Archive for the ‘日本人-Japanese’ Category

御嶽教

Saturday, October 11th, 2014

神道教派の1つとして数えられ、自然崇拝者の下山応助によって創設された山岳信仰の一派である。このムーブメントは御岳大神を主神とした、山の神々を祭神に据えることで知られている。神道については以前、渾身の力を込めた投稿でその全体を貫く共通の思想、および問題について書かせていただいた、

神道主義

御嶽登山が霊的な強靭さを養うための神秘主義的な巡礼として見られていたことから、この山岳信仰の一派が登山を通じての霊的/宗教的な修験道として誕生。この儀式的行為に加え、このムーブメントは春に山から水田に降臨する山の神などの民話信仰や、火を鎮める鎮火式や熱湯を撒き散らす盟神探湯などの迷信的な祭儀を取り入れている。

神の思し召しによる悲しみと患難を受容するその世界観が、哲学的な運命論または決定論な人生観に合致し、最終的には悲観論主義に帰結し得ないこともない。
このような精神状態および境遇に陥った場合、果たして彼らが仰ぐ希望とは何か?

とどの詰まり御嶽教は自然崇拝と、御岳山として知られるこの山岳地帯に宿るとされるカミを神聖視することを真髄とする。しかしこの観点とは裏腹に聖書の著者はこの類いの活動について、その信者が山のみならず驚異的かつ超自然的な宇宙全体を包括した天地の根源である至高の創造主を拒絶しながら、悪魔を認め甘受する偶像崇拝として描いている。

ローマ書1章18〜25章
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って彼らに弁解の余地がありません。21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。25 神の真理を偽りに変え、造り主の変わりに造られた物を拝んで、これに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

コリント人への手紙第一10章19〜20節
19 私は何を言おうとしているのか。偶像に備えられた肉が何か意味を持つと言うことでしょうか。20 いや、私が言おうとしているのは、偶像に捧げる供え物は、神ではなく悪霊に捧げられている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。

コリント人への手紙第一8章4〜6節
4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に「偶像の神などはなく」、また「唯一の神以外にいかなる神もいない」ことを 、わたしたちは知っています。5 現に多くの「神々」、多くの「主」がいると思われているように、例え天や地に神々と呼ばれるものがいても、— 6  わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

結論として、この比較的創設から日が浅い教派が信者の3/4を失うまでに衰退してしまった理由がいくつか考えられる。このような教義/実践が現実味を帯び続けることはあり得ず究極の真理からも逸脱しているため、この宗教の世界観が人々に受け入れられなかったことを反映している。また同じ理由から多くの信者が別の信仰を求めて離脱。もしあなたも内心、同様のことを考えておられるなら、ぜひ強い意思と開かれた心を持って、このような地理的象徴や日本宗教の文化的背景の枠に縛られずに、視点を合わせる先を模索するようにお勧めしたい。

終わりに、イエスは私たちの重荷を取り除く約束を宣言されました。それによればイエスが私たちの心を清め純化しながら聖なる神に受け入れられるに相応しくし、私たちの生活を一新し高徳な者に変えてくださるのです。

イエスが私たちたちに求めることはただ1つ、彼を信頼すること。そうすることで 私たちの良心と神の差し迫る審判への恐れに訴える、不道徳からの罪責や恥から解放され、イエスの約束する安穏に与るのです。そればかりか、私たちに新しい命を与え罪から解放する神の愛というはかり知れない恵みによって祝福することが、神にとって無上の喜びであり、その御旨に適うことなのです。宗教的苦行を通して私たちの有能さや功績を示す必要などないのです。この経験こそが、あなたにこの世における人生と来るべき世の生活に関して、決して揺るがない確信を抱かせるでしょう。

神との関係の築き方について、私自身の証も交えつつ紹介した投稿記事がありますので、私のたった1つの切なる願いとして、あなたにそれを吟味しながら読み、現実を通してダイナミックに、そして肌で感じるほどにイエスを知ることができるようにと、神に祈っていただきたい。神の祝福が豊かにありますように。

マタイによる福音書11章28〜30節
28 「疲れた者。重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

御嶽教の資料

Ontakekyo

 

 

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

御嶽教の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing