもと、もしかしたらあなたは厳しい労働や勤務に疲れ果て、与えられた約束に惑わされ、さらに社会の秩序や調和の中で生きることに精魂を使い果たしながら暮らしているのかも知れない。そんな皆様のために祈らせてください。嵐の最中、あなたに手招きを送るイエスに近づき 彼の中に安堵と完全なる心の満たしを見出すことができますように。

マタイによる福音書11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

私が切に願うことはただ1つ。あなたが黒住教に心を開き信仰の意思を抱いたように、自分の心と人生をイエスに委ねることができるように、現実的かつ肌で体験できるような方法で自らを顕現してくださるように真摯に求め、王の王、主の主であるところの至高の支配者としての主権をもって世を治める、真の受肉した神の子イエスと霊的に結び付きを体験されることです。聖霊を与える命の息吹を主があなたの内側に吹き込んでくれることを祈りながら、この回を閉じさせていただきます。

ペテロの手紙第2 1章3〜4節
3 主イエスは、ご自分の持つ力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちを御地震の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。4 この栄光と力ある業とによって、情欲に染まった、この世の退廃を免れ、神の本性に与らせていただくようになるためです。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

黒住教の資料

Kurozumikyo

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5267-5268 , Hirota Masaki

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.7, pg.44, Kurozumi-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

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