Archive for the ‘日本人-Japanese’ Category

真言宗資料

Friday, March 15th, 2013

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

真言宗

Friday, March 15th, 2013

真言仏教または真言宗は密教を基盤にしていることから、「東蜜」と呼ばれるほど、難解な宗教です。当時、仏教の影響を受けた様々な霊的教えや団体が発足している中、空海(弘法大師またはお大師様)がそれらに負けずと没頭して始めました。これは恥ずべきことなのですが、この宗教の豊かさや力は空海の教えにあるとしながらも、実は真実の言葉と定めることよりも、宮廷に印象付けるために用いられていました。天台宗と真言宗は共に共通した起源や背景があることから、これらの宗教について記しました。詳細は下記リンクをご参照ください。

天台宗

またこの団体はつい最近まで、過去1100年に渡ってそれぞれの時代の霊的リーダーや教祖たちから語り継がれた言い伝えを教義や儀式の土台としていたことからも論議が広がっています。その教えと儀式が日本に伝わるまでに、インドのナーガルジュナからチベット、ジャワ、中国と大陸横断していることからも、空海が唱え始めたというそれら言い伝えの正当性を長年に渡って実証化することは難しいと言えます。

さらにこの団体は、霊的導きというよりも政治的動機の強い神道の混合主義から、その文化的価値を吸収しながら変化を遂げてきています。また、中世期にはその流行りに乗って、阿弥陀とその至福の境地を教えに取り込んでいます。それだけでなく、シャーマニズムとボン教も取り入れて、独特で特別な団体というよりも、一時的な宗教的運動の中で優れた霊的教えを宗教世界観としてまとめて盗み取り入れる方向へ進んでいきました。そして他の教えを取り入れることこそが完全な信仰に近づくものであるとしました。

これらの動きを知って、果たしてこの教えが外部の影響なしに生き残ったと堂々と言えるでしょうか?これらの教えが、他の変化し続ける教えとは違って究極的真実と同等である、と空海が唱えたことが本当であると言うのであれば、文書記録こそが残されている宗教的証拠だと言えるでしょう。子供の頃に遊んだ伝言ゲームのように、ある一定の期間で言葉や話は元々の意味からどんどん外れていくことは可能です。ですから、言い伝えだけで知られている情報は信頼できるものはありません。さらに、混乱の元は多くの異なる分派やそれぞれの教えであり、それぞれの教えの主観性の中で元々の本質的要素が的確に反映されているか、もはや明確ではありません。もちろん全てが正しいというわけにはいかないので、儀式においても教本においても本説または正当な真言教育を基にした教えに関する特別な知識を基にして始まった密教は正しくないのでしょうか。大乗仏教は、正統派仏教とは異なり、上座部仏教の教えや哲学の中で良いものとされ、どちらかと言うと快楽主義寄りの宗教団体とされています。仏陀はこれら団体の教理のほとんどを教えていないことが分かっており、結果的にこれらの宗教はインドにいた歴史上の仏教徒の考えを基にしていて、言うならば、オカルト的魔術的要素の強い呪い、魔法、儀式や大量の死体などを用いて教理を築いたと言えるでしょう。しかもこれらの教えは、仏陀やゴータマ・ブッダ、大日如来として知られている遮那などから得られた教理ではないことも分かっています。大日経の教理もまた、中国にその起源があるもののその発展は遅かったことから、その霊的権限を追求または証明するような信憑性を見つけることは難しいです。その他、これら宗教を理解するのに難しい要因は、それぞれの信念体系がインドと日本両方の神々、女神、仏陀、菩薩などの神としての象徴に関する言い習わし、神話、迷信などに似ていることです。それによって、基本的に無神論を主張する仏教よりもヒンズー教や神道と相性を良く見せているのです。私はここで正統派仏教の主張や肯定をしているわけではありません。それよりも、古代そして伝統的仏教の哲学との関係において、それぞれの宗教の中に理路整然または全体のまとまりを立証するには矛盾があるということを主張したいのです。そしてさらに、これら宗教の教祖達の教えに矛盾が生じていることを通じて仏陀が混乱を引き起こしているというのは、やはりこれらの信念体系を立証するのは難しいと言えます。

この宗教における迷信的行動は他にもあります。護摩と言われる火を崇拝する儀式で、これは真言宗にて特別に生まれた儀式ではなく他の宗教にも見られるものです。アカラ、または不動明王への祈りは、礼拝者をマイナスのエネルギーから守り、福があるとされています。加えて、これらの修道僧には雨を呼び集めたり、収穫を増やしたり、災害を防いだり、どんなに強い権力者でもその軍を役にたたないものにして民を守ることができるとされています。しかし日本の激しい歴史を見ると、数々の自然災害と戦争での敗北があり、果たしてこれら霊的エリートまたは導き手の宗教的能力はどれだけ有益なものだったのかと考えさせられます。有益といえば、次にお話したいのは、これまで日本を苦しめ苦痛を与えてきている守護神、または神の存在についてです。 空海は死んだのではなく、その墓が開かれた時に爪と髪の毛が伸び続けていたことから分かるように永久的瞑想に入っただけである。そのような伝説的な話を迷信的に信じているだけでなく、その他にも迷信といえるものがあります。砂の上ではっきりとした明かりの下でマントラを朗読すると、特別な力が与えられて、阿弥陀の砂により病気の者は癒され、死体は蘇るというのです。最後に、思い込みに負ける脆弱性を示すかのように、自分のアイデンティティではない像に現実を映し込むことも行っています。私はここで、抽象的な見方における可能性を指摘しているのではなく、いわば、これら全ての関係性における現実主義を強調しています。

これら全てのことを回想した上で、自分が仏陀の教えや悟りをえたということに、果たしてどのように確信をえるのでしょうか。精神、魂、肉体の霊的鍛錬、または三蜜といわれる天に到達したのか、それとも今感じるもので全てなのか、終わりなのか、どのように知ることができるのでしょうか。誰か他の霊的導き手なしに、人間の本質的弱さを持つ現実の中で、自分が悟りをえたと思ったことがありますか?仏陀の本質が自分の体験と重なり、今後もそのようになると正直に言えますか?どのように自分が正しい儀式に従ったかどうか、宇宙の陰陽の力に並ぶ瞑想をしたと言えるでしょうか?証拠は何だと言えるでしょうか?霊的悟りを得るための鍵は、ムドラにおいて肉体を信心深い象徴として操るようなグノーシス主義の霊の型に見つけることができるのでしょうか。それとも、マントラとして知られている神秘主義の音節を宗教画の前で信心深い言葉遣いで唱えることや、マンダラとして知られているヨーガ哲学の精神瞑想でしょうか。このような表面的なものが、一人の人が宗教的儀式以外に何も本質的な変化が見えないにも関わらず、仏陀の性質が内面に現れることがありうるのでしょうか。バジュラにおいて聖なるものとされている道具やダイアモンドやハスを扱うことに本質的な価値があるのでしょうか。最後に、悪を遠ざけて日々の生活において超自然的助けを与えて、宇宙の力を支配するような並外れた力を爆発させたことのある人などいるのでしょうか。

もしかしたら、最終的に分析をすると、ここでの話というのは空海が想像しただけのことであり、宗教像などを好む人たちが、キャンプファイヤーなどで代々語り継がれているような話以外の世界では、ただの架空の像に過ぎないということで現実にしたに過ぎないのかもしれません。素晴らしい映画やドラマを観て、その内容が一時的でもまるで本当のことのように感じるのはハリウッドの制作チームの優秀な才能あってこそだということを思わされます。

哲学的にいうと、この世の二元性と不純性を超えているけれども、同時に仏陀の性質の全てを持ち合わせていると言われている大日如来を人として理解するには難しく皮肉とも言えます。全ての人に悪がひそんでいるという事実がありながら、仏陀がこの世のコスモキャットとされていることをどのように説明するのでしょうか。また、仏陀の性質の本質は地や風といったものから成っているといいながら、その仏陀を崇拝している人々は地や風が引き起こす津波や地震といった数々の自然災害に苦しめられている事実も、仏陀自体に一貫性がないことを表しています。崇拝者たちは、将来がよりよいものになっていくということを、どうして現実に起きている事柄をもとに確信していけるでしょうか?これではまるで、神話にあるような、全ての人に益となる神の業に対しての復讐の神のことに聞こえます。

他の対照的な教理または矛盾は、仏陀の性質を持つ者は、理具成仏として知られているように自分の本質が仏陀の性質に近づき悟りをえたという大日如来と等しいとされている点です。もしこれが真実であれば、なぜ自分と同等である誰か他の存在を崇拝する必要があるのでしょうか。誰を崇拝しようと、自分自身が崇拝している者と同等であれば、結局自分に返って来ることになります。結局のところ、自分自身に神の性質を見つけ、仏陀を崇拝することは、自分自身を崇めることになるのです。これらの教理によると、私たちは自分自身の肉体のままで大日如来なのであり、この融合は仏陀が自身に入り、自身がまた仏陀に入るという考え方からも推測できます。結論を言うと、信者は自分自身を崇拝者と崇拝対象の両方になるということであり、仏陀の入っているその人自身が崩壊した場合は仏陀も崩壊してしまうことになるので理解しがたいことです。しかしながら私たちは、何か卓越している永遠の存在ではなく、このような思想への土台は全くない不確かな存在であるために、本能的にはこの教えに欠陥があることに気づいているのではないでしょうか。

この他にも論争を生んでいるのは、加持成仏と言われる悟りをえた場合の運動表現です。霊的導き手がその人を奮い立たせて、導き手の言うとおりであることを信じ込ませます。これは、私から見たら悟りではなく、詐欺であり、だましです。自分自身と他の人を自分の行動で証明することは仏陀の性質の成りすましであり不確かです。にも関わらず、これらの観念は自分が本当にそうであるか否かを示すものになるのでしょうか。言葉を変えて言うと、子供は子供であることを証明するために子供らしく行動しなければならないのでしょうか。それは子供とみなされることではなく単なる子供っぽい行動に過ぎないのではないでしょうか?

皆さんや霊的導き手の方々は誤解だと言ってこれらの不一致を正当化するかもしれませんが、本当のところ、皆さんの深い部分で、この哲学に対して疑問を持ったことがあるかもしれません。そして、霊的な旅を始めているからと言って、自分自身が霊的事実に触れたり認められたりするようなことはありません。

最後に強調したいのは、崇拝者の人たちは霊的導きを求めるにあたって利他的であったり苦境に立たされているかもしれませんが、今信じている哲学や教理に対して心を開いたように、信仰への道に対して注意して頂きたいということです。私たちは人間として、ほとんどの場合は霊的事実、存在や価値に対して気づいたり察することができますが、どんなに気をつけていても完璧ではない私たちは間違った方向へ進んでしまうことがあります。だからこそ、強調して訴えたいのです。ここで、私自身が経験した話をしましょう。私がどのようにして劇的に変えられたのか。それをお伝えすることで、皆さんが真実を探す歩みの中で私の言葉を無視されないことを願っています。そして、霊的な満たしを求めるにあたって、皆さんのゴールが、単に心に響いたり耳に残ったものを霊的に高いものとして聞いたり真似たりすることではないことを信じます。達成感や安心感による誤った感覚が間違った道へと導くことになるからです。これまで信じてきたものや価値とは異なる方向へ進んだとしても、本物の真実を求める姿を願うべきです。 まとめとして、わざと無礼を招くようなつもりはなくても私の言葉が難しく聞こえたら申し訳ございません。もし私の主張が強すぎたり、率直過ぎたら、私の無神経さをどうか許してください。私の最後の願いです。皆さんの祈りや瞑想の時に、私が皆さんに知って頂きたいイエス様というお方が現れてくださることを心から祈ってください。そして、神が何をなさるのか期待して待ってください。

イエスについての私の証し

www.cbn.com/700club/features/Amazing/

神と関係を持つ方法

マタイによる福音書第11章28節から30節 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 ヨハネによる福音書第8章12節 「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』」

ヨハネによる福音書第14章6節 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」

 

 

 

その他のリンク

Shingon

真言宗資料

Shingon Resources

 

 

 

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.10, pg.743, Shingon

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.7, pg.28, Kukai

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.15, pg.294, Buddhism

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.12, pg.233, Vairocana

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pgs.8348-8354, Richard K. Payne

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.2, pg.1177, Brian O. Ruppert

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.2, pg.1217, Alex Wayman

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.2, pg.1243, Michio Araki

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.7, pg.4417, Manabu Waida

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.7, pg.4784, Joseph M. Kitagawa and Gary L. Ebersole

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5607-5609, Charles D. Orzech

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6632, Thomas P. Kasulis

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.13, pg.8985, David Gordon White

The Holy Bible, English Standard Version® (ESV®) Copyright © 2001 by Crossway, a publishing ministry of Good News Publishers. All rights reserved. ESV Text Edition: 2007