創価学会として名を知られた日本仏教の一宗派は、今日、日本国内での毎年の創設数が100以上にも及ぶ無数の宗教形態の1つに数えられる。創価学会自身、正当な宗教団体であると自己弁護を図るが、ではなぜ圧倒的な説得力をもって自らが標榜する本質的真理を同国民に信じ込ませることができないのか?
この宗教が志す立派な目標や道徳的取り組みとは裏腹に、実際にはこの団体の表向きやその母体教派である日蓮仏教とは矛盾した事柄が報告されている。SGIの教条には、ヒューマニズムを喧伝しながら世界調和への協賛者としての立場を確立し、世界市民の推奨によって教団の株を上げ、全人類にとって宗教的価値があることをアピールするものがある。
しかし、学会によるこの立場は、たとえ改宗の無理強いと指摘されながらも他の信仰に対する破壊行為や公然批判も辞さない、急進主義的な姿勢を見せる母体組織と相反する。さらに世界の救世主であると自負する日蓮宗の開祖は包含主義とは真逆の排他主義を公然と表明し、他の仏教形態を否定しながらこの立場を貫いた。
ここで発生する疑問はどちらの主張が正しく、また教団がその信条・教理の内容を自らの目的や必要に応じて改竄してしまう場合、一組織としてのアイデンティティをどのように維持できるのかということである。このグループが言い張るにはこれを改革と呼ぶらしいが、改組という表現のほうが適切ではないか。
もしもその最高権威を理由に日蓮の説いた上記の教えと実践論が正しいとされながら同時にその過ちが指摘されるとすれば、他の日蓮の教えの信頼性はどうやって確保されるのか?要人の最高権威を疑問視することは、それ以下の他すべてをも疑問視することである。もしあなたが他すべてを疑問視した場合、日蓮が説く不変の真理についてどのように申し開きができるのか。
さらに、池田大作会長への数多くの名誉賞授与がこのグループのセールスポイントでもあるが、彼らの社会的なプラットフォームでもあるこの高水準な世界統一活動の維持活動にも矛盾が見え隠れする。このような歩み寄りは、たとえそれが教理・実践面で日蓮正宗と袂を分かつ要因であったとしても、公明党として参政し与党に楯突きながら政治的私見を論じ合う立場を鑑みると、尤もらしく聞こえる。さらにこのような個別化した宗教が普遍主義を否定すれば、狭量な宗教というレッテルを貼られてしまうことにもなる。しかしこれら副次的な問題はさておき、より重要な問題は仏教に起因する教義にある。これらの輪廻転生とカルマを初めとする矛盾問題の多くについては、既に以前にも触れたことがある。どうか以下のリンクでご閲覧いただきたい。
Hinduism
池田によると彼の自著「地球的調和への7つの道」で彼が強調したいのは、個々人が自分自身の欲望や行動、そして願いを制御することである。しかし一方で、物質的な恩恵に与りながら個人的幸福や喜びを達成することへの執心を信者たちは隠せないでいる。そこに利他主義的な動機を見いだすことは実に難しく、そのようなアプローチにはむしろエゴイズムを感じる。もしかしたらそれには信者たちには態度を改善する機能があるのかも知れないが、共同体意識の形成より自己啓発に対して不健全に固執する印象を払拭できていない。自己啓発を果たして初めて共同体への働きかけが適うという見方に立っているのかも知れない。しかし自分を成長させることは個々人が仏の域に達するまで自分自身を絶えず養いながら、一生かけて成し遂げていく継続的なプロセスであると私は理解している。努力によってカルマを除去しようとすれば、とてつもない時間を要することになり、自力の償いをはかるための崇拝、難行、題目の行為に酔いしれてしまう恐れもある。そこにも社会貢献にとって有益な要素は有るかもしれないが、果たしてそれは利他主義を動機としたものか、それとも悟りの境地に入るという悲願成就への思いからなのか?
質問を変えよう。もし自分の最終目的が果たせない場合、それでもあなたはこの道に従い続けるのか?
個人的にはこの理念に良い響きを感じるが、彼らの対外的な活動の中身の無さを見る時にその印象は砕けてしまう。無論、私は決してSGIによる人間の福利に対する目覚ましい貢献を否定しない。しかし私が問い質したいのはその行為に霊的現実の本質を訴えようとする彼らの態度である。
さらに言えば、何妙法蓮華経(音や振動を発しながら唱える、因果応報からの救済を適える経文)をご本尊に向かって一心不乱に読経することは、特に数時間も唱える人にとっては精神的な麻痺を進める要因になりかねない。この種の宗教行為はカルトグループの常套手段でもある一種のマインドコントロールであり、ハレ・クリシュナ(クリシュナ国際協会)では洗脳法として用いられている。ヒトラーは、長い時間大声で何かを喚き立てれば他人はそれを信じ始めるという自分の言葉通り、ナチスのプロパガンダによって人心掌握を成功させた。やがて人の思考判断能力を奪い、催眠術のように耳に入るメッセージすべてに従う状態に陥らせてしまうところに、この修行法の危険性がある。また、このような反復的なメッセージが囚人に対する拷問や人格改造の手法として使用されることを申し添えておきたい。
もし悟りの会得に題目が必要とするならば、仏の境地に至るまでに一体どれくらいの回数および期間を要するのか?さらにこの霊的目的地に到達したとして、どうやってその悟りの境地をそのまま維持していくことができるのか?とにかく私が疑問に思うのは、人間という複雑な生き物の心や性質を単調な言葉だけで変えることが出来るという考えに対してであり、おそらくこのブログの読者の中にも私に同感し、この宗教行為の如何わしさに眉をひそめている人もいるだろう。
最後、この団体員の方々には私の反抗的な私見に気分を害さないでいただきたい。言葉は諸刃の剣であることは十分承知していますが、ここまで私がお伝えしてきたことで実際に体験されていることがおありなら、私はあなたに何か別の可能性を探るように一心にお願いしたいのです。私事で恐縮ですが、私の人生は今から20年以上前に劇的な変化を迎えました。そこに至るまでに儀式や自己鍛錬骨折りの難行も、また栄誉ある功績のチェックリストも要求されず、私を超越したお方、すなわちイエスを信じただけだったのです。このブログに私の個人的な証しを載せたリンクを紹介します。過去の面影がなくなるほどの大変化を迎えた私の人生に、きっと興味を持っていただけると思います。
イエスについての私の証し
最後にすべての人の心に訴えようと残した言葉を紹介します。
マタイによる福音書 11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。
神と関係を持つ方法
その他のリンク
1 Excerpt taken from Operation World, Copyright© 2001 by Patrick Johnstone. Used by permission. All rights reserved worldwide.
2 Richard Okamoto, “Japan,” Look, September 10, 1963, p.16
Handbook of Today’s Religion, Copyright 1983 by Campus Crusade for Christ Inc., Published by Thomas Nelson Publishers