Archive for the ‘Nichiren’ Category

創価学会

Sunday, October 12th, 2014

創価学会として名を知られた日本仏教の一宗派は、今日、日本国内での毎年の創設数が100以上にも及ぶ無数の宗教形態の1つに数えられる。創価学会自身、正当な宗教団体であると自己弁護を図るが、ではなぜ圧倒的な説得力をもって自らが標榜する本質的真理を同国民に信じ込ませることができないのか?

この宗教が志す立派な目標や道徳的取り組みとは裏腹に、実際にはこの団体の表向きやその母体教派である日蓮仏教とは矛盾した事柄が報告されている。SGIの教条には、ヒューマニズムを喧伝しながら世界調和への協賛者としての立場を確立し、世界市民の推奨によって教団の株を上げ、全人類にとって宗教的価値があることをアピールするものがある。

しかし、学会によるこの立場は、たとえ改宗の無理強いと指摘されながらも他の信仰に対する破壊行為や公然批判も辞さない、急進主義的な姿勢を見せる母体組織と相反する。さらに世界の救世主であると自負する日蓮宗の開祖は包含主義とは真逆の排他主義を公然と表明し、他の仏教形態を否定しながらこの立場を貫いた。

ここで発生する疑問はどちらの主張が正しく、また教団がその信条・教理の内容を自らの目的や必要に応じて改竄してしまう場合、一組織としてのアイデンティティをどのように維持できるのかということである。このグループが言い張るにはこれを改革と呼ぶらしいが、改組という表現のほうが適切ではないか。

もしもその最高権威を理由に日蓮の説いた上記の教えと実践論が正しいとされながら同時にその過ちが指摘されるとすれば、他の日蓮の教えの信頼性はどうやって確保されるのか?要人の最高権威を疑問視することは、それ以下の他すべてをも疑問視することである。もしあなたが他すべてを疑問視した場合、日蓮が説く不変の真理についてどのように申し開きができるのか。

さらに、池田大作会長への数多くの名誉賞授与がこのグループのセールスポイントでもあるが、彼らの社会的なプラットフォームでもあるこの高水準な世界統一活動の維持活動にも矛盾が見え隠れする。このような歩み寄りは、たとえそれが教理・実践面で日蓮正宗と袂を分かつ要因であったとしても、公明党として参政し与党に楯突きながら政治的私見を論じ合う立場を鑑みると、尤もらしく聞こえる。さらにこのような個別化した宗教が普遍主義を否定すれば、狭量な宗教というレッテルを貼られてしまうことにもなる。しかしこれら副次的な問題はさておき、より重要な問題は仏教に起因する教義にある。これらの輪廻転生とカルマを初めとする矛盾問題の多くについては、既に以前にも触れたことがある。どうか以下のリンクでご閲覧いただきたい。
jesusandjews.com/wordpress/2010/03/13/buddha-the-enlightened-one/
Hinduism
池田によると彼の自著「地球的調和への7つの道」で彼が強調したいのは、個々人が自分自身の欲望や行動、そして願いを制御することである。しかし一方で、物質的な恩恵に与りながら個人的幸福や喜びを達成することへの執心を信者たちは隠せないでいる。そこに利他主義的な動機を見いだすことは実に難しく、そのようなアプローチにはむしろエゴイズムを感じる。もしかしたらそれには信者たちには態度を改善する機能があるのかも知れないが、共同体意識の形成より自己啓発に対して不健全に固執する印象を払拭できていない。自己啓発を果たして初めて共同体への働きかけが適うという見方に立っているのかも知れない。しかし自分を成長させることは個々人が仏の域に達するまで自分自身を絶えず養いながら、一生かけて成し遂げていく継続的なプロセスであると私は理解している。努力によってカルマを除去しようとすれば、とてつもない時間を要することになり、自力の償いをはかるための崇拝、難行、題目の行為に酔いしれてしまう恐れもある。そこにも社会貢献にとって有益な要素は有るかもしれないが、果たしてそれは利他主義を動機としたものか、それとも悟りの境地に入るという悲願成就への思いからなのか?

質問を変えよう。もし自分の最終目的が果たせない場合、それでもあなたはこの道に従い続けるのか?

個人的にはこの理念に良い響きを感じるが、彼らの対外的な活動の中身の無さを見る時にその印象は砕けてしまう。無論、私は決してSGIによる人間の福利に対する目覚ましい貢献を否定しない。しかし私が問い質したいのはその行為に霊的現実の本質を訴えようとする彼らの態度である。

さらに言えば、何妙法蓮華経(音や振動を発しながら唱える、因果応報からの救済を適える経文)をご本尊に向かって一心不乱に読経することは、特に数時間も唱える人にとっては精神的な麻痺を進める要因になりかねない。この種の宗教行為はカルトグループの常套手段でもある一種のマインドコントロールであり、ハレ・クリシュナ(クリシュナ国際協会)では洗脳法として用いられている。ヒトラーは、長い時間大声で何かを喚き立てれば他人はそれを信じ始めるという自分の言葉通り、ナチスのプロパガンダによって人心掌握を成功させた。やがて人の思考判断能力を奪い、催眠術のように耳に入るメッセージすべてに従う状態に陥らせてしまうところに、この修行法の危険性がある。また、このような反復的なメッセージが囚人に対する拷問や人格改造の手法として使用されることを申し添えておきたい。

もし悟りの会得に題目が必要とするならば、仏の境地に至るまでに一体どれくらいの回数および期間を要するのか?さらにこの霊的目的地に到達したとして、どうやってその悟りの境地をそのまま維持していくことができるのか?とにかく私が疑問に思うのは、人間という複雑な生き物の心や性質を単調な言葉だけで変えることが出来るという考えに対してであり、おそらくこのブログの読者の中にも私に同感し、この宗教行為の如何わしさに眉をひそめている人もいるだろう。

最後、この団体員の方々には私の反抗的な私見に気分を害さないでいただきたい。言葉は諸刃の剣であることは十分承知していますが、ここまで私がお伝えしてきたことで実際に体験されていることがおありなら、私はあなたに何か別の可能性を探るように一心にお願いしたいのです。私事で恐縮ですが、私の人生は今から20年以上前に劇的な変化を迎えました。そこに至るまでに儀式や自己鍛錬骨折りの難行も、また栄誉ある功績のチェックリストも要求されず、私を超越したお方、すなわちイエスを信じただけだったのです。このブログに私の個人的な証しを載せたリンクを紹介します。過去の面影がなくなるほどの大変化を迎えた私の人生に、きっと興味を持っていただけると思います。
イエスについての私の証し
最後にすべての人の心に訴えようと残した言葉を紹介します。

マタイによる福音書 11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。
神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

創価学会の情報資料

Soka Gakkai

 

 

1 Excerpt taken from Operation World, Copyright© 2001 by Patrick Johnstone. Used by permission. All rights reserved worldwide.

2 Richard Okamoto, “Japan,” Look, September 10, 1963, p.16
Handbook of Today’s Religion, Copyright 1983 by Campus Crusade for Christ Inc., Published by Thomas Nelson Publishers

創価学会の情報資料

Sunday, October 12th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

霊友会

Saturday, October 11th, 2014

この投稿では霊友会が掲げる信条のニュアンスを主に取り上げて論じたい。これに先駆けて投稿した日蓮仏教と立正佼成会に関するリンク記事ではカバーし切れなかったものだ。

日蓮宗
立正佼成会

この宗派をめぐる議論を始めるに当たり、その霊的な指導者でる小谷喜美について触れたい。彼女を生き仏と信じる者がいるが、半シャーマニズム的な癒し信仰の絡みのオカルト儀式に関わったことで経済的破綻を引き起したことからも、そのような尊者の称号を受けるに価しないことは明白だ。さらに人々の生活の質を向上させる存在としての自尊心を信者に振りまきながら、それを十分に果たしているのかについても甚だ疑問だ。とにかく自分たちの傾倒する指導者たちを誇大評価している点で、他の多くの宗教または信仰に共通している。この冒頭の文中、皆様にとって無礼または侮辱に映る部分があったなら謝罪したい。しかし、たとえあなたが畏敬の念をもって崇める存在について、このように批判することが罰当たりに見えても、他人から詐取するペテン師であるという証拠を見過ごすことも同様に恥ずべき態度である。

その創設当初、霊友会では法華経と先祖崇拝の両方を結び合わせる方式が採られていた。だが皮肉にも彼らが正典として仰ぐ法華経では先祖崇拝を認めていないばかりか口にすらしないことを霊的に重んじている。そんな中、自らの信仰体系全体に対して、教団内で疑問が起こっても驚くに価しない。

またこの集団が先祖崇拝を強調し直しその改編をはかる理由は、聖職者たちの職務怠慢に起因する大衆運動の勃発に起因する。彼らは終末を臭わせる社会、政界、自然界の破滅から日本社会を守るために、その儀式を接収したのだ。これと同じ反動からの潮流が1200年代の日蓮が生きた時代にも起こっている。彼はその時代を、末法に該当する社会的退廃の時代であると解釈した。しかしいずれの見解にも疑問が残る。その定説の信憑性が裏付けられておらず、感情的な訴えと波乱に満ちた激動の時代への反応として派生したものと思われるからだ。

日蓮宗と霊友会が膨大なスケールの信者集団を動員しながら処方的アプローチを実践する一方、持続する大戦の危機や立て続けに起こる自然災害のもと、今日に至ってもなお日本文化崩壊についての懸念すべき脅威が残る。こういうわけでこれらの宗教的立場に効力については、成果が著しく乏しいため説得力に欠けていると言わざるを得ない。霊友会は自分たちが先祖崇拝を通して社会再建をはかることに無理があるとおそらく認識し始めている。さらに社会福祉や青少年育成プログラムなどの順高的アプローチを採用しながら他宗との差別化をはかろうとする。

霊的修練としての先祖崇拝の概念に対して、民話および迷信とより深い類似性を感じる。両者とも親族を人生の悲劇に対処するための拠り所として見ているからだ。さらに先祖崇拝は様々な宗教にまたがる合成行為であるが、その背景を成す文化の如何に関わらず証拠として成立するような結果は何も残していない。 また同様に日本社会の機能障害を先祖の苦悩に起因するものとし両者を結びつけることで、一層論点を暈かしてしまっている。この退廃現象はこの島国に根付く精神にのみ作用するものではない。私たちが住んでいるのは、汎流行性のウィルスによって人間を蝕み、社会全体を侵蝕する伝染病が蔓延する世界であることを留意するべきだ。

聖書は確実で一貫性のある対処法や、今日世界全体を巻き込みながら発生している事柄への理解について、親が子に対して行うように教示する。同時に神を否定することに由来する人間の悪に降される神の審判についても明示する。これら全てを悲観する必要はない。このような応報的な事象は、直截な恵みによるアプローチか、もしくは壊滅的で修復不可能な事態を招く終末的惨事についての警告として受け取ることができるからだ。神の義を体ごとしっかりと受け止めるとき、私たちは神との平和を体験する。こうして先ず人が変わることで次第に社会全体が変わる様子を目の当たりにするだろう。

もしや自らの観点を訴えるにおいて、私もあなたと同じジレンマに陥っている輩に過ぎないではないかと思う人がいるかも知れません。しかし私を圧倒するのは、私自身も含め数多くの命が次第に衰えていく現実下で異彩な存在感を放つ、全証拠の揺るぎない信頼性なのです。ここに幾つか証を提供します。私があなたに願うのはただ1つ、新鮮な知識を学ぶ時の子どものように心を開きながらこの体験談を聴くかまたは読んでいただくことです。最後、あなたの心を開きあなたがイエスを信じられるよう彼と出会う体験を得るために、是非神に祈ることをお勧めいたします。

イエスについての私の証し
www1.cbn.com/700club/episodes/all/amazing-stories

ローマ書 1章18〜23節
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って彼らに弁解の余地はありません。21 Fなぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、23 滅びることの無い神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

ローマ書 5章1〜3節、8〜11節

5 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2 このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りとします。

8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらのことです。11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。いまやこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

霊友会に関する情報資料

Reiyukai

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6574, Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pg.5622, Lewis R. Lancaster

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

霊友会に関する情報資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

妙智会

Saturday, October 11th, 2014

妙智会は新宗教とも呼ばれる日本で起きた新しい仏教系の宗教運動の1つである。先祖崇拝や法華経など、日蓮宗や霊友会と信条および原理を共有している。この2つの概念については以前投稿した上記の二宗派に関するブログ記事で詳しく触れている。

日蓮宗

霊友会

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

妙智会教団に関する資料

Myochikai Kyodan

 

 

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

妙智会教団に関する資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

立正佼成会 資料

Friday, March 15th, 2013

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

立正佼成会

Friday, March 15th, 2013

これまでに日蓮宗について書きましたが、立正佼成会は霊友会の流れを受け、日蓮宗に共通する教義を見ることが出来ます。

日蓮宗
庭野日敬と長沼妙佼が協力して、オカルト的な占いやシャーマニズム(原始的宗教形態の一つ)を導入しながら霊を説く疑わしい手法を用いていました。日敬は占いを用いて姓名判断や日にち(六曜)、方角(七神)を説きました。

妙佼はシャーマニズム的な手法を用いて、霊界から予言を受ける予言者とされていました。妙佼はまた、奇跡的な癒しの力を説きましたが、皮肉そして残酷にも彼女自身が病に襲われ、霊界のエリートまたはカルマの力の信仰者として疑いをもたれることになりました。

私が投げかけたい疑問というのは、闇のサタン的儀式や迷信を用いた彼らを、なぜ霊的リーダーとして信じるか?ということです。

とはいえ、これは他の日本人の方々が興味をもたれることですが、この宗教による人道的・社会的貢献はプラスであったとされています。しかしながら、慈善活動はこの宗教そのものを正当化するものであるべきではありません。彼らの人道的行動は世界中の他の宗教も同じことをしており、彼らが本質的な意味で真実を信じているということにはなりません。

この宗教は、マイナスなカルマの力を除くことによって幸せが生まれるという教えのもとに始りましたが、後に、人格の完全化と世界平和活動へとパラダイム変化を遂げました。これは、世界紛争、経済、そして信者による新しい世代への反動的応答でした。よって、この宗教はそもそも日蓮宗の教義から始ったものではなくなっていきました。この団体が文化背景の変化と共に感情的な流れをもとに教義や価値観を唱えるとしたら、流れ行く時代の中で普遍的なものを説くことができるでしょうか。また、その都度短期的に時代の流れによって修復したり現実主義を続けることで永遠というものをどう説くのでしょうか。

この団体は異教徒との交わりや他の宗教背景を持つ人々と関係を築くことを良しとしていますが、私は単純に、特にそれらの宗教全ての人々が人類を助けるという共通のゴールを持っていると同意しているので、他の分野での信仰の真髄を探求する機会を作って欲しいと伝えたいと思います。

終わりに、霊的な上での真実の探求に役立つウェブサイトをご紹介します。

 

 

 

神と関係を持つ方法

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

Rissho Kosei Kai

立正佼成会 資料

 

 

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.11, pgs.7794-7795, Morioka Kiyomi

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5400-5401, James Luther Adams/Thomas Mikelson

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6574, Robert S. Ellwood

日蓮宗資料

Friday, March 15th, 2013

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

日蓮宗

Friday, March 15th, 2013

日蓮は善日、是聖房蓮長、立正大師、日蓮大聖人および善日麿としても知られた仏教の修道僧であり僧侶でした。彼は仏教はすべて、彼によるところ仏教の思想や実践の正道ではなかった異なる形式の仏教を含め、縮小され、他のすべての原本から離れて、法華経すなわち妙法蓮華経を中心とするべきだと考えたように純粋主義者でした。けれども、彼が経典のすべてを受け入れず、本門として知られる後半14章の教えを遵守することを好み、迹門として知られる前半14章を無視したことは、今日の信者の間で議論の的となっています。また、彼の哲学は決して独特のものではなく、彼は自身が任命を受けていた天台宗の思想を多く採用し、彼自身の原理に適応させて、日蓮系正宗派、すなわち日蓮仏教の傾向として知られるようになるものとして改善すると言うよりもむしろ再定義をしました。さらにまた、彼が研究した引声や観法に関連して、同様の習慣を共有する浄土教からの影響もいくぶんあるかもしれません。

とにかく、彼がこの新しいグループの統率者となった動機は、当時の日本で起きていた出来事が、彼の住んでいた文化や時代の内にあった問題を扱うことを必要としたので、自らの社会に影響を与えようとした彼の個人的な使命と並んで、菩薩の生まれ変わりであるという宗教的想像を持っていたことの結果から生まれました。彼はこの時代が法の衰退あるいは堕落として定義される終わりのとき、つまり週末の実現の時であると感じていました。 これは、金剛経と法華経に描写されており、末法として知られています。もちろん、この時代に対して個人的な見解を有していたのは彼だけではありませんでした。浄土仏教徒もまたその時代の兆候に彼らの解釈と適用を示しました。であれば、もしどちらかが正しいのであれば、どちらが正しいのかという疑問が浮かんできます。

おそらく、上人(聖人/賢者)または大聖人(大賢者)としても認められていた日蓮は、彼自身が仏教を何とか元来の目的、あるいは本来の状態に復元していると思っていましたが、皮肉にも、この形態の大乗仏教は、その信念体系が小乗の無神論哲学に近似しているもともとの正統派仏教に反しているため、そもそもが実際には非伝統的なものなのです。法華経そのものでさえ、時代的にかなり古いものではあっても、実際は混合的であり、(1)仏陀が永遠であり、全知であり、全能であり、遍在し、全世界の創造者、破壊者、再創造者であるという思想全体はヒンドゥー教からの借用概念であり、成仏の可能性と組み合わせて、万人にとっての普遍的な救いという思想と共に大乗仏教に持ち越されたものなのです。さらに他の大乗経典と比較して、法華経は末法をその後より仏教が栄えていく時として特徴づけられると独特の予測をしていますが、仏教全体はかなり大きいとは言え、いかなるものであれ全世界の人口に普遍的な影響を及ぼすにしては、これら日蓮派は少数でしかありません。したがって、特に、日蓮自身と法華経が最後まで世界の救いを促進する因果をもたらす術と見なされるべきであるとの見解を採用するなら、それは過大評価であり言い過ぎです。日蓮はまた、モンゴル侵略の効果を利用して、割り当てられた過失の原因に適用しつつ、法華経独占についての彼の予言的主張を実証しようとしました。彼の説教は、これらの攻撃当初には大衆の目を覚まし、やる気にさせる効果をもたらしましたが、彼らの社会的病いである堕落を排除することによって、国民に救いをもたらすには至りませんでした。それは、日本全体がこの予言的呼びかけに応じなかったためだと論じられるかもしれませんが、救いはその時点でやっと理論的に可能になるので、実質的にはそれは達成可能ではなく、当時すべての人を回心させることができず、今日でもまだすべての人を改宗させることができないように、本質的に真実でもありません。地球上のその小さな領域で、人類の救世主とされている人を要しながら歴史上のこの絶妙のタイミングに達成できないのであれば、どうやって、この惑星の残りの部分に対して有効であることを証明するのでしょうか?

とにかく、日蓮は終焉時には、彼の教えの適用を広げた日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持という6名の本弟子または後継者がいました。特に日興はその革新的な思想によって完全に他の日蓮宗派から断ち切られました。また、これらの違いは更に変化していき、分派や非伝統的な流派を生み出しました。これは思考の一致または排他主義を確立、維持及び保存することで断固として他の異なる見解に反対した日蓮を通じて提唱された、仏教の真の形に意義を唱えているように思えます。

日蓮はあれほど労力を費やし、その後、あれほどの苦労もあったのに、彼の原理がどのように、またどの程度まで理解され、適用されるべきであるかと議論されていることからして、それはやや無駄であったようです。彼は一つの道に従うことを教えましたが、きっと彼の教えが、異なった人々に数種の異なる適用を持って異なった意味で受け取られるとは意図していなかったはずです。驚くべきことに、これらのグループは、他の教義の意味はおろか、日蓮自身の人となりに関しても同意できないのです。たとえば、日蓮を仏教改革家であり僧侶であると、すなわち上行菩薩であると信じている人もいれば、日興の影響から、日蓮をさらに高い位にあげ、真の釈迦、末法の仏として信じている人もいます。これは日蓮正宗と創価学会の間で信じられています。

また、中には、立正佼成会(正しく仲の良い関係を築くための会)や霊友会(霊の友の会)で実践されているような先祖の霊の崇拝といった、彼が排除しようとしていた混合主義的価値観を組み合わせるものもあります。日蓮の解決法が、その時代の大乗宗派内の矛盾、内部争いと混乱に関して、社会の混乱を克服することであったなら、客観的に、これは700年後、様々な分派間が教義や儀式に関してライバル同士となっている今日の状況とどう違うのでしょうか。日蓮の門徒もその運動も、平和と正義と繁栄の時代を到来させるのに、日蓮のときから少しも進歩していません。それでは、彼ら自身の間でさえ完全な合意を見つけることができないのに、彼らの思想や信念を以って世界を変えようなど、その信奉者の間にどのような希望があるでしょうか。

もう一つの論争点は、日蓮が改宗者を得ようとした方法に議論の余地があったことで、彼は頻繁に公の場で大声で他の人に論駁し、怒りと憎しみを呼び出すことによって、人々を引き込み、影響を与えようとする、折伏の技法を用いました。皮肉なことに日蓮は他の仏教宗派を政治的、宗教的な統制のために民衆を操っていると批判しましたが、私には、それと同じことをするための日蓮の努力との間に何の違いも見えません。

これは人に、自分の信念体系について考え再評価させることを意図していたものの、極端なアプローチであり、人への対応としてもっと感じのよい、柔らかなアプローチの方法をとる典型的な仏教からの離脱で、(2)慈善、寛容、謙遜、哀れみや優しい心を理想として支持する法華経の教えにさえ反するものです。僭越にも日蓮は背に腹は変えられないとして、結果がよければ手段は正当化されると考えたに違いありません。しかし、どうして彼の行動が、彼自身が真理であるとして大いに弁護するこの聖典の特質に矛盾し違反してよいでしょうか。そのため、彼の信念哲学か、この経典自体の本質的価値のいずれか、あるいはその両者ともが疑問視されます。これが、すべての異なる信仰や宗教の放棄や壊滅と並んで、強制改宗の考えを支持する好戦的で国家主義的な努力を信じている創価学会の極端なアプローチをもたらしたものかもしれません。

jesusandjews.com/wordpress/2011/08/02/soka-gakkai/

この動きの実践者の間にあるその他の異なる見解に、悟りに到達して永遠の仏とひとつになるための手段としての御本尊と題目に対する異なったアプローチがあります。まず初めに、日蓮は、今日においてもまだ行われている像や絵画といった釈迦の肖像の崇拝を古代の遺物であるとして排除し、彼がヒンドゥー教徒の間でも使われている曼荼羅の形で開発した別の象徴的芸術 品への献身に取って代えました。その芸術品が御本尊となり、本質的にこれらの宗派にとっての注意の焦点となりました。あまりに もその度合いが強いので、この壁掛けとしての視覚的表象、または象徴的な見本が、崇拝の主な対象として、それ自体で主な実体となっているように思われます。これは、安置されてある装飾された巻物のイメージに尊敬を示すことを好んで、彫刻された木彫りや張り子の神の前でお辞儀をすることによる仏像への献身に取って代わりました。加えて、これには、お題目・題目または主題として知られる真言の詠唱によって、この備品に語りかけることが伴われます。これは、(4)法華経の様々な側面を毎日一度か二度、勤行の中で朗唱すると共に、賛美の祈りとして南無妙法蓮華経(素晴らしい法華経の教えに帰依します)と何度も繰り返し唱えるものです。

シンボル図形、儀式的図画としての曼荼羅、あるいは題目の書道銘文に対する尊敬や敬意の念は、人類の救世主、全ての天からの助けの源、永遠の幸運の源、完全なる献身の対象、幸福の源、 天の究極の源、罪を赦し悪しき因果を除去することで信者を浄化するもの、祈りに応えるもの、全能者、(3)下手に扱われればその個人に対して差し迫った影響を及ぼすほどに、献身者の生活を多大にコントロールする普遍的な力などとしての言及によって人格的な特徴や資質を割り当て、各種の仏陀や菩薩、諸階層の神々の名前とともに、賞賛の対象として銘として顕されています。。私は曼陀羅の設計者、日蓮が彼の信仰のために迫害されたことを考えると、どうやってこれが適用できるのか疑問に思います。ともかく、この曼荼羅は、お守りや、遺品や、魔よけの使用を介して生きていくための魔力を見つける、従ってこの人間が作った物体がどうにか不思議に、あるいは神秘的に人の全人生をコントロールするという、他の宗教文化の迷信的な主張と全く違いはありません。それに、こ れは私たちが自分自身を御本尊の鏡に映った姿として見るという点において、私たちは自分自身以外を見る必要はないとして、私たちは本質的に究極の現実であるとし、単に、全体の一部として仏の性質を見る汎神論的世界観を代表として日蓮が伝えようとしていたことに反しているようにみえます。御本尊が礼拝の実践に関して真理と現実の究極の源であるとすれば、本質的に人は、実質、神としての自分自身に話しかけているのであり、これらすべての他の宗教的な形象や人物は私たちであり、また私たちがそういうものであるから、私たちがそれらの宗教的形象や人物と自分自身を区別する必要が全くなくなるため、中身のない慣行となってしまいます。

言うまでもなく、この、私、私自身を究極の現実とする考え全体に誤りを認めた方もおそらくいらっしゃるでしょう。これは他の人にとっては満足行くものではありません。それは彼らが先天的に、彼ら自身とは別の、彼らを越える何か、または誰かがいると感じ、彼ら自身の短所や弱さ、失敗を超える超絶的人格を認めたいという強い願望や傾向を感じているからです。彼らの真の存在状態または条件を何らかの幻想的存在のうちに見るのではなく、実際そうであるように、彼ら自身とは別の優越した存在に信頼する必要性を有していると認め、正当に付随的または依存的実体であるとして見るからです。

日蓮正宗は、健康と富の心地よい繁栄のメッセージを説いていますが、それはどちらかというと、告白と積極的思考の妄想的な力を捕らえ、それを強める手段としての宗教を必要としない何らかの自助プログラムのように聞こえます。蒔けば、自分の命を清め、霊的にも肉体的にも健康を維持し、自分の家族に喜びと幸せをもたらし、人生を豊かにし、全ての不運を幸運に変え、真の幸福の達成し、個々の願いを叶え、人類を悩ませる幻滅感や疑問のみならず誕生、老化、病気、死といった基本的で普遍的な苦しみを克服し、再生、偉大な知恵、さらには物質的な豊かささえもたらすとという形で現れると信じられている利益を収穫できるという考えを推進しています。

したがって、この繰り返しの手法には、自己欺瞞によって自身を納得させる、洗脳効果があり、ちょうど、カリスマ性のあったヒトラーの大声で長く言い続けるという話法に惹きつけられ、彼のプロパガンダ演説に魅了された熱狂的集団が彼の偽りの話を真実として心から信じたように、私は日蓮の教えに惹かれた人々も、自分が魅力を感じる事がらであれば、それが理不尽であったり筋の通らないものであっても、人間の習性として同意してしまった可能性があると思うのです。日蓮自身が、御本尊に信仰をおくことの利点は、人が自分にある生来の仏の性質を認識するために、人に与える影響によって確証されると証言していますが、思い切ってこれを真理への合理的なアプローチとして関連付けることは、カテゴ リー違いです。現実には、これが現に示しているのは、この手法がある程度の信憑性を生み出すのに成功するということだけかもしれないのです。日蓮はまた、現実の世界は楽園や仏の国に変えられることが可能であり、痛みや苦しみはただ現実の状況を真に知覚するのを妨げる想像に過ぎないと主張しましたが、私はこれは現実に根拠のない不合理な論議であって、平和主義によってか、あるいは社会的/人道的機関や軍事的/政治的国家主義に関与する紛争によって、この教えを促進するために、日蓮の信者でさえ守っていない彼自身の立証基準に相関しないものだと思っています。彼らが改宗という共通の目的における目標を持っていたとしても、その結果を出す能力があることは、そのどちらかがより正しいことを意味するものではなく、むしろそれは単に比較的に人に好みや選択があることを示しています。したがって、私 は、日蓮の因果の原則は絶対的な真理と実践哲学の関係を証明することを怠った点で、不合理であると思います。

それは私の次の論点である、彼が宗教的な主張を確証するために哲学的なアプローチとして確立した体系につながります。それは、真理を識別し、試すための重要な手段としての彼の個人的な 批評に基づけば、特に形而上学的原理や命題を扱うとき、理性と経験論によって確認するために試される能力に欠けるので、標準に達する上でそれ自体の試験につまずきます。日蓮によれば、彼の原則や基準には以下のことが含まれなけれ ばなりません。 道理と証文は事実とみなされる。

道理は、一貫して矛盾に欠いている必要がある。

道理の証明は、因果の原理に依存する。

最も重要なことに、現実の世界で証明されることが示されなければ、それは放棄されるべきである。 その彼の独自の基準に振り返ってみると、私はこの運動の歴史的な記録は、それ自体の売り込んだ約束に達することができなかったと確信しています。彼に有利な解釈をしたところで、私は、これらの前提に基づけば彼の主張がもっともらしいとさえも認めるつもりはありません。よって、彼自身の基準に従って、自分自身を批判することになってしまったのです。日蓮の道理は単に不合理であり、彼の主張を間違っているとして拒絶するものであるから、その結果として、その主張は拒絶されるべきです。

ローマ人への手紙 第21 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。

要約すると、日蓮の人生は、彼の信念に一致していませんでした。自身の病気の治療を受け、 痛みや苦しみが幻想であるというような見解を示した哲学的な文書に反対する行動がそれを裏書しています。もちろん日蓮は癒されず、60歳の早過ぎた死を迎えましたが、これは、この手法が長寿のための万能薬であると信じている一部の宗派と相容れるものではありません。言うまでもなく、日蓮がそれを得られないのであれば、あなたにはどんな希望があるでしょうか?さらに、彼はまた、迫害と苦しみにも耐えました。日蓮が彼の哲学的立場の成果を達成できなかったのであれば、あなたがどうにか痛みや苦しみから逃れることができるという保証がどこにあるでしょうか?

ま た、どうして悟りを開いた人間でありながら、温泉の治療効果によって癒されないであろうことを知らずにいられるでしょうか。したがって、究極の真理を知っているという彼の言葉にどんな信頼をおくことができるでしょうか?現実的には、彼の人生の終わりは、彼が、実証することのできなかった現実についての欺瞞的な主張を普及することによって誤信を推奨し支持した、ただの人であったことを物語っています。私は、全世界に影響を与えた人物かつ救い主を代表する宗教のような他の可能性に心を開くことに関して、あなたがご自分の立場を再評価されるよう挑戦を挑みます。そして、その人物とはキリストです。

最後に私はこの記事によってあなたがこの信念体系について真剣に、または批判的に考えるように気付いてくださったことを願っています。特に、永遠のことがらを扱っているからです。この霊的施策に関して考慮すべき事柄としては、次のようなものがあげられます。あなたがまだ悟りを達成していないのであれば、いつかはそれを達成できるでしょうか。人は、いったん悟りを得たと思ってからも、これらの習慣や手法を行い続けなければならないのでしょうか。もし、仏果の現実認識を維持するために、これらの儀式を継続しなければならないと信じているのなら、あなたは本当に信仰によって生きているのでしょうか、それとも恐怖心によってでしょうか。だとすれば、それは、あなたが心の奥底では本当は自分の経験を疑っていることを示しているかもしれません。あなたが本当には確信がないけれど、とにかくそれを実践しなくてはいけないと感じているなら、未知の暗闇の中で期待し、賭けをするような悟りにどんな保証があるでしょうか。結論として、あなたはこの概念に完全な自信を持つことができ、あなたの人生はその現実を証明し、確証していますか。それとも、あなたの内側には、自分は恐ろしいほどに失われているとわかっているのに、どうすればよいかわからないという感覚がありますか?

締めくくりに、私はあなたにとってきつく、受け入れがたいことを言ったかもしれませんが、それは決して意図的にあなたを侮辱し、憎しみや怒りの感情を引き起こそうとしたものではありません。私が私の主張を大げさに述べて不必要にあなたに嫌な思いをさせているとしたらお詫びいたします。私はただあなたに他の可能性を検討するよう挑戦したいだけで、私はあなたの知り合いではありませんが、私の動機と意図は、時間をかけてこの記事を書くほどにあなたの永遠の救いを気にかけている仲間の人間として利他的なものです。もしもあなたに興味があるのであれば、私の個人的な証しをお分かちしたいと思います。そして私があなたにお願いすることは、私の証しを読むとき、偏見を持たないでほしいということ、そして、主、また救い主としてイエスを現実に実態的に知ることができるように、神に真理を明らかにするか、確証してくださるようにご自分の言葉で祈ってほしいということだけです。

イエスについての私の証し

終わりに、イエスは異なる道の上にある ものとしてあなたの文化の信念の流れに逆らっているように思えるかもしれませんが、それでも、彼は私たちの毎日の生活に影響を与える問題について実践的にも永続的にも対処しています。決論的に、聖書の証人とイエスの言葉は、世界を何らかの神秘的な体験を通じて不可解な方法で発見されるのを待っている架空の潜在的な楽園としてではなく、現実の問題と 現実の人々で満たされている世界として描いていて、それはイエスが人の心を変えるに従い、続いて起こる仲裁のメリットを通してのみ修復可能なもので、悪の起因と、その結果としての痛みや苦しみを含む現在の現実とは別の、新しい天と新しい地として前置きされる愛と喜びと平安の時代がもたらされるという、未来の宇宙修復の約束で最高点に達します。

マタイによる福音書 第11章28節から30節 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

 

神と関係を持つ方法

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

jesusandjews.com/wordpress/2012/06/15/nichiren-buddhism/

日蓮宗資料

Nichiren Buddhism Resources