「本来の道」という意味合いを持つほんみちは、天啓を授かる「甘露台様」の身分を拝命したとされる天理教の元メンバー、大西愛治郎によって創設。この召命は自らを絶対的真理の託宣者または啓示者と自負する、他の霊的な聖人にも共通して見られる。しかし地位や使命に関する彼自身の主張とは裏腹に、その偉大かつ名誉ある地位についての信憑性は疑われたままだ。しかも、天理教サイドでは彼が追放されたことについても、また天皇への不敬罪で投獄されたことについても、明確な事実を把握してはいない。
本質的に彼のメッセージについては、天理教の教典との間に大きな差異は認められておらず、またキリスト教的価値観の片鱗を窺わせることからも、彼が全く独自で編み出したものではない。特に精神を蝕む悪によって人が堕落しているとする部分に、聖書の教えおよびテーマとの類似性が認められる。しかしクリスチャンの間では、たとえ人の精神、心、体、魂そして霊という言葉が使用されていても、それは全人的な悪影響をも意味するため、人間が刷新または再生するには神ご自身によってその御心と出会う経験が必要とされる。さらに人間の罪深い性質については、神の完全なご計画と目的からの隔絶という呪いを私たちにもたらす、悪質な誘惑の力であると言える。
しかし人がイエスに留まるならば、降り掛かる患難や試練から脱出する道が神によって約束されるのです。(コリント人への手紙10章13節)
終末的あるいは世紀末的な観点から、キリスト教もほんみちと同じく光明に至るまでの社会的退廃の悪化に着目する。しかし同じ未来志向を共有している両者間でも、如何にして、また誰によって終末の救済を見るかについては見解が分かれる。ほんみちにとって人間とは、平和と調和が保たれた地上の楽園を築く責任者。しかし神に敵対する存在がこの世から消え失せることがない以上、全ての人をこの哲学的・宗教的見解に従えるのは不可能だ。したがって直接永続的な平和をもたらし、かつ抵抗する反対者たちを裁き滅ぼす権限は人間ではなく神にある。もし神の権威を認めないなら今日私たちが直面している不穏や、神に対する憎悪や人間同士の憎悪が消え去ることは無いだろう。何千もの新宗派を爆発的に生み出した新宗教ブームが日本国内に起こり、事実、一致よりもむしろ衝突を招いた。それにも関わらず、21世紀の今日、より良い社会作りのためにそのような新宗教イデオロギーにすら縋ろうとする傾向は、依然として残ったままである。裏を返せば神こそ、悪に満ちた人間性の共通分母を消却し、この方程式の解答を導き出す唯一の存在であることが分かる。イエスが地上を治めて支配し御国を築き、ユートピアの時代をもたらす時にこそ、私たちはその到来を見る。
終わりに際し、キリスト教信仰について皆様に考えていただきたいことがあります。西洋の一宗教として始まったキリスト教の勢力は世界的規模にまで達し、これまで数え切れないほどの信仰者の心と人生に影響を及ぼしてきました。全人類を救いご自分の天の御国に招くことが神の本望だからです。さらにキリスト教の聖書信仰も、真理や道理の伝達者としての正当性を幾度も揺さぶられながら、その正体を暴こうとする疑心に満ちた論説を打破し、長き年月に亘ってその信憑性が証明および批准されて今日に至っているのです。さらに世界中の約3人に1人が自分をクリスチャンであると告白していますし、また聖書は全宇宙の創造主として神が持する至高の支配と権威のもと、ほぼ全ての言語に翻訳され様々な部族、言語、国家に影響を及ぼすなど、今日までベストセラーの地位を維持しています。
神と人との仲介者であるイエスこそ最終的な終わりの時代、いかなる異端者または極端論者の声も封じ、平和の君という称号に相応しく全ての義を成就し、救いを完成させるお方なのです。
この回を結ぶ前に一つお聞きします。もしやあなたはこの団体の途方も無い要求に応えられず、そのことで自分の生活において悪の力を抑えつつ道徳的実践に秀でるための方法論として、果たしてその教義が妥当であるかについて疑問を感じておられるのではないでしょうか。もしそうならば、イエスの足元に来て憩いを得ることを勧めします。私や他の大勢の人々も経験してその証人となったように、あなたもこれから先、永遠に変えられ続けていくことをお約束します。
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最後になりましたが親愛なる皆様に、唯一真の神を真剣に追い求めることを是非請いたいのです。これまでも祈り心をもってこの神について語らせていただきました。神はあなたという個人に対してご自身を顕現されます。しかも私たちがその方を救い主として信頼できるように、分かりやすい方法をもって。神を主として受け入れる人に神はその永遠の喜びと平安、そして愛を満たしてくださいます。
マタイによる福音書: 11章28-30節
28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29私は柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたが安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
その他のリンク
Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.