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儒家思想

Sunday, December 14th, 2014

儒家思想體系包容並蓄釋道二教思想,使其產生了以儒為主,釋道為輔的華夏文化格局。故此,博大精深的華夏文化在儒、釋、道三教互滲、互補及互通的影響和熏陶下,得以在華夏民族心中形成一股生生不息的向心力與凝聚力。

三教合一的宗教形態,不但使華夏文化的宗教底蘊變得更為豐厚,更可使其發展在高度統一儒、釋、道三教倫理道德的基礎上,更上一層樓,達到華夏思想文化的巔峰。

單就理論而言,儒家所提倡的倫理學說,確實有值得稱道之處,但在實踐方面,卻顯得空泛且缺乏說服力。試想一下,基於社會規範和根據個人喜好所作出的道德判斷,怎麽可能符合是非善惡的終極標準呢?只有超越世俗規範,且淩駕於人為標準之上的無上存在,其所制定的道德終極標準,才算是理想的道德規範。為了使其道德規範得以廣泛傳播,且植根於個人的信仰、良知和靈魂之中,其必須擁有一套遏惡揚善的依憑準則,由此為實際的道德行為奠下基礎。而這套依憑準則乃是以這位引導人類積極向善的無上存在所傳達的旨意為準。然而,道德終極標準不是指這位無上存在的意誌,而是其理性智慧。因此,祂的道德終極標準,才是人類一切法律和道德的源泉和根基。人,一旦背離依祂標準而制定的法律和道德不僅不完美,而且還會與祂的旨意背道而馳。這套種完美的倫理道德準則或糾錯機制不但能與基督教的單一主神論之世界觀相吻合,且可用於實際操作。

聖經在《羅馬書》2章14-16節闡述了這個統一全人類的事實:
“(沒有律法的外邦人若順著本性行律法上的事,他們雖然沒有律法,自己就是自己的律法。他們顯明律法的功用刻在他們心裡,他們的良心一同作證——他們的內心掙紮,有時自責,有時為自己辯護。在那日,神要藉著基督耶穌按照我所傳的福音,審判人隱藏的事。”

一直以來,儒家在其思想體系當中,對神存在與否,不但沒有給出一個明確的答案,更將之視為一個籠統模糊的概念。同時,借“天意”或其他相似的概念,如“太極”、“天命”等,引申為非人力所能及的自然規律。無論如何,脫胎於道家思想的“儒家天道論”,其思想實際上亦結合了至聖孔子對於天道的認識。至聖孔子亦在其論述中提及其只不過是天道的傳播者而非創始者。

至聖孔子將其自身視為禮教的改革者,這是因為至聖孔子認為,只有恢復周朝崇禮尚樂的生活方式,且在 “禮教”的管理下,才能使當時混亂不安的政局得以安定,並有利於當時的中國形成一種和平有序的狀態。

雖然至聖孔子主張“恢復周禮”,但同時其對神道或超然存在的態度,總體上可以說是“敬而遠之”。與此同時,為了避免儒家思想和當時社會的宗教信仰產生明顯的沖突,遂其采用折中的手段,以神妙變化的“天道論”取代“神道設教”的原始教義,對華夏民族進行教化,並逐漸淡化其宗教觀念。盡管如此,身為經驗主義者的至聖孔子,仍未能完全抹去玄學思想痕跡。因此,在華夏文化裏,仍保留祭祖的傳統習俗,以及和自然主義視死亡為生命的終點不同的是,其盛行“前世命定今生禍福”的宿命論。

至聖孔子在論及祭祖的傳統習俗方面,強調“祭如在”,意即透過祭祖儀式,表達對先人的思念與尊敬。同時,祭祖也是傳統儒家孝道,慎終追遠的表達。可惜,時下的祭祖儀式在佛道二教的影響下,宗教功能逐漸突顯,使得祭祖初衷早已被本末倒置了。

然而,讓人覺得匪夷所思的是,一個不是依靠至高存在使用其無邊神力所創造和無量神智所維持的往生觀念如何得以具象化呢?此外,只有當無上存在的靈觸摸到我們屬人的心靈時,祂的靈性之光才會在我們心中燃燒起來,並讓我們看清往生去向,這才是一個理所當然的認知。

《詩篇》19章1-4節已經明確解釋,上帝早已通過潛藏在我們靈魂深處,以及能協助我們明辨是非善惡的道德指南針,向我們彰顯其真善美的本質。盡管如此,祂也曾親自訓示過我們,同時也通過耶穌基督和聖經,協助我們摒棄迷信式的祭祖儀式和擺脫傳統的桎梏。

盡管儒士皆視無聲無色的天道為終極本源與律令,但讓人覺得荒謬的是,把我們的生命托付給無聲無息的天道,又怎麽能讓自身感覺踏實心安呢?如果流行不息的至誠天道真的如同儒家經典所論述般是我們所看不到、摸不到、聞不到的宇宙法則?那麽請試想一下,我們又怎麽能從這個無形無聲且不以實體方式而存在的法則處,感受和接受到祂的心思呢?

事實上,盡管上帝保持著沈默,但祂卻已不著痕跡地向我們顯示了其真善美的本質及旨意。在尋求上帝旨意的過程中,祂不曾迷惑或為難我們,因為祂不會讓我們獨自面對這個世界。因此,祂會引導我們在信仰之路上邁出第一步,而這一步乃是回應上帝藉耶穌基督所給予我們的恩典。

與此同時,我也歡迎無神論者,通過點擊以下鏈接 Atheist and Agnostic,在我的部落客閱讀此文章,並針對文章內容提出質疑與進行探討。

至聖孔子所提出的“天下為公”的“大同社會”,乃是儒家所設計和追求的和諧社會之最高境界。這個理想社會的其中一些特征包括:其一、在政治上,“選賢與能,講信修睦”;其二,社會的生產資料與勞動成果都為全社會共有;其三、人們真正的以“和諧”、“博愛”的精神來處理相互的關系,人與人之間互助互利,人人平等,不存在高低貴賤的等級制度。其四,大同社會沒有爾虞我詐,社會秩序安寧,人們過著太平安逸的生活,沒有暴亂與戰爭等等。很顯然,《禮運篇》中的“天下為公”的大同社會理想,即使是在當前的社會發展條件下,仍是一種不可能實現的道德理想。

縱觀人類發展史,屢禁不絕的貪汙腐敗、戰爭沖突及惡行邪僻從不曾在歷史的舞臺上落幕,且人們亦不曾想過從這種自我毀滅的迷幻中清醒過來。而借著福音所宣揚的人倫道德,至今則仍然只是紙上談兵,未曾得以有效落實。這是因為一直以來,人類的心智始終都被黑暗所蒙蔽,導致其不斷錯過和上帝進行交流的機會。

至聖孔子認為人和動物不同之處在於,人有向善的本性。而亞聖孟子所提出的《人性向善論》則進一步指出,人性本善,以及具有向善的一面。他認為人們只需讓“善的萌芽”自內而發,並通過一系列的“盡心”、“養性”、“思誠”的功夫,反求諸己,終成善人。與亞聖孟子過於理想化的學說不同的是,荀子則主張人性本惡,他認為人性中的善是環境影響的結果,是表面的偽裝。這或許是因為荀子看清了人性在封建社會中所存在的醜惡的一面,方才提出的主張。

回顧人類文明發展史,倫理道德的發展不但始終在原地踏步,且有日漸式微之勢。此外,上世紀更被公認為是人類文明發展史上最血腥動蕩的一個世紀,因為20世紀曾發生多次慘絕人寰的大屠殺甚至是種族滅絕。實際上,在華夏文明發展數千年的歷史長河中,也曾上演過一段段充滿血腥和殘酷的歷史。遠的不說,中國在過去的數十年間,為了在全國全面落實和貫徹馬克思思想和共產主義,他們被迫以殘酷的戰爭手段解決思想意識的紛爭,卻始終未能建立起一個人類孜孜以求的理想國度 – 烏托邦。

不論是周朝禮教或儒家思想、道家思想、道教和佛教信仰仿佛就像是一顆璀璨的流星,在漫長的華夏三千年歷史長河中曇花一現,但卻未能對華夏發展史產生源遠流長的影響,以及發揮舉足輕重的作用。

聖經也曾明確述及,盡管人類的外形與上帝相似,其內心亦存在隱匿於善良之下的陰影或黑暗,但是在道德上存在瑕疵的人類,總是抵抗不住邪惡的誘惑。好處與樂趣往往是人類在追求理想過程中優選關註的重點。關於這點,如早前所述般,這一切卻絕不是在追求人生真諦和尋求生命本質的過程中所該關註的重點。

至聖孔子認為,抑制邪惡的內在動力就是“仁”。因此,其在其思想核心“仁”裏強調:(1)己所不欲,勿施於人。其實,這是一種自我否定的行為。這是因為一個需要經過指導,方才會懂得如何去關愛他人的人,又怎麽能領略到圓滿生命的真諦呢?即使亞聖孟子也承認,持有這種念頭的人,其思想會逐漸墮入或傾向於黑暗。

令人覺得諷刺的是,至聖孔子自身也承認,他從未遇過任何一個領悟圓滿生命之真諦的人,甚至連他自身也不曾體會過這種完美無缺的感覺,這也是導致 (2) 其婚姻失敗,最終落得離婚下場。連如此一個被其追隨者們所崇拜的聖人都無法領略到這種玄之又玄的感覺,又怎能將其所悟之伦理道德轉變為解決社會糾紛的依憑準則呢?

其實,聖經裏也有記載著一些相似且由一群堅守基督信仰及積極宣揚基督教義的聖賢所犯下的失敗案例,其中包括聖徒保羅,他在《羅馬書》7章21-25節,詳述了他掙紮於善惡之間的經歷:

“我覺得有個律:就是我願意行善的時候,就有惡纏著我。因為按著我裡面的人,我喜歡神的律,但我出肢體中另有個律和我內心的律交戰,把我擄去,使我附從那肢體中罪的律。我真苦啊!誰能救我脫離這必死的身體呢?感謝神,靠著我們的主耶穌基督就能!

這樣看來,一方面,我內心順服神的律,另一方面,肉體卻順服罪的律了。”

聖經已經明確表示,人類是不可能依靠自身達到道德終極標準的。但同時聖經卻為我們捎來一份希望,那就是上帝能讓這一切成為可能。只有在全心全意相信和接受上帝所賜予我們的恩賜,並在祂的面前承認自己是一個罪人,且祈求祂能夠赦免我們過去因為不認識上帝所犯下褻瀆祂的罪行,並與祂重新締結盟約的情況下,才能與上帝同在及共享真正的和平與安寧。

而在重新和上帝締結盟約的過程中,耶穌基督成為上帝和人類之間最理想的溝通橋梁,因為在道德上達到完美無缺之境界的耶穌基督,就像是謙謙君子或神人般被視作為正義或道義化身的祂,能讓我們通過屬靈重生的過程重獲新生且擁有如同信行法師所說的神性。同時,使我們得以與上帝共享永恒的幸福。

當我們和上帝締結及堅守這份重要的盟約時,上帝已為我們打開通往天國的門扉,並讓我們得以進入生命的最後歸宿——上帝的世界。同時祂也使我們永離地獄。一旦我們犯下背德的罪孽且心生愧疚時,祂會把我們扔進地獄,承受永恆的煎熬,且與祂永遠隔絕。

最後,如同《以賽亞書》11章6-9節和2章2-4節所記載般,當彌賽亞再臨人間,帶領上帝的所有子民進入千年王國和“新天新地”的天國時,也會使世界恢復到它的初始秩序。

儒家思想所提出的“天下為公”,世界“大同”,可說是千百年來華夏民族的理想。從至聖孔子設想通過禮治,構架社會治理秩序的“大同”社會,到洪秀全的“太平天國”,再到康有為的“大同”思想,無一不反映出華夏民族對於大同社會理想的期盼和希冀,但這些設想和藍圖最終都以失敗告終。至聖孔子就像過往的哲人聖賢般,致力於通過理論思維和哲學思考去追求生命真理,使生命獲得最大的幸福。他的做法和當代醉心於研究、分析、探索與預測人類當前和未來社會的種種疑難雜癥之心理分析學家或社會學家同出一轍。當然,我們也比古人更擅長處理社會上的各種弊病和問題。我們可以通過建立全新的宗教信仰、開創嶄新的生活理念和研發出更有效的鎮靜藥物作為替代方案,用以解決這些弊病和問題。但這些治標不治本且帶有哲學性質/宗教色彩的自我激勵計劃或所謂的“萬應靈藥”,對於那些渴求尋找到生命真諦的人們而言,不但會使其心智陷入混亂,甚至變得更加苦不堪言。

迄今為止,盡管世上有為數不少渴求了解生命意義和尋覓人生真諦的人們。同時,也存在著更多在思想上慵懶松懈、不思進取且依然故我縱情於燈紅酒綠的生活當中的人類。

如果人類無法通過宗教信仰和教會活動改變自我。那麽,他是不可能徹底改變其目前所身處的環境。

回望古人所走過的信仰之路,豁然發現他們從不把觀念束縛在一個狹窄的天地,並勇於沖破自我束縛,虔誠地向淩駕於其上的至高存在進行禱告,以尋求指引和啟示,因為他們敏銳地察覺到他們所尋求的指引或啟示,是遠遠超越人類的思維與認知的極限。正如聖徒保羅曾在《羅馬書》7章24-25節
為了尋找到能治愈人類疾病的藥物時,大膽地向世人質問道:“誰能救我脫離這必死的身體?”他以為百分百肯定的語氣答道:“就是主耶穌基督。”

最後,耶穌基督在《馬太福音》11章28節邀請你們:“凡勞苦擔重擔的人都到我這裡來,我要使你們得安息。我心裡柔和謙卑,你們當負我的軛,向我學習;這樣,你們的心靈就必得安息。因為我的軛是容易的,我的擔子是輕省的。”
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如何與神建立關係?

儒家思想參考資源

Confucianism

 

 

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儒家思想參考資源

Sunday, December 14th, 2014

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耶穌傳

 

 

新約聖經

 

 

聖經聆聽版

儒教

Friday, October 10th, 2014

儒教は中国文化を構成する仏教徒および道教信者と、信条を部分的に共有する。結果的に3つの信仰形態がお互いを排斥せずに協調し合うような集団の形成に至った。

これらのシステムを結び合わせる織り糸としての役割を果たしたのが、倫理的価値観の尊重であった。

儒教の倫理的な教えを熟考するとき、その立派であることを認め一方、説明がつかない部分が散見される。社会的規範や個人の選択に基づいて相対的に適用される善悪の概念を、どうやって生み出したのか?倫理は人間の経験や好みに優った世界共通の法典の下で規準化されて初めて存在意義を持つ。世界各地にある教団が永続するには、この中心的な倫理の原則が堅固かつ普遍的かつ客観的なものでなければならない。この倫理的法典を統合するのに役立つ確定的な要素は、生来不変でありながら、倫理に関する識別および原則に関するずば抜けた知識を持つような、至高の法制定者によってのみもたらされる。この規範または概念は、その知識を整理してより扱いやすいものにする有神論の世界観と非常に良く合致する。

聖書のローマ書2章14節〜16節では、全人類に該当するこの現実についてこう証言する。

14 (たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、15こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。) 16そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

儒教は神の言葉を受け入れることをしない。むしろ神が治める「天」または「天国」といった、人格を持たない力というぼやけた概念として神を位置づける。この神秘的な力について言及する場合、太極拳や道(タオ)といった同意語が用いられる。厳密に言うとこのような天国観は孔子の思想に起源を持たず、彼に起源を持つと考えられる思想の多くに類似しているだけである。彼自身も自分がただ教えの伝道者であり、創始者ではないことを明言する。

孔子は自分自身について、むしろ「古き善き時代」における古代文化の再興者として考えています。

孔子は古代の人々が「帝」または「上帝」と名付けた、超越的存在や神の概念を否定し、むしろこれら古代の道義を復興させることを望んでいる。彼は自分の立場を巧みに利用して、宗教的要素を排除または少なくとも無力化する文化的背景の下で宗教的衝突を回避したの。

結果、この新しいムーブメントは宗教的な事柄に言い及ぶことを避けながら、哲学的な観念をより多く採用。しかし孔子はその経験主義的なアプローチに関わらず形而上学的な領域を完全には排除しない。したがって自然主義的な消滅論とは異なり、来世観に因む祖先崇拝に代表されるような天国の超自然的な側面にもグレーゾーンが残されてあります。

孔子は祖先崇拝に絡み先祖を尊ぶことを美徳として強調するが、そこには彼の哲学的アプローチと矛盾する神秘主義的な要素が残る。それはこの習慣を完全に捨て切ろうとしない当時の人々に配慮した、一つの妥協策であったのかも知ない。

しかし、この世の一時のはかない存在を超越して働かれる、全能の神による賢明なご計画を抜きに、果たしてそのような来世観が存続し得るだろうか。神こそ私たちの心に永遠に対する理解をお与えになるお方である。それを悟った時にこそ初めて、私たちが本能で感じる来世というものの理解が可能となる。

神は私たちの心の内側にある善悪を識別する良心と、詩篇19編1〜4節で讃えられているような壮大な自然の摂理を通して、私たちにご自身を啓示される。それにも関わらず、神はまたイエス・キリストという仲介者や聖書を通して個人的に私たちに語りかけ、結果として先祖の鎮魂による迷信的な仲裁行為の必要性を取り去ってしまう。

儒教の教師たちがたとえ真の現実の基とされる天から言葉を奪っても、このような大切な概念を全く私たちと関わりのないものとすることは、全く馬鹿げていると言いほかないでしょう。もし仮にそれが正しいとしたら、この仮想現実の教師たちも同様に黙秘したままでいなければならないでしょう。だが皮肉にもこの黙り込む観念的な王国について、彼らは自らが書いた様々な書物を通じて、多弁を弄してきたことはよく知られています。結局、もし天が何も語らないなら、どうやって人がそこに思いを馳せることができたのでしょう?

私はいくつかのブログで無神論/不可知論に関する記事を書きましたが、そこで触れているのはまさにこの問題であります。興味を持っていただけると思いますので、以下のURLをクリックしてみてください。
日本人
階級に基づいた儒教をモデルとした道徳へのヒューマニスティック的なアプローチによる問題は、特に政府機関と一般市民との差を除けば、限られた結果しか生みません。それは素晴らしいモデルであり概念ではありますが、現実的に達成は不可能でしょう。

人間の歴史見る時に人類が措置を講じてこなかった汚職、戦争、社会の悪について書かれた本が無数に存在します。この提唱された道徳的ヒューマニズムの福音は、実践的というよりもむしろただの机上の空論に過ぎなかった。この否が応でも認めざるを得ない不可能という事実は、人間の悪の要素に起因しているのです。

人間は基本的に善なる性質を持ち、後に孟子が荀子が反対の立場を取ったにも関わらず、この立場を固めました。筍子はこの哲学的なアプローチの現実的な側面に目が行き、その夢物語を受け入れられなかったのかも知れません。

人間の進歩や社会の進化を見ます時に、現在のところ道徳的に進展を果たしたというところまで来ておらず、前世紀に至っては、膨らみ続ける民族浄化や大量虐殺を生み出す力のゆえに、世界史上最も残忍で血にまみれた時代と言われたほどです。中国自体、この古代からの宗教運動とマルクス主義や共産主義などの時代的潮流から生まれた思想が共存する歴史を歩みながら、ほんの少し前に同国で起こった流血のデモ活動が動かぬ証拠となったように、ユートピア国家を実現できませんでした

儀式的か思想的かに関わらず儒教、道教、そして仏教など、3000年もの歴史を誇る宗教的ムーブメントの栄華はごく限られた期間に止まり、その歴史全体においてそれらが訴える社会救済のための真理とは裏腹に、長期的または永続的な結果を残せてはいないのです。

聖書は人間が道徳的に欠落しており、善の影または投影を生じさせる神のイメージを留めていたとしても、悪の性質がそれを上回っていることを証明しているのです。善や愛は人間の徳の間でもとりわけ美しいとされますが、既に述べた事柄からも証明されるように、それは人生において自然に開かれる道や経路ではないのです。

儒教のシルバールールである「仁」に関する教示は、(1)自分が他人から受けたくない仕打ちを他人にも負わせないことを強調しつつ、悪を制御しようとする消極的なアプローチであり、他人にそれを指導する必要がある以上愛が自然派生的なものでないことが分かります。孟子ですら人の心が悪の引力に打ち勝てないことを認めているのです。

非常に皮肉なことに、孔子は人間を真に愛した人物の存在について確証を持たないことを認めており、さらに彼ですらその完全な愛を得ることができなかったことに気付いている。もしやそれは(2)離婚という結果に至ってしまった彼の結婚生活を反映してのことかも知れません。その追従者たちから神格化されてきた儒教の教祖である彼本人がこの考え方を体現できなかった以上、果たしてこのモデルを人間社会に蔓延る紛争を解決するための規準に据えることが可能でしょうか。

このような類いの失敗は聖書に登場する、神からの道徳的な律法を厳守することに熱心な、高潔な人々の間にも見られます。その1人が使徒パウロです。彼はローマ書7章21〜25節の中で善悪の狭間で葛藤する自分の姿を詳細に描写しています。

21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。 22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23わたしの五体にはもう1つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょか。25 Tわたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

聖書は人間が自力ではこの道徳的な高水準に到達できないことを宣言していますが、同時に人間には不可能であっても神に不可能は無いことを訴えつつ、私たちに希望を与えてくれます。私たちが罪による道徳的欠陥によって反抗を重ねてきた神との和解へと導く憐れみや赦しという、最高位でかつ神聖なものを土台とすることで、人間は真の平和や神や他人との調和を見出し得るのです。

仁の理想型であるイエスこそ、その方程式の解となるのです。彼こそ君子および真の人間の姿を取る超人であって、義または正義の美徳を実現した道徳的に完璧なお方なのです。それゆえ彼は「新興」と呼ぶように、私たち人間を創造時の状態へと修復しながら、新しい性質を持った新しい人への霊的な生まれ変わりを起こす神との調和と平和へと私たちを導いたのです。

私たちが神との和解の結果行き着く最終的な到達点は、地獄にいる反神論とは違い、私たちが住まうことになる天の御国という神の領域に入ることです。神や他人に対し、最終的に私たちを神の臨在から永遠に追放する倫理的な欠陥がもとで罪を犯したとして、私たちの心が私たち自身を罪責観や恥を通して非難するときに地獄の裁きというものが実感されるのです。

支配を啓示するメシア宣言がイザヤ書11章6節およびイザヤ書2章2〜44節に明示されている創造された全ての摂理を修復させるための、仕上げの業が行われるのです。

儒教は社会的秩序への介入を試みますが、新しい世界の秩序を実現するには至っていません。孔子は過去に幸福への道を模索した無数の宗教的または哲学的なグルと変わりはなく、その思想では注意深く人間社会の問題を研究・分析・予測する精神分析家または社会学者による時代ごとの試みのように、原始社会に対するほど現代社会の病魔に対しては効果が無いでしょう。私たちはこれらの問題を解決する代替策として新しい宗教を発明し新しい哲学を発展させ、そして新薬を製造することができます。しかし最終的には、人間の内面的な病を奇跡的な癒す手段として人々を薬漬けにし、自助プログラムやいんちき薬による対処法をうたう宗教または哲学的な迷信によって大衆を欺くという結果しか残らないでしょう。

しかも結局、世界の諸問題の解決に向けた努力や模索は、非常に時代錯誤なものとして概ね忘れ去られていくでしょう。

宗教的または世俗的な信条からの善行の努力では、自分自身すら根本的に変えることが不可能である以上、人間は究極的にその環境を変化させることができないのです。

古代人の様子を振り返ってみると、彼らは内面を省みるという信条にとらわれず、むしろその関心は自分たちを超越した天に答えを見出そうと、そこに熱いまなざしを送ることに注がれていました。おそらく彼らには答えへと導く案内人が必要だったのでしょうが、少なくとも彼らは自分たちを超越した究極的現実の必然性を見抜いていました。まさに使徒パウロがローマ書7章24〜25節において自身の体験を告白し、自分をこの死ぬはずの体から救い出してくれるのは「主イエス・キリストである」と明言しながら、人間の病気への解毒剤を大胆に紹介する姿に代表されます。

最後に、マタイ11章28節からの言葉を通して、イエスはあなたを招いておられることをお伝えします。28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

神と関係を持つ方法

 

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儒教主義に関わる資料

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儒教主義に関わる資料

Friday, October 10th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

儒家思想

Friday, October 25th, 2013

在儒家思想中,構成中國文化的佛教與道教與它有信仰上的共同點,形成一種凝聚:所有三種信仰表達藉避免排他性,締造它們社會的和諧。

將這些系統結合一起的共同脈絡是他們對持有高尚品德的觀點。

儒家的道德教訓是值得稱道的,卻無法解釋。一個人如何開始有善惡的概念?因為這些名詞在應用上可以是相對的,乃根據社會規範與個人選擇而定。道德只能在一部超越人類的喜好經驗的普世法典的規範之下,才有意義。這種總體的道德原則,需要一個客觀基礎,使它牢不動搖又周詳,足以讓世界各地社區生存。一個有助於統一這種道德律的決定性因素只能來自一位至高的法律賜予者,將人類設計為與生俱來就有一種對道德區分或原則的能力傾向。當然,這種模型或概念與有神的世界觀相吻合,它能處理這等知識。

聖經在《羅馬書》2:14-16見證了這一統一全人類的實相:

14(沒有律法的外邦人若順著本性行律法上的事,他們雖然沒有律法,自己就是自己的律法。15他們顯明律法的功用刻在他們心裡,他們的良心一同作證——他們的內心掙扎,有時自責,有時為自己辯護。16在那日,神要藉著基督耶穌按照我所傳的福音,審判人隱藏的事。”

儒家避免提到神,而是將這類現實歸於一個朦朧的概念、一種它堅稱為“天”的非位格力量。有些人提及這種神秘力量時還使用了其他的同義詞如:太極、道。反正這天的觀念並非儒家思想原創,正如大多數出處歸他人的觀點。他甚至提到這點,聲明他不過是散佈者而非原創者。

孔子看自己比較是一位改革者,要恢復“過去好日子”的古代文化。

孔子想保留這些古老的原則,同時避開它們所彰顯的一種超然存有或神、古人稱為帝或上帝的觀念。因此,他調度他的立場以回避文化上的宗教衝突,試圖除去或至少中和這種宗教元素。因此,這種更新運動將持一個較哲學性的觀點,同時避談宗教。然而,孔子以他的實證性方式,也不完全排除形而上的境界。因此,它仍然留有天的超自然層面之餘音,其中包含祭祖,涉及來世,有異於自然主義的湮沒觀點。

孔子或許在祭祖方面所強調的是尊重,但它仍然有一種神秘成分,這與他的哲學方法不一致,可能是與​​他當代一些不肯完全擺脫與放棄這種做法者的一種妥協。

然而,若不包括一位工作超越這短暫存有界的全能神之智慧設計,這種來世的觀點如何能持續?當你意識到是神將永恆的理解放在他們心中,這種對來世的直覺才有意義。

神向我們默示自己,通過我們內心的道德指南針分辨對錯,也通過他的雄偉大自然彰顯。(《詩篇》19:1-4)。儘管如此,他還親自向我們說話,也通過耶穌基督和聖經,因而省去撫慰祖先的迷信做法。

即使儒學導師已對稱為真實的終極源頭的天保持沉默,然而對如此超然之事賦予如此重要性,那是荒謬的。如果事實是如此,那麼這些所謂實相的導師本應當同樣保持沉默,但諷刺的是,我們從他們的書知道他們對這沉默的思想領域談了極多。畢竟,如果天是沉默無聲,那麼人又怎麼可能改變他們對它的思索呢?

事實是,上帝保持沉默,卻未嘗不為自己留下證據來,他​​給我們留下他的屬性與存在之線索,卻不是以如此方式躲避或捉弄我們,而是向著更全面或特殊的啟示邁出第一步或初步,在耶穌裡以一種位格及顯眼的方式臻完全。

我已寫了一些有關無神論/不可知論的博客,正為對應這些問題,你可能會感興趣:

Atheist and Agnostic

儒家思想對道德的人本進路模式設定一種階級之分,只能產生有限的成果,尤其是如果從政府機構到普通公民,大家都不光明正大。這是一個極佳的模式和概念,在現實中卻無法實現。

看看人類歷史大量記載的人類從未糾正的腐敗、戰爭和社會罪惡。這建議中的道德人文主義福音只觸及理論,卻去不到實現。這個無可否認的、不可能行得通的失敗,原因在於人類的邪惡。

孔子暗示人性本善,後來孟子鞏固這個立場,雖然荀子持相反觀點。這也許是因為荀子看到了現實,而不是這種哲學進路的夢想狀態。

如果我們看看人類發展或社會演變,我們的道德一點都沒有進步,甚至上一個世紀被認為是世界歷史中最殘酷、最血腥的,因著任意妄為的種族清洗和種族滅絕。即使歷史中有這些古老運動的中國本身,加上當代馬克思主義和共產主義的哲學,還未達到烏托邦的狀態,短短幾年前發生的血腥示威就是例證。

因此,無論是在禮樂文化或儒家思想的各種主義,道教或佛教,這些跨越3000年的運動,只享有有限的光輝時刻,但整體來說,他們已經無法按照其所聲稱的拯救社會的真理帶來長期或持久的果效。

回想起來,聖經表明人類有道德上的缺陷,雖然我們保有神的形象,有善的影子或反映善,邪惡的本質仍然占上風。在人類追求的理想中,善和愛可能是首選,但它不是獲得生命的自然途徑或進程,我已經分享了一些例子。

孔子有關“仁”的玉律名言是一種克制邪惡的負面方式,強調:(1)己所不欲,勿施於人。這顯示愛是不自然的,特別是如果你須要指導別人如何去行。即使孟子也承認,人的意念會墮落或傾向邪惡。

很諷刺的是​​,孔子也承認,他從來沒有看到任何人真正愛人,他甚至意識到他沒有得到中完全的愛,也許這可作為反思:(2)他的婚姻失敗,最後離婚。因此,如果被追隨者神化的大師本身已無法獲得這種心靈狀況,那麼這個模式怎麼能成為社會解決衝突的標準?

聖經中也有這一類失敗的例子,甚至在品格高尚,對堅守神的道德律大發熱心者當中。其中一位就是使徒保羅,他在《羅馬書》7:21-25詳述了他在善惡之間的掙扎:

21我覺得有個律:就是我願意行善的時候,就有惡纏著我。22因為按著我裡面的人,我喜歡神的律,23但我出肢體中另有個律和我內心的律交戰,把我擄去,使我附從那肢體中罪的律。24我真苦啊!誰能救我脫離這必死的身體呢?25感謝神,靠著我們的主耶穌基督就能!

這樣看來,一方面,我內心順服神的律,另一方面,肉體卻順服罪的律了。”

聖經說,人類不能靠自己達到這個道德美境,因為聖經清楚表明,對人類來說那是不可能的,但它給了我們盼望,聲稱在神萬事都能。人只能在憐憫和饒恕的至高與神聖素質之基礎上,與神和其他人找到真正的平安與和諧,使人與神(我們曾在道德上犯錯而得罪了他)恢復關係。

在等式中,耶穌成了解決方案,因為他是仁的理想人選。他是荀子或超人,代表人類,擁有完美的道德,達致了終極意義的義,因此帶我們恢復與神的和諧與平安,透過屬靈重生我們變成新人,有新的性情,從而恢復人類原有的受造狀況,很像鑫興一樣。

終極的做法是使我們與神和好,達致屬神的天堂境界——我們將住在那裡,遠離相對的地獄。我們因著道德缺失而得罪神和其他人,我們的心以內疚和羞恥責備我們,地獄的審判受證實,最終導致永恆與神隔離。

最後,一個確鑿的行動將是救主掌權的國來臨時,將如《以賽亞書》11:6-92:2-4所記載一般,恢復一切創造秩序。

雖然儒家思想嘗試達到社會秩序,它無法把我們帶入一個新的世界秩序。孔夫子就像過去諸多宗教和哲學大師一般,追尋達到幸福之道,正如當代的心理分析學家或社會學家的精心研究、分析與預測人類社會的各種問題,我們並沒有比這些原始社會更懂得處理各種社會弊病。我們可以開創新宗教,並開發新理念與製造新藥物作為試圖解決這些問題的替代品,但最終這只會導致欺騙群眾,給他們過分藥量,或藉著宗教/哲學的迷信欺騙他們:使用一些新的自助程式或蛇油救治法來尋找一種醫治人類靈魂的靈丹妙藥。

然而,這一切對解決方案的一番努力和摸索後,世人依然故我,有許多蒙昧不化的舉止。暂此

人類不能從根本上改變他的環境,因為他不能透過宗教或世俗善行的自我努力來改變自己。

在回歸古道中,他們沒有將自己困鎖在內視自身的信念,而是舉頭望天,向超越自己的境界尋求答案。他們或許需要引導以尋獲答案,但至少他們察覺到終極實相必然是超他們以外的,正如使徒保羅從前在《羅馬書》7:24-25大膽地宣稱給人類的疾病提供解藥,說:“誰能救我脫離這必死的身體?”他的回答乃是決定性的:“就是主耶穌基督。”

最後,耶穌在《馬太福音》11:28 邀請你們:“28凡勞苦擔重擔的人都到我這裡來,我要使你們得安息。29我心裡柔和謙卑,你們當負我的軛,向我學習;這樣,你們的心靈就必得安息。30因為我的軛是容易的,我的擔子是輕省的。”

 

 

 

其它鏈接:

如何與上帝建立關係

儒家思想資源

jesusandjews.com/wordpress/2010/05/30/confucianism/

 

 

 

AMG’s World Religions and Cults, AMG Publishers, Chattanooga, Tennessee

All marked references are attributed to:

© 2009 Josh McDowell Ministry. All rights reserved. No part of these Materials may be changed in any way or reproduced in any form without written permission from Josh McDowell Ministry, 660 International Parkway, Richardson, TX 75081. www.josh.org. +1 972 907 1000. Used by Permission.

儒家思想資源

Friday, October 25th, 2013

四個屬靈定律

godlife.com/zh/faith

 

 

耶穌電影

jesusfilmmedia.org/video/1_20615-jf-0-0

 

 

新約聖經/聖經

www.biblegateway.com/versions/Chinese-Standard-Bible-Traditional-CSBT/

儒家思想资源

Thursday, October 17th, 2013

四个属灵定律

godlife.com/zh/faith

 

耶稣电影

jesusfilmmedia.org/video/1_20615-jf-0-0

 

新约圣经/圣经

www.biblica.com/en-us/bible/online-bible/cuvs/約-翰-福-音/1/niv/

www.biblica.com/en-us/bible/online-bible/ccb/约翰福音/1/niv/

 

有声圣经

CNV

儒家思想

Thursday, October 17th, 2013

在儒家思想中,构成中国文化的佛教与道教与之用有信仰上的共同点。这形成一种凝聚:所有三种信仰表达藉以避免排他性,缔造它们社会的和谐。

将这些系统结合在一起的共同脉络是他们对持有高尚品德的观点。

儒家的道德教训是值得称道的,却无法解释。一个人如何开始有善恶的概念?因为这些名词在应用上可以是相对的,根据社会规范与个人选择而定。道德只能在一部超越人类的喜好经验的普世性的法典的规范之下,才有意义。这种总体性的道德原则,需要一个客观基础,使它牢不动摇又周详,足以让世界各地社区生存。一个有助于统一这种道德律的决定性因素只能来自一位至高的法律赐予者,将人类设计为与生俱来就有一种对道德区分或原则的能力倾向。当然,这种模型或概念与有神论的世界观相吻合,能处理这等知识。

圣经在《罗马书》2:14-16见证了这一统一全人类的实相:

14(没有律法的外邦人若顺着本性行律法上的事,他们虽然没有律法,自己就是自己的律法。15他们显明律法的功用刻在他们心里,他们的良心一同作证——他们的内心挣扎,有时自责,有时为自己辩护。16在那日,神要藉着基督耶稣按照我所传的福音,审判人隐藏的事。”

儒家避免提到神,而是将这类现实归于一个朦胧的概念、一种他坚称为“天”的非位格力量。有些人提及这种神秘力量时还使用了其他的同义词如:太极、道。反正这天的观念并非儒家思想原创,正如大多数出处归他的观点。他甚至提到这点,声明他不过是散布者而非原创者。

孔子较多看自己为改革者,要恢复“过去的好日子”的古代文化。

孔子想保留这些古老的原则,同时避免它们显出的一种超然存有或神、古人称为帝或上帝的观念。因此,他调度他的立场以回避文化的宗教冲突,试图除去或至少中和这种宗教元素。因此,这种更新运动将持一个较哲学性的观点,同时避免谈论宗教。然而,孔子以他的实证性的方式,也不完全排除形而上的境界。因此,仍然有天的超自然层面的余留泛音,其中包含祖先崇拜,其中涉及来世,有异于自然主义的湮没观点。

孔子或许在祖先崇拜方面所强调的是尊重,但它仍然有一种神秘的成分,这与他的哲学方法不一致,可能是与​​他当代一些不肯完全摆脱与放弃这种做法的人的一种妥协。

然而,若不包括一位工作超越这短暂存有界的全能神之智慧设计,这样一种来世的观点如何能持续?当你意识到是神将永恒的理解放在他们心中,这种对来世的直觉才有意义。

神向我们默示他自己,通过我们内心的道德指南针分辨对错,也通过他的雄伟大自然彰显。(《诗篇》19:1-4)。尽管如此,他还亲自向我们说话,也通过耶稣基督和圣经,因而省去抚慰祖先的迷信做法。

即使儒学教师已对称为真实的终极源头的天保持沉默,然而对如此超然之事赋予如此重要性,那是荒谬的。如果事实是如此,那么这些所谓实相的教师本应当同样保持沉默,但讽刺的是,我们从他们的书知道他们对这沉默的思想领域谈了极多。毕竟,如果天是沉默无声,那么人又怎么可能改变他们对它的思索呢?

事实是,上帝保持沉默,却未尝不为自己留下证据来,他​​给我们留下他的属性与存在之线索,却不是以如此方式躲避或捉弄我们,而是向着更全面或特殊的启示迈出第一步或最初一步,在耶稣里以一种位格及显眼的方式臻完全。

我已写了一些有关无神论/不可知论的博客,正为对应这些问题,你可能会感兴趣:

无神论者和不可知论者

儒家思想对道德的人本进路模式设定一种阶级之分,只能产生有限的成果,尤其是如果从政府机构到普通公民,大家都不光明正大。这是一个极佳的模式和概念,在现实中却无法实现。

看看人类历史大量记载、人类从未纠正的腐败、战争和社会罪恶。这建议中的道德人文主义福音只触及理论,却去不到实现。这个无可否认的、不可能行得通的失败,原因在于人类的邪恶。

孔子暗示,人性本善,后来孟子巩固这个立场,虽然荀子持相反的观点。这也许是因为荀子看到了现实,而不是这种哲学进路的方法的梦想状态。

如果我们看看人类发展或社会的演变,我们的道德一点都没有进步,甚至上一个世纪被认为是世界历史中最残酷、最血腥的,因着任意妄为的种族清洗和种族灭绝。即使历史中有这些古老运动的中国本身,加上当代马克思主义和共产主义的哲学,还未达到一个乌托邦的状态,短短几年前发生的血腥示威就是例证。

因此,无论是在仪式音乐文化或儒家思想的各种主义,道教/道教或佛教,这些跨越3000年的运动,只享有有限的光辉时刻,但整体来说,他们已经无法按照其所声称的拯救社会的真理带来长期或持久的结果。

回想起来,圣经表明人类有道德上的缺陷,虽然我们保有神的形象,有善的影子或反映善,邪恶的本质仍然占上风。在人类追求的理想中,善良和爱心可能是首选,但它不是获得生命的自然途径或进程,我已经分享了一些例子。

孔子有关“仁”的白银法则的名言是一种克制邪恶的负面方式,强调:(1)己所不欲,勿施于人。这显示爱是不自然的,特别是如果你须要指导别人如何去行。即使孟子也承认,人的意念会堕落或倾向邪恶。

很讽刺的是​​,孔子也承认,他从来没有看到任何一个人真正爱人类,他甚至意识到他没有得到中完全的爱,也许这可作为反思:(2)他的婚姻失败,最后离婚。因此,如果被追随者神化的大师本身已无法获得这种心灵状况,那么这个模型怎么可能成为社会解决冲突的标准?

圣经中也有这一类失败的例子,甚至在品格高尚,对坚守神的道德律大发热心者当中。其中一位就是使徒保罗,他在《罗马书》7:21-25详述了他在善恶之间的挣扎:

21我觉得有个律:就是我愿意行善的时候,就有恶缠着我。22因为按着我里面的人,我喜欢神的律,23但我出肢体中另有个律和我内心的律交战,把我掳去,使我附从那肢体中罪的律。24我真苦啊!谁能救我脱离这必死的身体呢?25感谢神,靠着我们的主耶稣基督就能!

这样看来,一方面,我内心顺服神的律,另一方面,肉体却顺服罪的律了。”

圣经说,人类不能靠自己达到这个道德美境,因为圣经清楚表明,对人类来说那是不可能的,但它给了我们盼望,声称在神万事都能。人只能在怜悯和饶恕的至高与神圣素质之基础上,与神和其他人找到真正的平安与和谐,使人与神(我们曾在道德上犯错而得罪了他)恢复关系。

在等式中,耶稣成了解决方案,因为他是仁的理想人选。他是春姿或超人,代表人类,拥有完美的道德,达致了终极意义的义,因此带我们恢复与神的和谐与平安,透过属灵重生我们变成新人,有新的性情,从而恢复人类原有的受造状况,很像鑫兴一样。

终极的做法是使我们与神和好,达致属神的天堂境界——我们将住在那里,远离相对的地狱。我们因着道德上的缺失得罪神和其他人,我们的心以内疚和羞耻责备我们,地狱的审判受证实,最终导致永恒与神隔离。

最后,一个确凿的行动将是救主掌权的国来临时,将如《以赛亚书》11:6-92:2-4所记载一般,带来一切创造秩序的恢复。

虽然儒家思想尝试达到社会秩序,它无法把我们带入一个新的世界秩序。孔夫子就像过去那么多多的宗教和哲学大师一般,追寻达到幸福之道,正如当代的心理分析学家或社会学家的精心研究、分析与预测人类社会的各种问题,我们并没有比这些原始社会更懂得处理各种社会弊病。我们可以开创新宗教,并开发新的理念与制造新药物作为试图解决这些问题的替代品,但最终这只会导致欺骗群众,给他们过分药量,或藉着宗教/哲学的迷信欺骗他们:使用一些新的自助程序或蛇油救治法来寻找一种医治人类灵魂的灵丹妙药。

然而,这一切对解决方案的一番努力和摸索后,世人依然故我,有许多蒙昧不化的举止。

人类不能从根本上改变他的环境,因为他不能透过宗教或世俗中善行的自我努力来改变自己。

在回归古道中,他们没有将自己困锁在内视自身的信念,而是举头望天,向超越自己的境界寻求答案。他们或许需要引导以寻获答案,但至少他们察觉到终极实相必然是超他们以外的,正如使徒保罗之前在《罗马书》7:24-25大胆地宣称给人类的疾病提供解药,说:“谁能救我脱离这必死的身体?”他的回答乃是决定性的:“就是主耶稣基督。”

最后,耶稣在《马太福音》11:28 邀请你们:“28凡劳苦担重担的人都到我这里来,我要使你们得安息。29我心里柔和谦卑,你们当负我的轭,向我学习;这样,你们的心灵就必得安息。30因为我的轭是容易的,我的担子是轻省的。”

 

 

如何与上帝建立关系

儒家思想资源

jesusandjews.com/wordpress/2010/05/30/confucianism/

 

 

AMG’s World Religions and Cults, AMG Publishers, Chattanooga, Tennessee

All marked references are attributed to:

© 2009 Josh McDowell Ministry. All rights reserved. No part of these Materials may be changed in any way or reproduced in any form without written permission from Josh McDowell Ministry, 660 International Parkway, Richardson, TX 75081. www.josh.org. +1 972 907 1000. Used by Permission.

Confucianism Resources

Sunday, August 1st, 2010

1. Testimonies of Chinese coming to Christ

www.youtube.com/watch?v=PIlV8jfptpk&feature=channel

 

2. Audio Resources

 

 

3. Written Bible

 

 

4. Watch the “Jesus Film”

 

 

5. Gods Plan of Salvation “The Four Spiritual Laws”

Confucianism

Sunday, May 30th, 2010

Within Confucianism their are commonalities of beliefs that are shared among Buddhists and Taoists which make up the Chinese culture. This has resulted in an agglomeration of which all three expressions of faith have harmonized their society in avoiding exclusivity.

The common thread that has fastened these systems together has been their views as related to having a sense of moral values.

When contemplating the ethical teachings of Confucianism it is commendable but not explainable. How does one originate the concepts of evil or good since these terms can be relative in their application as based on the societal norms and individual choices. Morality can only be meaningful if it is standardized under a universal law code which surpasses the human experience of preference. This overarching moral principle needs an objective basis in order for it to be firmly anchored and comprehensive for the survival of the world wide community. The one determining  factor that helps to unify this moralistic law code can only come from a supreme law giver who has innately hardwired mankind to have an aptitude towards moral distinctions or principles. This model or concept of course fits nicely with a theistic world view which makes such knowledge manageable.

The bible bears witness to this reality which unifies all of mankind in Romans 2:14-16

14 (Indeed, when Gentiles, who do not have the law, do by nature things required by the law, they are a law for themselves, even though they do not have the law, 15 since they show that the requirements of the law are written on their hearts, their consciences also bearing witness, and their thoughts now accusing, now even defending them.) 16 This will take place on the day when God will judge men’s secrets through Jesus Christ, as my gospel declares.

Confucianism has avoided God language but rather it attributes such realities to a shadowy concept of a non personable force which He maintains as T’ien or “heaven.” Some have also used other synonymous terms when referring to this mysterious force  such as the Tai-chi or the Tao. Anyway this view of heaven was not original  to Confucian thought much like most of his views which is attributed to his origins. He even mentions this by stating that he was only a transmitter and not the originator.

Confucius thought of himself as more of a reformer in bringing back the ancient culture of the “Good Ole Days”.

Confucius wanted to maintain these ancient principles while avoiding their views of a  transcendent being(s) or a god concept which the ancients referred to as Ti or Shang Ti and therefore he maneuvered his position to avoid the religious conflict of the culture in attempting to remove or at least neutralize this religious element. As a result this updated movement would take more of a philosophical view while avoiding religious chatter. Yet Confucius would not completely eliminate the metaphysical realm by his empirical approach and therefore there remained a residual overtone to the supernatural aspect of heaven which included such things as ancestor worship which deals with the view of an afterlife unlike the naturalistic view of annihilation.

Confucius may have emphasized respect in relationship to ancestor worship but yet there remained a mystical component which was inconsistent in his philosophical approach which may have been a compromise with his contemporaries who were unwilling to completely break free from and abandon this practice.

However how can such a view of the afterlife remain without including the necessity of   intelligent design through an omnipotent God who functions beyond this temporal realm of existence. Also this intuitive sense of the after life only makes sense when you realize that it is God who has put the understanding of eternity in their hearts.

God has revealed himself to us silently through the internal moral compass of our soul which differentiates between the law of right and wrong and also through His majestic display of nature Psalms 19:1-4. Nevertheless He also speaks to us personally as well through the medium of Jesus Christ and the bible therefore eliminating the need for the superstitions of mediation through ancestral appeasement.

Even though the teachers of Confucianism have relegated a silence to heaven which is said to be  the ultimate source of  reality yet it is nonsensical to assign such importance to such a thing that remains aloof and if that be the case then the the teachers of this supposed reality should have remained silent likewise and yet ironically enough we know that through their books they have spoken much about this idealogical realm of silence. After all if heaven is silent then how could a person possibly transform their minds to it?

The truth is that God has not left himself without a witness in remaining silent and He  has left us clues to His nature and being but not in such a way so as to elude or tease us but rather as taking the first or initial step towards a destination of a fuller or special revelation which would be idealized in Jesus in a personal and significant way.

I have wrote some blogs on atheism/agnosticism which addresses these very issues of which you may find interesting

Atheist and Agnostic

The problem with the Confucian model of a humanistic approach to morality in specifying a sort of class distinction can only produce limited results especially if everybody is not on board from the governmental agencies to the common citizen. It is a wonderful model and concept yet in reality it is not attainable.

If you look at human history there are volumes that speak of corruption, warfare and the evils of society which mankind has never remedied. This proposed gospel of moral humanism has only been theorized rather than actualized. The reason for this undeniable failure of impossibility is due to the human element of evil.

Confucius hinted that man kind is basically good and later Mencius solidified this position even though Hsun-tzu took an opposing view. This is perhaps because Hsun-tzu saw the reality rather than the dream state of this philosophical  approach.

If we look at the advancement of man or the evolution of society we have not come so far that we have advanced moralistically and even this last century was considered to be one of the most brutal and bloodiest eras of world history due to its unrestrained capacity towards ethnic cleansing and genocide. Even China itself who has had its history in these ancient movements along with its contemporary philosophies of Marxism and Communism have not obtained a utopian state of being which is evidenced by its own bloody demonstration that took place just a few short years ago.

So whether it is the Ritual Music Culture or the ism’s of Confucianism, Taoism/Daoism or Buddhism these movements which span 3000 years have had only limited moments of glory yet overall they have failed to bring any kind of long term or lasting result according to its truth claims to save society.

In retrospect the bible shows mankind to be morally deficient and even though we retain the image of God which has the ability to produce a shadow or reflection of goodness it is the evil nature that takes precedence. Goodness and love may be preferred among the ideals of mankind but it is not the natural path or course to life as exampled by the things I have already shared.

The saying of Confucius regarding his silver rule of “Jen” was a negative restraint on evil by emphasizing (1)not doing unto others what you don’t want them to do unto you  showing that love is not natural especially if you have to instruct others on how to do it. Even Mencius admits to the mind falling into or gravitating towards evil.

Ironically enough Confucius has admitted that he has never seen anybody who really loves humanity and even he realized that he didn’t obtain this perfect love and perhaps this was a reflection of (2)his failed marriage which resulted in divorce. So if the grand master himself who has been deified among his followers was unable to obtain this  mindset then how is it possible for this model to be a standard for resolving the conflicts of human society.

Their are biblical examples of these kind of failures as well even among men of noble character who had a zeal for upholding the moral law code of God. One of these individuals was the Apostle Paul who describes in detail his struggle against evil and good in Romans 7:21-25.

21 So I find this law at work: When I want to do good, evil is right there with me. 22 For in my inner being I delight in God’s law; 23 but I see another law at work in the members of my body, waging war against the law of my mind and making me a prisoner of the law of sin at work within my members. 24 What a wretched man I am! Who will rescue me from this body of death? 25 Thanks be to God—through Jesus Christ our Lord!

So then, I myself in my mind am a slave to God’s law, but in the sinful nature a slave to the law of sin.

The bible states that mankind can not reach this state of moral excellence on its own as the bible makes it clear that it is impossible for man and yet it gives us hope by stating  that with God all things are possible. A person can only find true peace and harmony with God and others on the basis of the supreme and divine qualities of mercy and forgiveness which results in a restored relationship with God against whom we have violated through the moral failure of sin.

In the equation Jesus becomes the solution as He is the idealized person of the Jen. He is the Chun-tzu or the superman who stands as a representative for mankind and who was morally perfect having achieved the ultimate sense of Yi or righteousness and therefore has brought us back into a state of harmony and peace with God by transforming us by means of spiritual regeneration into a new man who has a new nature thus restoring mankind to his original created state of goodness much like the Hsin Hsing.

The ultimate consummation of reconciling us unto God will be in reaching Gods domain of heaven in which we will inhabit apart from the antithetical state of hell. The judgment of hell is confirmed when our hearts condemn us with guilt and shame as we violate God and others through the moral failures of sin which ultimately results in eternal banishment from the divine presence.

Finally the conclusive act will be when a messianic state of rulership will bring forth a  restoration of all the created order as found in Isaiah 11:6-9 , Isaiah 2:2-4 .

Though Confucianism has attempted to reach societal order it has not succeeded to bring us into a new world order. Kung fu-tzu is like so many of the past religious and philosophical gurus who sought after a means of achieving happiness and like the contemporary efforts of the psychoanalyst or the sociologists who meticulously research, analyze, and predict the problems of human society we are no more closer to treating the social ills of our times than these primeval societies. We can invent new religions and develop new philosophies and manufacture new drugs as alternatives in attempting to resolve these problems but in the end it will only lead to deluding the masses by over medicated them on pharmaceuticals or deceiving them through the superstition of religion/philosophy with some new self help program or snake oil remedy as a means to find a miracle cure concerning the ailments of the human soul.

Yet after all this striving and groping for solutions  the world at large will still be left as largely uncivilized in much of its behavior.

Mankind can not ultimately change His environment because he is not able to significantly change himself through the self effort of good works as found in religious or secular expression.

In returning to the ancients they were not land locked to their beliefs of looking inward but rather their attention was in peering heavenward beyond themselves for answers. Perhaps they needed guidance to their answers but at least they discerned the necessity of ultimate reality as being beyond themselves much like the Apostle Paul did  as he previously states in Romans 7:24-25 by making a bold move in giving the antidote to mankind’s sickness as stating who will rescue me from this body of death of which he answering conclusively “it is Jesus Christ the Lord.”

Finally Jesus invites you by saying in Matthew 11:28   28 “Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest. 29 Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for your souls. 30 For my yoke is easy and my burden is light.”

 


 

How to know God

Confucianism Resources


 

AMG’s World Religions and Cults, AMG Publishers, Chattanooga, Tennessee

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