天理教は千種万様で数も豊富な日本の宗教形態の1つで、仏教、神道、そしてキリスト教ですらその教義に取り込み、折衷的な視点を構築する。
このムーブメントは、年間100超の新種が誕生していると言われるほど、非常に広範囲に及びかつ多様性を誇る日本のカルト現象の1つである。おそらくこの爆発的なカルトブームは、特に自国の国教である神道の失墜後にアイデンティティを失った陥った日本人の、霊的な空虚感や真空状態を必死に埋めようとする切実さに起因しているのだろう。
とにかく、この特殊な集団については、そのアイデンティティの大部分を他の伝統宗教の宗教的世界観に負っているため、自らの掲げる信条に対する独占権を訴えることができない面で矛盾を抱える。無論、競合相手の他宗教にも見られることだが、より正しいものにすると主張しながら伝統的世界観の改編をはかる。このようなリフォームは彼らの価値観および認識を正当化するには有効かも知れないが、真理の論理性を前提もしくは必要条件としていない。
この他にも彼らには議論の余地ある見解を見出す。それは輪廻転生に関する教義についてだが、このほとんどの東洋宗教が共有するこの哲学を明確に裏付ける証拠は存在しない。私は以前「地獄」の現実について記事を投稿したことがある。このブログの終わりにも自分が体験した臨死状態について語る人々のインタビューを収めたドキュメンタリーを閲覧できるリンクを貼付けた。それによれば彼らは臨死に伴い、聖書が描く文字通りの天国と地獄を目の当たりにしたという。
www.godtube.com/watch/?v=KYD7DPNX
www.godtube.com/watch/?v=F1JJCMNU
この集団では霊的な目標である悟りの境地へは、最善の年齢とされる115歳を迎え地上の生涯における最絶頂に差し掛かった時点で達成されると説くが、皮肉にも教祖の中山みき(別称;おやさま)自身が90歳で逝去したことでそれを果たせなかった。このようなエリート的な人物ですらこの基準に到達し得なかったとすれば、他のメンバーはこの世の、そして来るべき世の人生において何を希望とすべきか?
いずれにせよ永遠については、人々が偶然に振り回されることも、また未来を当てずっぽうに推測することもなく解決される。人は死の瞬間において怯える必要はない。それは安らぎに満ちた体験であることを覚え、それよりもむしろこの帰結を切に待ちこがれながら希望を抱きつつ、死後の世界に備えていれば良いのである。この確信はあなたがイエス・キリストにあって神との正しい関係を築くことで、決して揺るがない確固たるものになる。なお、この投稿の最後に、「神との関係の持ち方」と題してこの関係的および霊的な相互アプローチについて語ったリンク記事を貼付したので、是非ご覧いただきたい。
最後、イエスはご自分の弟子たちに彼を信じる信仰者にとっての死の本質や、それが招く結果について懸念する必要がないことを説いた。
ヨハネによる福音書 11章25〜26節
25 イエスは言われた。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエスは、宗教的な義務や奉仕に雁字搦めになっている人たちも含める世界中全ての人々に、霊的な旅路を完歩し永遠の目的地に到達できると、確信をもって宣言するように促しておられる。イエスは私たちの道徳的な重荷を一身に背負うことでこれを果たし、こうして私たちは罪責と恥からの不安定さから解放されている。その上、神との永遠の平和をいただくことで、事実上、緊張と軋轢から私たちを自由にした。
マタイによる福音書 11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
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