金光教(または金光)は新しい日本の神道一派であり、カリスマ的かつシャーマニズム的な教祖、川手文治郎(別名、赤沢文治)によって創設。川手はあらゆる物の根源でありかつ普遍的な神(カミ)の天地金乃神(黄金の天地神という意味)より、神と人間とを仲介(御取次)する任を拝命。彼の使命は自分の信者が抱える痛みや苦しみを引き受け、それをカミに伝えることにあった。本来金光大神は、まるで怒りによって天罰を受けたかのように、天地金乃神に取り憑かれていたとされるが、やがて上記のごとく神格的特質を帯びることを許され、その優れた霊性のゆえにこの尊厳に満ちた称号を授かったとされる。
この種の宗教的な思考過程が、今日の日本に存在する数多くの様々な新宗教の間において、共通して見られる信仰表現であることは明確だ。通常、信憑性に欠ける人物が自らの霊的な昇華を主張しながら、自称グル(教祖)を中心とする個性的カルトを形成する。この独善的教義の全体的性格からはそれが示す全てを正当であると認めることはできないし、よくよく検証してみれば、そのいずれかが真実であるとするにも抵抗を覚えてしまう。
とにかくこのカルト現象は、各々人生の問題の「解答者」または「解答そのもの」と自負するような、カリスマ的指導者を中心に据えた数百にも及ぶ新セクト誕生を日本にもたらした。この霊性現象は藁にもすがる思いで人生の答えを必死に模索する日本人が、自分たち自身の方法と概念を用いながら道を誤っていることを様子から説明できる。自分たち自身の願望に応じて追従すべき神を選ぶ態度は、まさに自分自身のイメージや形に似せた神を拝む行為に匹敵する偶像崇拝的行為である。客観的な真理に基づかずに、むしろ自らのアイデンティティに沿うような鋳型から造られる神は、人間の単なる感傷や渇望からの固定観念を投影する空想上の神か、あるいは神の姿を装うニセモノである。その種類を問わず霊的な修行を営む者は、自分の信仰の動機や対象となる霊性運動における霊的誤謬を省察し、教祖や集団の要求や期待との間に食い違い無いかを吟味すべきだ。また自分が魅力を感じるか否かに関わらず、本来関わりのない個人的嗜好から独立した、究極的かつ本質的な真理に結び付く、霊的現実への洞察と知恵とを真摯に追求することが肝要。
先ずこの宗教団体のリーダーシップについては、散見される前言撤回や教えそのものの軽薄さなどから、事実矛盾があることを認めざるを得ない。第一に川手文治郎は占星術およびジオマンシー(占いの一種)の収載に精を出すも、その後それら全てを否定している。また病気を患った彼は呪術・宗教的な儀式を経て癒しを体験するも、その後、癒しのための宗教的儀式や服薬よりも、むしろ信仰と霊性の強化こそが、身体的な健康維持にとっての鍵であることを明言。第二の疑問点について、川手は当初、金神を悪意に満ちた霊あるいは神格とみなしていたが、後に天地金乃神として再定義をはかりそこに慈愛に富んだ神格を認めた。これこそ聖書が描くような黄金の光を纏う寛大な天使に扮した、悪意あるサタンの欺瞞と惑わしである。
さらに、赤沢は確信よりもむしろ恐れを動機にして神道へなびき、自らを偽り他人の目を盗みながら内密に資格および許可まで授与されるも、後に信仰告白を撤回し棄教している。そればかりかこの金光大神は「カミへの誠実な信仰心を持つ」ことで人は救われると説く。言っておこう、人は誠実であり得ると同時に、自分に正直なまま不実であることが哲学的に言って可能なのだ。つまり誠実を物事の尺度として用いることはできない。究極的真理という自負に関する宣言への批判を逃れようと、自分の神道信仰を不正に偽りながら神の名を汚し、人生を捧げる意思の全くない者が、果たして誠実であり得ようか? 彼が自らの宗教的信仰に確信が持てないのに、その信者であるあなたがどうやって生涯かけてこの新興宗教に帰依できるのか?イエスやその直近の弟子たち、さらにその追従者たちを見て欲しい。自分自身の人生を真理のために自ら喜んで捧げ、間違ってもそれを撤回または否定することなど、彼らには考えられないことであった。
赤沢文治の直弟子であり後継者である佐藤範雄までもが、集団の人気と勢力のはずみを維持するために、真意ではなく恐れから再び神道のカミの前に跪くことを決意。これによって当集団を国もしくは県の神道と同一化させ、結果的に戦前の軍国主義および国家主義への貢献を果たすも、後にこの忠誠を撤回している。だが今日、教義および実践上の神社神道との類似性から自らを神道とみなす信者たちの中に、依然としてアイデンティティ・クライシスが影を落とし、教団内部に反目を招いている。真理とは何があっても揺らぐことがないし、もしそこに妥協が入れば最早それは非真理であり、私たちが生涯を賭して信じる価値を持たない。この絶えず変動する社会に、果たして明日が変わらないことを保証できる人など存在するのか?
指導者たちならびにその支持者たちの間で沸き起こった別の問題は、金光大神によるオカルトじみた宗教行為である。以前彼は護符の配布、年鑑、占星術およびジオマンシーの収載の他、悪霊憑依、天地金乃神の御告げに関わっていた。これに加え、時宜的な取り組みとして、カミから個々人へのメッセージを伝える能力を持つ「巫女」による、当教団の霊媒行為が挙げられる。形而上学的視点から見る時に、この教団に見出される矛盾の1つは、天国と地獄の観念を否定し、肉体を離れた個々の魂が地球の上空を漂っているとする点にある。
この世に存在する悪霊もしくは味方の霊を否定はしませんが、聖書の記述によれば、人は一度死んだ後、天国と地獄のどちらを最終的な住処とするかについて審判を受けることになっている。以前複数にわたり、私は死後の世界を体験した人々についての記事を投稿させていただいた。死からの生還を果たした彼らは、自分の身体の外側から見た情景を鮮明に語ってくれている。その様子こそ、最終的に私たちがたどり着く現実について、聖書が示唆するものと合致する。このことが原因で、嘗ては死後の人生に関するキリスト教的解釈を支持していなかった無神論者たちが、その臨死体験(NDE)後に改心するに至っている。ここに載せた一番目のリンクから、彼らの個人的証言を閲覧することができる。
youtube.com/watch?v=vQ8TEGMj-jc%3Ffeature%3Dplayer_embedded
最後に、あなたの魂をめぐる霊的な戦いについて考えてみたいと思う。宗教に密接した日本の文化および社会において働く、実に様々な霊的力が四方八方からグイグイとあなたの魂を手繰り寄せようとしている。そこで、これら千種万様な似非宗教グループとは異なり、世界で3人の内1人から支持されている、より信頼性に富む宗教的世界観を紹介したいと思う。証拠として正しい数字を提示することも悪くはないが、それよりむしろ老若男女すべてからの支持を等しく獲得し続け、何世紀にも亘る検証の中をかい潜ってきた結果、現在において世界の果てにまで及んだ普遍的現実に目を留めていただきたい。私を初めとするこの現実を体験した多くの方々の証を証言したリンクをお届けしたい。
イエスについての私の証し
www.cbn.com/700club/features/Amazing/
さらにそれに加えて、この信仰が古代文化的な迷信にまつわる神話や伝説を根拠にしたものではなく、信憑性の高い歴史的文脈下の社会的影響によっても信頼性を保証された、理性的な信仰であることが分かる。
最後に確認したいのだが、金光教で使用されている語彙、専門用語、そして教義の多くが、キリスト教の概念やテーマに因んでいる。その中で既にピンと来るものがあるだろう。それらがイエスのダイナミックかつ圧倒的な力をもって地球全体を影響下に置いているため、世界の片隅にあるマイナーな宗教から居場所を奪うことなど雑作もないのだ。
さらに神は恵み深く慈愛に富み、怒るに遅く無条件の愛に満ちた性質の持ち主である。また神はあなたが生きて、動き、命を保つためにあなたを創造し存続させる方であり、そえゆえこの方を離れては、あなたは何もできない。ご自身の憐れみ深さを効果的に人類に示すための力強い表現または宣言として、その一人子をこの世に遣わしてくださった。天国にいながらも神は私たちから遠く離れてはおらず、認識できる現実として
即座に現れてくださるのだ。ヨハネ3章16 節にはこう書かれてある。 16 「神はじつにそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、だれ1人として滅びることなく、永遠の命をもつためである。」
聖書には神と人との間を執り成す仲介人の存在について触れており、その方こそ救い主イエス。キリストである。イエスは人間の罪のために、その犠牲的な死を通して祭壇上に自分自身を捧げ、私たちと神との関係を回復してくださった。神の御子が受肉し私たち人類の間に住んでくださり、ご自分を私たちの雛型として罪と道徳的欠落に対して圧倒的な勝利を治めて征服してくださる。それによって私たちは霊的な死の束縛から解放され、その罪に満ちた心に有罪を宣告する、神の怒りに基づいた義の審判を免れる。イエスは私たちに命を与えるばかりか、私たちがそれをより豊かに持ち、新生と聖化からの霊の実によって心の変化を遂げて新しく優れた人間性を実現できるように、この世に訪れてくださった。こうして私たちの父なる神に自らの命を委ねることで神と1つになり、その性質および性格を帯びながら神に栄光を帰すようになる。要するに、イエスが魂の苦痛を味わいながらご自身の尊い命を私たちの代わりに捧げ、私たちの払うべき代価を支払ってくださったおかげで、私たちが来るべき死後の生活で永遠の苦しみと破滅に付きまとわれるような、地獄という究極の代価を免除されたのだ。
福音とはこのような神による救済の業である。救いは私たち自身に依らず、また功績や徳目を積むような善行とも関わりがない。救いは努力して得ようとするものではなく、むしろ無償で、しかも完全無欠かつ有効な形で授与される 私たちの義を果たすべき責務とそれを果たせないことの罪責という重荷を背負って下さった、キリストによる自律的な救いの業である。それによって最早私たちは神の罰から免れるばかりか、永遠の命を賜ることで神の御国の相続人とされていることを覚えていただきたい。
マタイによる福音書11章28〜30節の言葉を引用しておく。
28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。”
その他のリンク
Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5224-5226, Helen Hardacre
Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu
Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pg.8367 , Brian Bocking
Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.6, pg.949, Konko-kyo
Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.