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儒教

Friday, October 10th, 2014

儒教は中国文化を構成する仏教徒および道教信者と、信条を部分的に共有する。結果的に3つの信仰形態がお互いを排斥せずに協調し合うような集団の形成に至った。

これらのシステムを結び合わせる織り糸としての役割を果たしたのが、倫理的価値観の尊重であった。

儒教の倫理的な教えを熟考するとき、その立派であることを認め一方、説明がつかない部分が散見される。社会的規範や個人の選択に基づいて相対的に適用される善悪の概念を、どうやって生み出したのか?倫理は人間の経験や好みに優った世界共通の法典の下で規準化されて初めて存在意義を持つ。世界各地にある教団が永続するには、この中心的な倫理の原則が堅固かつ普遍的かつ客観的なものでなければならない。この倫理的法典を統合するのに役立つ確定的な要素は、生来不変でありながら、倫理に関する識別および原則に関するずば抜けた知識を持つような、至高の法制定者によってのみもたらされる。この規範または概念は、その知識を整理してより扱いやすいものにする有神論の世界観と非常に良く合致する。

聖書のローマ書2章14節〜16節では、全人類に該当するこの現実についてこう証言する。

14 (たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、15こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。) 16そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

儒教は神の言葉を受け入れることをしない。むしろ神が治める「天」または「天国」といった、人格を持たない力というぼやけた概念として神を位置づける。この神秘的な力について言及する場合、太極拳や道(タオ)といった同意語が用いられる。厳密に言うとこのような天国観は孔子の思想に起源を持たず、彼に起源を持つと考えられる思想の多くに類似しているだけである。彼自身も自分がただ教えの伝道者であり、創始者ではないことを明言する。

孔子は自分自身について、むしろ「古き善き時代」における古代文化の再興者として考えています。

孔子は古代の人々が「帝」または「上帝」と名付けた、超越的存在や神の概念を否定し、むしろこれら古代の道義を復興させることを望んでいる。彼は自分の立場を巧みに利用して、宗教的要素を排除または少なくとも無力化する文化的背景の下で宗教的衝突を回避したの。

結果、この新しいムーブメントは宗教的な事柄に言い及ぶことを避けながら、哲学的な観念をより多く採用。しかし孔子はその経験主義的なアプローチに関わらず形而上学的な領域を完全には排除しない。したがって自然主義的な消滅論とは異なり、来世観に因む祖先崇拝に代表されるような天国の超自然的な側面にもグレーゾーンが残されてあります。

孔子は祖先崇拝に絡み先祖を尊ぶことを美徳として強調するが、そこには彼の哲学的アプローチと矛盾する神秘主義的な要素が残る。それはこの習慣を完全に捨て切ろうとしない当時の人々に配慮した、一つの妥協策であったのかも知ない。

しかし、この世の一時のはかない存在を超越して働かれる、全能の神による賢明なご計画を抜きに、果たしてそのような来世観が存続し得るだろうか。神こそ私たちの心に永遠に対する理解をお与えになるお方である。それを悟った時にこそ初めて、私たちが本能で感じる来世というものの理解が可能となる。

神は私たちの心の内側にある善悪を識別する良心と、詩篇19編1〜4節で讃えられているような壮大な自然の摂理を通して、私たちにご自身を啓示される。それにも関わらず、神はまたイエス・キリストという仲介者や聖書を通して個人的に私たちに語りかけ、結果として先祖の鎮魂による迷信的な仲裁行為の必要性を取り去ってしまう。

儒教の教師たちがたとえ真の現実の基とされる天から言葉を奪っても、このような大切な概念を全く私たちと関わりのないものとすることは、全く馬鹿げていると言いほかないでしょう。もし仮にそれが正しいとしたら、この仮想現実の教師たちも同様に黙秘したままでいなければならないでしょう。だが皮肉にもこの黙り込む観念的な王国について、彼らは自らが書いた様々な書物を通じて、多弁を弄してきたことはよく知られています。結局、もし天が何も語らないなら、どうやって人がそこに思いを馳せることができたのでしょう?

私はいくつかのブログで無神論/不可知論に関する記事を書きましたが、そこで触れているのはまさにこの問題であります。興味を持っていただけると思いますので、以下のURLをクリックしてみてください。
日本人
階級に基づいた儒教をモデルとした道徳へのヒューマニスティック的なアプローチによる問題は、特に政府機関と一般市民との差を除けば、限られた結果しか生みません。それは素晴らしいモデルであり概念ではありますが、現実的に達成は不可能でしょう。

人間の歴史見る時に人類が措置を講じてこなかった汚職、戦争、社会の悪について書かれた本が無数に存在します。この提唱された道徳的ヒューマニズムの福音は、実践的というよりもむしろただの机上の空論に過ぎなかった。この否が応でも認めざるを得ない不可能という事実は、人間の悪の要素に起因しているのです。

人間は基本的に善なる性質を持ち、後に孟子が荀子が反対の立場を取ったにも関わらず、この立場を固めました。筍子はこの哲学的なアプローチの現実的な側面に目が行き、その夢物語を受け入れられなかったのかも知れません。

人間の進歩や社会の進化を見ます時に、現在のところ道徳的に進展を果たしたというところまで来ておらず、前世紀に至っては、膨らみ続ける民族浄化や大量虐殺を生み出す力のゆえに、世界史上最も残忍で血にまみれた時代と言われたほどです。中国自体、この古代からの宗教運動とマルクス主義や共産主義などの時代的潮流から生まれた思想が共存する歴史を歩みながら、ほんの少し前に同国で起こった流血のデモ活動が動かぬ証拠となったように、ユートピア国家を実現できませんでした

儀式的か思想的かに関わらず儒教、道教、そして仏教など、3000年もの歴史を誇る宗教的ムーブメントの栄華はごく限られた期間に止まり、その歴史全体においてそれらが訴える社会救済のための真理とは裏腹に、長期的または永続的な結果を残せてはいないのです。

聖書は人間が道徳的に欠落しており、善の影または投影を生じさせる神のイメージを留めていたとしても、悪の性質がそれを上回っていることを証明しているのです。善や愛は人間の徳の間でもとりわけ美しいとされますが、既に述べた事柄からも証明されるように、それは人生において自然に開かれる道や経路ではないのです。

儒教のシルバールールである「仁」に関する教示は、(1)自分が他人から受けたくない仕打ちを他人にも負わせないことを強調しつつ、悪を制御しようとする消極的なアプローチであり、他人にそれを指導する必要がある以上愛が自然派生的なものでないことが分かります。孟子ですら人の心が悪の引力に打ち勝てないことを認めているのです。

非常に皮肉なことに、孔子は人間を真に愛した人物の存在について確証を持たないことを認めており、さらに彼ですらその完全な愛を得ることができなかったことに気付いている。もしやそれは(2)離婚という結果に至ってしまった彼の結婚生活を反映してのことかも知れません。その追従者たちから神格化されてきた儒教の教祖である彼本人がこの考え方を体現できなかった以上、果たしてこのモデルを人間社会に蔓延る紛争を解決するための規準に据えることが可能でしょうか。

このような類いの失敗は聖書に登場する、神からの道徳的な律法を厳守することに熱心な、高潔な人々の間にも見られます。その1人が使徒パウロです。彼はローマ書7章21〜25節の中で善悪の狭間で葛藤する自分の姿を詳細に描写しています。

21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。 22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23わたしの五体にはもう1つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょか。25 Tわたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

聖書は人間が自力ではこの道徳的な高水準に到達できないことを宣言していますが、同時に人間には不可能であっても神に不可能は無いことを訴えつつ、私たちに希望を与えてくれます。私たちが罪による道徳的欠陥によって反抗を重ねてきた神との和解へと導く憐れみや赦しという、最高位でかつ神聖なものを土台とすることで、人間は真の平和や神や他人との調和を見出し得るのです。

仁の理想型であるイエスこそ、その方程式の解となるのです。彼こそ君子および真の人間の姿を取る超人であって、義または正義の美徳を実現した道徳的に完璧なお方なのです。それゆえ彼は「新興」と呼ぶように、私たち人間を創造時の状態へと修復しながら、新しい性質を持った新しい人への霊的な生まれ変わりを起こす神との調和と平和へと私たちを導いたのです。

私たちが神との和解の結果行き着く最終的な到達点は、地獄にいる反神論とは違い、私たちが住まうことになる天の御国という神の領域に入ることです。神や他人に対し、最終的に私たちを神の臨在から永遠に追放する倫理的な欠陥がもとで罪を犯したとして、私たちの心が私たち自身を罪責観や恥を通して非難するときに地獄の裁きというものが実感されるのです。

支配を啓示するメシア宣言がイザヤ書11章6節およびイザヤ書2章2〜44節に明示されている創造された全ての摂理を修復させるための、仕上げの業が行われるのです。

儒教は社会的秩序への介入を試みますが、新しい世界の秩序を実現するには至っていません。孔子は過去に幸福への道を模索した無数の宗教的または哲学的なグルと変わりはなく、その思想では注意深く人間社会の問題を研究・分析・予測する精神分析家または社会学者による時代ごとの試みのように、原始社会に対するほど現代社会の病魔に対しては効果が無いでしょう。私たちはこれらの問題を解決する代替策として新しい宗教を発明し新しい哲学を発展させ、そして新薬を製造することができます。しかし最終的には、人間の内面的な病を奇跡的な癒す手段として人々を薬漬けにし、自助プログラムやいんちき薬による対処法をうたう宗教または哲学的な迷信によって大衆を欺くという結果しか残らないでしょう。

しかも結局、世界の諸問題の解決に向けた努力や模索は、非常に時代錯誤なものとして概ね忘れ去られていくでしょう。

宗教的または世俗的な信条からの善行の努力では、自分自身すら根本的に変えることが不可能である以上、人間は究極的にその環境を変化させることができないのです。

古代人の様子を振り返ってみると、彼らは内面を省みるという信条にとらわれず、むしろその関心は自分たちを超越した天に答えを見出そうと、そこに熱いまなざしを送ることに注がれていました。おそらく彼らには答えへと導く案内人が必要だったのでしょうが、少なくとも彼らは自分たちを超越した究極的現実の必然性を見抜いていました。まさに使徒パウロがローマ書7章24〜25節において自身の体験を告白し、自分をこの死ぬはずの体から救い出してくれるのは「主イエス・キリストである」と明言しながら、人間の病気への解毒剤を大胆に紹介する姿に代表されます。

最後に、マタイ11章28節からの言葉を通して、イエスはあなたを招いておられることをお伝えします。28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

儒教主義に関わる資料

Confucianism

 

AMG’s World Religions and Cults, AMG Publishers, Chattanooga, Tennessee
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儒教主義に関わる資料

Friday, October 10th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing