Archive for the ‘Shintoism’ Category

天照皇大神宮教

Saturday, October 11th, 2014

「踊る宗教」という異名を持つ天照皇大神宮教は、戦後の敗戦ムードの最中に産声をあげた日本の新宗教の1つであり、世界の内在的崩壊が差し迫っていることを予言する

終末思想のカルトである。不安や恐怖を煽りながら大戦後の荒廃に見るような様を想像させ、そのような事態からの救済計画に対する渇望を刺激するなど、この種のカルトは効果的な人心掌握術に大変長けている。しかしこのような世界的事件が起こらないまま60年間の時が経過した今、世の中が核縮小の動きを見せる中でこの即時的崩壊の可能性は低下している。原子爆弾の投下は壊滅的な惨事を招来したことを世界中が認めており、たとえ依然世界が核の脅威下にあるとしても、政情不安定な地域に対しては他国からの監視の目が注がれている。同じ20世紀の間で2つの大戦が連発したことを思えば、確かに同レベルの人災が再び起こってもおかしくないかも知れない。だがその憶測とは裏腹に、国際連合創設に始まる外交関係の構築や人口衛生テクノロジーなど、将来かような惨劇が起こらないようにするためのより洗練された防止策が講じられつつ、世の終末を回避する努力が為されている。

このような終末予言は未だに現実味を帯びているが、歴史を振り返って見る時にノストラダムスにせよオウム真理教にせよ、いつの世にもこの類いの預言者が現れてきたし、またこれからも現れ続けることは論を待たない。しかしご存知の通り、世の究極的終末とは決してテクノロジーの進化や人間による手の業によって到来しない。神ご自身が最後の審判を下し、罪と反逆に満ちた人間に対して怒りを発する時に訪れるのである。

ここでこのムーブメントの起源について触れよう。教祖の北村サヨは自らを天照皇大神宮(神道の女神、天照大神)と名乗り、北村を世の救世主に任命したとされる悪意に満ちた悪霊の憑依によって感化された。数回の連続的な憑依の後、彼女は生き女神になったとされる。聖書は驚くほど頻繁にサタンおよび悪魔を擬人化しながら、狡猾な存在として描写している。とにかくある1つの霊体験を根拠に、最高位かつ本質的な真理との霊的遭遇者の地位に経験者を押し上げることは許されない。そのような独善的な持論を喧伝する同種の人物が量産的に存在するからだ。たとえ癒しや奇跡を売り込んでも、その力を欺瞞の悪霊に負っている以上この状態の本質を確認する術にはならない。

マタイによる福音書 24章 23〜24節
23 そのとき、「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。

ヨハネの手紙第Ⅰ 4章1節
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

当宗教団体ではこの救済の使命を完遂するため、世界崩壊という大激変が差し迫っているこの時代に平和と調和を呼び込むための、踊りの儀礼を方法論として採用する。しかしこの宗派の創設以来別の戦争が勃発している。そのような武力紛争を抑え切れていない事実を鑑みる時に、世界に対して及ぼす何らかの影響力に関してどこまで定かであるのかが疑問である。ありったけの敬意をもって言わせてもらうがそのプログラム全体、日本がその歴史上最も凄惨な荒廃を味わった後に展開されたことを考えると、時代の潮流とのズレを指摘せざるを得ない。さらに、集団の宗教行為が未来への備えを促す警鐘というよりは、むしろ反動によるものだと考える方が明らかに妥当である。なぜなら彼女はそのような指示または啓示を広島および長崎への原爆投下以前発信するべきであったからである。

この踊りについては、心の抑圧を抱えた人を悪霊から解放し自由を与えるとされている。だが皮肉にも、カミの悪霊に憑依されそれを締出すどころか、取り憑かれた者が救われるという虚偽を信じて心を許し自分の魂をその住処として提供した彼女が、

悪霊から解放されるなどと約束することはこの宗教グループにとってまさに自虐行為である。彼らに欠けている理解とは、盗み殺し、そして滅ぼすといった意思および任務を改めることをしない悪霊を呼び込むことで、自らを蝕んでいるという事実である。さらにこれらの偉人を装う悪霊はその信者たちを欺き、自分たちが悪と格闘する試練の道を経ながら救済に向かっていると信じ込ませるが、その実態は宿主に巣くい自分たちの主人であり指令者、即ちサタンの計画と意思を遂行しこの誤謬に浸かったインチキ宗教を創設する寄生虫のようなものである。

恍惚的な舞の儀式に見る激しい狂乱ぶりはお祈り(仏教用語で南無妙法蓮華経)の原則と結び付いており、また即興的な音楽がどういうわけか神秘的に宇宙の秘技に関する特別な英知を会得させ、その天授の知恵と力による自己管理を可能にすると信じられている。一般常識的に解釈すればその修練には妖術としての性格がより強く現れており、エデンの園で神と同等の聡明さが得られると囁きながらエヴァを罠に貶めた、狡猾な蛇による誘惑と何ら変わらない。さらにその舞には他人の心を浄化する効力があると語るが、この小グループの努力の結果としてそれが実際に起こったことを、現実的な形で確認できる証拠がどこにあるのか?彼らはまた、自分たちが全ての悪霊に対処できると信じているが、元々北村に取り憑いた霊が他ならぬ欺瞞に満ちた悪霊であるという事実についてどう釈明するのか?それとも、それらの霊を変えることすら可能であるとでも言うつもりか?

さらに、別の快癒効果が無我の境地で捧げる祈りによって達成されると彼らは信じている。しかしその霊的指導者の全容を見る限り、世界および人類の救世主としての自分に大神様という尊称を与え信者に崇拝を強要する態度からは、自己陶酔的な自我を膨らましている印象しか受けない。

この祈祷形式を苦悩の原因である情欲や執着心を打ち消す手段とする即席的な仏教哲学には、その教団自体に傷を付けることになる。なぜなら苦悩や不幸の払拭という、個人的なご利益祈願を本懐とする教義に抵触するからだ。

この新宗教について結論を申し上げると、人間性の退廃やこの世界に作用する諸悪の霊からの影響に気付いている点は評価したい。そのような要因に反応を示すのは人間の本能ではあるが、そのようなアプローチこそが世界に違いを生じさせる元凶となっている。宗教的努力を通して人類を統一するために、バベルの塔を現代版に再建またはリニューアルし、天国への道を築くことはその実現を見る前に事態の混乱を招くだけである。その願望の実現についても客観的な判断ができない、主観的で儚い人間による無益な努力は失望という結果に終わる。その権威と力は唯一全能の天にまします神ご自身の御手にのみあるのだ。神は絶対的な権威者として秩序を回復しつつ、その平和のプロセスを世にもたらす。煎じ詰めると、全ての民族と言語、そして国家が1つとなる世界とは、ご自身が支配する永遠の御国の到来と同時にイエスが打ち建てる世界である。

私たちは既に道徳的不具を克服しようと努めることの難儀さを痛感し、自然災害による壊滅的な被害を目にするが、これらの現実は平和の実現と、ある方の訪れを待望する思いを私たちの心に芽生えさせてくれる。そのお方とは終わりの時代に、その全能さと絶対的な支配の下、平和の君として平和に満ちた新しい世の秩序を招来させるお方である。従って平和と幸福とは、キリストの地上への再臨と彼が完全に支配する御国の建国まで完全には成就しない。

ローマ書8章18〜23節
8 現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20 F被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の購われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

黙示録 21章4節
4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

イザヤ書 2章4節
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう

イザヤ書 11章6〜10節
6 狼は子羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
7 牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう
8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
9 わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
10 その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。

地震、津波、経済破綻、太陽の爆発、隕石衝突、無政府状態、ゾンビ、ノストラダムスの大予言、マヤ暦、他の陸生生物による侵略、極地移動、人口爆発、病気、疫病、生物または細菌兵器を用いた戦争、北朝鮮またはイランからの核爆弾発射、地球温暖化、その他どんな脅威に対しても、詰まる所、あなたが出来る最善の備えとはイエスをあなたの主および救い主として受け入れることである。

ヨハネによる福音書 16章33節
33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書 14章27節
27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

マタイによる福音書11章28〜30節
28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

踊る宗教の情報資料

Odori Shukyo

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pg.8369, Brian Bocking

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.11, pg.637, Tensho Kotai Jingu-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

踊る宗教の情報資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

黒住教

Saturday, October 11th, 2014

教派神道である黒住教は、日本の新宗教カルトの1つに数えられる。もし関心がおありなら、この神道信仰の迷信および民間伝承について言及した私の投稿記事を一読いただきたい。

神道主義

黒住教の教えと価値観については、太陽でありかつ自然界の神々を従える女神、天照大神が憑依することで、天と一体化するという主観的な体験の持ち主として、自分自身を神聖視する教祖の黒住宗忠の自我自賛的な態度と重なる。
教派の設立当初、神秘的儀式を伴う魔術からの病気治癒にフォーカスしていたが、その後次第に一般的道徳行為による救済をモチーフとして強調し始め、健康や経済的繁栄に関わる教えに専心しながら徳を養うという、実利的な教義へシフト。皮肉にもそれは教団自身の信仰体系である自我忘却と相矛盾しているように思える。

この宗教は、人生上の試練や患難に甘んじるような運命論的観点に立ちながら、一方では他人の幸福に貢献することを要求するなど、哲学的な自己矛盾を孕んでいる面で批判の的とされてきた。前者に基づいて自らの人生に起こる状況や運命を受け入れ、その克服に励むことを諦めてしまうなら、後者を全く無に帰してしまう結果となる。信者を繁栄のご利益に向けて邁進するように鼓舞する一方、封建制度の最下層に置かれ、人生の定めを容認する以外道が無かった平民たちと同じく恩恵に恵まれない人たちを宥めなければならない。この方程式の両サイドを都合良く釣り合わせようと苦心した結果と思われる。

この現実を変えることもできずにこの厳しい現実に対して消極的に臨む人たちにとっては自分の思考を支配し、逃避・解放型のマインドセットに自らを投じながら物質的平等をあきらめつつ、必然として訪れる境遇に左右されないはずの真の幸福をもたらす霊的力に望みを馳せることしかできない。

しかしたとえその仕組みが有効とは言え、現実との相互関係を要さないこの対処法は、およそ薬物のようにただ一時的に現実の苦々しい感覚を鈍らせるに過ぎない。当団体が「持つ者と持たざる者」という対照的な立場の間に横たわる緊張の緩和を試みながら、自らの正当性についての確証と権威を何とか保ちつつ存続してきたことは明白である。こうして全信者をそのサクセスストーリーに取り込むことで破綻を免れてきたのである。

それゆえ個々のケースはどれも、人生の苦境の最中、幸福感いっぱいに欣然と心や態度に変化を起こすか、あるいは風を追うように非現実的な夢物語を追うことに終始するかのいずれかに該当する。いずれにせよ未来を展望させることで希望を与えることができ、「キャッチオール」を果たすことになる。だからといって冒頭で私が問いかけた質問への答えにはなっていない。御陽気修行または御日拝とも呼ばれる奇妙な呼吸法を伴い、太陽光を飲込むことをイメージしながらの儀式を行いながら、一体何故そこまで遮二無二ご利益を追求しなければならないのか?変化にも現状維持にも不平をこぼさずにそれらを受け入れ、分に応じた生き方に人事を尽くすような人生観と、全く矛盾していると言わざるを得ない。

さらに、真摯かつ熱心な信者を抱えているなら、なぜ報いに与る者とそうでない者とに分断されるのか理解に苦しむ。もし脆弱な者が頑健に、そして頑健な者が突然病気に掛かったとしたらどう答えるつもりか。このような問いに対しては、与えられた人生において病気にも健康にもなり得、同様にボロから金持ち、あるいはその逆もあり得るという詭弁しか成り立たない。この団体のセールストークによれば、その途上で何が起ころうとも、人生の結果は信心による超越的力によって最終的に決まるそうだが、私にはそれが非現実に思えてしかたがない。私たちは必然的に人生の津波や地震の中をかいくぐりながら、人生の終局には若さの泉を枯渇させよろめきながら衰退の一途をたどり、少なくともいつの日か必ず肉体的寿命を迎えるのだ。それゆえ、この団体は他のカルト宗教にもあるような特定の価値観または美徳の実践以外には、本質的にいかなる現実も可視的なご利益も与えないまま、人生の答えを握っているかのような幻想を人々に抱かせるのだ。

彼らの持つ存在論的な問題に焦点を移そう。この宗教グループは神と共にあることを本質的なアイデンティティとする。しかしその根底には、別個の存在として神と緊密に関わるというよりも、神の投影的存在であるという自負が強調される。確かに聖書は、全ての被造物に対する優越性を認められた者としての栄光と尊厳を、神をイメージして造られた人間にも認める。しかし理性、意思、道徳心そして自意識などの感性を備えるという意味に限って、創造主である神を反映しているに過ぎないのだ。

もし人間にこの教団が主張するような極めて親密な連帯性を認めるとすれば、第一に完全な神と比較しても分かるように、私たちがその神から離れて道を見失ってしまった理由をどう説明するのか?神が道徳的に優れている一方で人間がその性質を損ねているのはなぜ?私たちの善い行いや働きへの微々たる努力では、実際に私たちが神と「一体化」するための徳を積むことはできない。私たちは本来、著しい道徳的な機能不全に陥ってしまっているからだ。たとえ周囲の仲間たちと比較して若干良心的であることを自負できても、一瞬たりとも完璧ではあり得ずに罪責感や恥の感覚を消し去ることはできない。そのため神の持つ神聖さの域には決して達し得ないのだ。

さらに永遠に関する彼らの教義に対しても一言触れさせていただきたい。宇宙に衰退に伴い利用可能なエネルギーが失われているとする、アインシュタインの相対性理論に基づいた熱力学の法則によって指摘され、さらにハッブル宇宙望遠鏡による物理的な証拠が裏付けるように、被造物すべてに世の起源の存在が反映されている。結果として、宇宙が永遠なる存在であるとする従来の定説の非信憑性を揺るがないものとした。

永遠の存在である神が、必然性と純粋さから離れ不安定で他に左右されがちな存在へと変容し、統合失調状態になりながら一時の訪問者としてこの地上の世界に降ることが果たしてあり得ようか?脆く、無知で、限られた枠組みの中でしか生きられない人間が、全知全能かつ遍在的な神の化身になどどうしてなれるのか?したがって、私たち人間が一過性の存在として世に生まれたことを支持する方が、永遠の彼方からの存在と信じるよりもはるかに理に適っている。非統合的人格に起因する精神状態にある人間が、統合失調とは唯一縁の無い創造主の一片または一部になれないことは一目瞭然である。

哲学的に言えば、もし二つとない絶対的存在である神が自分自身を別の主体に複製すれば、創造主であると同時にそれよりも劣った被造物に成り下がり、その結果、神は存在しながら同時に存在しないお方になってしまうのではないか?その時点で神は存在することを止めてしまい、完全さを失うことで分断可能となり変化を避けられなくなれば、完全さとそれよりも劣った部分が同時に内在してしまい、必然的に無矛盾性の原則に背く結果となる。神は本来、唯一無二の存在であることを考えると、神の役を担おうと自分を神格化する者が数人同時に存在すれば、それは霊を欺くことで自分自身を貶めることに他ならない。

男女の肉欲的な性行為によって生み出される私たち人間は、いくぶん虚ろで不完全な存在であるとする物質論的な見方に対して、あなたがた教団はただそう見えるだけで実質は異なると主張しながら反論する。だがこの論法に基づいて自分たちの日常生活を見れば、そこには一貫性も永続性も無いことが分かるだろう。また他宗教の考えと同様、十分な省察を伴わないただの作り話であるとする自分たちへの評価についてどうお思いか?さらに神が私たち人間を欺きながら、嘘と言った方が相応しい見せかけの妄想生活を営む場として私たちに仮想現実を設けたとする考えは、あまりにもお粗末ではないか?根本的には、神が完全無欠以外の、あるいはそれ以下の存在に成ることはあり得ないと強く断言できる。他からの証明を要さない自明の現実は、私たちの有限性をもって理解することは不可能である。たとえ特有の知的能力によって優位な立場から世界の奉公人として仕えることはできても、それで神となるための資格が備わることにはならない。自分たちを神格することなく、有限で別の実質さを備える存在として、私たち人間を見る方がはるかに妥当であるように思える。

さらにもしあなた方が本当に自分を神だと信じているのなら、なぜ崇拝の対象を神道の神にまで拡大する必要があるのか?自分自身を神格または神の化身と自負する者にすれば、本来崇拝の対象は自分にあるとした方が理に適い、自己矛盾は生じないはずである。なにゆえ自分自身よりもさらに向こう側に何か究極的現実を見ようとするのか?永遠の彼方から既に存在する神の心を解放しながら自分自身の外側よりも内側に目を留めれば良いのではないか?言うまでも無く、私たちは現在過去未来においても決して達し得ない超越的な存在への渇望を内に宿している。その生まれ持った性質から、ほぼ全ての人々が本能的かつ直感的にこの考えを拒絶するのである。

私たち人間は被造物としてごく限られた存在である。たとえその内に備わる人間性によって、生物学的特性を越えた非肉体的な精神の存在が私たちに現れても、それが必ずしも私たちに神格化を認めることを意味しないのだ。
ここでもう1つ私が疑問に思う、肉体的および生物学的機能からの分離を伴った死後に関わる視点について触れたいと思う。そのため、自らの患者に起こった出来事から、天国と地獄に関するキリスト教的世界観に合致する現実を受け入れた、元無神論者の医者による証言と実証に基づく映画を紹介しよう。永遠に関わる重大な視点と適用を得るために、是非この映画をじっくり鑑賞していただきたい。

最後、この宗教運動の求心力についても疑問を隠せない。実質、他の零細グループ同様、宗教マイノリティからは脱し切れずに停滞もしくは衰退の方向へ進んでおり、世界中の人々の人生に影響を及ぼすには至っていない。かたやキリスト教は3人に1人がクリスチャンであると言われるほど世界中にプラス面のインパクトを残し、しかもそこには含まれない世界2位の数を誇るイスラム教徒の中にも、イエスの人格および働きに敬意を表する者がいる。聞いて驚くかもしれないが、キリスト教はアジアに起源を持ち、その後西洋全土へと伝わった。そして現在、それが巡り巡った結果、自国文化に代々伝わる悟り信仰では見出せない答えに飢え渇いている、愛するアジアの大勢の友人にもとへ舞い戻ったのだ。つまり神はどの大陸および島よりも巨大であり、その神を矮小化し選ばれた少人数の中に閉じ込めようとすれば、宗教的な献身のあり方を繕うことに気を奪われてしまう。

この団体はその教義の要求に応えることはできないというのが、私の個人的見解だ。なぜならその拠って立つものは、 「宇宙の創造主」であり、また「唯一真の神」であるイエスの人格および働きのまがい物であるからだ。イエスこそが「世の光」として神格を体現する者であり、聖霊の内側に満ちあふれる臨在によって、信じる者すべてに永遠の命をお与えになる。

この回を閉じるに当たり、これまでの私のコメントが必要以上に皆様の気持ちを害していないことを願います。私は皆様が霊的な現実との結びつきやつながりへの熱心さと願望に、敬意を表したいからです。私が挑む相手とは、生きた神よりも悪魔的現実との関わりへの扉を開く実体の性質であります。悪魔はあなたを欺き魅惑に満ちた好奇心をあおるもので誘惑した挙げ句、私たちを神から断絶させることで喪失状態ヘと陥れることに精を出します。その悪と破壊に満ちたその性質に気付かないまま、悪魔を喜ばせることになるのです。

最後に、私は懐疑心や悲観主義を共有するために声を張り上げているのはありません。皆様には真理が導く現実に心を開いて従う、あるいはより探求する意思を持つように自分を仕向けていただきたい。神は道徳的な良心という自然啓示だけを与えて、私たちを放っておくことはしません。むしろ特別かつ中身が豊富な啓示により、神に依拠しながらの個人的な関係を通して、真理の全てを悟る道を私たちの前に開いて下さったのです。つまり、もし命をかけて神を信じる意思があなたにあるのなら、神は道徳的な弱さや欠如から解放することができ、またそれを実現なさることについて念を押したいのです。神はご自身を熱心に慕い求める者に、その義に相応しく報いるお方であります。それは神に至る道を自分で切り開こうとして努めるような敬虔な行いによってではなく、あなたの罪による責めを担い、それを永遠に取り去ったイエスにおいて、申し分無く人格化された神から贈られる永遠の命をただ受け取れば良いのです。

この回を閉じるに当り、あなたに1つお尋ねしたい。現代が抱える重大な核の脅威のもと、もしかしたらあなたは厳しい労働や勤務に疲れ果て、与えられた約束に惑わされ、さらに社会の秩序や調和の中で生きることに精魂を使い果たしながら暮らしているのかも知れない。そんな皆様のために祈らせてください。嵐の最中、あなたに手招きを送るイエスに近づき 彼の中に安堵と完全なる心の満たしを見出すことができますように。

マタイによる福音書11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

私が切に願うことはただ1つ。あなたが黒住教に心を開き信仰の意思を抱いたように、自分の心と人生をイエスに委ねることができるように、現実的かつ肌で体験できるような方法で自らを顕現してくださるように真摯に求め、王の王、主の主であるところの至高の支配者としての主権をもって世を治める、真の受肉した神の子イエスと霊的に結び付きを体験されることです。聖霊を与える命の息吹を主があなたの内側に吹き込んでくれることを祈りながら、この回を閉じさせていただきます。

ペテロの手紙第2 1章3〜4節
3 主イエスは、ご自分の持つ力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちを御地震の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。4 この栄光と力ある業とによって、情欲に染まった、この世の退廃を免れ、神の本性に与らせていただくようになるためです。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

黒住教の資料

Kurozumikyo

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5267-5268 , Hirota Masaki

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.7, pg.44, Kurozumi-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

黒住教の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

金光教

Saturday, October 11th, 2014

金光教(または金光)は新しい日本の神道一派であり、カリスマ的かつシャーマニズム的な教祖、川手文治郎(別名、赤沢文治)によって創設。川手はあらゆる物の根源でありかつ普遍的な神(カミ)の天地金乃神(黄金の天地神という意味)より、神と人間とを仲介(御取次)する任を拝命。彼の使命は自分の信者が抱える痛みや苦しみを引き受け、それをカミに伝えることにあった。本来金光大神は、まるで怒りによって天罰を受けたかのように、天地金乃神に取り憑かれていたとされるが、やがて上記のごとく神格的特質を帯びることを許され、その優れた霊性のゆえにこの尊厳に満ちた称号を授かったとされる。

この種の宗教的な思考過程が、今日の日本に存在する数多くの様々な新宗教の間において、共通して見られる信仰表現であることは明確だ。通常、信憑性に欠ける人物が自らの霊的な昇華を主張しながら、自称グル(教祖)を中心とする個性的カルトを形成する。この独善的教義の全体的性格からはそれが示す全てを正当であると認めることはできないし、よくよく検証してみれば、そのいずれかが真実であるとするにも抵抗を覚えてしまう。

とにかくこのカルト現象は、各々人生の問題の「解答者」または「解答そのもの」と自負するような、カリスマ的指導者を中心に据えた数百にも及ぶ新セクト誕生を日本にもたらした。この霊性現象は藁にもすがる思いで人生の答えを必死に模索する日本人が、自分たち自身の方法と概念を用いながら道を誤っていることを様子から説明できる。自分たち自身の願望に応じて追従すべき神を選ぶ態度は、まさに自分自身のイメージや形に似せた神を拝む行為に匹敵する偶像崇拝的行為である。客観的な真理に基づかずに、むしろ自らのアイデンティティに沿うような鋳型から造られる神は、人間の単なる感傷や渇望からの固定観念を投影する空想上の神か、あるいは神の姿を装うニセモノである。その種類を問わず霊的な修行を営む者は、自分の信仰の動機や対象となる霊性運動における霊的誤謬を省察し、教祖や集団の要求や期待との間に食い違い無いかを吟味すべきだ。また自分が魅力を感じるか否かに関わらず、本来関わりのない個人的嗜好から独立した、究極的かつ本質的な真理に結び付く、霊的現実への洞察と知恵とを真摯に追求することが肝要。

先ずこの宗教団体のリーダーシップについては、散見される前言撤回や教えそのものの軽薄さなどから、事実矛盾があることを認めざるを得ない。第一に川手文治郎は占星術およびジオマンシー(占いの一種)の収載に精を出すも、その後それら全てを否定している。また病気を患った彼は呪術・宗教的な儀式を経て癒しを体験するも、その後、癒しのための宗教的儀式や服薬よりも、むしろ信仰と霊性の強化こそが、身体的な健康維持にとっての鍵であることを明言。第二の疑問点について、川手は当初、金神を悪意に満ちた霊あるいは神格とみなしていたが、後に天地金乃神として再定義をはかりそこに慈愛に富んだ神格を認めた。これこそ聖書が描くような黄金の光を纏う寛大な天使に扮した、悪意あるサタンの欺瞞と惑わしである。

さらに、赤沢は確信よりもむしろ恐れを動機にして神道へなびき、自らを偽り他人の目を盗みながら内密に資格および許可まで授与されるも、後に信仰告白を撤回し棄教している。そればかりかこの金光大神は「カミへの誠実な信仰心を持つ」ことで人は救われると説く。言っておこう、人は誠実であり得ると同時に、自分に正直なまま不実であることが哲学的に言って可能なのだ。つまり誠実を物事の尺度として用いることはできない。究極的真理という自負に関する宣言への批判を逃れようと、自分の神道信仰を不正に偽りながら神の名を汚し、人生を捧げる意思の全くない者が、果たして誠実であり得ようか? 彼が自らの宗教的信仰に確信が持てないのに、その信者であるあなたがどうやって生涯かけてこの新興宗教に帰依できるのか?イエスやその直近の弟子たち、さらにその追従者たちを見て欲しい。自分自身の人生を真理のために自ら喜んで捧げ、間違ってもそれを撤回または否定することなど、彼らには考えられないことであった。

赤沢文治の直弟子であり後継者である佐藤範雄までもが、集団の人気と勢力のはずみを維持するために、真意ではなく恐れから再び神道のカミの前に跪くことを決意。これによって当集団を国もしくは県の神道と同一化させ、結果的に戦前の軍国主義および国家主義への貢献を果たすも、後にこの忠誠を撤回している。だが今日、教義および実践上の神社神道との類似性から自らを神道とみなす信者たちの中に、依然としてアイデンティティ・クライシスが影を落とし、教団内部に反目を招いている。真理とは何があっても揺らぐことがないし、もしそこに妥協が入れば最早それは非真理であり、私たちが生涯を賭して信じる価値を持たない。この絶えず変動する社会に、果たして明日が変わらないことを保証できる人など存在するのか?

指導者たちならびにその支持者たちの間で沸き起こった別の問題は、金光大神によるオカルトじみた宗教行為である。以前彼は護符の配布、年鑑、占星術およびジオマンシーの収載の他、悪霊憑依、天地金乃神の御告げに関わっていた。これに加え、時宜的な取り組みとして、カミから個々人へのメッセージを伝える能力を持つ「巫女」による、当教団の霊媒行為が挙げられる。形而上学的視点から見る時に、この教団に見出される矛盾の1つは、天国と地獄の観念を否定し、肉体を離れた個々の魂が地球の上空を漂っているとする点にある。

この世に存在する悪霊もしくは味方の霊を否定はしませんが、聖書の記述によれば、人は一度死んだ後、天国と地獄のどちらを最終的な住処とするかについて審判を受けることになっている。以前複数にわたり、私は死後の世界を体験した人々についての記事を投稿させていただいた。死からの生還を果たした彼らは、自分の身体の外側から見た情景を鮮明に語ってくれている。その様子こそ、最終的に私たちがたどり着く現実について、聖書が示唆するものと合致する。このことが原因で、嘗ては死後の人生に関するキリスト教的解釈を支持していなかった無神論者たちが、その臨死体験(NDE)後に改心するに至っている。ここに載せた一番目のリンクから、彼らの個人的証言を閲覧することができる。

youtube.com/watch?v=vQ8TEGMj-jc%3Ffeature%3Dplayer_embedded

地獄は本当にあるの?

What the Hell

最後に、あなたの魂をめぐる霊的な戦いについて考えてみたいと思う。宗教に密接した日本の文化および社会において働く、実に様々な霊的力が四方八方からグイグイとあなたの魂を手繰り寄せようとしている。そこで、これら千種万様な似非宗教グループとは異なり、世界で3人の内1人から支持されている、より信頼性に富む宗教的世界観を紹介したいと思う。証拠として正しい数字を提示することも悪くはないが、それよりむしろ老若男女すべてからの支持を等しく獲得し続け、何世紀にも亘る検証の中をかい潜ってきた結果、現在において世界の果てにまで及んだ普遍的現実に目を留めていただきたい。私を初めとするこの現実を体験した多くの方々の証を証言したリンクをお届けしたい。

イエスについての私の証し
www.cbn.com/700club/features/Amazing/

さらにそれに加えて、この信仰が古代文化的な迷信にまつわる神話や伝説を根拠にしたものではなく、信憑性の高い歴史的文脈下の社会的影響によっても信頼性を保証された、理性的な信仰であることが分かる。

日本人

最後に確認したいのだが、金光教で使用されている語彙、専門用語、そして教義の多くが、キリスト教の概念やテーマに因んでいる。その中で既にピンと来るものがあるだろう。それらがイエスのダイナミックかつ圧倒的な力をもって地球全体を影響下に置いているため、世界の片隅にあるマイナーな宗教から居場所を奪うことなど雑作もないのだ。

さらに神は恵み深く慈愛に富み、怒るに遅く無条件の愛に満ちた性質の持ち主である。また神はあなたが生きて、動き、命を保つためにあなたを創造し存続させる方であり、そえゆえこの方を離れては、あなたは何もできない。ご自身の憐れみ深さを効果的に人類に示すための力強い表現または宣言として、その一人子をこの世に遣わしてくださった。天国にいながらも神は私たちから遠く離れてはおらず、認識できる現実として
即座に現れてくださるのだ。ヨハネ3章16 節にはこう書かれてある。 16 「神はじつにそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、だれ1人として滅びることなく、永遠の命をもつためである。」

聖書には神と人との間を執り成す仲介人の存在について触れており、その方こそ救い主イエス。キリストである。イエスは人間の罪のために、その犠牲的な死を通して祭壇上に自分自身を捧げ、私たちと神との関係を回復してくださった。神の御子が受肉し私たち人類の間に住んでくださり、ご自分を私たちの雛型として罪と道徳的欠落に対して圧倒的な勝利を治めて征服してくださる。それによって私たちは霊的な死の束縛から解放され、その罪に満ちた心に有罪を宣告する、神の怒りに基づいた義の審判を免れる。イエスは私たちに命を与えるばかりか、私たちがそれをより豊かに持ち、新生と聖化からの霊の実によって心の変化を遂げて新しく優れた人間性を実現できるように、この世に訪れてくださった。こうして私たちの父なる神に自らの命を委ねることで神と1つになり、その性質および性格を帯びながら神に栄光を帰すようになる。要するに、イエスが魂の苦痛を味わいながらご自身の尊い命を私たちの代わりに捧げ、私たちの払うべき代価を支払ってくださったおかげで、私たちが来るべき死後の生活で永遠の苦しみと破滅に付きまとわれるような、地獄という究極の代価を免除されたのだ。

福音とはこのような神による救済の業である。救いは私たち自身に依らず、また功績や徳目を積むような善行とも関わりがない。救いは努力して得ようとするものではなく、むしろ無償で、しかも完全無欠かつ有効な形で授与される 私たちの義を果たすべき責務とそれを果たせないことの罪責という重荷を背負って下さった、キリストによる自律的な救いの業である。それによって最早私たちは神の罰から免れるばかりか、永遠の命を賜ることで神の御国の相続人とされていることを覚えていただきたい。

マタイによる福音書11章28〜30節の言葉を引用しておく。
28 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。”

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

金光教の資料

Konkokyo

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.8, pgs.5224-5226, Helen Hardacre

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.10, pg.6573 , Robert S. Ellwood and Shimazono Susumu

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pg.8367 , Brian Bocking

Encyclopaedia Britannica,Inc., copyright 1993, Vol.6, pg.949, Konko-kyo

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

金光教の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

ほんみち

Saturday, October 11th, 2014

「本来の道」という意味合いを持つほんみちは、天啓を授かる「甘露台様」の身分を拝命したとされる天理教の元メンバー、大西愛治郎によって創設。この召命は自らを絶対的真理の託宣者または啓示者と自負する、他の霊的な聖人にも共通して見られる。しかし地位や使命に関する彼自身の主張とは裏腹に、その偉大かつ名誉ある地位についての信憑性は疑われたままだ。しかも、天理教サイドでは彼が追放されたことについても、また天皇への不敬罪で投獄されたことについても、明確な事実を把握してはいない。

本質的に彼のメッセージについては、天理教の教典との間に大きな差異は認められておらず、またキリスト教的価値観の片鱗を窺わせることからも、彼が全く独自で編み出したものではない。特に精神を蝕む悪によって人が堕落しているとする部分に、聖書の教えおよびテーマとの類似性が認められる。しかしクリスチャンの間では、たとえ人の精神、心、体、魂そして霊という言葉が使用されていても、それは全人的な悪影響をも意味するため、人間が刷新または再生するには神ご自身によってその御心と出会う経験が必要とされる。さらに人間の罪深い性質については、神の完全なご計画と目的からの隔絶という呪いを私たちにもたらす、悪質な誘惑の力であると言える。

しかし人がイエスに留まるならば、降り掛かる患難や試練から脱出する道が神によって約束されるのです。(コリント人への手紙10章13節)

終末的あるいは世紀末的な観点から、キリスト教もほんみちと同じく光明に至るまでの社会的退廃の悪化に着目する。しかし同じ未来志向を共有している両者間でも、如何にして、また誰によって終末の救済を見るかについては見解が分かれる。ほんみちにとって人間とは、平和と調和が保たれた地上の楽園を築く責任者。しかし神に敵対する存在がこの世から消え失せることがない以上、全ての人をこの哲学的・宗教的見解に従えるのは不可能だ。したがって直接永続的な平和をもたらし、かつ抵抗する反対者たちを裁き滅ぼす権限は人間ではなく神にある。もし神の権威を認めないなら今日私たちが直面している不穏や、神に対する憎悪や人間同士の憎悪が消え去ることは無いだろう。何千もの新宗派を爆発的に生み出した新宗教ブームが日本国内に起こり、事実、一致よりもむしろ衝突を招いた。それにも関わらず、21世紀の今日、より良い社会作りのためにそのような新宗教イデオロギーにすら縋ろうとする傾向は、依然として残ったままである。裏を返せば神こそ、悪に満ちた人間性の共通分母を消却し、この方程式の解答を導き出す唯一の存在であることが分かる。イエスが地上を治めて支配し御国を築き、ユートピアの時代をもたらす時にこそ、私たちはその到来を見る。

終わりに際し、キリスト教信仰について皆様に考えていただきたいことがあります。西洋の一宗教として始まったキリスト教の勢力は世界的規模にまで達し、これまで数え切れないほどの信仰者の心と人生に影響を及ぼしてきました。全人類を救いご自分の天の御国に招くことが神の本望だからです。さらにキリスト教の聖書信仰も、真理や道理の伝達者としての正当性を幾度も揺さぶられながら、その正体を暴こうとする疑心に満ちた論説を打破し、長き年月に亘ってその信憑性が証明および批准されて今日に至っているのです。さらに世界中の約3人に1人が自分をクリスチャンであると告白していますし、また聖書は全宇宙の創造主として神が持する至高の支配と権威のもと、ほぼ全ての言語に翻訳され様々な部族、言語、国家に影響を及ぼすなど、今日までベストセラーの地位を維持しています。
神と人との仲介者であるイエスこそ最終的な終わりの時代、いかなる異端者または極端論者の声も封じ、平和の君という称号に相応しく全ての義を成就し、救いを完成させるお方なのです。

この回を結ぶ前に一つお聞きします。もしやあなたはこの団体の途方も無い要求に応えられず、そのことで自分の生活において悪の力を抑えつつ道徳的実践に秀でるための方法論として、果たしてその教義が妥当であるかについて疑問を感じておられるのではないでしょうか。もしそうならば、イエスの足元に来て憩いを得ることを勧めします。私や他の大勢の人々も経験してその証人となったように、あなたもこれから先、永遠に変えられ続けていくことをお約束します。

イエスについての私の証し

www1.cbn.com/700club/episodes/all/amazing-stories

最後になりましたが親愛なる皆様に、唯一真の神を真剣に追い求めることを是非請いたいのです。これまでも祈り心をもってこの神について語らせていただきました。神はあなたという個人に対してご自身を顕現されます。しかも私たちがその方を救い主として信頼できるように、分かりやすい方法をもって。神を主として受け入れる人に神はその永遠の喜びと平安、そして愛を満たしてくださいます。

マタイによる福音書: 11章28-30節

28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29私は柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたが安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

ほんみち関連の資料

Honmichi

 

 

Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.

ほんみち関連の資料

Saturday, October 11th, 2014

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

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Faith Comes By Hearing

Ritual cleansing and purification

Sunday, April 6th, 2014

When you look at many of the major world religions they have some sort of cleansing ritual associated with normal life events such as with childbirth and death including their normal day to day actives of human experience as with menstruation, flatulence, sleep, sexual contact, unconsciousness, emission of blood, semen, vomit, and disease, etc.
Some of these purification rites involve ablutions such as are practiced among the Bahai Faith while others prefer their bodies to be completely immersed in water.
For the Jews this ritual involves such acts as hand washing and the Mikvah while Muslims have the Ghusl and Wudu. Hindus bathe in the holy river Ganges and practice  Achamana and Punyahavachanam. The Shintoist performs Misogi and the Native American Indian has their Sweat Lodge.
Though these religions have a vast array of differences in their world views there are some similarities or familiarities as involving some form of water which for them carries a real sense in which a person consciously discerns their uncleanness with an innate awareness that they are in some significant way defiled therefore in need of cleansing as symbolized by these actions with the use of this universal solvent as an agent of purification.
This self awareness as found in some religious expressions becomes a behavioral attitude towards having a mindful sense of a transcendent reality with a methodological approach according to the old adage of cleanliness is next to godliness. However to say that there is a correlation to this physicality or materialism as applying it as an effectual agent as dealing with divine disfavor and dissatisfaction or as an opportune to sanitize ones, so called, divine essence proves to be counterproductive  as constantly needing to repeat the same activities over and over again with an endless cycle of washings which intuitively seems to lack a complete sense or sufficient effect to sustainably cleanse. These reactions towards a need for sanctification and holiness seem to fail in creating a stockpile of merit as they are short lived as being negated with the brevity of time as they perpetually rewash themselves again and again as being subjected to their frequent immorality and imperfection as human beings. Thus it appears this need for repetitiveness to be thoroughly cleansed can’t be entirely removed in the ultimate sense as leaving some aspects of their being unclean and in need of someone else who is capable to reach the unreachable part of their self identity as eliminating the defilement of their human hearts.
Anyway there are some real practical benefits of hygiene when it comes to bathing and washing but to make a direct association between the internal and external facets of an individual through these habitual mannerisms of superficial skin deep treatments, which may be sincere and outwardly appear to be a form of wisdom, yet are unable to penetrate beyond the surface level as connecting the physical realm to that of the immaterial and immortal soul  as contributing towards an individuals spiritual well being.
Rabbi Yeshua put it this way as addressing His fellow Jews concerning such practices

Matthew 15:1-2,11, 17-20
15 Then Pharisees and scribes came to Jesus from Jerusalem and said, 2 “Why do your disciples break the tradition of the elders? For they do not wash their hands when they eat.”
11 it is not what goes into the mouth that defiles a person, but what comes out of the mouth; this defiles a person.”
17 Do you not see that whatever goes into the mouth passes into the stomach and is expelled? 18 But what comes out of the mouth proceeds from the heart, and this defiles a person. 19 For out of the heart come evil thoughts, murder, adultery, sexual immorality, theft, false witness, slander. 20 These are what defile a person. But to eat with unwashed hands does not defile anyone.”
Apart from human filth the other aspect of this matter may deal with the significant sense and understanding of a deeper realization to remove the impurity of guilt and shame left behind from their moral failures. This reminds of the Shakespearean play in which Lady Macbeth shouts “Out, damned spot” concerning her role in the death of King Duncan as a need to remove the sin stained bloodshed from upon her hands.
In some respect by performing these rituals it becomes an indirect way through their actions to openly confess as recognizing their state of immorality and therefore washing becomes a way of responding according to their human ability and self effort to somehow mysteriously do the job as sufficiently dealing with their moral failures with this compulsive drive to be made clean. Again, I believe this fails to demonstrate an efficacy regardless of their awareness, desire, piety and zeal in performing these rites as the sufficient means to reconcile or ratify  these matters through the limited and dependent abilities of human factors as a somewhat penitent act to offset as to appease, gain favor and acceptance by these various methodologies. Even if all this were somehow possible then when would  it ever be enough to absolve their status or state of uncleanliness and to what degree of scrubbing can sufficiently eradicate the tattooing that has indelibly left its mark upon the heart which has pigmented the spirit and soul with death from both its past and future actions.
Conclusively there is a real conscious sense which is inherent within all mankind that we have violated the standard of a holy God as indicative with an impending sense of a future judgment for those who fail to resolve this substantial conflict.

Romans 2:14-16
14 For when Gentiles, who do not have the law, by nature do what the law requires, they are a law to themselves, even though they do not have the law. 15 They show that the work of the law is written on their hearts, while their conscience also bears witness, and their conflicting thoughts accuse or even excuse them 16 on that day when, according to my gospel, God judges the secrets of men by Christ Jesus.

Mankind has struggled to deal with this tension in forming or creating a delusional religious dialogue of ideologies as blazing a trail in finding a solution to navigate this journey towards enlightenment while the hostility of the deceived  anti-theistic psychopath just plainly denies the need to leave their personal abode as to venture out on a quest, which according to their belief, leads to no where as religion becomes an avenue by which weak willed persons have succumbed to the Freudian neurosis of fantasy as seeking a path to a make believe land.  So interestingly, either way, mankind has found a method to traverse or cope with this matter as to self manage this conscious appeal from the Creator.
In response to this crisis I would like to suggest a solution by means of the person and work of Christ who unlike other religious expressions isn’t about mankind trying to find, approach or reach out to God but rather it is about God pursuing mankind relationally with humanity reciprocating a trust response. Thus it isn’t according to the the strength, or for that matter weaknesses, of mankind’s personal abilities but rather cleanliness and purity has been graciously offered as a free gift resulting in fellowship and worship by which God, not us has made possible.
Titus 3:5
5 he saved us, not because of works done by us in righteousness, but according to his own mercy, by the washing of regeneration and renewal of the Holy Spirit.
Romans 6:23
23 For the wages of sin is death, but the free gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.
Ephesians 2:8-9
8 For by grace you have been saved through faith. And this is not your own doing; it is the gift of God, 9 not a result of works, so that no one may boast.
1 John 1:7 
7 But if we walk in the light, as he is in the light, we have fellowship with one another, and the blood of Jesus his Son cleanses us from all sin.
1 John 1:9
9 If we confess our sins, he is faithful and just to forgive us our sins and to cleanse us from all unrighteousness.
You may object in believing Christianity to being no different than any other form of religious expression with its cleansing sacrament of Water Baptism and in part I would have to agree with you as for some it is no more than a mere bath as going through the motions of identifying with the Church but who are in essence unclean as pseudo believers. True baptism, as a central tenet of the faith, primarily serves as an outward sign or symbol of the effectual and cleansing power of the perfect and precious life blood of Jesus which redemptively purifies all believers in judicially declaring them righteous as coinciding with the transference of the Holy Spirit as the personal change agent who through the process of regeneration brings about an inner transformation. Thus the act of water baptism is a witness or testimony to a reality that didn’t come by combining the elements of hydrogen and oxygen in order to benefit from a liquid but rather it was through the saving work of Christ and the living water of the Holy Spirit as the dynamo that inhabits a person as evidenced by a changed heart and life. It is God Himself that gives the good gift of salvation and the Holy Spirit which does not subsist through the plunging efforts of human baptizers and therefore water baptism becomes only a glimpse concerning this heavenly reality of the power of God in this womb like transaction as giving new birth to a person, not as being born of human will or origin such as with religious activities, but rather through the initiation of God as being born from above or born again through Christ and the Holy Spirit. This being born anew is not to be confused with the Hindu and Buddhist concept of rebirth, as it is the resultant work of Christ who imparts the Holy Spirit as contingent upon His initiative followed with a responsive act of faith or trust in His salvation.
The scriptures likens this reality based on future redemption of Israel according to the Hebraic prophet Ezekiel 36:25-27.

25 I will sprinkle clean water on you, and you shall be clean from all your uncleannesses, and from all your idols I will cleanse you. 26 And I will give you a new heart, and a new spirit I will put within you. And I will remove the heart of stone from your flesh and give you a heart of flesh. 27 And I will put my Spirit within you, and cause you to walk in my statutes and be careful to obey my rules.

Rabbi Yeshua said it this way during the Feast of Tabernacles or Sukkot in

John 7:37-39
37 On the last day of the feast, the great day, Jesus stood up and cried out, “If anyone thirsts, let him come to me and drink. 38 Whoever believes in me, as the Scripture has said, ‘Out of his heart will flow rivers of living water.’” 39 Now this he said about the Spirit, whom those who believed in him were to receive, for as yet the Spirit had not been given, because Jesus was not yet glorified.

The ancient Jews at best had a temporal satisfaction in their ritualistic duties to God but as stated in Hebrews 10 these were only symbols not the reality  themselves as Christ’s offering for our cleansing was given once and for all as the perpetual sacrificial offering as the “Lamb of God” who takes away the sins of the world. To say that Jews don’t need a sacrifice today as the rituals of prayer, fasting and good deeds will suffice as being satisfactory is an act of violation and rebellion against the inscripturated word as denying the fulfillment of the Torah regarding, Leviticus 17:11.

11 For the life of the flesh is in the blood, and I have given it for you on the altar to make atonement for your souls, for it is the blood that makes atonement by the life.

No matter how many Mitzvot you perform what surety is there that you have done enough or that your sins have been forgiven apart from the provisional sacrifice of God’s mercy and grace through the Messiah in Isaiah 53?
Likewise for my Muslim friends to deny the death of Jesus as some semblance of failure within the prophetic office entirely misses the point that this was God’s glorious plan to provide an Abrahamic type of  substitutionary atonement by means of the Messiah whose temporary disgrace and shame served as a joyous purpose and occasion as enduring the cross in leading many to glory, Hebrew 2:9-18; 12:2.

jesusandjews.com/wordpress/2011/07/14/crucifixion-of-jesus-christ-and-islam/

In closing Jesus can give you living water which can completely and fully satisfy  and refresh your soul and even though the heavenly Father can lead you to this water He won’t make you drink of it. So finally I would encourage you my friend, like the Samaritan woman, to simply ask for this living water which is essential towards quenching your spiritual thirst apart from false religions, cults  and philosophies which will only leave you high and dry as only being thirsty once again.

John 4:10, 13-14
10 Jesus answered her, “If you knew the gift of God, and who it is that is saying to you, ‘Give me a drink,’ you would have asked him, and he would have given you living water.” 13 Jesus said to her, “Everyone who drinks of this (well) water will be thirsty again, 14 but whoever drinks of the water that I will give him will never be thirsty again. The water that I will give him will become in him a spring of water welling up to eternal life.”

Lastly Jesus invites you!
 
Mt 11:28-30
28 Come to me, all who labor and are heavy laden, and I will give you rest. 29 Take my yoke upon you, and learn from me, for I am gentle and lowly in heart, and you will find rest for your souls. 30 For my yoke is easy, and my burden is light.”
How to have a realtionship with God

www.jesusandjews.com/wordpress/

 

 

 

The Holy Bible, English Standard Version® (ESV®) Copyright © 2001 by Crossway, a publishing ministry of Good News Publishers. All rights reserved. ESV Text Edition: 2007

Omoto Resources

Sunday, April 14th, 2013

Four Spiritual Laws

 

Jesus Film

 

New Testament/Bible

 

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