Archive for the ‘日本人-Japanese’ Category

現存の鳥類と恐竜

Friday, October 17th, 2014

進化論者は現存の鳥類が恐竜を起源とするとした進化モデルを提唱するが、古生物学者による発掘との間に矛盾が見られる。あひる、あび、ダチョウ、アホウドリ、フクロウ、ペンギン、イソシギ、オウム、鵜、ソリハシセイタカシギなど、現在する鳥類の化石が恐竜のそれと同様に発見されている。しかしこのような発覚した事実や詳細について、博物館の展示物などで確認することはできない。これは単なる無関心に由来するよりも、明らかに展示対象の恣意的な取捨に起因している。

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Modern Birds and Dinosaurs

 

 

Permission granted by Creation Ministries International Ltd, P.O. Box 4545, Eight Mile Plains, Qld, 4113, Australia. Creation Magazine vol. 34, No.3, 2012 on “Modern birds found with dinosaurs”.

creation.com/modern-birds-with-dinosaurs

生命を持たない物質から生まれる生命

Friday, October 17th, 2014

これこそ進化論者たちが知恵をしぼりながら試行錯誤を重ねるも、研究所の実験は継続されるには至らず、たとえ人間の知的創造力を結集しても実証が不可能なテーマである。その第一人者で、アミノ酸を生成させる一心で化学物質の合成を行ったスタンリー・ミラー博士が、化学的課程によって生命を創造するマジックを果たでなかったことがそれを物語っている。

この実験はおよそ「生きている」ことを証明せんと、試験官中で混ぜ合わさった原基の化学液体に電気的負荷を与えるような、映画フランケンシュタインを地で行くようなものである。この人為的なコントロールによる実験に、このハリウッドの特撮との違いは認められず、現実、生命を持たない化学物質は生命を創造または形成しない。生物発生の法則によると、生命は生命を起源とする。生を持つ何かが存在するなら、それは既に生を持っている何か別の存在から生まれたことを意味する。

コロサイ人への手紙1章16~17節の聖句を引用したい。
16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Life from Non Living Substances

この惑星上の生命にとっての偶然とは何か?

Friday, October 17th, 2014

生命とは偶発的な産物か?あるいは出鱈目な行動からのものか、それとも宇宙の事故か?人間が進化論をはかりとしながら要約発見し始めた生命について、あなたはその入り組んだ複雑さについて不思議に思ったことはないか?人間が果たしてきた技術の進歩が生命を再編、模倣、操作することしかできない事実に関心を覚えないだろうか?未だかつて科学者がゼロから牛を造り出したという話を聞いた事がない。

地球という惑星の試験官を通じて科学及び自然が人間を無から創造し、その結果として複雑な構造を持った私たちが存在しているという固定観念に縛られるほど、私たちは図らずも進化してしまったというのか?

生命が外的要因を介さず自ら生じた後、自らを進化あるいは存続させてきた確率についてあなたはどう考える?私には支持に値するだけの高い可能性があるとは思えない。

それはあたかも、解体された時計をタンブラーの中に放り込み、完璧に組み立てられ正確に時を刻む状態に仕上がってくるのを待つようなものではないか。あるいは適当にゴミ山を未熟で腕の無い職人を連れながらうろつき、ゴミ集積所に放置されたガラクタを組み立てて完全機能を搭載した飛行機を飛ばすように依頼する行為にあたるとも言える。

この概念が思い描き難い人には同じシナリオを実演させて欲しいと言いたいところだが、残念ながら今回はそのための材料を揃えていない。しかし実際行う前に既に結果は目に見えている。あなたにはそれが実現不可能であることは一目瞭然であるという確信の言葉が与えられていると私には断言できるし、その意見に心から同意する。

全ての始まりであり、永遠に持続する創造の根拠とみなされるに最も相応しい、神と呼ぶ創造主を支持したインテリジェントデザイン説を私は信じる。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

What are the chances for life on this planet?

神は知られざる方?

Friday, October 17th, 2014

聖書では、使徒パウロがマーズヒル(アテネのアレオパゴスの別名)において、信念の定まらない宗教派哲学者のアテネ人に対する防戦者として紹介されている。
ギリシャに滞在中のパウロは「知られざる神」に奉納された祭壇に気付いた。

パウロはこの重要な公共の場を利用し、外国の神の擁護と思しき彼の斬新な思想に疑問を抱く、ストア派およびエピクロス派の前で公然と語り始めた。

知識人の関心を勝ち取ったパウロのアプローチとは、彼らにとっては知られざる存在であったが、実際には「知り得る」お方であるこの神の啓示を伝えるものであった。

体験的知識に乏しいために神に関する哲学的現実を信じこみ、また神を知らないことを超絶巧みに論ずる不可知論に対して、反駁を展開する際の根拠をなすものである。

この徹底した不可知論的考えは神を理解できる可能性を一切否定するが、この立場は被造物が有限な存在であり、神が「知られざる神」であることの完全な確証を得る能力に欠けていることから、立証が不可能だ。

神の現実を断言するためにその方を「知られざる」と定義するだけの知識が前提となることからも、この立場が孕む皮肉がうかがえる。

これは無神論者が抱えるジレンマと同列に置くべきである。両者とも決定的な知識に欠けているゆえ、神の存在についての信念も神を知る力も疑わしく、完全な知者にはなれないからだ。

神は存在しない、あるいは神を知ることは不可能だとする主張は、無神論の場合と同じく、私たちが批評の対象とする説や信仰の域を出ない。せいぜい人間が現実に主張できるのは、神についてごく限られた識見しか与えられていないことである。これがこの方程式を解決する、唯一論理的な帰結なのだ。

聖書もこの主張と同じ立場に立ち、神に関する一般啓示に言及しながらこの考えを支持している。しかし現代において人を支配する霊が現代哲学的アプローチによる進化論の発展を促進し、この啓示の本来持つ純粋なメッセージを不純にしたり、あるいは薄めたりしながら、それを迎合的なものに作り変えている。

これにも関わらず、神の手の業は必要不可欠な機構および被造物の存在の根源であることが明らかにされる。この創造された摂理は昼夜において現れ、それは人の視神経の網膜によっても十分確認できる。この荘厳で息を呑むような素晴らしさから、被造物同士が調和を保つように、細心の注意を払いつつ計算高く設計されたものであることが明らかだ。まさに詩篇19編が言及するように、これこそ宇宙全体が共有する言語である。これに加え、ローマ書1章および2章では被造物の現実と、人間が先天的に備えている道徳心および良心の普遍性についての青写真を提供してくれる。相対論哲学の出現からの挑戦にも関わらず、この道徳的規則は若く幼い人間の魂や、人間が支配し治める社会において有効に働いている。

結論を申し上げると一般啓示は、人間の現実を認識させてくれる究極的な真理としての特別啓示を、私たちが会得し保持し続けるための先導役を果たしてくれる。

申命記4章29 節の聖句が、心を尽くし、魂を尽くして主を尋ね求めるならば、私たちが神に出会うという、真理へ到達するための原点を伝えながら私たちに奮起を促す。私たちは純粋な探求者となる必要がある。さもなければ私たちは似非宗教、カルト、そして神懸かりな人間への忠誠または崇拝に真っ向から挑むような、世俗的な哲学の罠に掛かってしまうだろう。

最後に、あなたが堅い信仰を持つような神聖な対象が何であれ、内省的な態度を大切にしつつ、神という概念に関わるあなたの信仰の目的および動機が何かをよく見つめ、自分の立ち位置について再吟味をはかることをお勧めしたい。

もしかしたらあなたにとって本当に知られざる事とは、あなたの心が渇望する知識を唯一知っている、その心自身の欺瞞かも知れない。

ある1人の知人を紹介してこの回を閉じようと思います。この問題について私が迫った相手は自分の神観に真摯に向き合い、ついにはある答えを出すに至った。私はその答えから、彼が誠実に神の存在を検証する準備や意思がなかった自分の罪を認めながら、自己同一を果たしたという確信を持っています。

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Is God Unknowable?

単細胞

Friday, October 17th, 2014

結論から言えば単細胞は単純な生命形態ではない。例えば細胞膜のような細胞内成分の1つを検証すると、生命維持に不可欠な濃縮された化学物質の流入および流出を制御・監視する機能を確認できる。つまり細胞膜がそのような体液の円滑な流れを、化学物質を詰まらせることなく促進・調整できる熟練した交通整理人であることを十分物語っている。

細胞は壊死を防ぐために、濃縮された化学物質の濃度が厳格に0.01 %以内におさまるように制御する機能を求められていることを鑑みると、この原理は天文学的に困難な離れ業であることが分かる。

化学物質が正常な濃度で同時に浸透しかつ適切な割合で分配され、さらにその後再生するなどという仕組みが、果たして考え抜かれた設計を抜きにして実現可能であろうか?これもまた目的に従って設計された神の創造を裏打ちする格好の例である。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

The Simple Cell

生命の原型

Friday, October 17th, 2014

地上の生命が藻類および菌類など、単純な生命形態に起源を持つと一般的には信じられている。しかしオースティンにあるテキサス大学の地質学博士、レオン享受によると、菌は3000から6000の成分で構成されさらに1秒に100万もの生命反応を起こしていることから、決して単純とは言い切れない。

結論を言えばこの分析は、無作為の要素を含む進化論的な偶発的効果という生命観を否定し、設計の業を示唆する目的論を支持する事例の1つである。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

The First Forms of Life

 

 

Leon E. Long, Geology (New York: McGraw-Hill Book Company, 1974) pg.172

地獄は本当にあるの?

Friday, October 17th, 2014

人は一般的に死後の霊が行き着く場として、地獄の世界を受け入れずに天国という現実を信じやすい。人は地獄という複雑な命題について論じ合うことを避けようとする傾向があり、また真剣に扱う際にも、そこには懐疑心が伴うこともしばしばである。非個人という考えに抵抗を覚えて地獄を否定する見解は、本来あるはずの個人的責任に対する無関心さが表面化したものであり、自衛本能メカニズムの産物あると言っても過言ではない。

さながら精通すべき責任を負いながらそこから逃れようと、知っておくべきことも「何も知らない」と強く言い張る、ホーガンズ・ヒーローズのシュルツのごとく恍ける人もいる。そんな弁解が司令官に通じるわけもなく、増してそれを以て全てを知り尽くしている神のみ前で無罪を主張することなど言語道断である。

一方、裁きという必然的存在を知りながらも、聖書主義的なキリスト教信仰から心を逸らしつつ沈黙し続ける輩もいる。彼らにとっては、その必然から一時的に逃避して場を凌ぐための唯一の手段なのだ。罪を前面に打ち出すTVの宗教番組に不快感を表し、まるで西部劇の「早撃ち」シーンを見て触発されたかと思わせるくらいに、目にも留まらぬ速さでリモコンを操りチャンネルを変える人もいる。

ローマ書2章14〜16節およびヨハネの手紙第14章18節などは、罪と裁きを忌憚なく語り、永遠の刑罰があることを知らしめながら、強烈な警告アラームとして私たちの神に対する良心を呼び覚ます役割を果たす。

アラームから逃れるために、ハッとさせるブザー音から気を逸らすにしても、あるいは苛立ちながら部屋の外めがけて放り投げるにしても、目を覚ますベき時が来たという事実を打ち消すことは不可能である。

私たちの道徳意識を呼び覚まし私たちを永遠へと導こうと、内なる心の声のごとく目覚まし時計が鳴り響く。人はこの衝動に対して無知を装うか、あるいは延々と重たく響くアラームの煩わしさを打ち消そうと必死に抗う。しかし私たちがこの人生を終えるまでこのチャイムが完全に鳴り止むことはないのだ。

永遠の苦しみと罪の宣告をもたらす、身の毛もよだつような場所として地獄を描く聖書に共感することに抵抗を覚える人々が、地獄に関する自分独自の考えこそ現実であると言って憚らない。

地獄の概念を一切抹殺するために地獄の非存在を訴えたり、また仮に地獄があってもそこに収容されるのはサタンかその子分である悪霊か、あるいはヒトラーのような悪魔的な人間であると語る。

この他、地獄を見くびり、その世にも恐ろしい様相を喜ばしい「ビッグパーティ」風の混沌にしか考えない人たちもいる。ある者にとって地獄とは、さほど深刻に考えるべきものではなく、煉獄のような苦しみと瞬時に肉体を消滅させる炎のちょうど中間的な領域である。

私は最近、天国と地獄という題材を、聖俗両方の研究者による証言に基づいた臨死体験から紐解こうとする趣旨のドキュメンタリーを見た。彼らは自分たちが検証あるいは質問の対象にした臨死体験は体験者の知覚に基づき、それゆえこれを死への先入観、および脳内麻薬による幻覚症状として一括りにすることはできないと認める。

世俗の研究者の1人が心理学的介入の可能性をも否定。死ぬ間際に地獄を夢想するにはそれが逆効果だからである。蘇生技術の発達に伴いこういった臨死体験のほとんどがその発生頻度を増加しつつある。因みにアメリカ人だけで臨死体験者が約1200万〜1500万人いるとも言われている。

解説者の1人によれば臨死体験者の多くが、キリスト教に入信しているという。なぜならそれを幻覚としただけでは説明がつかないためである。
世界を股にかけたインタビューによって300以上の症例について調査を行った者もいる。その結果によれば、地獄および天国に関する証言には一貫性があり聖書の描写とも一致していた。

ハロウィンという異教の祭りを見ると、多くの人々が死または地獄というものをその祭日そのものと同等に扱っている様子が伺える。この悪魔的な儀式の裏に潜む霊的な現実に気付くことも、また意識して注意を払わない人も少なくない。彼らにとって無害で楽しいゲームでしかないハロウィンも死のようにリアリティに満ち、さらにその背後に潜む悪魔的な要素が私たちの目を眩まし、「トリック」によってあたかも悪魔、悪霊、そして地獄というのはハリウッドか、もしくは聖職者たちによる産物と錯覚させる。

地獄が些細なものとして、しかも商業的に扱われるようになっており、それと時を隔てずに、もはや人間の心に取り憑く存在としてより、むしろ新しい役割モデルを持った病的な飢え渇きを掻き立てる存在として捉える必要が生じている。「ハリーポッター」はまさにその骨頂であり、ヒーローまたは慕われるキャラとして定着している。

これとは裏腹に、死後に関する知識を真剣に考えたいと願う者や、少なくとも興味を示す者もおり、この潮流を受けてある有名な本が出版されるに至った。「90分の天国と23分の地獄」である。

私が個人的に親しくしている友人のうち数名が臨床体験を持っている。そこで天国を体験したうちの1人の女性は、あまりの畏敬の念にうたれた驚きのゆえに、生き返ることを拒むほどであったと証言している。彼女は自分の夫に、彼との生活に戻る気を失った理由を理解してもらえなかった。はからずも、これと同様の証言が同テレビ番組に出演したインタビュー回答者からも寄せられている。
牧師婦人をしている私の別の知人などは天国を訪れ、そこでイエスと出会い彼と語り合ったと話してくれた。

霊的な事象に遭遇した当事者たち曰く、彼らの目に新旧約聖書に含まれている黙示文学を彷彿させる情景が飛び込んできたという。

さらに昏睡状態下にいた時の部屋の様子を事細かく説明していることも、このような臨死体験を裏付ける要素である。肉体を離れた霊体となったがために、部屋の外側についても詳細に描写し、さらに人知を越え、説明しようの無いような常軌を逸した物事を見たり体験したりしていたという。

世俗の研究者たちはこの問題について、どうやって人間の経験と認識の幅を逸脱した出来事に遭遇したかが理解できないゆえ、調査発見から結論が出せないでいる。すなわち、この超自然現象についてはまだ議論の余地があることを意味する。

死後の命への飽くなき探求心をもって、聖書はどのように地獄を語っているかを見ていこう。「地獄」という言葉に訳されたヘブル語の「シェオル」は旧約聖書に見られ、洞穴、くぼみ、そして自然の摂理である肉体的衰えを表すにも適用される。また死者の住まい、みすぼらしく曖昧な存在を表す言葉に使われる。

私たちがすでによく知られている肉体的な死のプロセスに限らず、かの研究者たちが明かす臨死体験者による生々しい霊的レベルの現実を紹介することが私の関心事である。

この問題について旧約聖書は、明確な定義と詳述を残す新約聖書に比べて、さほど多くの手掛かりを提供してくれてはいない。預言者ダニエルが死後の世界という概念の魁となる。ダニエル書12章2節にはこうある。2多くの者が塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

ここで死後に限らず「肉体的なよみがえり」について触れていることに注目したい。このブログでは詳しく扱うことはしないが、死者の骨を納めた納骨箱にその痕跡が残っているように、この復活がユダヤ人およびクリスチャンによって信じられていた。イエス自身が死から実る初穂としてすでに復活を体験されている。これこそ救いにおける最終的な業である。不思議な事にこれら復活した肉体は、人間の歴史が完全に終わりを告げる時点でこの世から離れ、ここにクリスチャンの信じる贖いが最終的な結末を迎える。

とにかくダニエル書に話しを戻そう。ここでは新たに「永遠」の命と「永久」の侮蔑が対比されている。無上の喜びに満ちた永遠の住処を思い浮かべるのは簡単だが、この永遠と永久という類義語を一方にのみ偏って適用すれば、この聖句と2つの概念との間にズレが生じてしまう。

旧約聖書時代の社会では「シェオル」が義人と不敬虔な者が、深い淵を隔てた状態で住まう住み家と理解されていた。一方がアブラハムの寵愛を受ける義人の居場所であり、もう一方が苦しみに満ちた場所として描かれている。福音書中のたとえ話で紹介されているイエスによる申し分ない描写は、このブログで後ほど扱う永遠の居住地について、限定的に触れている。

出エジプト3章6で神が自らをアブラハム。イサク、ヤコブの神であると称していることに絡み、マタイによる福音書22章32節ではイエスが神は生きている者の神であり、死んだ者の神ではないと宣言している。ここからも明らかなように旧新約聖書からは死後の命を示唆する、副次的な手掛かりを得られる。それによれば私たちは肉体的生命の限界を越えたところで存在し続けるのだ。

また第2列王記に代表されるように、旧約聖書では神が人をその死亡時に、先祖の数に加えるお方であることに言及する。
第1サムエル書の中に、預言者サムエルが地中の眠りからよみがえりサウルと対話する場面が登場。

永遠の命に与る者たちが記される「命のリスト」と、そこに記されないか、または削除されて永遠の滅びへと定められる者を記載した「破滅のリスト」に関する言及がある。詩篇69節28節、出エジプト32章33節、ピリピ書4章3節、黙示録3章5節、13章8節、17章8節、20章12〜15節、21章27節など、旧新約聖書の聖句を参照していただきたい。

地獄および義人の住処という概念について、新約聖書はその表現の豊かさという意味で進歩している。それはルカによる福音書16章19〜31節の「金持ちとラザロ」の喩え話からイエスが示す、死後の暮らし場所の全体像に裏付けられるだろう。

金持ちの男とラザロは、往来ができないほどの大きな淵を挟みながら、全く対照的な環境の中で暮らしている。平安と慰めを得ながら居心地良い場で暮らすラザロに対して、金持ちの男は苦悩、渇き、そして容赦ない業火に悶えているように、場所同士の濃厚なコントラストがその話しの中で浮きぼりにされている。

他にもイエスもしくはその使徒たちが叙述する地獄に該当する言葉があり、それが新約聖書中のハデスおよびゲヘナである。マタイによる福音書3章12節では永遠に燃え続ける炎として、同じくマタイの福音書8章11節では追いやられて泣き叫び、歯ぎしりする暗闇として描かれている。マタイ13章は燃えさかる炉、マタイ18章8節は永遠の炎、テサロニケ人への手紙第2の1章9節は絶えず続く破壊、黙示録14章10〜11節は延々と起こり続ける苦しみ、黙示録19章20節は燃える硫黄の湖、そして黙示録20章10節は昼夜を問わず常に人を苛む苦悩として、地獄を定義している。

クリスチャンまたはユダヤ教に認められた正典内には煉獄という概念は登場しない。
またヘブル書9章27節において、人は一度死んだ後に裁きを受けることを明言する聖書が、生まれ変わりについて教えることはない。また聖書は死の瞬間に現実として訪れる霊的状態を、肉体的復活とすり替えかねない「霊の眠り」教理を否定する。コリント人ヘの手紙第2の5章8節によると、肉体から離れることが主のもとに住むことを意味するからである。

臨死体験下の人々が即座に向かった先は無の状態ではなく、むしろ天国もしくは地獄と表されるような場所および情景であった。さらに霊体が備わっていたという彼らの一致した証言があるし、こちらの世界に戻って来た体験者は肉体的な再生を遂げたわけではなかった。

私たちが地獄に関わる聖書的説明を受容できない大きなわけは、私たちの神に対して抱いている誤解にあると考えられる。神が完全に善なるおかたであるなら、人々が永遠に苦しむことを神が是認するなど常識的にあり得ないと訴える者がいる。そして人がその罪に関わらず、それを購うことすら厭わない神の憐憫によって無償の恵みとして私たちに永遠の命が与えられることも同様に信じ難いのである。

本来の地獄とは悪魔とその使いのために用意されており、人間を収監する意図はなかった。しかし神の敵を自認している人々に対しては、マタイによる福音書25章41節にあるように地獄への道を辿ることが定められている。神が堕天使の群れを保護する意思を持たないとすれば、それよりも僅かばかり劣ったものとして創造された私たちが同様に神への反逆心をむき出しにすれば、順風に暮らせるはずがない。

私たちが神無しに生きることを人生の指針に据えるならば、私たちが自分の望むことを適えることはできないし、この願いとは裏腹な体験をこの人生を越えた先にある世で味わうことになる。今の現時点で神の影響下にあることを拒むのに、将来において神が自分の人生に優しく干渉してくれることを欲するのは馬鹿げている。

この臨死体験にスポットを当てた半宗教半世俗的な番組がことさら執心するテーマは、人の生き様はその死に様に現れ、塀の向こう側の現実に反映される。悪魔の統治は神の支配とは真逆に位置する。神は光であり、地獄は闇である。地獄は苦しみに満ち、天国には苦しみの立ち入る隙が一切ない。地獄が憎しみに満ちる一方、神は愛である。天国は平和の満ちた領域、地獄は暴力、悩み、苦痛の満ちた領域。

ローマ書1章21章で指摘されているように、自らの創造主として神に畏敬と感謝の念を払うこともせず、天国の恩恵に与ろうとするのは実に滑稽である。神を宇宙の娼婦として扱い、その関係に対する責任を逃れ、さらにはその責任を神自身に押し付けながら、ただ私たちの自己満足のために神を利用することが許されるのか?

神が支配および臨在する御国から離れ、神への不敬に身を委ねてこの地上での生活を歩む人間が、なぜ生涯かけて否定してきた神とともに天国で住まおうなどと考えるのか?望めば容易に手が届く選択肢があったにも関わらず、その時点における自分の立場や運命についてなぜ神を責めるのか?マタイの福音書11章28〜30でイエスはこう言って私たちを招いている。「28疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得られる。30私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

地獄への道に定められるのはどのような人々か?死刑囚檻房内の囚人、連続殺人犯、強姦魔、または幼児性愛者など、社会のゴミとして片隅に追いやられる連中だけがそれに該当するのか?彼らもその一部かも知れない。しかしマタイの7章13~14節で語るイエスが想定する聴衆の規模ははるかに大きい。「13狭い門から入りなさい。滅びに通じるもんは広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
黙示録21章8節は地獄を臆病者、不信心者、不道徳者、殺人者、性的不品行者、魔術を行う者、偶像崇拝者、偽証する者が行き着く、燃え盛る硫黄の湖であると定義している。

コリント人への手紙第1の6章9~10節では、以下のように別の地獄行きリストが紹介されている。9正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10泥棒、強欲な者、酒に溺れる者、人を悪く言う者、人の者を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。11しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

このみ言葉は私たちが犯す罪過をも巻き込みながら、ある逆説を示している。地獄の居場所を確保するような下劣で悪徳な行為を逆手に、神の裁きが麗しい贖いへの昇華を見せている。もはやこれらの者は神の赦しによって栄光に満ちた姿に変えられ、依然のライフスタイルを改め新しい生活を始めることができるのだ。

神の義を犯してしまっているがゆえに境界線を越えられないと感じているあなたには、ローマ書6章23節を読んで私たちの立ち位置を確認していただきたい。この聖句では罪は分類されていない。つまり、包括的にまた宇宙規模で考えても義人は1人もいないとすれば、罪とは人生の方程式内にある公分母であることが理解できる。

私たちは自分の罪過を小さく見積もり、それに伴う結果をも過小評価しさほど重大で致命的であるとはみなさない。他人の山積した罪に比べれば自分の「手違い」の小山が小さく見えるかも知れないが、他人の些細な「事件」を基準にすれば、その小山は克服し難いほど巨大なものである。

罪の大小に関わらず罪であることに変わりはない。1円玉1枚を盗んだ者も1000札1枚を盗んだ者も、両方が盗人である。1回嘘をつくことも100万回嘘をつくことも同じ嘘つきのレッテルが付く。他人と比較することで罪の程度を小さく見せようとするのが私たちの本性だ。

最後に言わせていただきたい。いかに聖なる神に対して自分の「称賛に価する行い」を誇示しようとも、全宇宙の裁き主である神は人の心と思いとを全て見抜いておられます。あなたは自分の行いだけを通じて自分の義を積立てることはできないのです。聖書ではイザヤ書64章5節にあるように、私たちの良い業が生理用品のような汚れた布切れに準えられています。私たちの善行だけを頼りにすれば、神の御国に存在して住まうことの神聖さを汚してしまう恐れがあります。神の観点からすると、罪には大きく2つの領域が存在します。1つは堕落した世界、そしてもう一方が地獄であり、もし罪を洗い清めなければ、汚れた洗濯物を天国に吊るすことは断じて許されないのです。

決して侮辱するつもりはありませんが、ただイエスはこんな「薄汚え」布切れのために死んだのではないことを覚えていただきたい。イエスが受肉し人となることの目的は、人を代表し私たちの代わりにその罪責と罰とを引き受けることにあったのである。仮に私たちがその甲斐性や長所によってのみ天国への切符を得ることができるなら、ガラテヤ書2章21節に書かれてあるように、キリストが無駄に死んだことになります。ヨハネによる福音書3章18節によれば、神を敵対視する不敬行為に該当するのは罪を通して神に背くことのみではなく、その深層には神の一人子を拒絶し、救い主による神の救いの贖罪行為をも遠ざける態度も含まれます。

私たちが犯す罪のうち最も重大なものは、イエスによる申し分なき有効な供物と対して、神の前で私たちの行いを「旨味のある」供物としてひけらかすことである。イエスの犠牲的な奉上物だけが完全に神の義を満たすものであり、それ以下については全て聖なる神の目には不愉快な物としか映らない。エデンの園における「些細な」不従順的行為が人類に「甚大な」悪の洪水をもたらすことで、人間全てが呪われてしまったことを忘れないでいただきたい。アダムの「ミス」と比べて自分の罪過をどう計りますか?「超重い」ですか、それとも「取るに足らない」ものですか?判断してみて下さい。

さて、話題を地獄に戻しましょう。聖書のテキストを嫌い、それを否定する多くの人々は、その内容を比喩的に解釈することで、実践が困難な適用を避けようとする。

しかしイエスは、全ての切断を上回る究極の切断を意味し、何があっても避けるべきである地獄の現実を伝えようと、敢えて大げさに誇張しながら地獄について語った。マタイの福音書5章27〜30節を参照していただきたい。

身体の一部を失うよりも大きい苦しみが伴う霊的報いの重大さおよび深刻さを、文字通りに語る。それにも関わらず、この聖句が示す厳しさゆえに、多くに人々がこの箇所を字義的に解釈したがらない。もし地獄という現実が存在しないのであれば、イエスは軽々しくこんなことを言うはずがない。

最後。地獄への恐怖ではなく、むしろ「愛」こそが神への従順と服従の動機となるべきであることを再確認したい。
私たちには畏敬の念と愛に満ちた称賛の心とを併せ持つバランス感覚を大切にする必要がある。神を分かりやすく喩えると、さしずめ天国の親と言い表すことができるのではないか。その親は自分の子どものためなら自身の命すら犠牲にする。子は親の躾の手に掛かるが、それは健全であり続けさらに成長するためである。その管理責任が親としての「神」に帰されるのだから。

この手の先には慈愛に満ちた神のみ腕が伸ばされ、あなたを守り安全を保証してくれる。この手と腕を絶妙に働かせながら神は子を適切に訓練するのだ。もし正しく子を扱えば、子が神の手に敵意を抱くことはなく、むしろ警告を発しながら制止を促し、自分を救いへと導いてくれる存在と認めるはずである。

親を心底愛し信頼する子はこの関係を理解し、神の手が上がった時にはその忠告を素直に受け止める。自分を丸ごと抱きかかえる愛のみ腕によるものと悟っているからだ。

我が子が道路にとび出し走行中の車にぶつかろうとしている時に、何も言わずまたは何もせずに、ただ平然と眺めている親がいたとしたら、親として大罪を犯していると考えるのが普通だろう。それでもなおあなたの永遠の魂を守るために、わめいたり叫んだりしながら必死にあなたの注意を引こうとする神を蔑ろにするのか?神の「止まりなさい」という怒鳴り声にただ怯えたり、あるいは子供騙しとして軽んじたりする理由は?

子は警告や自分を案ずる親の声に疑問を抱かない。そこで私たちも地獄について警告を発し、悔い改めを必死で促す神の声をどのように捉え、そしてまたどのように応答するかが問われているのだ。神は時に私たちの注意を引こうと呼ばわり、いやそれどころか叫び立てるお方なのだ。その声に耳をすまし、私たちを愛している父と認めて信じてみてはいかがか?

このブログを閉じるに当り、神との関係の築き方を紹介させていただきたい。これが理解できれば救いの成就、および神に自分の命を委ねる方法についても明るくなるでしょう。プロセスは至って単純ですが、私たちの視野と実践に深遠な影響を与え、人生に転換をもたらすのです。

どうか信じて欲しい。私も20年以上前に同じことを経験し、もう2度と悪魔を喜ばす偽りの人生に戻る気はありません。あなたが死後に選ぶ人生とはどんな人生でしょう?死後に命を得るか、それとも命の後に死に至るか、あなたはどちらを選びますか?罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエスキリストによる永遠の命なのです(ローマ書6章23節)

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Is Hell Real?

神様、助けて

Friday, October 17th, 2014

私たちは窮地に陥った時、「神様、助けて!」と悲痛な叫びをあげることが少なくない。しかしそれも束の間、葛藤が過ぎ去るかあるいは問題が解決されればすぐに私たちは独り善がりの世界に退いてしまう。こういう危機からの改心は表面的に過ぎない場合が少なくなく、また予期しない状況下での苦肉の策である場合が多い。私たちは神を「レッツ・メイク・ア・ディール (アメリカのクイズ番組)」のモンティ・ホールになぞらえて見てしまうことがある。つまり、私たちは人生という神のゲームの意欲的な競技参加者として、どうにかして神を喜ばせることを期待されているとする発想だ。そして神は私たち自身の関心に応えるより、私たちに救いを与えることを望んでおられると聞くと、神がブービー賞のようなもので私たちを欺いているかのように思い込んでしまう。

苦境に喘ぐという経験が、実は神による恵みと憐れみのみ業である場合がある。どんなに親密な関係にある人々も私たちを救い出せない、あるいは救い出そうとしない様を見、絶望的な状態に遭遇するからだ。人生の荒波による衝撃と混乱の中で溺れかけている時、このような窮地こそ現実を映し出すバロメーターとなることがある。私たちが自身の限界に直面し心が最も刺激されやすい状態になって、自分と神とに対して正直になる瞬間と言っても過言ではない。まさに身の安全とボートの退避、またおそらく嵐の小康化を願って自分の手を神に差し伸ばした、使徒ペテロがそうであったように。

しかし神に対する反逆心から拳を振り上げるような、私たち自身の行動によって窮状を招くこともしばしばある。しかし神から差し伸ばされた手は、私たちを取り巻く世界が壊滅な状態になっている中、拾い上げられた後も再び転落しないようにしっかりと握られたままでいる。

私たちは神を呼び求める時、その動機が何であるかを吟味しなければならない。そえは苦境から脱するまでの間、神の機嫌を取るために猫をかぶるような、ただの欺瞞によるものではないだろうか?

神の助けに反発する人々はおそらく宗教や神を批判し、そんなものはただの杖にしか過ぎないとお考えかもしれない。しかし実際に困難に面したとき、自分たちがプライドという実に儚い下肢に支えられた、有限かつ脆弱なものである事実を受け入れざるを得ない。その支えは人間の体験によって脆くも崩れ去るのである。

問題の最中、彼らは神に頼る代わりに自力で事を解決し自己治癒を試みた挙げ句に失敗し、完膚なきまでに叩きのめされて初めて助けを求めようとする。災難が降りかかる中、宗教に手を染めて瞑想によって苦痛を取り除くことを試み、ネガティブなエネルギーを遮断しながら処理しようとする。また宇宙を覆う因果の原理やカルマの法則など、極端な運命論によってその状況を容認しようとする。またある者はこのような経験を錯覚だと判断し、催眠術による現実逃避をはかりながら、自分自身と問題とを切り離そうとする。

また自助プログラムに手を出し、ボブ・ザ・ビルダーの「そうだ、修復は可能」的態度を地でいくようなアプローチで事態の鎮静化を図る者もいる。またさながら小さい蒸気機関のように、「できると信じる自分」のイメージをさらに進化させ「できたと信じた自分」を思い描きつつ、お題目を猪突猛進的にひたすら読み上げる人々にも出会う。しかし結局、人生の終わりには蒸気も尽きてしまい、自分たちの最終的な定めに対しては、いくら自分ができると信じてもそれには至らないことを悟らざるを得ない。他にも一般的な心理学による解放術が世の主流となっている。人生の困難を処理するため、まるでオズの魔法使いに登場する機能障害のライオンが魔女を求めるように、心的障害による苦痛を薬物治療や専門技術によって除去するというものだ。

物事をコントロールできる無敵な存在という自負は、自身の限界に気付くまでの錯覚に過ぎない。傾向として、四面楚歌の状況下で改心する無神論者にように、必然的な何かに直面すると人生観がガラリと変わることが多い。

神が最後の頼みの札として位置づけられることはよくある。人々は神を全宇宙の親として、まさに10代の若者が時折、自己中心的な理由で幾度となく両親に助けをせがむように、ほんの一時的に神に寄りすがるのだ。このようなSOSの嘆願は、神を出し抜くために誠実さを装いながら、その全能なお方に一時的な厚意をせがむための、死にものぐるいの足掻きにも映る。

私たちが何とかして神を避けようとする本当の理由は、神とは誰であるかという問題に絡み、それは私たちを取り巻く環境よりも遥かに重大である。第一に私たちにとって現実的かつ重大な問題とは神に関わることである。私たちがより重要かつ深遠で人間にとって永遠に意義深くあり続ける疑問を思い巡らしながら我に返るのは、人生のローラーコースターが底に目がけて急降下する危険に晒されている時であることが少なくない。こういう事態が起こる前は神を潜在意識下に追いやり深く立ち入らずに逃れようとし、個人的な願いや必要についての独立した考えに基づいて行動することを好みがちだ。物事が自分たちの思い通りに運んでいる間はこの状態を保ち続け、一旦歯車が狂い始めると埃まみれの聖書を命綱として引っ張りだしてくる人もいるだろう。

この憎しみ、敵意、疎外について触れながら聖書は、私たちの罪の性質が私たちに真剣に神を探求させることをさせないことを指摘し、神の正義の基準に照らし合わせる時に全人類が罪人でありその基準には達していないと述べる。人はこうして罪責の念と恥に陥り、先ほど触れた本質的な問題を増幅させていく。ただし、神が私たちをご自身の憤懣による窮地に放置したままにせず、求める私たちに「助け」の手を差し伸べることを願っている事が、私たちにとっての救いである。

凍死しかねないほどの人生の厳寒地に追いやられてしまう経験を持つ時、神が提供する避難所や暖を求めて、ただ事が足りる範囲で神に近づこうとするが、決して炉の炎には近づこうとしない人々が大勢いる。そういう人々は神の介入によってもたらされる暖みと慰めだけに関心があり、神を単なる一晩の宿泊所としかみなしておらず、彼に深入りしようとはしない。

さらに、その私たちとこの世が直面する混乱の原因を神に帰して、挑戦的態度を正当化しつつ神を全面的に回避し遠ざけようとする人々もいる。この様子については別のブログで、苦痛と苦悩を題材にした記事を投稿しているので、是非参照していただきたい。

Pain, Suffering and Evil


しかしこの方程式の裏側には、ご自身に近づき出会わせるために神が敢えてトラブルの迷路におびき出した、正真正銘の選ばれた民がいることを確信している。

人が裏切られ傷つき、この敵意に満ちた世界に絶望しながら途方に暮れている自分に気付いて、人生の津波から自分を守り心の渇望を満たす事を期待する全能なお方が常駐する避難所を求めることで、このことが実現する。この種の気付きによって得られる謙虚さと感受性によって、これまで大勢の人々が悔い改めへと導かれ、自らの霊的な状態の真の有様に気付き、仮面を被り全てに満ち足りているかのように装いながら生きるより、自分そのものも含めて人生に何かが欠けていることを思い知らされている。自力で生まれ育ってきたかのような偏見に取り憑かれ、依然傲慢であり続ける者たちは、人間の非凡さを過大評価する錯覚に支配され自分を神格化する愚行を犯す。しかしやがてその姿を映す鏡が粉々に砕け散るときその態度が致命的であることが証明される。

最後に申し添えておきたい。私たちの人生における真の悲劇とはこの世で私たちが被る一時的な苦境ではなく、私たちが聖なる神に対して責任を負う道徳的性質に関した、永遠かつより重々しい問題である。私は決してあなたが直面している状況に配慮しないまま、その問題の重さを軽視しているわけではない。必要な時に応じて私たちを助けてくださる方も、「わが避けどころ、わが力、苦難のときの永遠の助け」である神なのだから。神に助けを懇願した人物が聖書には数多く描かれており、特に詩篇にはそのような聖句に満ちあふれている。しかし神が今まで私たちに与えてくれた「助け」の中で最も偉大で尊いものは、イエスの人格と業を通しての永遠のいのちである。

終わりに際して一言。神またはイエスについて、聖書が語る空腹の大群衆に食物を与えた話や、井戸の傍らで渇きが失くなるように最初にイエスに「助け」を嘆願したサマリアの女の話のように、「助け」を供してくれる一時の特典としか見ていない人がいるだろう。両者とも共感し得る喫緊な課題を抱えていたが、イエスこそが彼らの絶え間ない飢え渇きを真に満たす「いのちのパン」、そして「生けるいのちの水」であることを悟り得なかった。

あなたが唯一神のみにある、自分自身にとっての「助け」の源を見出すように祈りながら、締めの言葉とさせていただきたい。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Help God

神は愛している

Friday, October 17th, 2014

60年代の漫画シリーズ(米国)の「Love is(愛とは)…」というフレーズのように、私たちもつい自分で愛を熱弁してしまう。ある人にとって愛とは対象や物事への心酔を意味し、また人間の性的な表現にまで貶められることもある。他にも愛を温かく曖昧な感情か、もしくは一時的な気分の昂揚として解釈されることもある。霊的であると自負する人は、愛とは神であり相応しく行動することで悟りを得て神的な存在と結ばれるといった、神秘主義的な汎神論の視点で愛を説明しようとする。一方、人間関係の麗しさに真の尊い愛の現れを見る人もいる。しかしそのいずれも愛の豊かさや純粋さを語る上では不完全と言わざるを得ない。慈愛そのものである神のみがそれらを表現できるからだ。従って愛とは、ヨハネの手紙第1の4章8節にあるように、神の本質を示す際の鍵となる、根本的要素である。

神は愛なり、この告白はこれ以上説明を要さないほど、それ自身で完結している。そしてこれこそ人間が渇望している愛の型なのである。なぜなら私たち全て、人間関係が壊れ不完全な人間の愛への失望を経験するなど、不幸の先にこそ得られる愛があることを信じないで、それを荒唐無稽な形に歪め、条件付きで一時的、不完全で浅薄、主観的で信頼性に欠ける愛と摺り替えてしまうからだ。偽りの宗教ですら、この愛不足というジレンマには手を焼いているようだ。それゆえ愛の足りなさを哲学的に思索し自我忘却によって欲を退けるか、または誰もが愛を訴えもしない中でただの絵空事として愛を扱い、それとは真逆の概念である暴力を必然とする世界征服に焦点を定めるしか選べない。

状況を取り繕ったり、愛の喪失感を処理しようとカウンセリングやセラピストを探したりするなど、自然主義的な解決方法を模索する人も多い。こうして人間社会に蔓延する疫病を治療しようと、何十億単位ものお金をつぎ込む。聖書もこの自己陶酔に陥った人間が抱える深刻な傷害を指摘する一方、人間にはその傷心を癒すために、魂の欲する真の愛と出会う道が用意されているという福音を示す。

テモテヘの手紙第2 3章2〜4節  「自分を愛する者」
2 そのとき人々は自分自身を愛し金銭を愛しほらをふき高慢になる神をあざけり良心に従わず恩を知らず神に恐れなくなります。3 また情けを知らず和解せず中傷し節度がなく残忍になり善を好まず 4 人を裏切り軽率になり思い上がり神よりも快楽を愛し、

ルカによる福音書 4章18〜19節  “イエスは愛が人格化したお方”
18主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。種が私を遣わされたのは、捕われた人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。

私たち人間にとって神の愛は、愛という言葉により豊かで深遠な意味を与え、限りある人間的価値とは異なり、推し量れないほど高い標準とその適用を要求する。

神に言わせると、愛とは状況に左右される陳腐な、古い金言で「愛迷」と表現されるような、一過性の出来事や瞬間に制限される薄っぺらなものを指す言葉ではない。むしろ元来堅固かつ持続的で永遠不滅のものである。神がその慈愛により、私たちを愛する被造物としてご自分と和解させようとする、懸命な試みにその愛の重みと権威が裏付けられている。

Romans 8章35-39節
35「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。36患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か、私たちはあなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37しかしこれら全てのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利をおさめています。私は確信しています。38 死も命も天使も支配するものも現在のものも未来のものも、39高い所にいるものも低いとこにいるものも、他のどんな被造物も私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

コロサイ人への手紙1章20〜22節
20その十字架の血によって平和をうちたて、地にある者であれ天にある者であれ万物をただ御子によってご自分と和解させられました。
21あなたがたは、以前は悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし、22今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なるもの、傷のないもの、咎めるところのないものとしてくださいました。

私たちが理解可能な最も高潔な愛の形は母性/父性であろう。確かにそれに劣らないかもしれないが、天におられる父の愛がそのような人間同士の親密さの根源である。したがって親の愛を神の愛と比較することには自ずと限界がある。

マタイによる福音素7章11節
11 このようにあなた方はわるいものでありながらも自分の子どもには善いものを与えることを知っている。ましてあなた方の天の父は求める者に善いものを下さるに違いない!

神の愛は、「愛する」という動詞が示す行動を、自分のひとり子を犠牲に差し出すというレベルにまで引き上げている。それゆえその愛が本質的に犠牲的であり、私たちはイエスの人格およびみ業にその明らかな受肉を見るのである。

ヨハネによる福音書3章16節
16神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じるものが1人も滅びないで永遠の命を得るためである

神の愛は生まれながら神を敵として憎悪するような者たちの心を勝ち取ろうとして手を差し伸べるほど、忍耐強いもの。

ローマ書5章8節
8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。

ローマ書5章10節
10敵であった時でさえ御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

ヨハネの手紙第一 4:10
10わたしたちが神を愛したのではなく神が私たちを愛してわたしたちの罪を償う生け贄として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

この回を結ぶ前に皆様にお聞きしたい。あなたは今まで愛を空想上のおとぎ話として片付けてはいませんでしたか?あるいは代替のジャンクフードで空虚感や心の隙間を埋めようとするなど、人工的な解決で妥協してはいませんでしたか?その何れにしてもあなたを不健康かつ無気力に陥れだけで、本当の満足を与えてくれるものではないのです。一時だけ空腹を抑えるだけの間食では満たせない、魂に健康に不可欠な要素を盛り込んだ真の栄養食への飢え渇きが続くからです。

こういうわけで、あなたに欠乏しているものは神の愛であると断言できます。あなたの知らない、また経験したこともない快活さや満足感を得ることでそれがはっきりと分かるでしょう

コリント人への手紙 13章4〜7節
4 愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず高ぶらない。
5礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、罪を抱かない。;
6 不義を喜ばず真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを忍ぶ

ガラテヤ人への手紙5章22〜23節
22 これに対して霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和寛容、親切、善意、誠実
23 柔和節制です これらを禁じる規定はありません

最後に一言、以前にも書かせていただきましたが人間の愛は限定的です。何よりも人の一生が極めて短いこと、そしてたとえ人間関係は不可欠でも、それが究極の現実と満足感を約束するものではないことが理由にあります。神のみがこの期待に応えることのできるお方なのです。

もしやあなたは間違った場所に愛を見出そうと、神を別の贋物と取り替えてきたかも知れない。しかしそれでも神はあなたを「Lover of your Soul(あなたの魂を愛する者)」として慈しんで下さいます。その愛は完全な愛であります。親愛なる皆様、どうか神の愛を今日からとこしえまで体験してください。以下のリンクで神からの愛の賜物を知って、それを受け取るための方法を紹介しますので。是非ご覧下さい。
神と関係を持つ方法 
終わりに、神の愛によって人生の変化を経験した人々の実話を紹介します。この後の選択はあなたに委ねます。
イエスについての私の証し
www.cbn.com/700club/features/Amazing/

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

God is loving

神は杖

Friday, October 17th, 2014

この表現は人々が神という存在に対して持ちたがる、一般的な情緒的イメージである。無論、それは信仰者に啓示された真理の内容に反するものではない。私たちには仕事、車、銀行、医者、病院、光熱のほか、様々なものが必要である。危機的な状況に陥った時、私たちはカウンセラー、精神科医、支援グループ、薬、そして家族にすがり、人生に付いてまわる心の痛手をケアする。正に相互依存し合う人間社会のあり方を映し出しているのだ。ではその実態と神という概念との違いはどこにあるのか?それはただ神か否かの違いだけで、それ以外は何も異なることなどない。私たちはその取り巻く文化との共依存関係にあり、自分たちの存在や命と切り離すことはできない。

私たちの過ちは自分たちが誰にも依存せずに人生を歩んでいるかのように錯覚してしまうことである。私たちは自分の存在や現実についてはほんの僅かな知識しか持たない有限な者であり、人生の初めからこのかた、よろめきながら歩んでいることを忘れてはならない。

私たちが人生の溝や死の危機に直面し現実に向き合う時、この真実が私たちの目から鱗を落とし、驚くほど強烈に胸に迫ってくる。

既に現実に気付いているか否かは別として、あなたにも避け難い必然に直面する前に、この真実を悟る道が開かれていることを覚えていただきたい。

 

神と関係を持つ方法

 

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

God is a Crutch