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黒住教

Saturday, October 11th, 2014

教派神道である黒住教は、日本の新宗教カルトの1つに数えられる。もし関心がおありなら、この神道信仰の迷信および民間伝承について言及した私の投稿記事を一読いただきたい。

神道主義

黒住教の教えと価値観については、太陽でありかつ自然界の神々を従える女神、天照大神が憑依することで、天と一体化するという主観的な体験の持ち主として、自分自身を神聖視する教祖の黒住宗忠の自我自賛的な態度と重なる。
教派の設立当初、神秘的儀式を伴う魔術からの病気治癒にフォーカスしていたが、その後次第に一般的道徳行為による救済をモチーフとして強調し始め、健康や経済的繁栄に関わる教えに専心しながら徳を養うという、実利的な教義へシフト。皮肉にもそれは教団自身の信仰体系である自我忘却と相矛盾しているように思える。

この宗教は、人生上の試練や患難に甘んじるような運命論的観点に立ちながら、一方では他人の幸福に貢献することを要求するなど、哲学的な自己矛盾を孕んでいる面で批判の的とされてきた。前者に基づいて自らの人生に起こる状況や運命を受け入れ、その克服に励むことを諦めてしまうなら、後者を全く無に帰してしまう結果となる。信者を繁栄のご利益に向けて邁進するように鼓舞する一方、封建制度の最下層に置かれ、人生の定めを容認する以外道が無かった平民たちと同じく恩恵に恵まれない人たちを宥めなければならない。この方程式の両サイドを都合良く釣り合わせようと苦心した結果と思われる。

この現実を変えることもできずにこの厳しい現実に対して消極的に臨む人たちにとっては自分の思考を支配し、逃避・解放型のマインドセットに自らを投じながら物質的平等をあきらめつつ、必然として訪れる境遇に左右されないはずの真の幸福をもたらす霊的力に望みを馳せることしかできない。

しかしたとえその仕組みが有効とは言え、現実との相互関係を要さないこの対処法は、およそ薬物のようにただ一時的に現実の苦々しい感覚を鈍らせるに過ぎない。当団体が「持つ者と持たざる者」という対照的な立場の間に横たわる緊張の緩和を試みながら、自らの正当性についての確証と権威を何とか保ちつつ存続してきたことは明白である。こうして全信者をそのサクセスストーリーに取り込むことで破綻を免れてきたのである。

それゆえ個々のケースはどれも、人生の苦境の最中、幸福感いっぱいに欣然と心や態度に変化を起こすか、あるいは風を追うように非現実的な夢物語を追うことに終始するかのいずれかに該当する。いずれにせよ未来を展望させることで希望を与えることができ、「キャッチオール」を果たすことになる。だからといって冒頭で私が問いかけた質問への答えにはなっていない。御陽気修行または御日拝とも呼ばれる奇妙な呼吸法を伴い、太陽光を飲込むことをイメージしながらの儀式を行いながら、一体何故そこまで遮二無二ご利益を追求しなければならないのか?変化にも現状維持にも不平をこぼさずにそれらを受け入れ、分に応じた生き方に人事を尽くすような人生観と、全く矛盾していると言わざるを得ない。

さらに、真摯かつ熱心な信者を抱えているなら、なぜ報いに与る者とそうでない者とに分断されるのか理解に苦しむ。もし脆弱な者が頑健に、そして頑健な者が突然病気に掛かったとしたらどう答えるつもりか。このような問いに対しては、与えられた人生において病気にも健康にもなり得、同様にボロから金持ち、あるいはその逆もあり得るという詭弁しか成り立たない。この団体のセールストークによれば、その途上で何が起ころうとも、人生の結果は信心による超越的力によって最終的に決まるそうだが、私にはそれが非現実に思えてしかたがない。私たちは必然的に人生の津波や地震の中をかいくぐりながら、人生の終局には若さの泉を枯渇させよろめきながら衰退の一途をたどり、少なくともいつの日か必ず肉体的寿命を迎えるのだ。それゆえ、この団体は他のカルト宗教にもあるような特定の価値観または美徳の実践以外には、本質的にいかなる現実も可視的なご利益も与えないまま、人生の答えを握っているかのような幻想を人々に抱かせるのだ。

彼らの持つ存在論的な問題に焦点を移そう。この宗教グループは神と共にあることを本質的なアイデンティティとする。しかしその根底には、別個の存在として神と緊密に関わるというよりも、神の投影的存在であるという自負が強調される。確かに聖書は、全ての被造物に対する優越性を認められた者としての栄光と尊厳を、神をイメージして造られた人間にも認める。しかし理性、意思、道徳心そして自意識などの感性を備えるという意味に限って、創造主である神を反映しているに過ぎないのだ。

もし人間にこの教団が主張するような極めて親密な連帯性を認めるとすれば、第一に完全な神と比較しても分かるように、私たちがその神から離れて道を見失ってしまった理由をどう説明するのか?神が道徳的に優れている一方で人間がその性質を損ねているのはなぜ?私たちの善い行いや働きへの微々たる努力では、実際に私たちが神と「一体化」するための徳を積むことはできない。私たちは本来、著しい道徳的な機能不全に陥ってしまっているからだ。たとえ周囲の仲間たちと比較して若干良心的であることを自負できても、一瞬たりとも完璧ではあり得ずに罪責感や恥の感覚を消し去ることはできない。そのため神の持つ神聖さの域には決して達し得ないのだ。

さらに永遠に関する彼らの教義に対しても一言触れさせていただきたい。宇宙に衰退に伴い利用可能なエネルギーが失われているとする、アインシュタインの相対性理論に基づいた熱力学の法則によって指摘され、さらにハッブル宇宙望遠鏡による物理的な証拠が裏付けるように、被造物すべてに世の起源の存在が反映されている。結果として、宇宙が永遠なる存在であるとする従来の定説の非信憑性を揺るがないものとした。

永遠の存在である神が、必然性と純粋さから離れ不安定で他に左右されがちな存在へと変容し、統合失調状態になりながら一時の訪問者としてこの地上の世界に降ることが果たしてあり得ようか?脆く、無知で、限られた枠組みの中でしか生きられない人間が、全知全能かつ遍在的な神の化身になどどうしてなれるのか?したがって、私たち人間が一過性の存在として世に生まれたことを支持する方が、永遠の彼方からの存在と信じるよりもはるかに理に適っている。非統合的人格に起因する精神状態にある人間が、統合失調とは唯一縁の無い創造主の一片または一部になれないことは一目瞭然である。

哲学的に言えば、もし二つとない絶対的存在である神が自分自身を別の主体に複製すれば、創造主であると同時にそれよりも劣った被造物に成り下がり、その結果、神は存在しながら同時に存在しないお方になってしまうのではないか?その時点で神は存在することを止めてしまい、完全さを失うことで分断可能となり変化を避けられなくなれば、完全さとそれよりも劣った部分が同時に内在してしまい、必然的に無矛盾性の原則に背く結果となる。神は本来、唯一無二の存在であることを考えると、神の役を担おうと自分を神格化する者が数人同時に存在すれば、それは霊を欺くことで自分自身を貶めることに他ならない。

男女の肉欲的な性行為によって生み出される私たち人間は、いくぶん虚ろで不完全な存在であるとする物質論的な見方に対して、あなたがた教団はただそう見えるだけで実質は異なると主張しながら反論する。だがこの論法に基づいて自分たちの日常生活を見れば、そこには一貫性も永続性も無いことが分かるだろう。また他宗教の考えと同様、十分な省察を伴わないただの作り話であるとする自分たちへの評価についてどうお思いか?さらに神が私たち人間を欺きながら、嘘と言った方が相応しい見せかけの妄想生活を営む場として私たちに仮想現実を設けたとする考えは、あまりにもお粗末ではないか?根本的には、神が完全無欠以外の、あるいはそれ以下の存在に成ることはあり得ないと強く断言できる。他からの証明を要さない自明の現実は、私たちの有限性をもって理解することは不可能である。たとえ特有の知的能力によって優位な立場から世界の奉公人として仕えることはできても、それで神となるための資格が備わることにはならない。自分たちを神格することなく、有限で別の実質さを備える存在として、私たち人間を見る方がはるかに妥当であるように思える。

さらにもしあなた方が本当に自分を神だと信じているのなら、なぜ崇拝の対象を神道の神にまで拡大する必要があるのか?自分自身を神格または神の化身と自負する者にすれば、本来崇拝の対象は自分にあるとした方が理に適い、自己矛盾は生じないはずである。なにゆえ自分自身よりもさらに向こう側に何か究極的現実を見ようとするのか?永遠の彼方から既に存在する神の心を解放しながら自分自身の外側よりも内側に目を留めれば良いのではないか?言うまでも無く、私たちは現在過去未来においても決して達し得ない超越的な存在への渇望を内に宿している。その生まれ持った性質から、ほぼ全ての人々が本能的かつ直感的にこの考えを拒絶するのである。

私たち人間は被造物としてごく限られた存在である。たとえその内に備わる人間性によって、生物学的特性を越えた非肉体的な精神の存在が私たちに現れても、それが必ずしも私たちに神格化を認めることを意味しないのだ。
ここでもう1つ私が疑問に思う、肉体的および生物学的機能からの分離を伴った死後に関わる視点について触れたいと思う。そのため、自らの患者に起こった出来事から、天国と地獄に関するキリスト教的世界観に合致する現実を受け入れた、元無神論者の医者による証言と実証に基づく映画を紹介しよう。永遠に関わる重大な視点と適用を得るために、是非この映画をじっくり鑑賞していただきたい。

最後、この宗教運動の求心力についても疑問を隠せない。実質、他の零細グループ同様、宗教マイノリティからは脱し切れずに停滞もしくは衰退の方向へ進んでおり、世界中の人々の人生に影響を及ぼすには至っていない。かたやキリスト教は3人に1人がクリスチャンであると言われるほど世界中にプラス面のインパクトを残し、しかもそこには含まれない世界2位の数を誇るイスラム教徒の中にも、イエスの人格および働きに敬意を表する者がいる。聞いて驚くかもしれないが、キリスト教はアジアに起源を持ち、その後西洋全土へと伝わった。そして現在、それが巡り巡った結果、自国文化に代々伝わる悟り信仰では見出せない答えに飢え渇いている、愛するアジアの大勢の友人にもとへ舞い戻ったのだ。つまり神はどの大陸および島よりも巨大であり、その神を矮小化し選ばれた少人数の中に閉じ込めようとすれば、宗教的な献身のあり方を繕うことに気を奪われてしまう。

この団体はその教義の要求に応えることはできないというのが、私の個人的見解だ。なぜならその拠って立つものは、 「宇宙の創造主」であり、また「唯一真の神」であるイエスの人格および働きのまがい物であるからだ。イエスこそが「世の光」として神格を体現する者であり、聖霊の内側に満ちあふれる臨在によって、信じる者すべてに永遠の命をお与えになる。

この回を閉じるに当たり、これまでの私のコメントが必要以上に皆様の気持ちを害していないことを願います。私は皆様が霊的な現実との結びつきやつながりへの熱心さと願望に、敬意を表したいからです。私が挑む相手とは、生きた神よりも悪魔的現実との関わりへの扉を開く実体の性質であります。悪魔はあなたを欺き魅惑に満ちた好奇心をあおるもので誘惑した挙げ句、私たちを神から断絶させることで喪失状態ヘと陥れることに精を出します。その悪と破壊に満ちたその性質に気付かないまま、悪魔を喜ばせることになるのです。

最後に、私は懐疑心や悲観主義を共有するために声を張り上げているのはありません。皆様には真理が導く現実に心を開いて従う、あるいはより探求する意思を持つように自分を仕向けていただきたい。神は道徳的な良心という自然啓示だけを与えて、私たちを放っておくことはしません。むしろ特別かつ中身が豊富な啓示により、神に依拠しながらの個人的な関係を通して、真理の全てを悟る道を私たちの前に開いて下さったのです。つまり、もし命をかけて神を信じる意思があなたにあるのなら、神は道徳的な弱さや欠如から解放することができ、またそれを実現なさることについて念を押したいのです。神はご自身を熱心に慕い求める者に、その義に相応しく報いるお方であります。それは神に至る道を自分で切り開こうとして努めるような敬虔な行いによってではなく、あなたの罪による責めを担い、それを永遠に取り去ったイエスにおいて、申し分無く人格化された神から贈られる永遠の命をただ受け取れば良いのです。

この回を閉じるに当り、あなたに1つお尋ねしたい。現代が抱える重大な核の脅威のもと、もしかしたらあなたは厳しい労働や勤務に疲れ果て、与えられた約束に惑わされ、さらに社会の秩序や調和の中で生きることに精魂を使い果たしながら暮らしているのかも知れない。そんな皆様のために祈らせてください。嵐の最中、あなたに手招きを送るイエスに近づき 彼の中に安堵と完全なる心の満たしを見出すことができますように。

マタイによる福音書11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

私が切に願うことはただ1つ。あなたが黒住教に心を開き信仰の意思を抱いたように、自分の心と人生をイエスに委ねることができるように、現実的かつ肌で体験できるような方法で自らを顕現してくださるように真摯に求め、王の王、主の主であるところの至高の支配者としての主権をもって世を治める、真の受肉した神の子イエスと霊的に結び付きを体験されることです。聖霊を与える命の息吹を主があなたの内側に吹き込んでくれることを祈りながら、この回を閉じさせていただきます。

ペテロの手紙第2 1章3〜4節
3 主イエスは、ご自分の持つ力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちを御地震の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。4 この栄光と力ある業とによって、情欲に染まった、この世の退廃を免れ、神の本性に与らせていただくようになるためです。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

黒住教の資料

Kurozumikyo

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5267-5268 , Hirota Masaki

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.7, pg.44, Kurozumi-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

黒住教の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

Kurozumikyo Resources

Sunday, March 24th, 2013

Four Spiritual Laws

 

Jesus Film

 

New Testament/Bible

 

Audio Bible

Kurozumikyo

Saturday, March 16th, 2013

Kurozumikyo is a sect Shinto group which makes up the shinshukyo cult phenomena in Japan and if you are interested you can view a post that I published regarding the superstitious and folklore beliefs of Shintoism

Shintoism

Kurozumikyo teachings and values fits well within the mythological framework and backdrop of Shinto belief with its self acclaimed founder Kurozumi Munetada who considered himself as a deity and who supposedly had a subjective experience through a divine union as being possessed with Amaterasu Omikami who is known as the goddess of the sun and chief kami among the pantheon of natural powers.

To begin with this movement started as a magical art with a mystical ritual for  curing illness and then latter transitioned to more of a practical approach as emphasizing a motif of salvation through aspects of popular morality as cultivating virtue combined with the health and wealth prosperity message which ironically seems inconsistent to their model of selflessness.

Anyway one of the controversial aspects of this religion has been its position of fatalism as accepting the trials and difficulties of life while also claiming to contribute to ones well being which seems philosophically conflicting or oppositional as it would seem that former would simply nullify the latter as accepting  their condition or fate in life instead of striving to resolve it. Perhaps this position somehow conveniently covers both sides of the equation as to encourage some to move towards achieving the benefits of prosperity while  pacifying or consoling those who have not had the same results such as an individual who had been oppressed under the subordination of the feudal system as a commoner who could only accept their arrangement in life. So for those who were facing this harsh reality of life with a form of passive acceptance as not being able to change their reality could control one thing which was their   perspective as providing an emotional form of escape or relief  which looked towards the prospects of a spiritual potentiality rather than a material equality as a means of attainment which was not primarily dependent upon natural circumstances. However even if this coping mechanism worked it did not necessitate a correlation with reality and like a drug only temporarily dulls the senses to a painful reality. With either scenario it appears that this organization couldn’t lose as it tries to substantiate or authenticate itself by attempting to ease the tension between these antithetical positions of the “haves and the have nots” and therefore the movement attempts to evade failure as its embraces everyone  in its success story. So whatever the individual case may be whether someone is to happily/cheerfully embrace a change of mind and attitude over life’s troubles or pursue the illusory gain of reaching significant results and goals the “catch all” is that the projected outcome is to give hope to every represented group. Nevertheless this doesn’t answer the objection to my opening question as to why an individual should seek any benefit at all to begin with, such as through the pagan breathing ritual of spiritual practice otherwise known as swallowing the sun or sun worship, which is contrary to the view of acceptance as it advocates change and  maintenance as contributing to a certain quality of life.

Moreover I don’t understand that if you are dealing with sincere and diligent believers how can all this work for some and not for others? Also what do you do when an infirmed person gets well while the healthy person suddenly becomes ill? It appears the terms can flip flop as not being definite except to say that at any given time you could either be sick or well likewise you could also go from rags to riches and vise versa. In other words the sales pitch is that regardless what life may throw at you the effects of life are ultimately determined by the casual powers of piety which I believe are inconsistent with reality.  Essentially we all go through the tsunamis and earthquakes of life and in the end there is no fountain of youth as we all falter as becoming weak when we age and inevitably will all one day die at least physically. So essentially this group gives the illusion that it has the answer when in essence its not really actualizing any kind of real or significant benefit except for its practice of certain moral values or virtues which is no different that many of the other religions and cults.

In moving on there are ontological problems as this group thinks of itself as being one in essence with god and yet not in the sense of just obtaining an intimate connection and association to that of another being but as seeing itself as an emanation of that being. Granted the bible depicts the glory and majesty of mankind above the created order as we share His image but only as much as the design reflects the designer as being rational, willful and moral creatures with a sense of self awareness, etc.

After all if we are that closely linked to divinity then how did we lose our way or become separated  to begin with seeing that God is a perfect being and we are not?  How is it that we are flawed when God is morally efficient? Surely our minuscule efforts of good deeds or works can’t really merit our becoming “one” with Him as we by nature are so morally dysfunctional and deficient. Even if we comparatively see ourselves more righteous than our peers this still does not approach God’s magnitude of holiness as we are never devoid of a continued sense of guilt and shame as we will always fail to reach perfection.

Furthermore regarding their belief in eternality, everything in the created order points to a beginning such as the law of thermodynamics which indicates that we are losing usable energy as the universe is winding down as postulated by Einstein’s theory of relativity and confirmed through the lens of the Hubble telescope giving evidence to a beginning as disproving the earlier notion of science who also saw an eternal state of matter.

Also how is it possible for an eternal God to become disjointed or disconnected as to arrive on the world scene as a temporal traveler in becoming a contingent or dependent being apart from His necessary and pure being? How can a person who is weak, ignorant and confined to spacial limitations be analogous to God who is omnipotent, omniscient and omnipresent? Thus it is far more evidential to support our temporal coming into existence than any kind of a pre-existent eternal realm as we are obviously created beings rather than a piece, fragment or part of the Creator himself who alone is not schizophrenic as having a mental state of split personalities.Philosophically speaking how could an absolute God reproduce himself as another entity as then he would have to simultaneously exist and not exist at the same time as both the creator and the creature of which the creature is always lesser than the creator? At that point god would cease to exist as being less than perfect as becoming divisible and subjected to change as being both inferior and superior at the same time and in the same relationship which of logical necessity violates the law of non-contradiction. There are a few people who play god and who think they are god but they are only fooling themselves through deceiving spirits as God is uniquely one in essence. Thus God is pure being not becoming as He can not change.

Nevertheless you may still challenge the notion of the material realm as being somewhat unreal and deficient in explaining our coming into existence by the procreation of a man and woman in stating that it only appears that way and not as it really is then trying using that same logic to live your daily life and you will see that your life is inconsistent and unsustainable. Also whose to say that your thinking does not also come under the same kind of scrutiny as being just as unreal as the next guys opinion? Furthermore how imperfect would it be for God to deceive us by devising a virtual reality based on a delusional life of make believe which might better describe the lie that you are living under with this line of reasoning? Essentially the stronger argument is that God as a perfect being could not become anything other or less than perfect of which we will never be as confirmed by our limitations as a self evident reality. Though we may serve a superior role as the stewards of the universe through our unique capabilities of intelligence nonetheless it does not qualify us or give us a license to be god and I think it is much more plausible as seeing ourselves as consisting of a different essence as definably human not divine.

Moreover if you really thought you were god then why extend worship to the kami as essentially worship should be self directed as self worship which would be appropriate and consistent for someone who saw themselves as an extension of divinity or god. Why look any farther than yourself for any sort of ultimate reality as you only need to look inward not outward as unlocking the eternally existent mind of god?  It goes without saying that most people instinctively and intuitively reject this idea as craving a transcendent being the likes of which we are not nor will ever be and as we are restricted to being creaturely and even if our humanity does point to a reality beyond biological function to a non-physical human soul  that does not necessarily making us god either.

Finally another matter I question is their view of the afterlife apart from our physical or biological function and therefore I am giving you a video of a former atheistic doctor who by the testimony and experience of his patients made him a believer to a reality which is more compliant with a Christian worldview regarding Heaven and Hell. I hope you take the time to watch this video as it is eternally significant in its scope and application.

www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=vQ8TEGMj-jc

Lastly I question the efficacy of this movement as it has failed to be universally impacting to all of life since essentially they have stagnated or declined as a minority group as being one among the many other fringe groups. Christianity on the other hand has had such a positive world wide impact in that nearly 1 out of 3 individuals make some claim to Jesus which does not even include the second largest religion namely Islam which gives some regard for the person and work of Jesus. You may be surprised to know that Christianity started out as an Asiatic religion which spread throughout the course of the Western World and is now returning full circle to many of my Asian friends as they are seeking answers beyond the limitation of their cultural enlightenment. In conclusion God is bigger than any continent or island and when we reduce God to the size of just a few select people then this should begin to call our attention to how we process our religious devotion.

Personally I think this group can not live up to its claims as I believe their position is a counterfeit to the person and work of Jesus who is the “One True God” as the  “Creator of the Universe.”  He is the divine embodiment as being “The Light of the World” as He gives eternal life to all who believe as imparting the indwelling presence of the divine Holy Sprit instead of the unholy spirits of the kami.

In closing I hope I have not needlessly offended you over my comments as I respect and appreciate your zeal and desire to connect and communicate with a spiritual reality. What I challenge is the nature of these entities as opening the doors to the fellowship of a demonic reality instead of the living God as entertaining demons unaware as their nature is evil and destructive in serving to deceive and allure you into fascination or intrigue but will essentially only leave you in a state of lostness apart from God.

Finally I am not striving to impart to you a sense of skepticism or pessimism but rather I would encourage you to be open and willing to follow or to search out reality wherever the facts may lead you. God did not intend to leave you with only the general revelation of a moral conscious but rather He intends to lead and guide you into all truth with a  special or fuller revelation in a personal relationship of dependency upon Him. In summary I would like to reassure you that God can and will deliver you from moral failure and shortcomings if you are willing to trust Him with your life. After all He is a rewarder of those who diligently seek Him in accordance with His righteousness not through the pious practices as striving to earn your way to God but as you simply receive the gift of His eternal love which is ideally personified in Jesus who took the guilt of your sin and removed it forever.

Lastly perhaps you are worn out from your hard work and labour and disillusioned by the promises you been given or exhausted over the pursuit of social order and harmony with the ensuing nuclear threats of our modern day. Then I pray that you will reach out  to Jesus in the midst of the storm as He beckons to your heart and may you find your rest in Him as being fully satisfied.

Mt 11:28-30

28 “Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest. 29 Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for your souls. 30 For my yoke is easy and my burden is light.”

 

In conclusion all I ask is for you to have the same openness and willingness of heart that you had upon believing the religion of Kurozumikyo and to sincerely seek out Jesus as to reveal Himself to you in a real and tangible way so as to entrust your heart and life to Him as becoming spiritually unified or one with Him as   worshiping Him as the true incarnate Son who chiefly reigns as the supreme ruler as the King of kings and the Lord of lords. So in closing my prayer for you is that the Lord will breathe within you the breath of the life giving Spirit.

2 Peter 1:3-4

His divine power has granted to us all things that pertain to life and godliness, through the knowledge of him who called us to his own glory and excellence, by which he has granted to us his precious and very great promises, so that through them you may become partakers of the divine nature, having escaped from the corruption that is in the world because of sinful desire.

 

 

 

How to have a relationship with God

How to know God

Other links

Kurozumikyo Resources

www.cbn.com/700club/features/amazing/

 

 

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5267-5268 , Hirota Masaki

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.7, pg.44, Kurozumi-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

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