世界真光文明教団は岡田光玉を開祖とする戦後の宗教ムーブメントの1つである。その創設の動機は岡田自身が戦争からの鬱積のはけ口を求めていたことの他、彼個人の身体的障害や経済的な困窮などが挙げられる。こうして新興宗教と呼ばれる日本で生まれた数多くの新宗教カルトに共通する、世界平和と繁栄から成り立つ新しい秩序をこの世にもたらすような世界救済を成就するといったメッセージを発信し始める。
現在の世界情勢の最中、それが現実的で、かつ到来しつつある出来事であることを示す証拠はどこにあるのか?この疑問は岡田良一(光玉)の死後、教団が分裂した事によってさらに深まる。平和を説く集団でありながら内部においてすら調和が保てないなら、世界調和など論外とみなされても仕方がない。私は別の投稿記事で世界平和への関心に対する支持を表明したが、それは決して手段や方策を手当たり次第採用することを正当化することにはならない。
さらに無数のカルトがこの特殊な結果に主眼を置いている事実からも分かるとおり、すべての哲学および実践すべき方法論を正しいするわけにはいかない。とどのつまり、世界に蔓延する病状を正しく診断しながら正当療法を適切に処方しないとなれば、その行為は詐欺やいかさま療法以外の何物でもなくなる。まず岡田光玉について触れてみよう。彼は神から幻を授かったとされるが、それは当時高熱にうなされながらせん妄状態に陥っていただけに過ぎないと考えられる。その証拠に、この霊の旅路を通して彼は全く新しい啓示に出会ったとは考えられず、むしろ彼が元々所属し女性信者に対する性的不祥事やセクハラが原因で追放された世界救世教をリメイクしたに留まる。これに加え彼は神道、仏教、シャーマニズムなど、他の宗教の世界観に心酔しながらそれらを寄せ集めて、独自性に欠いた自分の信念を構築していった。それゆえ、他の宗教が正しくないとするならば、どうしてその流れを汲む宗教に真理を名乗る権利が与えられようか?
彼がこのようなインスピレーションを受けたか受けないかについては、裏付けとなる証言が得られない個人的な体験である。それゆえもしかすると悪霊や悪魔による欺瞞が影響しての霊体験であったとも考えられる。なぜなら幻や夢を見たなどという奇妙なことを訴える宗教的リーダーたちの間において、それが共通して見られる傾向だからである。その人間性善説と相俟って彼の主張は一見理性的に見えるが、同様のことを行う他の宗教リーダーおよびその指導下にある集団との線引きは何を基準に行うのか?中国およびインドシナ半島への侵攻に関わり後に中佐にまで上り詰めた、彼の軍人としての経歴がより一層問題を複雑にする。彼の提唱するヒューマニズム主義と全く辻褄が合わないからだ。それゆえ岡田の真の関心事や動機が他人の福利にではなく、この時代の救世主として最高権威者を演じる崇高な人物像を確立することにあるのではないかと訝っても不思議ではない。そうなればその利他主義的な態度も疑問視されて当然だ
コリント人ヘの手紙第Ⅱ11章14節
14 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
このグループで行われる危険な儀式の1つが、おみたまと呼ばれる聖痕を通して掌から光が伝わると彼らが信じる「真光の業」である。その外容も中身も実にオカルト的であり、悪魔を排斥するどころか逆に門戸を開きながら迎え入れるといった、常軌を逸した霊体験である。さらにカルマの教理が導入されることでより事態は複雑化する。本来この有効な対処法があれば、カルマというこの世を覆う反対勢力に十分対抗できるはずだからだ。
そして岡田本人の欺瞞あるいは妄想に支配された情緒不安定な性格が、その教義の信用に傷をつける要因となっている。例えば彼の持説には、失われた大陸と呼ばれるムーおよびアトランティスにまつわる神話が背景としてある。さらには、日本をほのめかす東洋の国において見出される「真光」という究極の真理に屈した、全宗教の開祖に関する寓話やおとぎ話を載せた「ライト・フロム・ザ・イースト(東洋からの光)」や竹内文書から概念を抜粋するなど、他者の仕事に多くを負った教条を標榜する。彼によればモーセが日本を訪れた後同国で死に、また世界の聖人・聖徒たちがその使命を果たすための訓練の場としておそらく日本を選んで訪れた。それだけではなくイエスまでもが18歳の時に来日し、その後移り住んだ土地で118歳まで生きたとされる。これに使徒の名を語ったグノーシス主義の福音書や、ダビンチコードの考案者による陰謀説にような印象を抱くのは私だけではあるまい。より留意すべきは世俗の歴史家でさえ歴史的信憑性を支持する、イエスの十字架刑の史実を否定する立場を取っていることだ。
彼はまた、天皇が地上の主たる地域へ大東亜思想の布教のために使者を使わしたとして、世界に対する多大な影響力を振う中枢国家としての日本の立場を前面的に押し出した上述の文書に感化されながら、歪んだ国粋主義を教示した。それならば、今日過去に信じられていたものとは別の真理があるとでもいうのか?太陽神である御親元主真光御み神が人命の源であり、また言語・文化・宗教を持つ文明の中心国家である日本
を建国したとするエゴに満ちた文化観と結び付く。しかし、このような小さい島国には不相応な、人類文明の揺籃という身分を日本に認める人類学者が果たして存在するかどうか疑わしい。私が偉大な文化や国民を擁する日本を蔑視しているのだと勘違いしていただきたくない。私はただ岡田の誇張表現に対して異を申し上げているだけである。
これらの資料に誤謬があるとすれば、岡田が自動筆記という悪魔懸かった霊行為を通して記録した57の啓示で構成される、御聖言と呼ぶ別の聖典に対しても疑惑が浮上する。
グリーンウッド氏のブログ「オールザ・エンペラーズ・メン(みんな天皇の僕、と言う意味)」によって、正にカルトへの反応としてまともな疑問が組織内部に沸き起こったことは、この宗教の信憑性を崩す強烈な一撃となった。メンバーはインターネット使用を禁じられ、外部の世界やこの教団に楯突いたり批判したりする声に触れることを制限された。
このような活動家すべてに弱者のレッテルを貼付けて異常人格者として無視する態度は非常に理解に苦しむものであり、撤回すべき警戒行為である。このことは、3日間の 入門コース後に約50%もの脱退者を出しているという実態とも無関係ではない。また魔術や奇跡に過度な比重を置いて会員数を下落させていることから、果たして教義が平和の実現と世界の復調といった主たる課題の達成に、適切かつ効果的であることを疑わせる要因となっている。
さらに感謝・謙遜・神の御旨の甘受という普遍的かつ神聖な原理に執着する彼らの理想主義は、魂を養育し霊と心身を浄化・保護・再活性化しつつ、天授の性質を復元させることをうたった「お清め」儀式と同様、斬新さを過剰に煽ったマーケティング戦略である。そこには現実や人間の性悪さがこの世界に及ぼす影響を単純化し過ぎている印象を受ける。たとえ仮にこの宗教活動が世界のごく限られた人々の間で功を奏したとしても、そこから真の世界平和実現にこの末端グループが影響するという理論は成り立たない。
また木や茂みに潜む悪霊のように、霊の憑依があらゆる病気や不幸の元凶であるという観念には、形而上学的な観点からも首を傾げざるを得ない。彼らを弁護して言わせてもらえば、聖書もこの世の仕組みが悪霊または悪魔による強力な支配と影響下にあることを認めている。しかし彼らの言い分は余りにも人間の悪への関与や可能性を無視、あるいは過小評価し過ぎている。人は各々の良心に罪に満ちた欲深さやその結果としての審判を訴える悪行に対して、責任を持つ存在であることを忘れてはいけない。
それに法律体系に準拠しながら生活する私たちは悪魔を起訴したりはしないし、たとえ誰かが悪魔に感化されて邪悪な行動に走ったとしても、社会は「悪魔がそれをさせた」という申し開きを理由にその本人の盗み、殺人、強姦を看過したりはせず、むしろ悲惨な道徳的悪影響を及ぼしたとして、これらの犯罪行為に対する責任追求のために懲罰的報いを課す。
ヤコブ書1章13〜15節
13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、またご自分でも人を誘惑したり為さらないからです。14 Bむしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。15 そして、欲望がハランで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
ローマ人への手紙2章14〜16節
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
もしもこの組織が精神上または医療上の問題を世俗の専門家に任せておきながら、自らは個人の霊性を専門に扱うとして責任逃れをするようであれば、本来岡田が唱えていた病気や疾病の除去を明言する持論とは明らかに矛盾する。おそらく法的訴訟の可能性を一切抹殺しようとする防御策の一環であろう。特にフランスの反カルト協会UNADFIのような機関から監視されている現況を踏まえれば十分納得がいく。
そして最後、「救い主様」というメシア像を造り上げた岡田だが、彼は同類の役割とアイデンティティに陶酔しながら、古今問わず自作の尊号と社会的影響力を吹聴する無数のスワミーやグルの1人に過ぎない。しかし彼の実生活が証言する事実を考慮すると、彼の資格証明が有効であるか甚だ疑問である。聖書はこのような現象について預言しており、それは私たち全てが関心を研ぎ澄ませなければならない警告である。
マルコによる福音書 13章21〜23節
21 “そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。23 だから、あなたがたがたは気を付けていなさい。一切のことを前もって言っておく。」
マタイによる福音書7章15〜16節
15 “偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。
知恵と愛と神の御旨は神秘的で生気を持たない物体を通して伝えられることはない。神は救いと癒しをもたらす世の光である、神の一人子を遣わした。その一人子は現実の世界において可視的な人間の姿を取りながら神と人との間の仲介者として存在し、人間に取り憑いた悪の束縛を担い人類を浄化しつつ普く解放した。厳格な宗教儀式や会員とは異なり、彼は人を身請けするために身代金全てを自分の命と死をもって支払い、人は神の御国の相続に無償で与ることが許されている。
ヨハネによる福音書8章12節
12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光であるわたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネによる福音書3章16節
16 “神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
終わりに差し当たり、大変手厳しい事を語ったことを認め、私の鈍感さゆえ必要以上に気分を害してしまった人がいるならば、1人の人間として謝罪いたします。私の願いはあなたにこの修辞法が意図する真意を読みとっていただき、枚挙した証拠を客観的に吟味していただきたいのです。未だこれらの問題に開眼しておらず、嘘を真理と偽る教団の餌食や犠牲になっている人々に光を灯すこと、それが私の本望です。
最後、至高および本質の真理を探求しているあなたに、少なくとも別の世界観に目を向け、イエスの人格と業とに対して開放的かつ真剣な思いを注いでみてください。
マタイによる福音書 11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。
その他のリンク
Religions of the world: a comprehensive encyclopedia of beliefs and practices/ J. Gordon Melton, Martin Baumann, editors; Todd M. Johnson, World Religious Statistics; Donald Wiebe, Introduction-2nd ed., Copyright 2010 by ABC-CLIO, LLC. Reproduced with permission of ABC-CLIO, Santa Barbara, CA.