神は何処へ

天変地異とも思える大災害を想起しながら、「神は何処に」と疑問を抱く者もいるだろう。苦痛および苦悩と悪との関わりを題材にして投稿した記事があるので是非ご覧頂きたい。

Pain, Suffering and Evil


また、その純粋な性質について論ずる神の存在論という観点からこの問題を捉えようとする者もいるかも知れない。この見解によると神は遍在であり、かつ体現されない霊として描かれている。つまり神はその普遍性から、私たち人間が支配されるような時空による制限を受けない。この概念が神を全世界の一部とみなす汎神論と混同されるようなことがあってはならない。むしろ神は偶発的に起こり得る自然的および物質的な現象とは完全に分離・独立した位置にある。彼は世界をご自身の臨在で満たすお方だが、本質的に世に属してはいない。

より厳密に言うと、この問題に関して人々が本当に知りたがっていることは神が本当に存在し、さらに神が人格を有した存在かの是非である。これについては哲学的なアプローチも可能だが実用性を考慮して経験レベルで議論していこうと思う。

まず神はご自身を顕現なさる上で幾つか異なる手段をお選びになる。その中でも最も初歩的かつ主たるものは、創造された宇宙の摂理や理性的および道徳的意識を通してご自身を全てに知らしめる、普遍性と一般性に訴える方法である。

ローマ書 1章 18〜20節
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

詩篇 19編1〜4節
2天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
3昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
4話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
5その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

ローマ書 2章14〜16節
14 (たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。) 16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

2番目に、顕現など人の五感に訴えるような神の徴を通して、特別な啓示に遭遇するといった特殊な場面や希有な方法も確認されている。 これこそ私が嘗て少年時代に経験したことであり、他にも夢の中で経験した証を持つ者がいる。この夢を通して起こる現象は、そのダイナミックな出会いを経た敬虔なイスラム教徒をして、イエスへの信仰に回心させたほどの力強さを誇る。

More than Dreams Videos


また私にはイエスとの関係を拒否していたユダヤ教の友人がいたが、彼女が最後に息を引き取る前の数ヶ月、彼女は入院中に数回に亘ってそのような経験をしたと語っている。

A testimony from a Jewish friend


臨死体験の最中、神の顕現を目の当たりにしながら天国と地獄を肌身で触れた人々もいる。その1人である医者が自らの経験を語った証言ビデオを紹介しよう。

それに加え私には臨死体験を持つ2人の親しい友人がおり、非常に生々しくその様子を語ってくれた。

最後に、神があからさまにご自身を顕現するために選ぶもう1つの方法を紹介しよう。それは契約の民である教会において体現される人間イエス・キリストを通して適用され、あらゆる職業のクリスチャンは考えもせずにある宗教の信条告白を唱え受け入れる人々とは異なり、自らの信仰に確証を与える個人的な証を持っている。私のこの道の確固たる信用性を打ち立てる上で有益な様々な人々の証に、私の家族のものも含ませていただいた。
イエスについての私の証し

My wife’s testimony of Jesus

www1.cbn.com/700club/episodes/all/amazing-stories
イエスの信憑性を検証できる道は他にもある。それはイエスについてご自分が成就なされること全てを、神は予め預言者たちに啓示しているという事実である。聖書に見るイエスの働きについては、彼がイスラエルの地に片足を踏み入れる何百年も前に既に語られていた。このような聖句の幾つかはお互いに一致してはいても同時発生的に筆記されたものではないため、人為的な操作によって成就させることは不可能であった。したがって癒しと奇跡を含めたイエスの生涯と死の性質を、彼の伝記と辻褄が合うようにでっち上げることが出来なかったのである。神は預言による啓示の論理と知性によってイエスの神としてのアイデンティティを確立しさらにそれを追認し、単なる宣告に終わらせなかった。これは神秘主義の信仰対象とされる抽象的概念ではなく、信じる内容の現実性を証言する具体的な証拠に基づいている。
www.bibleprobe.com/365messianicprophecies.htm
またイエスは井の中の蛙ではなくその奇跡が無数の人々によって目視されていたにも関わらず、それを受け入れない人たちもいた。当時の懐疑論者たちは決して回心に至らず、既に出ている経験に基づいた証拠からは確信が得られないまま、常に新しい徴候や定説を探求し続ける私たちの時代における科学者の一部と重なる。驚くべきことに、史的イエスに対しては何ら傾倒を示さないタルムードにすら、否定し難いイエスの活動の信憑性をほのめかす古代のユダヤ教徒たちによる文面が残されている。因みに彼らはイエスの霊感を魔術によるものと誤認していた者たちである。

さらに神によるご自身の顕現に関する疑問に触れる際に留意すべきことは、神はただ私たちの知的好奇心に応える目的でそれを為さらないということである。原則として神は、人にご自身を神として認め受け入れさせるというより厳密な目的をもって自らを啓示される。神がその全容が明かさないのはご自身の権威によるものである。福音書内のイエスの伝記を見ると彼が幾度にも亘って身近な自然の法則または情景を引き合いにして、たとえ話を用いながら霊的な現実について語った事実が描かれている。これは福音という光を照らしながら天啓を教示・伝達するために用いた常套手段であり、同時にメッセージを信じようとしない者たちから覆い隠す上でも有効であった。

イエスがこの真理のメッセージ伝えるために採った方法は、神がご自身を顕現するのに採用する方法と全く同じである。その恵みは人が御国の不思議さを知りながら、様々な啓示を直感的に感受できる状態下にある場合がほとんどだが、一方で聞く耳を持たない者に降り注がれる場合もある。これは神が恵みによって直接的に介入し信仰の目を私たちに与えることで、私たちが神の啓示に反応することができるようになってこそ実現する。「あなたはメシア、生ける神の子です」という有名な告白を残したペテロと、それに対して「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と返答したイエスとのやり取りがそれを象徴する。私たちの自身の自発性ではなく不動の確信を与え確固たる信仰を約束する聖霊の働きを通して、私たちを御許へ引きつけることでご自身を顕現するのは、神の特徴的な方法である。

他にも聖書に記録される神からの実在的証明として、イスラエルの子孫たちがエジプトで見た奇跡や荒野を巡る道中で受けた天恵による手厚い加護が挙げられよう。そしてそれにも関わらず彼らは不満と偶像礼拝に堕したのである。壮大な脱出劇によってエジプトの地から出てきた彼らではあったが、その夥しい大共同体のうち僅か2人を除き、神から約束された聖地への入植を果たすことができなかった。その昔預言者エゼキエルが見た「渇いた骨」の幻の成就を意味し、今の時代への奇跡的介入を通して今まさに起ころうとしている現代イスラエルの新生を通して証言されるように、エジプトを出たイスラエルに起こった出来事は今日にも当てはまる現実である。残念なことに、この話を耳にした多くの人々が世俗に浸ったままである。つまり「見ること」が常に「信じること」を意味するとはあ限らないのであり、神に従う信仰を保証することにはならない。
www.bibleprobe.com/angelinlebanon.htm
ここであなたに問いたい。「神は何処に」というあなたの質問が、「実物提示教育」的な顕現をカモフラージュとして要求し何とかして不信仰を正当化しようとする、神に対しての否定的態度に端を発してはないだろうか。もし仮に神があなたの訴えに屈して今日あなたの前に現れた場合、果たしてあなたには誠実に神を主および救い主として受け入れる意志と用意があるだろうか?自分の動機に関するあなたの正直な答えが、神があなたの要求と期待に応えなければならない理由に関する、あなた自身の考えを反映することになる。結局、これこそあなたが現実に、そして個人的に神を知ることを妨げていた大きな障害であったのかもしれない。神がある特定の範囲内で語り、そして啓示しているのだから、その神に出会い神を知る上で私たちの能力は大して大きな問題にはならない。むしろ私たちに問われるのは、修辞的技法で凝り固まったアンチゴッドの決まり文句に波長を合わせ傾聴したり、あるいはメッセージの混じり気の無い受容を妨げる社会的または個人的な固定観念や、偏見に満ちた思い込みに影響されたりする態度である。

私たちが子どもの時分ウォーリーを夢中になって探したように神を必死に探すならなら神を見出すことは難しくありません。ただ探す気がないだけで神はウォーリーのように絵の中にいるのです。

今日、もしもまだ神を信じる用意ができていないなら、少なくとも私が語ってきた意見の是非を考察し、私の以前のブログも参考にしながらより深く調べる姿勢を持ってみてはいかがでしょうか?
日本人
神は自然、良心、預言の成就、そして現代の癒し、奇跡、幻、夢など経験的な裏付けのある超自然的な領域によって、神は理性的にご自身を啓示される。しかしより重要かつ確かなことを言えば、神は人なり私たち人間の生活の場に住まわれ、最終的に聖霊という慰め主を送り信じる者の内に住まわれるイエスを通して、個人的かつ親密にご自身を知らしめる。では、私たちが天国への凱旋以外に求めるべきことは何か?

神があなたの心を開き、あなたにイエスの人格と働きに関するご自身の持つ真理を啓示していただくように、是非あなた自身の簡潔な言葉で神に祈っていただきたい。

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Where is God

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