快楽主義は幸福の源?

私たちの文化では「快楽を得る」ことが持て囃されている。快楽主義とは、このキャッチフレーズをその価値観ごと包み込んだカプセルを、快楽が成功や満足のツールとして売られている消費者中心のファンタジー世界に詰めることを指す。

この衝動主導型ライフスタイルは物質主義の王道を意味する。アメリカには「最もたくさんのおもちゃを持つ者が人生の勝者である」という諺がある。人の価値観や欲求が、物や富の蓄えに対する執着につながることを示唆するものだ。

この哲学の傾倒者は自らの信念に従い、日常生活全般にわたって体験や好色の貪りに執心しがちになる。 快楽主義は仕事、セックス、ドラッグ、娯楽、物質主義、知識、または苦痛を最小限にするか、または回避しながら、快楽のユートピアを味わえるような物すべてに潜んでいるのだ。

快楽主義者曰く、苦痛は回避すべき敵だ。しかしこの世界で生きる限り苦悩を避けることは不可能である。それゆえ快楽を最大限にすることで必然を回避しようと試みれば、快楽主義を現実逃避主義の一形態に変えてしまうことになる。苦痛を遅らせることは可能でも排除することはできない。私たちがどれだけこの死神を食い止めようと足掻いても、早晩、必ず我々の前に現れるだろう。

快楽主義が破滅的であると言われる要因の一つは、それが目標達成のために他人を傷つけるようながさつさにある。心に浮ぶみだらな欲求を支えに、自分を神の位置にまで高めてしまうような混じり気の無い自己中心さがこの精神の根底にある。私たちの間では「お人好しが馬鹿をみる」と吹聴される。そう考える人にとっては、社会の犠牲を省みずに自分の欲望すべてを満たすために先を争うことで頭がいっぱいなのである。

罪深い人間の欲情、好色に満ちた目、所有や行いによる慢心を約束するエデンの園にある禁断の果実には、常に犠牲を孕んでいる。その犠牲は神との断絶にまで発展し、やがて最終的に死の宣告を意味することになるのです。

今日私たちの社会では、この犠牲が非常に現実味を帯びながら個人化している。宝くじ当選者が全てを獲得した後で全てを失い、セックス体験を誇る人が性感染症やエイズを発症し、出世欲に取り憑かれた人々が“ワーカホリック”と呼ばれながら、ある日退職あるいは失職した後で燃え尽きてしまっている姿を見ます。また同じ程度の「快感」や効果を得るために投与量を増加せざるを得なくさせる性質によって、「ハイ」な気分を求める人々を虜にする薬物依存もその良い例だ。

中毒化した欲望から生ずる止まない空腹痛を抑えるための、新奇な体験への飽くなき探求は真の「欲求」解消のためのメインディッシュを先延ばしにするような、その場しのぎの前菜にしか過ぎない。これは快楽の問題全てに該当する点である。実際、それは到達しない人間を欲求不満に陥らせるか、または到達した人間が飽きを覚えるような、自分の妄想や空虚話を追いかけることを意味する。

幸福は一過性のものであり、さらに環境が影響することも少なくない。ジェイクミラー(アメリカのポップシンガー)の言う「ハイライフ」という究極の「呼び音」に応答して、その中にひたすら詰め物をすることで心酔できる幸福に、多くの人が価値を認めます。しかし、ほんのわずか数時間後には苦痛の現実に戻り、ちょうどしらふになった時の二日酔いの気分を味わうのが関の山だ。

そこから何かを学ぶのか?答えはノーだ。その道しか知らないゆえ、後には引けなくなるくらいまで深い轍にハマってしまいながら、それでもなお再び「荷馬車」へと戻っていくのです。

しかし幸福は本質的に瞬時に過ぎ去りなおかつ間断的に訪れるため、一挙に全てを捕えることは不可能である。それは最後には止まることが決まっていながら、起伏の激しいサーキットを疾走するローラーコースターに喩えることができよう。制御することを覚えないと、同じ生活サイクルを繰り返しながらその儚い爽快気分を再体験しようと、再び乗り物に駆け込むという悪循環に陥ってしまう。

では、ある快楽から別の快楽に移るという狂気沙汰じみた究極のアドベンチャーへの探求はどこで終わるのか?不幸にも行き着くところまで行き着かなければ終わらないケースが大半をしめる。だが、なす術も無い惨めな人間にも、この快楽主義人生という遊園地の外に希望が用意されている。

私たちは快楽主義が自滅に至ることを理解していながら、その欺瞞を見抜けずに人生を送ってしまうものである。私たちの人生は快楽を追求することでその現実を見出せるようにはできていない。むしろ愛・喜び・平安といった絶えることのない永続的な内面的価値にこそ認めることができる。この源泉はこの世のシステム中には存在しない。神を抜きにしながらこれらの徳を虚飾に満ちたライフスタイルと比較するなら、まったくの的外れと言わざるを得ない。

神が支配する世界では、厳しい困難、試練、苦悩の最中に体験できる、内面的な性質として喜びを位置づける。平安は嵐の中の静けさを指し、愛は止めどなく溢れ出る泉のようなもの。私たちはキリストにあって、語り尽くせないほどの栄光に満ちた喜びを味わうことができ、人知にまさる神の平和を得られるのだ。

人間の自己実現や快楽への探求という肉体的欲望に浸りながら、あらゆる束縛から解放される道を模索した、伝道者の書の「伝道者」こそ快楽主義者の極みであった。彼の欲求を満たすために必要な手段を駆使し、その時代を通して太陽の下で行われる人間の営みを観察した結果、その書物の冒頭で示されるように「なんという空しさ、すべては空しい」という結論に達したのだ。

富や名誉を好む志向が打ち砕かれているにも関わらず、未だに快楽主義者たちがこのようなライフスタイルを喧伝し続けるこの時代、この伝道者の言葉は真実味を帯びながら鳴り響く。快楽主義のライフスタイルは全くの嘘かあるいはごまかしであり、「自己達成」という仮面を被りながらエデンの園に現れた蛇のように私たちに忍び寄るのだ。

私たちはアメリカ人として現代社会が生み出す便利さや贅沢さの全てを享受する特権に与っている。この21世紀に私たちが持てる量は、人類史上99%を占める過去の世紀の人々のものより遥かに上回っているのだ。それにも関わらず今でも精神病棟や刑務所が存在し、医療スタッフは必死に過剰医療の人々のニーズに応えようとしている。この文明の進化論に酔いしれながらの幸福の追求に終止符を打つべきではないか?

私は、幸福が子供染みた自己中心的な満足感から得られるものではないと確信しています。幸せにはなれないという宿命論的人生観を持ち出し、人生の早い時期にそのレールにハマってしまう人がいます。そんな彼らにとって死は人生の苦しみから逃れるための合理的な選択であるのかもしれません。その他、そのレール上でただ「虹の彼方に」を歌い、やがて夢の実現に行き着くというおとぎ話を想像している人もいます。
「幸福」という枠に納まった人生は多くを約束しますが、最後にはあなたを孤独、空虚、破産に陥れ、または拒絶を味わい快楽主義の神々との共依存を深めていく中毒者となるでしょう。

人がなし得る業の全てに思いのまま耽ったあと、伝道者の書の著者は万事に関する目録を作成し、人は神を恐れその戒めを心に留めるというその本文に勤しむべきであると説きました。この人物はその人生を通して、人間の栄華を極めた知恵の体現者という地位を得たのです。

知恵者であるこの「伝道者」の招きに応答しますか?あるいは飲み食いについての歌詞をメロディにのせて歌う愚者の歌に心酔しますか?それとも死にゆく明日を前に思う存分快楽を堪能しますか?たとえ蛮行によってある程度幸福を得たとしても、最終的に聖書は罪から来る快楽が儚いことを警告します。しかしこれとは裏腹に、「今、この時」、もし神から下る富を享受するなら、未来永劫に続く非常に価値のあるものが得られるのです。
神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Does hedonism promote happiness?

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