四つの霊的な法則
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奈良は日本の歴史を構成するある一つの時代を指すだけでなく、この動きに関連した倶舎宗、成実宗、三論宗、法相宗、華厳宗、律宗など、様々な仏教の流派をも指します。
もともとこれらの宗派は、大衆や一般の人のために意図されたものではなく、主に国家と皇族の保護という特殊な関心と目的のために、政府によって庇護されていました。これらの宗派の教えの本質的側面を構成する宗教的な要素の多くは、小乗、大乗、双方の信条を中心にしています。私はすでに小乗の原理と傷み・苦しみの概念について他の箇所でいくらか書いてみました。その問題に関して網羅したわけではありませんが、これは人間の苦闘の一幕における葛藤に関して、いま一つの資料となるかもしれませんし、新たな側面を投げかけてくれるかもしれません。
これらの宗派で論争の的になるのは、何を知り、いかに知り、いかに知られ、何をするのか、認識論理的思考の擬似科学的方法に基づいて現実をどのように認識するか、あるいは達成するかの標準の基となる多様な仏教思想観です。一見すると、それは知識への公平なアプローチのように見えますが、それは仏教の枠組みに収まり、あらかじめ形成された偏見や世界観によって特定された現実に順ずる場合のみであり、必ずしも真実ではなく、むしろただの好みにすぎないのです。
また、歴史的仏教を構成するものの多くは発祥地インドからのもので、そこではたくさんのヒンズー教の指導者や教師が人生の答えを持っているとして常に真理を主張しており、仏教も、インドの多神の神々と同じくらい無数にある思想の中の、ある一つの可能性にすぎないことになります。これはアテネ規模の選り好み社会文化を形成し、真理を包括しているとする最新の偉大な思想に関する気まぐれな思いつきや恐れを個人的なものにするために神々を神話化した古代ギリシャの文化に大変よく似ています。それは、いわばこの世の、またはこの時代の知恵であり、巧みに無知を利用された人間の愚かさや軽率さと同等のもので、あまりにも賢くなって無意味になってしまいました。抽象的な思想や思考のすばらしさを提することは、それが正しいということではなく、まして数値統計学者の想像の中だけに存在する数字の無限集合を提示するという数学的な理想ほども妥当で根拠があるものではありません。 さらに、多くのこういったいわゆる哲学者の神秘さとその神秘主義的な教えは、それが道昭と魔法のやかんであれ、龍樹が伝説の蛇の霊の地より「完全なる智恵」を受けると共に、自身の寿命を延ばすための力を得たという聖人伝記の伝統であれ、アサンガが兜率天に昇り弥勒菩薩の教えを受けたという作り話であれ、それらは伝説や迷信から生じています。アサンガの寓話では、弥勒菩薩が閻浮提(えんぶだい)に降りてきて、一連の教えを与えたことになっていますが、多くの学者たちは、その結果できたとされる瑜伽師地論(ゆがしじろん)は弥勒菩薩の仮想上の歴史的特徴とは一致せず、むしろ瑜伽行唯識学派の学者たちによって集成されたものであろうと考えています。
これらの集合的な物語がこれらとっぴょうしもない話になる際に他の人々によって偽造されたのと同じように、それらが生み出した哲学的な凝った思想も人間の想像の産物であることに違いはないのです。
仏教思想を支配しているものの多くは、人間の苦しみの状況や葛藤、そしてその主目的である、この概念を根絶すること、あるいは涅槃と霊的悟りへの探求に信仰者を導く可能性を中心に展開しています。苦しみや葛藤を、精神状態であるとして、単に人間の無知の錯覚による考え、あるいはせん妄であるとするものがありますが、問題を内因的に取り扱っているので自己陶酔的、自己没頭的であり、それが人間社会にもたらす影響を効果的に取り除くためには実際何もできないのです。その論理に従えば、原因となる使役主は本質的に存在せず、非現実のものであることになるので、それらの作因を取り除くという実践的関連を無視することになります。しかし、このような哲学や信念はそのように生きることもできないし現実でもないので、皮肉にも、ほとんどの人々の活動とは矛盾しています。これはちょうど、すべて一見外的に映るものは単に精神的象徴であるとして、人生の本質が何らかの幻想的なマトリックスにあると暗示するような不合理な発言によりその見解を示して倶舎宗の思想家に影響を与えたインド哲学者の世親のようなものです。ここから、すべてのものは、単に現実を欠いた名称であり、人間は自我や世界が現実のものであるかのような錯覚に包まれているが、どちらもそうではないとして、成実宗派間で影響を与えてきた訶梨跋摩(かりばつま)の哲学も思い起こされます。 訶梨跋摩はまた、過去は存在せず、未来は実現しておらず、現在は瞬時に消え失せるとまで言っています。したがって、継続感は幻想であることになります。過去が存在しないのであれば、訶梨跋摩の過去も教えや哲学もそのうちに含まれているのでしょうか。また、現在にも未来にもを実体を持つことができないのなら、この幻想の影響者を信じることに何の利点があるのでしょうか?
これらの哲学を適切な視野で見ると、私はかつて、ある現代インド人が、インド人でさえ道路を横断する前に左右を確認すると言うのを聞いたことがあります。というのは、みんな経験から車両の質量が人間の脳の大きさを上回っていても、論理が優先するとわかっているので、そのような哲学が現実には致命的であると安全に判断し、哲学者による路上轢死の被害者になる可能性を回避できるからです。
次に、龍樹という名のインド哲学者とその三論宗派に影響を与えた教えから来たとされる、その時代の知恵の哲学的集大成をみていきます。皮肉なことに彼の教えの多くは、存在と非存在に関するすべての主張は誤りであるという彼自身の誤った主張を通して議論倒れしています。これには、まさにこの事項に関する彼自身の主張や意見が含まれているので、自己反論することになるのです。また、誤った考えが全くなく、無我の状態で存在しているとする、彼の空としての哲学的位置づけは、信者の心の中に間違った多くの概念を吹き込み、自己中心的に自分たちに適用させた人のものとは一致せず、彼自身の基準に基づいた現実と矛盾しています。その上、苦しみからの個人的な解放という最大の関心事も、自己に焦点を当てたものであり、自己否定として定義されるものと矛盾します。龍樹はまた無遠慮にも、無知や無明が凡人の精神状態をすべて歪めてしまうというような発言もしましたが、彼自信が、妄想についての自分の陳述の影響下に入らないほど非凡であることを実証できるでしょうか?結局のところ、彼はエリート主義的見解を提示する点で、他の人に苦しみに関する彼らの直感的、概念的な考えと決別して、本能的に共同社会の気質に反するような革新的で異質の理想を受け入れさせようとしました。これは、苦しみを単に無知の精神状態としてしか理解しないと主張するほどに誤った現実を提示するといった、カルト的行為によく予測されるものです。そして、輪廻転生あるいは苦しみの領域と涅槃・悟りの間には何の区別もないとするのは、簡単に逃避によってこれら2つの概念の間の緊張を緩和する方法となるかもしれませんが、彼の理論や信念の方程式を説得力を持って証明するためには何もなりません。彼自身、評論家がすべての生き物の苦しみを解消する手段として関連付けている思いやりについての理想主義的見解を形成することで、区別をつけているので、これらの用語間の同一性という概念自体が自己矛盾しています。また、我々は現実ではないと言い、我々は付随的または依存的な存在であるという点で、究極的に人間というような存在はないと言うことは、魂や霊の形而上学的な継続性に関する釈迦の沈黙について、何とか注目を惹かないように処理するための方法であるかもしれませんが、全くそれを反証することはできません。依存的存在は現実ではないというような主張をすることは、彼自身の人生と哲学について主張することであり、同等に疑わしく、そのため証明不可能です。存在というような事項について熟考したり疑問を持ったりすること自体が、シナプスの神経細胞の行き当たりばったりな発射とは違う、実体と存在を証明しています。有名な哲学者ルネ·デカルトがかつて言ったように、「我思う。故に我あり」というのは、自己を化学物質の入った大桶に沈められた神経線維の束に過ぎないと定義するよりも理にかなっています。人類を還元主義によって物理的構成要素または分子に最小化して、人間を単に動物や獣と同等にすることはダーウィン的な思想ですが、意欲・意志、自己意識、道徳性、知性・理性といった人間独特の優れた特質を適切に説明できません。脳が心を表す媒体であるとしても、これらのものが単に生物学的に決定されるとは証明できません。そのため、人を無におとしめることは、現代科学が発展する以前の哲学者による時代遅れの見解よりもはるかに重みのある、我々という存在の最も内なる域で科学者たちが依然として発見しようとしているものを過度に単純化することになってしまいます。おそらく、もっと大きな疑問は、我々がいかに存在論的に存在するかではなく、むしろ私たちがいったい何故存在するのかという広汎な疑問への答えでしょう。これは原点を扱う、より高尚な目的であり、ちょうど馬を車の前に置くように、こちらのほうが良い出発点であるかもしれません。あなたは、主権者として、また「究極的な存在」として、最初で唯一の、起因によらない成因として原始の使役主であり、唯一、発生したものではなく、すべての現実を創造するにあたり、純粋にその本質が「なる」よりもむしろ「である」という、全知、全能、偏在という特性を持った独立した人格を永遠に保持し、高度な知性を有する創造者または設計者がいると考え、目的論的に神の存在を主張したほうが、ずいぶん妥当性があると考えたことがありませんか。また、人を水筒の基底成分と比較するような、呼吸をし、命のある人間と生命のない物体との間で還元論的な類推をすることは、カテゴリー上の誤りです。容器は水を収容することができ、私たちとは別に形成されたもので、両者共に物理的実体であるという部分的には共通の特徴を有しているものの、このような比較をするには明らかに限界があります。言うまでもなく、容器そのものよりも、その容器から注ぐ者のほうが偉大なのです。また、この仏教哲学者はさらに、対象間にいかなる相関的アイデンティティーでもあれば、実体は究極的存在として認められないと述べ、いかなる神という概念や干渉も認められないとしましたが、これは神を反証するものではないし、神がこの人生の展開を指揮する名指揮者として創造主としての役割をもって内在的に存在する超絶的な存在であるとして容易に説明することができます。手段となることは、その実体が、生物学的に有限で、時間と空間の制約の中に捕らわれた一時的な存在であるように見える、生物学的に有限で定められるようなレベルにおとしめられることではなく、神は私たちと違って、自由にその次元に入ることができ、しかもその変数に従属することも、コントロールされることも、縛られることもないのです。。
私たちがこのレベルの知性を保持していることは、すべての生物や非生物の驚くべき複雑さと美しさに並び、どのような汎神論的連想も別にして、その創造の秩序に神の栄光のしるしを見ることができます。私は伝統的な仏教が基本的に無神論であることを知っており、こちらに、この主題に関して書いた記事があります。
自我のない空の受容者としての「現実でない」、衰退の影響下でただ絶滅という運命にあって単に消滅してしまう物としての存在であるというこの概念全体の欠点は、この哲学が現実や責任ということに究極的な意味を見出さないため、歴史上、大量虐殺のための温床を築き、他の人間を人間以下として扱う抑制のない無神論主義政権につながってしまったことです。同時にこの空または空虚という概念全体は、自己認識の危機に向かっている人々のために絶望をただ寓話にしたもので、ニヒリズムに向かう制限的・限定的で悲観的な見地による否定的な意味合いに基づいて、自己の現実を誤って定義しており、龍樹自身は後戻りして、すべての空虚は本物の空虚ではないと述べて対応しました。
さらに私は、もう一つ争点となる教義は、涅槃または悟りに関する伝統的な見解だと思います。涅槃または悟りが主観的なもので、表現することのできない直感的な体験であるとすると、単なる強い憤慨であるか、ただの軽々しい情緒主義的体験であるかもしれないからです。誰も絶対的に涅槃または悟りが何であるのか分らないのであれば、その達成を確認することのできる決定的境界線がないことになり、それはただの非現実的な架空の概念となるのです。
もう一点は、彼がまた、世界が執着、固執(食物)、偏見、意識への固執、固定観念にとらわれているという点でカッチャーヤナに信心しましたが、それでいて、彼もまた、他の形而上学的アプローチに反対して声聞哲学と大乗伝統に傾倒するという自身の基準に服して、倶舎と成実哲学に関連している思想の学派に関する特定の側面を拒否するとともに、いくつかのブラフミー系の要素と並んで、経量部の唯名論のみならず、説一切有部の実体論を回避したことです。したがって、私は、龍樹が、自身もカッチャーヤナに服することになった彼自身の価値観をサポートするための反動的応答として、意図性に基づいてこれらの「知恵の文書」を受けたと確信しています。
最後に、彼は魔術を行う力を備えているとされていますが、私は、彼が帽子から哲学的な幻覚を引き出して、聴衆を催眠状態の錯覚的な力のもとに魅了しつつ、畏れさせておいて精神的に麻痺した状態にするという方法で、あざむきを用いて催眠を誘発していたのだと思います。
では次に、唯識派または識乗としても知られる法相宗派についてです。これは基本的に解離性の逃避を通して平安を見出すことにおいて、人生の混沌を取り扱うもので、基本的な教えは、意識によって私たちはどうにか現実を経験しているように思わされるが、それは実際には謝った偽りの想像の産物に過ぎず、人の知覚するところと現実とは一致しないというものです。人は、ヨガ瞑想の訓練を通して自分たちの間違った概念や誤りを取り除くことにより、心をプログラムし直す、すなわちリセットすると提案されています。
これらの様々な学派の思想の中には、完全にはっきりしたものとして、心が実体の真の本質であると議論するものもあれば、意識でさえ常に変化しており、過渡的であって、数ミリ秒前の意識は今の意識ではないというように、瞬時に変化していくものなので、不変ではなく人生を完全に主観的にしてしまうため、究極の実体とは一致しないと論じるものもあります。また、人がダルマデータとして存在すると知覚するものは、意識の惑わしが、私たちの感覚知覚を含む様々は変数を配列することによって、そのプロセスを操作するため、転換においていくぶん失われた部分があるとも信じられています。複雑なテンプレートが使われて、私たちはどうにか現実的な生活をおくっているように思わされていますが、本質的にはただ「意識のみ」の現実のマトリックスに差し込まれているだけだというのです。非常に優れた意識が、私たちの人生の意味を理解するために、継続性と規則性の一定のパターンを持つシステムを介して制御感あるいは正常間を維持するために関連性と意味を与える上で、干渉性フィルタを適用することによって、これらの非現実的なできごとをどうにか処理すると想像されています。
この欺きの哲学に応答して、私はこれが非常に多くのレベルで間違っていると見なします。意識的現実の理解力を疑う体制に、彼ら自身の思想や理論も誤った実在論を作り上げているとして含まれるべきで、その独自の体制の被害者になりかねず、独自の前提がその非論理的な素因を論駁することになると思うのです。それは、人が外部の世界で経験していることは現実的ではないと証明できず、改訂的思考パターンを適合させるために、明白な事実を無視して心を洗脳する方法として、直感に反し、対抗する視点を採用することを要求するのです。
本質的に真実を主張をすることと、それを証明するのは別のことで、このグループに対して私が挑戦するのは、証拠の比重がどこにあるのか、どうやって欺かれているのが自分たちではないことが分るのかということです。私たちが本当には我々の認識を信じることができないことを示す証拠として、人が潜在意識下で、あるいは無意識に「夢を見ている状態」に入って架空の世界を体験することや、人が物体を視覚化することができることに関連付けるのは、誤った推論に基づいており、私たちは起きた瞬間にその違いが分かるし、眠っている間ですら自分が夢を見ているのだとはっきり知覚していることがあります。その上、我々の頭脳は何が想像で何が実体的に現実であるかを識別する方法をわきまえています。
これに加えて、私は他にも、知性的頭脳はどこから来たのか、またそれがどのように始まり、なぜ存在するのか、その目的は何かというようなことを疑問に思います。
これは、彼らがどうやって心の永遠についての自分たちの信念を検証したり、立証することができるのかという私の次の疑問につながります。宇宙に関して私たちが知っていることから基づくと、永遠であるものは何もなく、すべてのものは因果性のの結果として始まるため、おとぎ話か虚構の憶測とでも言ったほうがよいような霊魂の転生や生まれ変わりによる継続的存在として、個人が始まりのない時制に永続する存在を持つことを確証あるいは確立することは難しくなります。私が、無神論、ヒンドゥー教、小乗仏教に関しての以前の投稿でこれについていくぶん書いたものがあり、死後の命または臨死体験についてのドキュメンタリーと共に参照いただけます。
www.youtube.com/embed/vQ8TEGMj-jc
実際に人が出産の瞬間に存在し始めるようになるのなら、この哲学の大部分が解体してしまいます。それは、このシステムが大宝庫、阿頼耶識または適応思想の苗床としての前世の歴史や人生のカルマの痕跡に基づいて築かれているためです。魂・霊が永遠に存続するとすれば、幼児と成人した大人との間に、普遍的に知識・経験に大差があることをどのように説明するのでしょう。両者とも本質的に無限に長い年月にわたって生きてきて、前世からの比類ないほどの多くの一般的知識を蓄えているのだから、時間の尺度によると基本的に人生のさまざまな段階間には非常に小さな差しかないはずです。これらの因果の痕跡が本当に完全で機能しているのなら、なぜ若者たちは規範データを呼び起こす代わりに実際に学ばなければならないのでしょう。逆に、幼い子どもたちの方が新しい言語を学ぶことに熟達しているか、より優れた能力を持っているようであることでも示されるように、幼い子どもたちのほうがより強力な発達スキルを持っていることもまた、個人の知力と意識の間に不等性があることを示していますが、この年齢による差は偶然の拘束を越えて普遍的に当てはまるため、特殊子孫の論理を支えるものではありません。
普遍的な類似点を考慮する際、共有の要素は知性そのものだけではなく、むしろ、知性の起源、あるいは同様の生物を適宜に発達させた共通の創始者であるというのが、より可能性が高いかもしれないと思われます。
さらに、この問題全体に関していえば、その哲学は本当にそれに従って生きられるものでしょうか。あなたの人生は、これらの教義上の信念を反映しているのでしょうか。
そうでなければ、これはあなた自身のライフスタイルや存在と一致さえしていないのですから、これらすべてが本質的に真実であることがどうしたら分かるのでしょうか。また、あなたが本当に完全に絶対的な「真如」に達成し、成仏することができると、どうしたら分かるのでしょうか。この状態に到達したと、どのように確定的に知ることができるのでしょうか。いったん究極的な現実に入っても、ある状況が発生しないなら、あなたが元の状態に戻ってしまう可能性がないでしょうか。また、もしいったん達成してもそれを維持し続けなければならず、そうしなければまた失ってしまうのであれば、瑜伽は本当に最終的な開放なのでしょうか。それは開放というよりも束縛のシステムのように思われませんか?その上、私たちはなぜそもそも思い違いをしているのでしょう。 理論的には道徳性は本物でさえない現象世界の一部として分類されるのに、どうしてそれが因果の債務の所産でありえるでしょうか。誰が、あるいは何が、認識できる世界に反して、究極の現実は意識の機能に還元されるものであると決めたのでしょうか。多分その代わりに両方等しいのではないでしょうか?誰が正しくその判断を下すことができるでしょうか?また、脳の生物学的機能と知性の生物学的機能をどう区別しますか?
とにかく、インド人哲学者は大勢いて、現実に対する自分の好みに応じて信じたいものを選ぶことができることがわかります。インドの市場で望ましい商品によって自分の目を楽しませるべく個人的な好みに合うように提供されている現実の概念は、痛みや苦しみから抜け出すためのプロセスを理論化し、体系化することを含めて、現実の世界の感覚や必要と感じられるものに基づいています。同様に、人生の問題に対処する方法として、心理学であれ、宗教や哲学であれ、薬物依存であれ、またこれらの組み合わせであれ、違う方法を用いる人々もいますが、これも必ずしも現実と一致するものではなく、ただこの人類の病や悲劇の症状を取り扱っているだけかもしれません。
この傾向にあるもう一つの宗派に華厳として知られているものがありますが、これは華厳経を通して伝えられた昆盧遮那如来のものとされる教えに基づき、杜順が開祖であると考えられています。この宗派の主要な欠点の一つは、宇宙の本質に関する現実についての哲学と、実際の事物との間の相違です。この矛盾は、完全な知識を有するという彼らの主張に関する原則と事実の提案に関して不調和をもたらしました。例えば、宇宙が同時に上昇することは不可能であるので、宇宙が自己創造していると述べるのは原則として欠陥があります。これは、現象世界が同じ関係に基づいて、同じように、同時に存在し、また存在しないことはありえないからです。さらに、この不一致は経験による現象事実に基づいて検証または観察可能ではないので、確実性と一致しません。さらにまた、この理論は既に他の宇宙学者たちによって暴かれているように、この自然発生という見解を支持する証拠は全くありません。したがって、この中心となる信条は宇宙に関する自身の見解と矛盾しているだけでなく、それはまた、近代科学時代の到来にも反しており、究極の現実や真実の説明となる可能性さえありません。しかし、時間と空間の次元を超えた全能で永遠なる存在という形而上学的概念は、少なくとも哲学的に可能であり、造られた秩序が調和のとれたデザインを使用して維持されていることのより確からしい説明となります。無神論/不可知論について私が書いたこちらの記事にこれについての詳細が書かれています。
最後に、律宗は、生活のさまざまな側面で彼らの社会を導くための倫理的なルールを定め、最終的には心の悟りと浄化を達成すると言われている、律の伝統的な小乗的見地に基づいて道徳的な卓越性を強調する宗教です。彼らが固守したり支持したりしている道徳律の多くは、文明を維持するのに、一般的にどんな社会にも適しているようですが、私からの挑戦は、それらが厳格な宗教的観察という媒体を介して完全に達成可能であるかどうかということです。そこで私は、信仰者として霊的な目標を達成し、維持する上で必要な能力のレベルがどれくらいであるかと疑問に思っています。キリスト教にも、神の性質や性格を反映した道徳的な行動規範がありますが、異なっているのは人が最初に新生しなければならないということで、彼らの内に住み、個人的な生活の中で神の性格を反映するような新しい性質を受け取ることで彼らを新しくされたものとし、汚れから清めてくれる聖霊によって、教えを受けることです。礼拝者が自分自身の功徳によってそれを達成するのではなく、むしろ、それは神からの賜物であり、私たちのために働く神の卓越した働きである点で、他の宗教とは異なっています。私たちがそれを信じる信仰によってそれを受け取るとき、奇跡的な変化が起こるのですが、それは単なる聖礼典の解毒や表れではなく、むしろ、人の性格や性質に明らかに否めない根本的な変化が見られるように、明らかに本物で動的なものであり、よって、客観的に現実を確証し、肯定するものです。さらに、この概念は私の証しや他の多くの人たちの証しに一致しています。
www.cbn.com/700club/features/Amazing/
終わりに、イエスは、宗教的な負担や、私たちの家庭や社会を揺るがしてきた人生における困難は彼が担うから、ただ神の恵みの中で休むようにとあなたを招いています。また、彼は私たち人間が心から切望する愛、喜び、平安の受け口として、私たちに義なる神と不道徳な社会とに適切な関わりを持たせ、あなたの心と魂を蝕む病から解放し、個人的平和と平安を与えてくれ、神の子としての人生に目的と究極の達成感をもたらしてくれます。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書第11章28節から30節)
Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.
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