Archive for the ‘Shintoism’ Category

円応教

Tuesday, October 14th, 2014

円応教は日本の神道系宗教であり、特別に天啓を神より授かりその布教者および世の僕になるという天命を受けたとされる深田千代子を教祖とする。
この日本の新宗教も同類のグループの例にもれず、個人または組織が独自で編み出した持説を唱えながらこの宗教ブームをもり立てている。

日本においてはこの類いの宗教体験が数および種類ともに豊富である。宗教絡みの熱狂的霊性運動がこの国全土を席巻し、その結果途方もない真理観を持つカルトグループが数百種にも誕生。政治的にはどの教えも目指すべき最終地点に違いはないと言って差し支えないだろう。しかし本質的かつ究極的真理との関係においては、各々独自の見解に固執する排他的教義が多数存在するためこの理屈は通用しない。

ここで一つのジレンマが生まれる。誰もが自ら見出した価値観に基づき、精神的な表現形態の一つとして宗教的教義を作り出すことができることだ。ここから一体何が正しく道理に基づいているのかという問いが生まれる。文化内に生じる一時的な熱狂ブームおよび流行が追い風となり、宗教的視点に傾倒する人々が多くいる。もしかするとそれは個人的な自己顕示欲を発散させるための一形態なのかもしれない。しかし真理というのは私たち個人の選択や気まぐれに支配されず、人間の嗜好の枠を超えた所に存在する。

何れにしても、深田氏の使命は未来予知に加え治癒者として、人々が問題を回避できるように援助することであった。何れも高尚な使命には見えるが、それは必ずしも彼女の利他主義的な動機やその内面状態の健全性を証明するには十分ではない。なぜなら個人的な教義は、自己崇拝的なナルシズムの世界で思い描かれる誇大妄想に起因するからである。事実、このような症状に基づいて病名が付くような精神疾患や精神状態があるとされている。さらにこの種の活動は何も特殊なものではなく、タロットカード、手相読み、星占いのほか霊媒師など、既に巷に溢れているオカルト的行為を通じて体験が可能だ。もし病気が悪魔の仕業によるならその霊的主体が取り憑いた時と同様、奇異な現象を伴いながら去っていくだろう。あたかも町の祈祷師のもとに治療に駆け込んで奇跡的に癒された人のように。一種の偽薬効果というべきであろうが、このような方法で悪霊が去っていくとなると教祖の至高の力によるという説は崩れ、癒すか癒さないかに関わらずその宗教家が悪魔の領域とつながり、単にその力の威信および権威に仕えていることを示す結果となる。

クリスチャンの視点から見ると、このような最高権威者である真の神から人の関心を奪おうとするまやかしの預言および癒しは、モーセの偉大な奇跡との見事なコントラストを描いていたエジプトの魔術師たちによる小細工と重なる。

その霊的現象を調査すると、その実態の裏付けとしては抜群の効果と妥当性を持つ幾つかの仮説に思い当たる。戦時中、日本社会を不能にするほどの壊滅的被害が広範囲にわたり国内を襲い、現実を通してその集団の幸福感に反駁したことで、癒し信仰ムーブメントは時を経るに連れて勢いを失っていった。

それにも関わらず、戦後、この宗教運動は復興を果たし団体は再結成された。今日彼らは、2人が相対して拝み合いながら日常生活の問題解決に取り組む、「修法」と呼ばれる霊的癒しの手法を採用。最後に挙げる問題点は、権威ある聖典を1つ以上持つというカルト全般の暗黙のルールにならい、修行円応経典という法典を用いてそこからインスピレーションを得られると唱いつつ、自己の教義や実践を正当化する。

皆様は各々自分が取り組んでいる修行に対して「誠(誠実)」であるとお思いかもかもしれませんが、正直それは間違いです。またある程度の「愛」そして「善(美徳)」を持つことが出来るかもしれませんが、もしそれが的を外しながら適用されれば、真の愛の対象であるべき最も至高な地位におられる真の神を蔑ろにしてしまう恐れがあります。結論を言うと、この集団が掲げる目標の本来の意図及び適用を鑑みるときに、社会を癒すという使命をこれまで果たし、またこれ以後も果たし得る見込みについては甚だ疑問です。しかし私自身を含め、神の癒しの力を体験してきたクリスチャンには、それはまさしく一つの現実なのです。

イエスについての私の証し
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神と関係を持つ方法

最後、イエスの言葉をご紹介します。:

マタイ11章28〜30節
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

円応教の情報資料

Ennokyo

 

 

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

円応教の情報資料

Tuesday, October 14th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

神道主義

Tuesday, October 14th, 2014

現代的な思考に基づいて「神の道」を意味する神道主義を見る時、古事記や日本紀に描かれているようなこの宗教的世界観の持つ神話主義に容易に気付くはずである。この宗教はその多神論的な見解を特徴とし、その中にはまさにギリシャ社会に見るような神々の集団という概念を含む。さらに神殿から剣に亘り、全ての物に宿り支配する霊または神々八百万の神を崇めるアニミズム信仰に立つことでも知られている。この類いのアニミズムは原始的な信仰体系を持ち、今日でも未開の部族社会において迷信によって畏怖の念を植え付けながら人を支配し続けている。

これほど豊富な量の神々がいることを考える時に、私にはどうしても腑に落ちないことがある。特に先人たちがこの世を去るに連れて神々の数が増えていくとすれば、いかにしてその数を正確に算出することができるのかが疑問である。また本来ならば相容れない要素を、皮肉にも無神論主義の仏教や儒教から取り入れて統合していることから、この宗教には独自性も純粋さも認められない。さらにこの宗教体系を構成している多数多彩な教派が混在し、そのため実態を押さえることも信仰のニュアンスを調整することも難しく、その結果その統一性が失われている。

神道について問題となる別の側面として、以前行っていたものの第二次世界大戦の日本の敗戦後に天皇裕仁によって放棄された天皇崇拝がある。戦後、彼は自ら現人神の座から降り、その神話化がペテンに過ぎなかったことを証明した。果たして天皇家に間違って帰された神格との関連性を、神道が奉ずるカミに適用して良いものか?日本人の創造主でありなおかつ守護者でありながら国を奪われてしまったのに。

とにかく、神道はその真理を裏付けるための後ろ盾を失ってしまった。もはや国教としての地位を奪われてしまった背景には、恐らく神道が他の劣性であるはずの被造物や文化に敗北したことへの弁明が適わないまま、その宗教的指針の内部構造が瓦解してしまった事実があるのではないか。西側のカミの方が力で優っていたという見方の他に、日本のカミがその信者たちに憤り彼らを見捨てたが故に、彼らが史上空前の窮地に陥っていた時にも救援に来なかったとも考えられる。しかしそれは宗教的迷信からの想像上の民話に基づくカミにまつわる人為的な神話ではないのか?確かにカミの存在を有効化するには後者のほうが尤もらしい説明には聞こえるかもしれないが、逆にカミを行動が起こせないほど弱々しくその存在が疑われるものにしている。

これらの説話が危険な理由は、カミによって想像された島に住みそのカミの血筋を直接汲むことから、日本人がどれだけ優性な民族であるかを描いている点にある。日本は美しく発達した産業を誇る国であることは理解するが、自分たちをカミの子孫としてエリート視することは全くのエゴである。そこよりも遥かに広くて創造のスケールも大きい 世界が外にあることは、誰の目から見ても一目瞭然だ。

特別で唯一無二な被造物としての誇りと独立心から、自分を他者よりも高みに上げようとするのは人の集団に見られる典型的な傾向であるように思える。人間の性質を競う態度には文化の中に広く浸透しかつ有力な、自分たちを特別な人種とみなす見方が付きものだ。

このような宗教的イデオロギーを掲げた日本は、不幸にも同種のエリート主義で凝り固まったムッソリーニおよび悪の権化アドルフ・ヒトラーと三国協定を結ぶ失敗を犯した。皮肉なことに、彼の白人至上主義的なアーリア民族思想は、実は大東亜主義と真っ向から対立するものであった。とにかく自分の考えを拡散させヨーロッパ全土を初め恐らく世界全土を手中に収めようとするヒトラーの企みは、彼の憎悪に満ちたプロパガンダ活動に起因する。それが自分たち以外の民族を存在価値の低いものとして見るべきだとする、暴君の偏執的な観念のもとで彼らを脅かすあらゆる形態の差別と偏見を招く偽りの優越感を植え付けた。

この無神論的文化では人間を他の動物種と同等にしか見ないため、人間は単なるタンパク質を納めた袋に成り下がってしまう。この種の考えは 無慈悲な大量虐殺に精を出す神を持たない社会からの、おぞましき惨劇を正当化するものだ。結局、この社会のアウトサイダーに対して悪に満ちた行動を取る者たちは、彼らを後進的な生命形態に過ぎず人間に分類されるに相応しくないとみなした。このような偏狭な文化の下で人は人命の神聖さと価値を意識することはしないため、彼らにしてみれば大量虐殺用の強制労働キャンプなどはバクテリアが働く汚水処理場にしか見えないのである。その元を辿れば、それに適した者こそ生存すべきだとする考えを支持するダーウィン進化論が影響していることが判明する。

同じく優劣を強く意識した国家体制は東南アジアおよび太平洋諸島への侵攻へと舵を取りながら最終的には失敗し、自らを大国として自画自賛する声は完全に打ち消されてしまった。
自国を世界列強国の1つに押し上げようとする力業は、自らの文化を正直・礼儀・誠実を重んじ、原則善人として振る舞うことを美徳とした倫理の象徴として描く宗教への帰依と矛盾しているように見える。しかし行動によって言葉を無に帰し、彼らは第二次大戦中に征服者の座に就いた。

今日、日本では社会上層部でも反抗期の10代の間でもモラル低下が目立ち、このような倫理上の問題をほのめかす証拠を見る。日本では中毒性の物質主義や姓奴隷などの氾濫に並び反社会的かつ暴力的なカルトの増加を見る。この事実からも日本社会を神聖な地と位置づけることに違和感を覚えざるを得ない。

大量殺戮を企てたオウム真理教や日本赤軍を初めとする無数の反社会グループ、また極右グループなどの何れにしても、日本社会の瓦解を示唆している。

私は敬愛する日本の人々を中傷することを意図して発言しているのではなく、むしろその文化圏の悪化傾向を見る時、日本社会がその宗教的意図に関わらず世界各地にある別の共同社会と全く同等であることを訴えたいのだ。私は個人的に、一般的に認められる温かさゆえにアジア文化圏の人々を愛し交流を楽しんでいる。しかし本を正せば彼らとて、全人類が共有し日本の文化を侵蝕する罪の問題に苦しみ葛藤する人間であることに違いはない。

神道主義はこのことを触れることを罪として嫌厭する。持説とする人間の性善説がそうさせているのだが、しかし様々な証拠がこの定説が支持されるに値しないことを証明している。こうして神社が聳え立つこの地にも巣くう社会悪を認め、さらにそれに取り組むこともしないのだ。皮肉なことだが、神道にもある程度自らの社会の堕落を憂う感覚が備わっていることを確信する。その裏打ちが神道流の十戒または神道の訓令からの「すべからず」形式のネガティブな禁止令から取れる。

日本の社会は日本人を貪欲に駆り立てる霊的空虚感を残した、この宗教の二重性を目の当たりにしてきたと思う。この宗教の教義が抱える空しさが彼らをして幻想へと陥らせ、人生の意味への疑問に対するより肝心な答えを暗中模索させてきたことは疑う余地もない。でなければ毎年約100もの新宗教が誕生する現実をどう受け止めたら良いのか?

この事態を聖書的観点から見ると、新約聖書のテキストと私たちが目撃する日本の宗教に関わる現況との間に関連性を見出せる。使徒パウロがアテネを訪れた際、古代ギリシャ文化の一要素となっていた宗教または神々への熱狂主義を目にした。それが彼にとってアテネ人やアレオパゴスの哲学者たちに近づき、その宗教的なアイデンティティを悟らせるための好機となった。これらのギリシャ人はまさに現代の日本人のように、自らの宗教的コンテキストと噛み合う新しい案や考えを模索しており、パウロはそのコンテキストの中で、彼らの宗教的行為と一致する真理について弁証することができたのだ。

使徒行伝17章22〜31節
22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあついかたであることを、わたしは認めます。」23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう
24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにと言うことなのです。実際、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。28 皆さんのうちにある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。30 さて、神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。31 それは、先にお選びになった1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。

このパウロの発言によって、かの哲学者たちが創造者または創造の神について思いめぐらしながら格闘していた宗教的疑問の解決法を概観できる。

もしかしたらあなたも彼らのように、存在または人生の意味など全く同じ問題と格闘しているのかも知れません。おそらく神道ではあなたの生き甲斐や、あなたの心中の奥深い所で谺する疑問についての答えが得られていないのでしょう。あなたが深い祈り心を持ちながら考え、私が自らの証言を通してあなたとシェアしたいものに心を開いていただくように願います。

神と関係を持つ方法

イエスについての私の証し

私たちは罪によって汚れているため神に対して負い目があり、「祓い」を受けることで霊的な再生を果たしながら洗い清められなければならない。それは聖霊様によってイエスが私たちと結び合うことで実現するのです。イエスを信頼するとき、彼はあなたの人生にこの関係をもたらし、あなたを神から引き離していたこの罪と死の法則から解放し、永遠の命という賜物を授けて下さるのです。これは無償で与えられる贈り物であり、人間の自己実現または自助行為によっては決して獲得できない物なのです。

最後に申し添えます。真理は私が語る命題の域を凌駕していますが、私自身の個人的な人生経験によっても確認および証言することが可能です。文字通り私が自分の人生にイエスを迎え入れたとき、それはまさに心が清められる内面の沐浴とも言える経験であり、今は神に近づくことができているのです。中にはキリスト教が外国の宗教であるという理由でこの前提を受け入れられないと内心思い、あらゆる西洋の概念に対して拒絶反応を起こす人もいるかも知れません。しかし実際キリスト教は東洋にその起源を持つ宗教です。また神道とは異なり、地理的な制限など持たずに世界中を網羅するまでに拡がりを見せています。逆説的にも、主なムーブメントの1つとして世界から隔たったままでありながら、逆説的にも神道は自らの訓令の5項目目で大家族主義を掲げるように、世界共存の価値を認めているのです。

イエスはヨハネによる福音書3章16,17節でこう言いました。 16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエスの恵みはあなたにも注がれています。日本にも約200万人ものクリスチャンがいることが何よりの証拠です。あなたの価値観が神道の宗教的イデオロギーに基づく文化的な縛りに支配されるようなことがあってはいけません。これまで見てきたように神道には多くの過ちが散見されます。既に日本文化は突如席巻した宗教ムーブメントによってその伝統的形態の殻をすでに打ち破り、その結果、人生の本質発見を期待する人々が他の運動に流れ込みました。どうか、その道へ進む前にこの記事の内容を真剣に考えイエスを信じてみてはいかがでしょう。「サン」(「太陽」ではなく「子」の意味)であるイエスは、国民一人ひとりの魂を照らす心の光を届けに上空に昇り日本を覆っているのです。

マタイによる福音書 11章 28〜30節:
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。

 
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Tuesday, October 14th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

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霊波之光

Saturday, October 11th, 2014

霊波之光教会は「神通力の光」もしくは「霊波之光会」として知られている別の神道系の宗教である。開祖は波瀬善雄であり、そのため設立当初は波瀬先生鑽仰会(波瀬先生を取り巻く真理探求者の集まり)と称されていた。

他の数百にも及ぶ集団と同じく、霊波之光も日本を席巻し新宗教および新興宗教と呼ばれる霊性運動の流れを生み出すに至った、霊的な充足への渇望から生まれたムーブメントである。
結果として、この日本の霊的飢餓が日本国民に対し、偽の救世主ムーブメントを巻き起こす道を開いたのだ。しかしこの自作の熱狂的メシア思想の急激な流入がある中、これらの人物の精神および人格について、そこに安定した正常さが認められるのか、それとも壮大な妄想を抱くような、非現実的な思考過程に陥りやすいのかを吟味しなければならない。

心理学者の間でもこの現象が注目されて、彼らによれば、人には宗教的な傑物に感化されやすい者もいるとされ、それがこうした精神病の大流行を生み出す1つの原因と思われる。この特異現象の別の理由として、不幸に見舞われることで自分の未来への不安感を覚え、希望に飢え渇きながら行に励む者のうち、世の出来事に起因した変化への抑え切れない期待心から、霊的関心を発火させた者がいたことが考えられる。肯定的に言えば、このようなより良い未来を築くことへの願望は、人を迷走させ誤った霊的探求へと誘わない限り間違ったことではない。

とにかく、この状況から数多くの所謂現代版メシアが生まれ、彼らは口を揃えながら自らを世界救済の完遂者であると主張する。これこそ、チャールズ・マンソン、ジム・ジョーンズ、デビッド・コレシュ、そして世紀末的指導者の麻原彰晃らに代表されるような、常軌を逸したある特定の人物たちをして暴力に訴えせしめた根源である。一方で 世界救世教の創始者である岡田茂吉や神的な力のオーラを体内から発する波瀬善雄の合力による救済に代表されるような、神癒の力を強調する神秘主義的な祭儀や教義を広める、より穏健的かつ平和的なアプローチもある。

この類いの宗教を検証していると、アメリカのクイズ番組「To Tell the Truth(真実を話す、という意味)」を思い出し、あたかも「本当のメシアさん、お立ち上がりください」と言う場面を想像してしまう。マタイによる福音書24章23〜24節で、聖書はこのような事態についても触れており、これらの偽救世主に注意を払うようにと人々に向けて予め警告を発しています。

23 Tそのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業をおこない、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。

無数に存在するグルやスワーミー(インドのヒンズー教の教示者)、あるいは上述したようなメシア候補者であろうと、本質的に誰しも霊的な卓越性や悟りの自負を訴えることが許されている。しかし如何にして霊的な指導者と期待する声に応じて、その主張を現実的に具現化していくのか?
彼らはその訴える究極的実存が本質的に真実であるかについての証明または保証を要求されないまま、自らの主観的な宗教体験に係る霊的な興隆について、かような誇張的な弁明を行うことができる。

結局のところ、彼らは文字通りの救世を果たし世界規模でその名を轟かせてきたのか、それとも期待とは裏腹に血気盛んな少数派の有志たちにのみ影響を及ぼしているに過ぎないのか?公然と胸を張れるほどのご利益を全て果たしているのか、それともそれはただの見果てぬ夢と化してしまったのか?

これに先んじて私は岡田茂吉に関する記事を投稿させていただいた。彼曰く、神力の光が、丸めた手を挙げるかあるいは護符を使用することで生じる霊波を通じて、人から人へと伝わる癒しの力として働き、人にバランスと調和をもたらす。これは身体を通じて五剣山の霊から発せられる霊波との交流を説く、波瀬善雄による概念と大半部分において似通っている。だが後者には、都合の良いことに波瀬の死後も何か神秘的な理由で、彼がこの霊的エネルギーの永遠の波になるという教えが加わる

これらの証言や体験談に潜む欺瞞を暴くために有効な、固定観念や偏見抜きの信頼性と現実味に富んだ証拠は何か?絶対という観念に固執する以上、それらの宗教ムーブメント全てに正当性を認めるわけにはいかない。結論、メシアの数も天文学的な数字に上ることについては、日本の民話および迷信を構成している神道のカミと同様である。この問題については私は以前の記事で、神道主義の信仰体系に潜む宗教的誤謬の検証を試みている。

神道主義

あなたはもしかするとこれらの宗教的喧伝が孕む非論理性に対して憤懣遣る方無く過ごしているかもしれない。私があなたに願うのは心を開放しつつ、ただイエスの人格と行いとに目を留めることです。波瀬義雄が罪、救い、教会、癒し、そして救世主など、イエスの思想や用語を借用していることから、波瀬がイエスから影響を受けていることは一目瞭然です。最後、イエスの影響力は全世界・地球全土に及び、人々の霊的な渇きを潤してこられたのです。さらに将来、現存の混沌に満ちた人生おと世界とは真逆の、平和に満ちた新しい世界の秩序を打ち立てことを約束されます。

www1.cbn.com/700club/episodes/all/amazing-stories

イエスについての私の証し

イエスの言葉を引用します。

マタイによる福音書 11章28〜30節

28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。. 29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 Fわたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

霊波之光に関する資料

Rieha no Hikari

 

 

A Bibliography of Japanese New Religious Movements with Annotations Including an Introduction to Japanese New Religions at Home and Abroad, copyright 1999 Routledge, Peter B. Clarke, pgs.200-202 Note: (reference found in Google Books, permission request through Cengage has already been granted)

霊波之光に関する資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

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大本

Saturday, October 11th, 2014

大本は数ある神道宗教形態の1つであり、宗教民話に含まれる迷信に起源を持つ。その信仰の1つが国常立尊および素戔嗚尊(スサノオノミコト)として知られる二人のカミ(神道の神格)または神格で、最初に日本を治めた統治者たちである。大本の霊界物語によれば世界の混沌は、両者が邪神によって追放されたことに起因する。この説は、皇族の先祖である太陽の女神である天照大神崇拝の神話に対抗し、その背後には天皇の神性を否定し、さらに自らの宗教の正当性を訴える意図があった。

この種の信仰が伝説に基づくものであることはよく知られているが、霊的な力や勢力が働いていると告白している点で、真理的要素を含んでいると言える。しかし悪や欺きの霊であるこれらの主体の性質について、根本的な見過ちがあることに触れなければならない。

とにかく、教祖の出口なおは他の神道主義の霊的指導者から漏れることなく、独自の形式で卓越した啓示的傑物としての自らの人格および性質の重要性を訴える。その啓示は、世の終わりに起こる破壊的出来事からの大転換に対する切望をかき立て、平和と憐れみと調和とに満ちた差し迫るユートピア時代を前にした、終末における刷新と希望を約束する。転換の時代への渇望は、深い闇のごとく社会を覆う問題に直面しながら、壊滅的な装いを見せる世界情勢に挑む上で非常に魅力的かつ必要なものであるが、もし即座に予言が成就しなければ単に幻滅と失望感、そして遂には懐疑心を与えるだけに終わってしまう。おそらくこの宗教的セクトが面している衰退は、この非現実的な期待を裏切られたために多くの信者が脱退したことに起因している。

この大衆受けする終末思想はなおが見たとされる夢の結果に端を発する。そこにはよく知られた聖書的なテーマが含まれるが、彼女の霊的な協同者の出口王仁三郎という異名を持つ上田喜三郎がそれを歪め、なおのお筆先の成就による世界の破滅および新天地を伴う救世主王国の到来に応用した。しかし綾部市が政府の首都になるという彼らの見通しが見事外れてしまい、大正維新と称される時代は訪れなかった。それにも関わらず1928年に王仁三郎はそのお筆先に則り、聖書でサタンを象徴する竜神の時代に訪れる救世主または生き仏(菩薩)の体現者が自分であることを公式に宣言した。さらにこの新しい時代は、世界の新秩序、つまり人類救済が実現する弥勒菩薩の時代を告げる理想世界が打ち立てられるような、大転換を迎える時代とされた。しかし1948年、世の破滅とも思われた日本敗戦の後間もなくして王仁三郎が逝去。結局救世主の時代は訪れず、実質その予言は外れたことになる。

これらに加え彼ら各々の霊的な営みに関する疑わしい性質に、議論の余地が認められる。なおは自分自身を霊的な案内人と称し、信者たちには彼女が艮の金神による神懸かりを受けながら、開始時に狂気じみた状態に陥るお筆先によってその神諭を伝えていると信じるように導いた。再度言うが、私は霊的な影響を疑ってはいない。私が異を申し立てているのはこのカミのような存在とのかような緊密な遭遇に対して覚える欺瞞に対してである。王仁三郎に関して言えば、彼は鎮魂寄進の儀式としても知られる、霊憑依のテクニックを持つ降霊術者であると同時に神秘的指導者でもある。

このように、大本はオカルト的な教理、影響力、そして儀式の上に成り立ち、今日もシャーマニズム的霊媒術や降霊術の実践に加え、出口なおの悪魔を出所とする自動筆記からの教義のもとで活動を続ける。

納得のいかない別の問題は、霊的指導者である王仁三郎による、全ての宗教が出所を共有していると教示している点である。しかし比較宗教研究に真剣に取り組んでいる誰もが、本質的に宗教の間に同一性がないことを知っている。確かに人間または人間性を生み出した根源、すなわち神が存在することについては共感できる。また、私たち人類はみな同じ人類であるという真理への信仰のほか、私たちの宗教的観念と共通する面が散見される。しかしこの教えは私たち人間が紛れもなく不完全な存在であるという必然を重要視していない。したがって私たち皆が等しく、本質的かつ究極的な真理を表明しているわけではない。哲学的に言えば、私たち皆が誤謬を犯すことが可能であっても、宗教の教理および実践上の本質を占める部分と相容れない思想や無神論が存在する以上、私たち皆に無謬を認めることは不可能である。さらにこの考えについて、当宗教の立場との内部的な矛盾をも孕んでいるように見受ける。大本教自身、世界をまたぐような名もない組織の傘下でアイデンティティを混合させ、信仰告白に特徴も個性も持たないような宗教であってはならず、他宗教とは一線を画した存在でなければならないはずだ。さもないと自らの宗教的世界観に基づく宗教行為を維持させることも、また他と共存することも不可能となるだからだ。さらに全ての真理が同一であるとする教義は、真理を相対的あるいは主観的にし、命を単純化し過ぎている。もし仮に客観的真理が存在しないのであれば(実際あるのだが)、全宗教が市場に並ぶ魚のように、霊性維持への個人的欲求および渇望に応じて取捨されるような、卓越性も意味を為さない嗜好の対象となってしまう。それはむしろ調理人が誰であるかも気にしないままフグを買うようなものであり、現実として致命的な結果を招くか恐れもあり、あるいは栄養に変わる場合もある。

結論、大本教は現代における希望と悟りを約束する、日本の数多い新宗教ムーブメントの中の1つであるが、教祖や霊的指導者たちへの告知とは裏腹に世界的な知名度を誇るには至っていない。隣人に対する実際的な支援を達成してきたことは評価できても、彼らの向かう世界刷新という最終ゴールを達成する力についてははなはだ疑問である。

この問題への賛否をめぐり集団内部に亀裂が生んだことで、事態はより複雑さを増してきている。会衆を去り他のカルト集団に入信した者もいれば、既存の集団には属さずに自分たちで新しいムーブメントを生み出した者もいる。さらに自らの宗教的イデオロギーとの衝突が絶えなかった政府当局に対し、当集団が何ら意義ある影響を及ぼさず、結果、内部においても対外的にも平和を築き損なったことを鑑みると、この宗教に世界はもちろん、日本復興の実現を期待できるほどの安定性があるかが疑わしい。

ある情報筋によれば、大本教は活動のローカル化をはかり日本国外の人々の入信については積極的ではなかったという。世界一致を果たすはずの宗教団体にとっては、これ以上の皮肉はないだろう。このように当集団が信じる真理について、その告白に伴うはずの実が乏しいことからも当集団が奉ずる信仰対象は信頼に価しない。

最後にあなたに奨励したいことがあります。神から与えられる聖霊があなたの内側に宿り、命溢れる経験から得られる生ける真の神についての知識を享受するために神とのつながりを待望するなら、あなたの選択は間違っていません。これは私たちが神と同質または同一の存在になるからではなく、神と関係的に結ばれ、その神と1つになることを可能にするキリストにあって成就するのです。そしてこのイエスとの関係こそが最終的にあなたを代々に続く平和と、永遠の命へと導く道なのです。

この回を締めるに当たり、あなたに是非お勧めしたい。クリスチャンたちを通じて全世界にその影響を波及し続け、無数の人々の人生を変えてきたイエスの人格と働きの業を、どうか吟味していただきたい。www.cbn.com/700club/features/amazing/から素晴らしい証を閲覧できます。またこれと合わせて イエスについての私の証しで、私の個人的な体験談をご覧いただければ幸いです、

マタイによる福音書11章28〜30節
28 「疲れた者。重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

大本の資料

Omoto

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.7, pg.4790, Joseph M. Kitagawa and Gary L. Ebersole

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pg.5622, Lewis R. Lancaster

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573, Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pgs.6824-6826, Murakami Shigeyoshi and Shimazono Susumu

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.8, pgs.947-948, Omoto

大本の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

御嶽教

Saturday, October 11th, 2014

神道教派の1つとして数えられ、自然崇拝者の下山応助によって創設された山岳信仰の一派である。このムーブメントは御岳大神を主神とした、山の神々を祭神に据えることで知られている。神道については以前、渾身の力を込めた投稿でその全体を貫く共通の思想、および問題について書かせていただいた、

神道主義

御嶽登山が霊的な強靭さを養うための神秘主義的な巡礼として見られていたことから、この山岳信仰の一派が登山を通じての霊的/宗教的な修験道として誕生。この儀式的行為に加え、このムーブメントは春に山から水田に降臨する山の神などの民話信仰や、火を鎮める鎮火式や熱湯を撒き散らす盟神探湯などの迷信的な祭儀を取り入れている。

神の思し召しによる悲しみと患難を受容するその世界観が、哲学的な運命論または決定論な人生観に合致し、最終的には悲観論主義に帰結し得ないこともない。
このような精神状態および境遇に陥った場合、果たして彼らが仰ぐ希望とは何か?

とどの詰まり御嶽教は自然崇拝と、御岳山として知られるこの山岳地帯に宿るとされるカミを神聖視することを真髄とする。しかしこの観点とは裏腹に聖書の著者はこの類いの活動について、その信者が山のみならず驚異的かつ超自然的な宇宙全体を包括した天地の根源である至高の創造主を拒絶しながら、悪魔を認め甘受する偶像崇拝として描いている。

ローマ書1章18〜25章
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って彼らに弁解の余地がありません。21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。25 神の真理を偽りに変え、造り主の変わりに造られた物を拝んで、これに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

コリント人への手紙第一10章19〜20節
19 私は何を言おうとしているのか。偶像に備えられた肉が何か意味を持つと言うことでしょうか。20 いや、私が言おうとしているのは、偶像に捧げる供え物は、神ではなく悪霊に捧げられている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。

コリント人への手紙第一8章4〜6節
4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に「偶像の神などはなく」、また「唯一の神以外にいかなる神もいない」ことを 、わたしたちは知っています。5 現に多くの「神々」、多くの「主」がいると思われているように、例え天や地に神々と呼ばれるものがいても、— 6  わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

結論として、この比較的創設から日が浅い教派が信者の3/4を失うまでに衰退してしまった理由がいくつか考えられる。このような教義/実践が現実味を帯び続けることはあり得ず究極の真理からも逸脱しているため、この宗教の世界観が人々に受け入れられなかったことを反映している。また同じ理由から多くの信者が別の信仰を求めて離脱。もしあなたも内心、同様のことを考えておられるなら、ぜひ強い意思と開かれた心を持って、このような地理的象徴や日本宗教の文化的背景の枠に縛られずに、視点を合わせる先を模索するようにお勧めしたい。

終わりに、イエスは私たちの重荷を取り除く約束を宣言されました。それによればイエスが私たちの心を清め純化しながら聖なる神に受け入れられるに相応しくし、私たちの生活を一新し高徳な者に変えてくださるのです。

イエスが私たちたちに求めることはただ1つ、彼を信頼すること。そうすることで 私たちの良心と神の差し迫る審判への恐れに訴える、不道徳からの罪責や恥から解放され、イエスの約束する安穏に与るのです。そればかりか、私たちに新しい命を与え罪から解放する神の愛というはかり知れない恵みによって祝福することが、神にとって無上の喜びであり、その御旨に適うことなのです。宗教的苦行を通して私たちの有能さや功績を示す必要などないのです。この経験こそが、あなたにこの世における人生と来るべき世の生活に関して、決して揺るがない確信を抱かせるでしょう。

神との関係の築き方について、私自身の証も交えつつ紹介した投稿記事がありますので、私のたった1つの切なる願いとして、あなたにそれを吟味しながら読み、現実を通してダイナミックに、そして肌で感じるほどにイエスを知ることができるようにと、神に祈っていただきたい。神の祝福が豊かにありますように。

マタイによる福音書11章28〜30節
28 「疲れた者。重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

御嶽教の資料

Ontakekyo

 

 

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

御嶽教の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

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