Archive for the ‘Konkokyo’ Category

金光教

Saturday, October 11th, 2014

金光教(または金光)は新しい日本の神道一派であり、カリスマ的かつシャーマニズム的な教祖、川手文治郎(別名、赤沢文治)によって創設。川手はあらゆる物の根源でありかつ普遍的な神(カミ)の天地金乃神(黄金の天地神という意味)より、神と人間とを仲介(御取次)する任を拝命。彼の使命は自分の信者が抱える痛みや苦しみを引き受け、それをカミに伝えることにあった。本来金光大神は、まるで怒りによって天罰を受けたかのように、天地金乃神に取り憑かれていたとされるが、やがて上記のごとく神格的特質を帯びることを許され、その優れた霊性のゆえにこの尊厳に満ちた称号を授かったとされる。

この種の宗教的な思考過程が、今日の日本に存在する数多くの様々な新宗教の間において、共通して見られる信仰表現であることは明確だ。通常、信憑性に欠ける人物が自らの霊的な昇華を主張しながら、自称グル(教祖)を中心とする個性的カルトを形成する。この独善的教義の全体的性格からはそれが示す全てを正当であると認めることはできないし、よくよく検証してみれば、そのいずれかが真実であるとするにも抵抗を覚えてしまう。

とにかくこのカルト現象は、各々人生の問題の「解答者」または「解答そのもの」と自負するような、カリスマ的指導者を中心に据えた数百にも及ぶ新セクト誕生を日本にもたらした。この霊性現象は藁にもすがる思いで人生の答えを必死に模索する日本人が、自分たち自身の方法と概念を用いながら道を誤っていることを様子から説明できる。自分たち自身の願望に応じて追従すべき神を選ぶ態度は、まさに自分自身のイメージや形に似せた神を拝む行為に匹敵する偶像崇拝的行為である。客観的な真理に基づかずに、むしろ自らのアイデンティティに沿うような鋳型から造られる神は、人間の単なる感傷や渇望からの固定観念を投影する空想上の神か、あるいは神の姿を装うニセモノである。その種類を問わず霊的な修行を営む者は、自分の信仰の動機や対象となる霊性運動における霊的誤謬を省察し、教祖や集団の要求や期待との間に食い違い無いかを吟味すべきだ。また自分が魅力を感じるか否かに関わらず、本来関わりのない個人的嗜好から独立した、究極的かつ本質的な真理に結び付く、霊的現実への洞察と知恵とを真摯に追求することが肝要。

先ずこの宗教団体のリーダーシップについては、散見される前言撤回や教えそのものの軽薄さなどから、事実矛盾があることを認めざるを得ない。第一に川手文治郎は占星術およびジオマンシー(占いの一種)の収載に精を出すも、その後それら全てを否定している。また病気を患った彼は呪術・宗教的な儀式を経て癒しを体験するも、その後、癒しのための宗教的儀式や服薬よりも、むしろ信仰と霊性の強化こそが、身体的な健康維持にとっての鍵であることを明言。第二の疑問点について、川手は当初、金神を悪意に満ちた霊あるいは神格とみなしていたが、後に天地金乃神として再定義をはかりそこに慈愛に富んだ神格を認めた。これこそ聖書が描くような黄金の光を纏う寛大な天使に扮した、悪意あるサタンの欺瞞と惑わしである。

さらに、赤沢は確信よりもむしろ恐れを動機にして神道へなびき、自らを偽り他人の目を盗みながら内密に資格および許可まで授与されるも、後に信仰告白を撤回し棄教している。そればかりかこの金光大神は「カミへの誠実な信仰心を持つ」ことで人は救われると説く。言っておこう、人は誠実であり得ると同時に、自分に正直なまま不実であることが哲学的に言って可能なのだ。つまり誠実を物事の尺度として用いることはできない。究極的真理という自負に関する宣言への批判を逃れようと、自分の神道信仰を不正に偽りながら神の名を汚し、人生を捧げる意思の全くない者が、果たして誠実であり得ようか? 彼が自らの宗教的信仰に確信が持てないのに、その信者であるあなたがどうやって生涯かけてこの新興宗教に帰依できるのか?イエスやその直近の弟子たち、さらにその追従者たちを見て欲しい。自分自身の人生を真理のために自ら喜んで捧げ、間違ってもそれを撤回または否定することなど、彼らには考えられないことであった。

赤沢文治の直弟子であり後継者である佐藤範雄までもが、集団の人気と勢力のはずみを維持するために、真意ではなく恐れから再び神道のカミの前に跪くことを決意。これによって当集団を国もしくは県の神道と同一化させ、結果的に戦前の軍国主義および国家主義への貢献を果たすも、後にこの忠誠を撤回している。だが今日、教義および実践上の神社神道との類似性から自らを神道とみなす信者たちの中に、依然としてアイデンティティ・クライシスが影を落とし、教団内部に反目を招いている。真理とは何があっても揺らぐことがないし、もしそこに妥協が入れば最早それは非真理であり、私たちが生涯を賭して信じる価値を持たない。この絶えず変動する社会に、果たして明日が変わらないことを保証できる人など存在するのか?

指導者たちならびにその支持者たちの間で沸き起こった別の問題は、金光大神によるオカルトじみた宗教行為である。以前彼は護符の配布、年鑑、占星術およびジオマンシーの収載の他、悪霊憑依、天地金乃神の御告げに関わっていた。これに加え、時宜的な取り組みとして、カミから個々人へのメッセージを伝える能力を持つ「巫女」による、当教団の霊媒行為が挙げられる。形而上学的視点から見る時に、この教団に見出される矛盾の1つは、天国と地獄の観念を否定し、肉体を離れた個々の魂が地球の上空を漂っているとする点にある。

この世に存在する悪霊もしくは味方の霊を否定はしませんが、聖書の記述によれば、人は一度死んだ後、天国と地獄のどちらを最終的な住処とするかについて審判を受けることになっている。以前複数にわたり、私は死後の世界を体験した人々についての記事を投稿させていただいた。死からの生還を果たした彼らは、自分の身体の外側から見た情景を鮮明に語ってくれている。その様子こそ、最終的に私たちがたどり着く現実について、聖書が示唆するものと合致する。このことが原因で、嘗ては死後の人生に関するキリスト教的解釈を支持していなかった無神論者たちが、その臨死体験(NDE)後に改心するに至っている。ここに載せた一番目のリンクから、彼らの個人的証言を閲覧することができる。

youtube.com/watch?v=vQ8TEGMj-jc%3Ffeature%3Dplayer_embedded

地獄は本当にあるの?

What the Hell

最後に、あなたの魂をめぐる霊的な戦いについて考えてみたいと思う。宗教に密接した日本の文化および社会において働く、実に様々な霊的力が四方八方からグイグイとあなたの魂を手繰り寄せようとしている。そこで、これら千種万様な似非宗教グループとは異なり、世界で3人の内1人から支持されている、より信頼性に富む宗教的世界観を紹介したいと思う。証拠として正しい数字を提示することも悪くはないが、それよりむしろ老若男女すべてからの支持を等しく獲得し続け、何世紀にも亘る検証の中をかい潜ってきた結果、現在において世界の果てにまで及んだ普遍的現実に目を留めていただきたい。私を初めとするこの現実を体験した多くの方々の証を証言したリンクをお届けしたい。

イエスについての私の証し
www.cbn.com/700club/features/Amazing/

さらにそれに加えて、この信仰が古代文化的な迷信にまつわる神話や伝説を根拠にしたものではなく、信憑性の高い歴史的文脈下の社会的影響によっても信頼性を保証された、理性的な信仰であることが分かる。

日本人

最後に確認したいのだが、金光教で使用されている語彙、専門用語、そして教義の多くが、キリスト教の概念やテーマに因んでいる。その中で既にピンと来るものがあるだろう。それらがイエスのダイナミックかつ圧倒的な力をもって地球全体を影響下に置いているため、世界の片隅にあるマイナーな宗教から居場所を奪うことなど雑作もないのだ。

さらに神は恵み深く慈愛に富み、怒るに遅く無条件の愛に満ちた性質の持ち主である。また神はあなたが生きて、動き、命を保つためにあなたを創造し存続させる方であり、そえゆえこの方を離れては、あなたは何もできない。ご自身の憐れみ深さを効果的に人類に示すための力強い表現または宣言として、その一人子をこの世に遣わしてくださった。天国にいながらも神は私たちから遠く離れてはおらず、認識できる現実として
即座に現れてくださるのだ。ヨハネ3章16 節にはこう書かれてある。 16 「神はじつにそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、だれ1人として滅びることなく、永遠の命をもつためである。」

聖書には神と人との間を執り成す仲介人の存在について触れており、その方こそ救い主イエス。キリストである。イエスは人間の罪のために、その犠牲的な死を通して祭壇上に自分自身を捧げ、私たちと神との関係を回復してくださった。神の御子が受肉し私たち人類の間に住んでくださり、ご自分を私たちの雛型として罪と道徳的欠落に対して圧倒的な勝利を治めて征服してくださる。それによって私たちは霊的な死の束縛から解放され、その罪に満ちた心に有罪を宣告する、神の怒りに基づいた義の審判を免れる。イエスは私たちに命を与えるばかりか、私たちがそれをより豊かに持ち、新生と聖化からの霊の実によって心の変化を遂げて新しく優れた人間性を実現できるように、この世に訪れてくださった。こうして私たちの父なる神に自らの命を委ねることで神と1つになり、その性質および性格を帯びながら神に栄光を帰すようになる。要するに、イエスが魂の苦痛を味わいながらご自身の尊い命を私たちの代わりに捧げ、私たちの払うべき代価を支払ってくださったおかげで、私たちが来るべき死後の生活で永遠の苦しみと破滅に付きまとわれるような、地獄という究極の代価を免除されたのだ。

福音とはこのような神による救済の業である。救いは私たち自身に依らず、また功績や徳目を積むような善行とも関わりがない。救いは努力して得ようとするものではなく、むしろ無償で、しかも完全無欠かつ有効な形で授与される 私たちの義を果たすべき責務とそれを果たせないことの罪責という重荷を背負って下さった、キリストによる自律的な救いの業である。それによって最早私たちは神の罰から免れるばかりか、永遠の命を賜ることで神の御国の相続人とされていることを覚えていただきたい。

マタイによる福音書11章28〜30節の言葉を引用しておく。
28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。”

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

金光教の資料

Konkokyo

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5224-5226, Helen Hardacre

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pg.8367 , Brian Bocking

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.6, pg.949, Konko-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

金光教の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

Konko-kyo Resources

Sunday, January 27th, 2013

Four Spiritual Laws

 

Jesus Film

 

New Testament/Bible

 

Audio Bible

Konkokyo

Sunday, January 27th, 2013

Konkokyo or Konko is a new Japanese shinto sect that was founded by the charismatic shamanic figure known as Bunjirō Kawate or Akazawa Bunji who supposedly was appointed by the deity Konko or Tenchi Kane No Kami, the golden god of heaven and earth who is the  parent or universal kami, to act as a mediator or torit sugi between god and mankind. In his role he was to take on the pain and suffering of his followers and transmit them to god. Essentially Konko Daijin was possessed by Tenchikane no Kami, which ironically was initially seen as the wrathful outcome of Konjin, nevertheless he supposedly became the very essence of this supposed deity and who received honorific titles as advancing or progressing in his spirituality.

Conclusively it is this kind of religious ideation which is a common occurrence among the many and various expressions of shinshukyo in Japan today as these questionable individuals claim spiritual ascendancy forming a personality cult around a self proclaimed guru. It becomes obvious from among all of these exclusive claims that they can’t all be right and it is doubtful upon closer examination that any of them are correct.

Anyway this cult phenomena has lead to the development of hundreds of new sects in Japan as revolving around the essential role of a charismatic  leader who either “has the answer” or “is the answer” to life. Yet this quest for spirituality shows a lack of fulfillment in the Japanese people who desperately are seeking answers to life but who are looking for god in their own way on their own terms as seeking him in all the wrong places. They are making a god after their our own desires which is definably idolatrous as making a god after their own image and likeness. Therefore a god who is not based in objective truth but rather is molded and shaped to fit their identity as appealing to the subjectivity of merely their emotional needs is a fictitious god or a god of make believe. I think it would behoove any spiritual practitioner to check their motivation for belief and to also test the spirit of their movement for error to see if it really stands up to the claims and expectations of their founder and group and to honestly seek for discernment and wisdom regarding spiritual reality in respect to ultimate or essential truth not as to what merely attracts you but that which is independent of personal whims of which truth is not subjected to.

To begin with I believe that there is a real inconsistency to the leadership of this movement by its  flip-flopping or wishy-washiness. At one point Kawate Bunjirō participates in observing horoscopic and geomantic prescriptions and then latter denies these practices. He becomes ill and is healed by receiving magico-religious healing rites and then latter testifies that faith and spiritual strength rather than healing rites or medication are the keys to physical health. Another point of disagreement is that he sees Konjin at first as a malevolent spirit or deity but latter redefines him as the Tenchi Kane No Kami as representing him as a benevolent deity. This is how the bible depicts the deception and delusion of a malicious Satan who appears to be a magnanimous angel of golden light. Furthermore based on fear rather than conviction Akazawa aligns himself with Shintoism as taking a certification or license as deceitfully and secretly misidentifying his movement and then latter renounces and recants Shintoism. Moreoever Konkō Daijin taught that a person could receive help from Konjin by “having faith in the kami out of a sincere mind” and yet philosophically you can be sincere and still be sincerely wrong as sincerity is not the measure of all things. Yet ironically how sincere is a person who is unwilling to lay down their life as escaping persecution for what he claimed to be ultimate truth when essentially he dishonored his god by falsely misrepresenting his beliefs to Shintoism. If he was unable to take a firm stand for his religious beliefs then how willing are you to stand as putting your whole life on the line for this movement? Yet their have been others such as Jesus and his close disciples and followers who willfully laid down their lives for the truth of which they were unable to renounce or deny.

Not only that but Akazawa Bunji close disciple and successor Sato Norio also made a decision which was not based on conviction but on fear as to maintain the popularity and momentum of the movement as to once again bow down and embrace the kamis of Shintoism as identifying their movement with a form of national or state shinto which eventually contributed to pre-war militarism and nationalism of which this groups now renounces. However there is still a controversy as there remains an identity crisis today among followers of whom consider themselves to be Shinto which is more consistent with the similarity of their shrine shinto beliefs and practices. Regardless truth does not fluctuate and when it is compromised it is really non-truth which is not fit to believe or to dedicate ones life to. After all who knows if it will not change again tomorrow based on the oscillating tides of society?

Another controversy among both the leaders and their adherents is their dangerous participation with the occult like practices of Konko Daijan who perviously had been involved with distributing talisman, almanacs, horoscopic and geomantic prescriptions along with the demonic possession and revelatory inspiration from the Tenchikane no Kami. In addition to this is the contemporary practice of Konko-kyo mediators who have the power as “Mediums”  to convey messages from the kami to individuals. Metaphysically speaking one of the discrepancies of this group is its disbelief in heaven or hell as advocating that departed individuals are seen as wandering spirits upon the earth. Though I am not denying the presence of terrestrial demonic or familiar spirits the bible depicts that once a person dies that they undergo the judgment of heaven or hell as their final resting place. I have previously written some posts about others who have experienced these realms as having returned to life after coming back from the dead who described this out of body experience as being consistent with what the bible confirms as real destinations. This has even resulted in the conversion of Atheists after their near death experience or NDE and who were not previously sympathetic to Christian views regarding the interpretation of the after-life. You can watch some of their personalized testimonies in the first link that I am providing here.

jesusandjews.com/wordpress/2009/10/29/is-hell-real/

jesusandjews.com/wordpress/2011/10/31/what-the-hell/

Lastly there is a spiritual battle for your soul which is being tugged at in all directions by the multiplicity of spiritual forces which are at work within Japanese religious culture and society. Thus I would like to propose a more plausible religious worldview in which 1 out of 3 people in the world uphold apart from the claims of these many and various counterfeit groups. This isn’t about just advocating the use of sheer numbers alone as proof but rather it rest upon the prevalent reality which has been globally sustained as surviving the test of time over the ages as embracing the equality of humanity regardless of sex or ethnicity. I would like to send you a link to my testimony and that of many others who have undergone this reality.

jesusandjews.com/wordpress/my-personal-testimony-with-jesus/

www.cbn.com/700club/features/Amazing/

Additionally it is a reasonable faith as gaining credibility from all aspects of society which is not based in mythological and legendary accounts of superstitions of ancient culture but rather it is presented in a historically reliable context.

Atheist and Agnostic

Finally much of the language, terminology and  beliefs of the Konko movement revolve around Christian concepts and themes which perhaps you can readily identify with and which supersede the claims of this fringe group as it encompasses the earth with the dynamic and overwhelming power of Jesus.

Moreover God nature is gracious and merciful, slow to anger, and abounding in steadfast love. He has made and sustained you in that you live, move and have your being and apart from Him you are nothing. Thus He is not distant as residing in Heaven but is immanently present and tangibly real by which He has sent His Son into the world to give mankind a relevant representation and manifestation of His compassionate being. In John 3:16 it says  16 “For God so loved the world, that he gave his only Son, that whoever believes in him should not perish but have eternal life.

The bible depicts One mediator between God and man and that person is Jesus who is the Christ. Jesus offered himself upon the altar of life through His sacrificial death for the sins of humanity to restore our relationship with God. This happened as God the  Son became flesh and blood and dwelt among us as He identified Himself as our representative and who victoriously conquered and overcame sin or moral failures and in turn delivered mankind from the grip of spiritual death by averting the righteous judgment of God’s wrath which convicts our hearts of wrongdoing. Jesus came to give us life and life more abundantly as bettering humanity by giving us a life producing Spirit resulting in our transformation and regeneration through a new nature with a changed heart as becoming one with Father God in joining our lives to Him as His children in which we give Him glory as we represent His nature and character. In summary Jesus paid the cost by offering His precious life on our behalf through the pain and suffering of His soul so that inevitably we will not have to pay the ultimate price of a hellish realm of eternal suffering or damnation in the life to come.

The good news is that this salvific work of God is not dependent upon ourselves and is incongruent with our meritorious works or good deeds of self cultivation. Salvation is not earned but rather it is freely received having been sufficiently satisfied and efficacious as it is based solely on the independent and saving work of Christ who has shouldered the burden of our just and condemning guilt by which we are no longer objects of God’s wrath but rather beneficiaries of His kingdom as we receive the gift of eternal life.

 

Matthew 11:28-30

28 Come to me, all who labor and are heavy laden, and I will give you rest. 29 Take my yoke upon you, and learn from me, for I am gentle and lowly in heart, and you will find rest for your souls. 30 For my yoke is easy, and my burden is light.”

 

 

How to have a relationship with God

How to know God

Other links

Konko-kyo Resources

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5224-5226, Helen Hardacre

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pg.8367 , Brian Bocking

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.6, pg.949, Konko-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

The Holy Bible, English Standard Version® (ESV®) Copyright © 2001 by Crossway, a publishing ministry of Good News Publishers. All rights reserved. ESV Text Edition: 2007