Archive for the ‘Atheist and Agnostic’ Category

宗教は世界における諸悪の根源である

Friday, October 17th, 2014

これは盛んに復唱され世界中にこだましてきた神話であるが、未だにその確証は得られていない。この合言葉は、宗教家たちの偽善を暴くことで、神を宇宙から締出し死んだ存在として扱う論議と共に持ち上がっている。
20世紀はこの地上において史上最も多くの血が流れた時代であったが、その大半は神という概念を持たない人間に由来していた。その代表者であるイディアミン、ポルポト、ヒトラー、スターリン、裕仁、そしてレオポルド11世たちは、大量虐殺によって社会を混乱へと貶めた。
無神論の共産主義政権は1億以上もの人命を奪った。例えば中国では7200万人、ソ連では2000万人、カンボジアでは230万人、北朝鮮では200万人、アフリカでは170万人、アフガニスタンで150万人、ベトナムでは100万人、東ヨーロッパで100万人、そして南アメリカで15万人にも及ぶ人々が虐殺された。
人間と至高の存在を分け隔てずに同一視する世界観から、自ずと「勝てば官軍」という思想が芽生えるのは瞭然だ。責任や人間に帰される価値や尊さに対する感覚が損なわれたとき、人は正否の基準を定めることで自分自身を「神」の座に据える。
人間が真に目を留めるべき究極の目的や価値を持たず、また自らを高め有頂天になっていることが明らかなとき、「適者生存」という進化論的プロセスが唯一無二の真理と化してしまう。
この人命に対する観点は人の目標、関心、そして人類を再び破滅へと陥れる立場へ上り詰めるために、目下必要な権力などを基にした相対的考えを構成する。
しかし人命や人間の神聖さという視点から、特にユダヤ教およびキリスト教ではこれとは反対の立場を固持する。聖書は人間を神の似姿を帰した被造物として紹介することで、人類に与えられた保護を受ける権利を示唆するからだ。
ユダヤ教ならびにキリスト教の価値観を求めている者は多い。しかし神が個々人を尊ぶお方であるにも拘らず、彼らはその支配下あるいは影響下に置かれることを拒む。これは1つの逆説である。人がその心を神に明け渡さなければ、すなわち、絶対的権威のもとでそれを守り抜く神の超越的な力を遮断したままでは、やがて人間社会の絶滅を引き起こす種となる。
また過激派イスラム教徒、ヒンズー教国粋主義者、急進的仏教徒など、自分たち以外の者たちを殺戮するような、過激な排他主義の宗教が存在することも忘れてはならない。どの宗教にも関わらず、自らの存在意義を殺人に求めるものはその影響を把握しておくべきだ。キリスト教を名乗る宗派にも、イエスに楯突きながら自分たちの人生を異端者および偽聖徒で構成される宗教組織に捧げ、流血沙汰を起こすものもある。
イエスはその名を語りながら十字架については触れようともしない輩について警告を発している。信徒にとって十字架とは、自らの命を神と隣人への奉仕に捧げることを意味する。十字軍戦士たちは十字架を剣として用いない。イエスは敵への飽くなき愛という概念を踏まえて、暴力および他者への侵害行為に対する神の評価を改めて強調する。最初は馬鹿げた立ち位置に思えるかもしれないが、やがて神が敵対関係であった私たちを愛して下さっていたことに気付く
ルカによる福音書6章27〜36節の中で、イエスは敵を愛することについて以下のように述べる。
27 「しかし、私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33 また、自分に善くしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でさえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがありいと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」
人間の良心からすれば人命保護は極々自明のことであり、いずれかの哲学または宗教が人間の価値をゴミとしか扱わないなら、それは人間に命を与えた神との対立または矛盾を意味する。死は避けられないが、果たして私たちが生まれたのは生きるためか。それとも死ぬためか?あなたの世界観とは異なるかも知れないが、無力な幼児であった私たちを嘗て援助してくれた両親の保護および養育を通して、神は人間が果たすべき責任に関する手掛かりを与えてくれている。
安全と庇護の感覚を保つため、親の世話という賜物を神は与えて下さった。これは子が父母から自立を果たした時点で止んでしまうものではない。神は人を愛しているし、人類を保護することこそ、神が創造した秩序における最大の目標であり、最優先課題なのだ。
別の時代に神は人間を裁いているがその意義は、神ご自身と隣人に対しての振る舞いに基づいて義を貫き人命を守るという秩序を維持することにあった。明らかな原因や理由もなく不注意かつ無駄に人間を地上から掃討したわけではない。ご自身の審判を通して神は社会で虐げられている弱者が持つ尊厳を確保するのだ。
神がその愛と許し、そして誰をも傷つけたくないという思いから全ての事件を見過ごしているだけなら、果たしてそのような裁きを「良い」と評価できるのか?これらの犯罪行為によって虐げられる犠牲者たちはどこに逃げ場を求めたら良いのか?何に憐れみを請うべきか?神はその審判において、人が法廷における赦免では決して矯正されないこと把握している。また各々がその行為に応じて犠牲が課せられることで、命を保護し秩序を保つための裁きに意義があることを熟知している、
だが御国の法廷については、神の義と憐れみが拮抗しており、正にイエスの人格および業にこそ、その極みを見るのである。
世に注がれる神の思いはただ「愛」の一言に尽きる。その愛は、自ら無実の罪で悪人からの拷問を受けたイエスを通して私たちに差し伸べられた。私たちに注がれた彼の自己犠牲の愛は、上述した憎悪を赦免される道を私たちの前に開いてくれる。なぜなら、その程度が悪の逸材ほどではないにせよ、私たち全人類は他者に対する不断の犯罪行為に対して責めを負っているからである。
命がけの場面で他人のために自分の安全も幸福も省みないような、勇敢な行為で人を魅了する「ヒーロー」を思い浮かべると理解しやすい。私たちのために宇宙全体を網羅しながらこれを実践してくださったのが神なのである。しかしたとえ神の法廷での協議を経て赦免されたとしても、この地上で私たちが犯す人間性を害する行為の結果と責任からは目を逸らすことは許されない。
とにかく神が如何にしてこの贖いの業を完遂されるかに注目してほしい。私たちが罪を赦す救い主として神を受け入れ、その支配と統治に心と人生を捧げるべき主と認めるときに、神は奇跡的に私たちの人生に介入してくださる。
ひとたび神を受け入れれば、神は石の心を肉の心と取り替えることで私たちを再創造して下さる。まさに聖書が「新生」と呼ぶように、この改造によって私たちの内面の状態および性質に変化が訪れるのだ。
このように新しい者とされることで神や隣人と真の和解を果たすことができるのです。この恩恵に与ることを通して不必要かつ的外れの人命破壊と、私たちの創造主への敵意を制止し、損なわれた関係が回復されます。
最後、この「命」という概念について最も上手く解き明かしかつ簡潔にまとめた、ヨハネによる福音書3章16節でイエスが語る言葉をご紹介しましょう。
16 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

 

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Religion is the source of all the trouble in the world

 

 
Copyright permission by Bridge-Logos “The School of Biblical Evangelism”

神との平和と調和

Friday, October 17th, 2014

平和と調和という語ついては、個々人を取り巻く自然的成り行きに委ね葛藤ないまま静寂に時を過ごすという定義を耳にする。私たち人間は自らの人生に大破壊をもたらしかねない、ネガティブな外因的影響を遠ざけながら、痛み苦しみという歯車のずれを無くすか、あるいは何らかの形でそれに対処をはかろうとする。その結果、私たちの抱える問題がとても自分たちの手に負えるものではないことを悟り、死に物狂いで「心の安らぎ」を探り当てようとする。

制御し切れない何かが起こった時にも平常心を保つことを理想とし、その実現のために私たちは処方術を模索する。自助グループのグルやヨガ行者などの偽預言者に影響され、幻想や知覚鈍魔法、または悦に浸らすマントラなどにより精神を現実乖離や無感覚の状態に陥れながら、東洋思想的な宗教または哲学から派生したスピリチュアリズムの虜になっている。

形而上学的なものより自然主義的なアプローチを探求している人々は薬物乱用、薬物または精神療法を生活上の葛藤を緩和させる手段として選ぶ。
一方で他力本願を好まない人々は、豊富な経験を誇るように「何があってもわたしは平気」と豪語し実のところ穴だらけであるにも関わらず、起業家さながらの処世術に確固たる自信を覗かせて自力本願的な態度を貫こうとする。常に人間は工夫を凝らしながら問題解決の道を編み出すことに余念がないが、もし適切なアプローチと理解に基づいていなければ、真理を嘘とすり替えるような見せかけの方法を選んでしまいかねない

人は時に安価なワインを飲む貧しい酒飲みのように、しらふ時の現実に真摯に向き合うことをせずに、この切望する理想と現実の狭間にある葛藤を忘れさせることで、苦痛を紛らそうとする。このような形で問題の解決をはかろうとする試みは、ほんの束の間の効果と熟知しながらも「いつかきっと」という希望を標榜のもとで行う、生温い緩解的措置に過ぎない。

事実、通常外界から起こり得る悲惨な事態は必然的であり、私たちが制御し切れるものではない。しかし問題の核心はそこにはない。 仮にそれらの事態を何とか回避あるいは解決できたとしても、そのことで心中にある聖所に安らぎを得られるとは限らない。「持つ者」、つまり夢のような生活を送っている「持つ側の人間」でも、その内に不安を秘めている人々が大勢いる。私たちは、富も名誉もありながらその豪華絢爛なライフスタイルから転落し、人生の旅路における儚さに他者と同様に気付く人々を思い浮かべる。とにかく安らぎという凪の状態は、外側ではなく内側から沸き起こる安らぎによって成就するものである。

この内側の安らぎという概念については、この不穏さの陰に隠れる秘密を解く鍵となる良心によって、私が神と信じる究極的現実との相互関係の下、人間に与えられたアイデンティティが明らかになることで私たちに伝えられる。これは人生に必須の要素となる。なぜなら私たちの心の中には人間が人間であるための根本的要素として、至高かつ超越的な真の現実と交わる本能が意図的に備えられているからである。それは人間の霊性が持つより深遠な属性への表面的かつ周縁的な感情という枠を越える。まさに私たちの差し迫る審判に対する緊迫感に訴え、道徳的腐敗からの予後を解決する最後通牒である。また、私たちが責任義務からの道徳的ジレンマから解放され魂に安堵を得るために、罪責の念や恥という症状を通じて私たちに適切かつ効果的な治療法に窮乏していることを痛感させてくれる。

聖書はこの統合失調状態を神からの隔絶として説明する。神はこの緊張を治めるために、  必ずしも宗教を探したり開宗させたり義務を人間に負わせない。真理を探求し、かつそれが指し示す方向に従う覚悟がなければ何も始まらない。たとえそれがあなたの固執する価値観と全く相容れないとしても。
さらに聖書の診断によれば、この疾病の根幹にある問題および原因は、聖なる神に対して憎悪と反逆心を抱く人間の罪深い性質である断定される。もしやこのブログ記事を読んでいるあなたも、既に神に対して敵意をぶつけているかも知れない。

生まれ持った喪失感と空虚感から生ずる自意識が働き、既にこの不安に反応を示している人もいるだろう。正義に基づき義とされていることへの、確証および確信に対しての思いを示す霊的なバロメーターが作動している証拠だ。このプロセス全体は私たちの神を求める意識を呼び覚まそうとする神ご自身からの心の声として、人の心のメインフレーム内に伝わっている。たとえ私たちから遠く離れてはいないにしても、神はご自身の負担を減らすために私たちを目覚まし音で急き立てて、その問題の解決法を要求するお方では決してない。むしろ内容に富んだ特別な啓示を見出し、私たちの創造主との本来埋められない差を除去するための呼び出しである。

このような過敏な状態に陥っても、恐怖と絶望にはまり込むことを案ずるには及ばない。神は愛をもって私たちとの交わりと関係の回復とを願っておられるからだ。その事実は、神がイエスの人格と業を通して人類の間に内住してくださったことから、肉眼でも確認可能である地上での体現によって証明される。イエスは比類なき優秀なピースメーカーとして、人類と神との間を取り持ち、双方の間で和解を成立させてくださったお方である。私たちは、天の父との緊密な関係から与えられる永遠の命によって、イエスにその破損した人生を変えていただき神との和解を得たのである。こうして私たちは息子および娘として神の家族に加えられたのである。このダイナミックな神との関係については、下のリンクでより踏み込んで詳述している。
この救いのプロセスを理解するためには必見の記事なので是非読んでいただきたい。

神と関係を持つ方法

最後、あなたがこのブログを読み始めた当初、あなたの興味と関心は私からあなたへ持ちかける、あなたの人生に深く関わるような、堅固で恒久的な平和へと至る大切な境地よりも、むしろ実用的でかつ手頃に入手できるような平和にあったかも知れない。
既にあなたは我流でこれを達成するべく、ピースをかき寄せ集めながら心の穴を埋めようとした挙げ句に、収拾不能な状態に陥って途方に暮れているのかも知れない。そんなあなたの破損した心を再びつなぎ合わせる力がイエスにはあるのです。

さらに神の安らぎは、乱高下するローラーコースターのような人生からあなたを解放します。神は決してあなたを見離しません。あなたが天にも昇るような最高潮の最中にいる時も、奈落の底に落とされたように沈んでいる時も、神は常にそこであなたと共にいます。さらにあなたが人生の重荷を背負いながら問題の中をかい潜って歩んでいる時、神は恵み深くも脱出の糸口を備えてくださいます。それゆえあなたにはあらゆる逆境にも打ち勝つことができ、どんな嵐が吹き荒れようとも人生のボートの中、あなたの魂の船頭を知りそして信頼しながら、安らかに憩っていられるのです。

終わりに一言。聖書は、もしあなたが心を尽くして神を探し求めるなら神を見出すと約束します。それに応答するあなたに「平和の君」からの安らぎが豊かにあるように祈ります。何にも替え難く、あなたの理解を遥かに超えた安らぎを。

マタイによる福音書 11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。

ヨハネによる福音書16章33節
33 I これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書14章27節
27  わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える、わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
ピリピ人への手紙4章7節
7 そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

テサロニケ人への手紙第Ⅱ 3章16節
16 Nどうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。

ガラテヤ人への手紙 5章22節
22 Bこれに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

 

 

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Peace and Harmony with God

変異と進化

Friday, October 17th, 2014

変異は進化論の概念に基づけば、自然淘汰による生命の進化に貢献すると考えられる。しかし変異によって生命の進化が生じたことは立証されておらず、有機質の個体にとっては中立あるいは有害のいずれかであることが分かっている。また DNAの進化はあり得ない以上、変異は遺伝子プールに新しい遺伝子情報を加えることがなく、むしろ情報の欠損のみを誘発し、生命の繁殖どころか絶滅および死滅を招く傾向にある。

この変異現象は例外なく新種の形成を促すとされるが、化石の痕跡を見れば、新しい遺伝子情報を伴うべき生成または変化した種よりも、むしろ絶滅を裏付ける証拠だけが目に付く。このことから生命の起源が本当に数十億年前に遡るのか疑わざるを得ない。証拠を伴った絶滅の事実を考えると、生命の存在が全く不可解になる。したがって、種の出現よりもその消滅をこそ、起こり得るケースとして考える方が妥当ではないか。絶滅について耳にすることは日常茶飯事ではあるが、では果たして新種の発見についてはいかがだろうか?

それに加えて、このプロセスが適者生存の実現に不可欠であるなら、何故歴史的あるいは自然的な絶滅の流れに逆行してまで、現代的な保守主義を掲げながら、絶滅危惧種を保護する必要があるのか?

変異が生命の進化を意味すると信じる科学者たちが、自分やその家族、そしてペットをチェルノブイリやスリーマイル諸島などの放射能エリアで、恩恵に与ろうとしないのは何故か?それは放射能に当たることが社会発展にとって百害あって一利無しであることを実際に知っているからだ。もし人口統制を支持するなら話は別だが。

社会的に違法とみなされるような、不慮の妊娠を強いられた女性たちへの堕胎処置について、それが漸進的に起こった進化と矛盾するのは何故か?遠い未来、変異が発生することで人間の遺伝子が進化する可能性を考慮すれば、堕胎は裁きや直接的な介入を意味し、やがて害をもたらす存在と言うかも知れない。

この見解を支持するなら、なぜ変異が有益になるまで長いスパンを要するのかについて、化石痕および現代において変異種が不在である事実に基づいた、それ相応の弁解が求められる。変異の恩恵に関する演繹的仮説と擦り合わせながら、自然主義の帰納的論理に科学を準拠させることは、もはやそれは科学的方法ではなくただの神話の考察や想像に過ぎなくなる。

例えば、愛犬王国で千種万様な犬種が存在することを鑑みても、巧妙な遺伝子組換えによって純粋な遺伝子情報が失われようと、彼らが犬であることに変わりはない。既に私たちは同種同士の違いがあることを認めているように、種内における小進化は問題としない。しかし時代に連れてこの小さい種別が、分子から人間という大進化にまで発展するなどと教え信じ込ませることは、明らかな詐欺行為であり根も葉もない戯言である。生命の疑問について、有神論的観点をよそに、自然主義哲学から解答を導き出すことはもはや絶望的である。

科学が将来どのような道を辿るにせよ、異質性への明確な先天的感覚を否定するものに固執するような、偏見かつ誘導的なアプローチであることに変わりはないだろう。現在のところ進化論は世間一般において広く支持を集める学説ではあるが、それ自身の哲学的な前提に基づけば、ほぼ全てのものを一定の流動状態におく自らの見解通り、古臭くまたは不十分であることが証明され続けているこの学説も、インテリジェントデザインを確証付ける明白で優れた証拠にとって代わられるだろう。この勢力が早晩廃れることは一目瞭然である。

科学がその見方を変えてインテリジェントデザインを支持する立場に転じた場合、おそらく不可知で進歩的な宇宙生命体によって、はからずも生命が生じたと主張し、是が非でも神の存在を問うことを避けようとするだろう。未来修正論者による起源に対しての観点からは、客観的真理よりも現実逃避のために存在する科学しか見えてこない。

私たちがあらゆる技術革新や現代技術に囲まれ、それらを活用することを許されていながら、これまで新種のホルモン、酵素、単純器官の突然変異を確認した科学者は皆無である。

DNAを人生の文書パーツになぞられると、そこには生命の機能性全体にとって不可欠かつ根本的な、複雑かつ厳密な情報が数千ページにも亘って書き込まれている。一方、この情報には意思を持たない不規則かつ偶発的な作用によらず、意思と知性を持つ源を条件としたコーディングが必要である。この生命に満ちあふれるDNA細胞の言語を見る時に、私たちが氷山の一角ほどしか確認できない驚異的な知性が、果たして知性の存在しない状態から生成することなどあり得ようか?

膨大な宇宙空間を通しても、また微細な細胞を通しても私たちに語りかけないような「創造者」が 、果たしてDNA細胞の言語をプログラムすることなどできようか?

詩篇19編1〜4節
1 天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
2 昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る
3 話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
4 その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

ローマ書 1章18〜23節
18不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。21 Fなぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 (偽りの宗教と哲学)

 

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Mutations and Evolution

現存の鳥類と恐竜

Friday, October 17th, 2014

進化論者は現存の鳥類が恐竜を起源とするとした進化モデルを提唱するが、古生物学者による発掘との間に矛盾が見られる。あひる、あび、ダチョウ、アホウドリ、フクロウ、ペンギン、イソシギ、オウム、鵜、ソリハシセイタカシギなど、現在する鳥類の化石が恐竜のそれと同様に発見されている。しかしこのような発覚した事実や詳細について、博物館の展示物などで確認することはできない。これは単なる無関心に由来するよりも、明らかに展示対象の恣意的な取捨に起因している。

 

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Modern Birds and Dinosaurs

 

 

Permission granted by Creation Ministries International Ltd, P.O. Box 4545, Eight Mile Plains, Qld, 4113, Australia. Creation Magazine vol. 34, No.3, 2012 on “Modern birds found with dinosaurs”.

creation.com/modern-birds-with-dinosaurs

生命を持たない物質から生まれる生命

Friday, October 17th, 2014

これこそ進化論者たちが知恵をしぼりながら試行錯誤を重ねるも、研究所の実験は継続されるには至らず、たとえ人間の知的創造力を結集しても実証が不可能なテーマである。その第一人者で、アミノ酸を生成させる一心で化学物質の合成を行ったスタンリー・ミラー博士が、化学的課程によって生命を創造するマジックを果たでなかったことがそれを物語っている。

この実験はおよそ「生きている」ことを証明せんと、試験官中で混ぜ合わさった原基の化学液体に電気的負荷を与えるような、映画フランケンシュタインを地で行くようなものである。この人為的なコントロールによる実験に、このハリウッドの特撮との違いは認められず、現実、生命を持たない化学物質は生命を創造または形成しない。生物発生の法則によると、生命は生命を起源とする。生を持つ何かが存在するなら、それは既に生を持っている何か別の存在から生まれたことを意味する。

コロサイ人への手紙1章16~17節の聖句を引用したい。
16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

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Life from Non Living Substances

この惑星上の生命にとっての偶然とは何か?

Friday, October 17th, 2014

生命とは偶発的な産物か?あるいは出鱈目な行動からのものか、それとも宇宙の事故か?人間が進化論をはかりとしながら要約発見し始めた生命について、あなたはその入り組んだ複雑さについて不思議に思ったことはないか?人間が果たしてきた技術の進歩が生命を再編、模倣、操作することしかできない事実に関心を覚えないだろうか?未だかつて科学者がゼロから牛を造り出したという話を聞いた事がない。

地球という惑星の試験官を通じて科学及び自然が人間を無から創造し、その結果として複雑な構造を持った私たちが存在しているという固定観念に縛られるほど、私たちは図らずも進化してしまったというのか?

生命が外的要因を介さず自ら生じた後、自らを進化あるいは存続させてきた確率についてあなたはどう考える?私には支持に値するだけの高い可能性があるとは思えない。

それはあたかも、解体された時計をタンブラーの中に放り込み、完璧に組み立てられ正確に時を刻む状態に仕上がってくるのを待つようなものではないか。あるいは適当にゴミ山を未熟で腕の無い職人を連れながらうろつき、ゴミ集積所に放置されたガラクタを組み立てて完全機能を搭載した飛行機を飛ばすように依頼する行為にあたるとも言える。

この概念が思い描き難い人には同じシナリオを実演させて欲しいと言いたいところだが、残念ながら今回はそのための材料を揃えていない。しかし実際行う前に既に結果は目に見えている。あなたにはそれが実現不可能であることは一目瞭然であるという確信の言葉が与えられていると私には断言できるし、その意見に心から同意する。

全ての始まりであり、永遠に持続する創造の根拠とみなされるに最も相応しい、神と呼ぶ創造主を支持したインテリジェントデザイン説を私は信じる。

 

 

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What are the chances for life on this planet?

神は知られざる方?

Friday, October 17th, 2014

聖書では、使徒パウロがマーズヒル(アテネのアレオパゴスの別名)において、信念の定まらない宗教派哲学者のアテネ人に対する防戦者として紹介されている。
ギリシャに滞在中のパウロは「知られざる神」に奉納された祭壇に気付いた。

パウロはこの重要な公共の場を利用し、外国の神の擁護と思しき彼の斬新な思想に疑問を抱く、ストア派およびエピクロス派の前で公然と語り始めた。

知識人の関心を勝ち取ったパウロのアプローチとは、彼らにとっては知られざる存在であったが、実際には「知り得る」お方であるこの神の啓示を伝えるものであった。

体験的知識に乏しいために神に関する哲学的現実を信じこみ、また神を知らないことを超絶巧みに論ずる不可知論に対して、反駁を展開する際の根拠をなすものである。

この徹底した不可知論的考えは神を理解できる可能性を一切否定するが、この立場は被造物が有限な存在であり、神が「知られざる神」であることの完全な確証を得る能力に欠けていることから、立証が不可能だ。

神の現実を断言するためにその方を「知られざる」と定義するだけの知識が前提となることからも、この立場が孕む皮肉がうかがえる。

これは無神論者が抱えるジレンマと同列に置くべきである。両者とも決定的な知識に欠けているゆえ、神の存在についての信念も神を知る力も疑わしく、完全な知者にはなれないからだ。

神は存在しない、あるいは神を知ることは不可能だとする主張は、無神論の場合と同じく、私たちが批評の対象とする説や信仰の域を出ない。せいぜい人間が現実に主張できるのは、神についてごく限られた識見しか与えられていないことである。これがこの方程式を解決する、唯一論理的な帰結なのだ。

聖書もこの主張と同じ立場に立ち、神に関する一般啓示に言及しながらこの考えを支持している。しかし現代において人を支配する霊が現代哲学的アプローチによる進化論の発展を促進し、この啓示の本来持つ純粋なメッセージを不純にしたり、あるいは薄めたりしながら、それを迎合的なものに作り変えている。

これにも関わらず、神の手の業は必要不可欠な機構および被造物の存在の根源であることが明らかにされる。この創造された摂理は昼夜において現れ、それは人の視神経の網膜によっても十分確認できる。この荘厳で息を呑むような素晴らしさから、被造物同士が調和を保つように、細心の注意を払いつつ計算高く設計されたものであることが明らかだ。まさに詩篇19編が言及するように、これこそ宇宙全体が共有する言語である。これに加え、ローマ書1章および2章では被造物の現実と、人間が先天的に備えている道徳心および良心の普遍性についての青写真を提供してくれる。相対論哲学の出現からの挑戦にも関わらず、この道徳的規則は若く幼い人間の魂や、人間が支配し治める社会において有効に働いている。

結論を申し上げると一般啓示は、人間の現実を認識させてくれる究極的な真理としての特別啓示を、私たちが会得し保持し続けるための先導役を果たしてくれる。

申命記4章29 節の聖句が、心を尽くし、魂を尽くして主を尋ね求めるならば、私たちが神に出会うという、真理へ到達するための原点を伝えながら私たちに奮起を促す。私たちは純粋な探求者となる必要がある。さもなければ私たちは似非宗教、カルト、そして神懸かりな人間への忠誠または崇拝に真っ向から挑むような、世俗的な哲学の罠に掛かってしまうだろう。

最後に、あなたが堅い信仰を持つような神聖な対象が何であれ、内省的な態度を大切にしつつ、神という概念に関わるあなたの信仰の目的および動機が何かをよく見つめ、自分の立ち位置について再吟味をはかることをお勧めしたい。

もしかしたらあなたにとって本当に知られざる事とは、あなたの心が渇望する知識を唯一知っている、その心自身の欺瞞かも知れない。

ある1人の知人を紹介してこの回を閉じようと思います。この問題について私が迫った相手は自分の神観に真摯に向き合い、ついにはある答えを出すに至った。私はその答えから、彼が誠実に神の存在を検証する準備や意思がなかった自分の罪を認めながら、自己同一を果たしたという確信を持っています。

 

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Is God Unknowable?

単細胞

Friday, October 17th, 2014

結論から言えば単細胞は単純な生命形態ではない。例えば細胞膜のような細胞内成分の1つを検証すると、生命維持に不可欠な濃縮された化学物質の流入および流出を制御・監視する機能を確認できる。つまり細胞膜がそのような体液の円滑な流れを、化学物質を詰まらせることなく促進・調整できる熟練した交通整理人であることを十分物語っている。

細胞は壊死を防ぐために、濃縮された化学物質の濃度が厳格に0.01 %以内におさまるように制御する機能を求められていることを鑑みると、この原理は天文学的に困難な離れ業であることが分かる。

化学物質が正常な濃度で同時に浸透しかつ適切な割合で分配され、さらにその後再生するなどという仕組みが、果たして考え抜かれた設計を抜きにして実現可能であろうか?これもまた目的に従って設計された神の創造を裏打ちする格好の例である。

 

 

神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

The Simple Cell

生命の原型

Friday, October 17th, 2014

地上の生命が藻類および菌類など、単純な生命形態に起源を持つと一般的には信じられている。しかしオースティンにあるテキサス大学の地質学博士、レオン享受によると、菌は3000から6000の成分で構成されさらに1秒に100万もの生命反応を起こしていることから、決して単純とは言い切れない。

結論を言えばこの分析は、無作為の要素を含む進化論的な偶発的効果という生命観を否定し、設計の業を示唆する目的論を支持する事例の1つである。

 

 

神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

The First Forms of Life

 

 

Leon E. Long, Geology (New York: McGraw-Hill Book Company, 1974) pg.172

地獄は本当にあるの?

Friday, October 17th, 2014

人は一般的に死後の霊が行き着く場として、地獄の世界を受け入れずに天国という現実を信じやすい。人は地獄という複雑な命題について論じ合うことを避けようとする傾向があり、また真剣に扱う際にも、そこには懐疑心が伴うこともしばしばである。非個人という考えに抵抗を覚えて地獄を否定する見解は、本来あるはずの個人的責任に対する無関心さが表面化したものであり、自衛本能メカニズムの産物あると言っても過言ではない。

さながら精通すべき責任を負いながらそこから逃れようと、知っておくべきことも「何も知らない」と強く言い張る、ホーガンズ・ヒーローズのシュルツのごとく恍ける人もいる。そんな弁解が司令官に通じるわけもなく、増してそれを以て全てを知り尽くしている神のみ前で無罪を主張することなど言語道断である。

一方、裁きという必然的存在を知りながらも、聖書主義的なキリスト教信仰から心を逸らしつつ沈黙し続ける輩もいる。彼らにとっては、その必然から一時的に逃避して場を凌ぐための唯一の手段なのだ。罪を前面に打ち出すTVの宗教番組に不快感を表し、まるで西部劇の「早撃ち」シーンを見て触発されたかと思わせるくらいに、目にも留まらぬ速さでリモコンを操りチャンネルを変える人もいる。

ローマ書2章14〜16節およびヨハネの手紙第14章18節などは、罪と裁きを忌憚なく語り、永遠の刑罰があることを知らしめながら、強烈な警告アラームとして私たちの神に対する良心を呼び覚ます役割を果たす。

アラームから逃れるために、ハッとさせるブザー音から気を逸らすにしても、あるいは苛立ちながら部屋の外めがけて放り投げるにしても、目を覚ますベき時が来たという事実を打ち消すことは不可能である。

私たちの道徳意識を呼び覚まし私たちを永遠へと導こうと、内なる心の声のごとく目覚まし時計が鳴り響く。人はこの衝動に対して無知を装うか、あるいは延々と重たく響くアラームの煩わしさを打ち消そうと必死に抗う。しかし私たちがこの人生を終えるまでこのチャイムが完全に鳴り止むことはないのだ。

永遠の苦しみと罪の宣告をもたらす、身の毛もよだつような場所として地獄を描く聖書に共感することに抵抗を覚える人々が、地獄に関する自分独自の考えこそ現実であると言って憚らない。

地獄の概念を一切抹殺するために地獄の非存在を訴えたり、また仮に地獄があってもそこに収容されるのはサタンかその子分である悪霊か、あるいはヒトラーのような悪魔的な人間であると語る。

この他、地獄を見くびり、その世にも恐ろしい様相を喜ばしい「ビッグパーティ」風の混沌にしか考えない人たちもいる。ある者にとって地獄とは、さほど深刻に考えるべきものではなく、煉獄のような苦しみと瞬時に肉体を消滅させる炎のちょうど中間的な領域である。

私は最近、天国と地獄という題材を、聖俗両方の研究者による証言に基づいた臨死体験から紐解こうとする趣旨のドキュメンタリーを見た。彼らは自分たちが検証あるいは質問の対象にした臨死体験は体験者の知覚に基づき、それゆえこれを死への先入観、および脳内麻薬による幻覚症状として一括りにすることはできないと認める。

世俗の研究者の1人が心理学的介入の可能性をも否定。死ぬ間際に地獄を夢想するにはそれが逆効果だからである。蘇生技術の発達に伴いこういった臨死体験のほとんどがその発生頻度を増加しつつある。因みにアメリカ人だけで臨死体験者が約1200万〜1500万人いるとも言われている。

解説者の1人によれば臨死体験者の多くが、キリスト教に入信しているという。なぜならそれを幻覚としただけでは説明がつかないためである。
世界を股にかけたインタビューによって300以上の症例について調査を行った者もいる。その結果によれば、地獄および天国に関する証言には一貫性があり聖書の描写とも一致していた。

ハロウィンという異教の祭りを見ると、多くの人々が死または地獄というものをその祭日そのものと同等に扱っている様子が伺える。この悪魔的な儀式の裏に潜む霊的な現実に気付くことも、また意識して注意を払わない人も少なくない。彼らにとって無害で楽しいゲームでしかないハロウィンも死のようにリアリティに満ち、さらにその背後に潜む悪魔的な要素が私たちの目を眩まし、「トリック」によってあたかも悪魔、悪霊、そして地獄というのはハリウッドか、もしくは聖職者たちによる産物と錯覚させる。

地獄が些細なものとして、しかも商業的に扱われるようになっており、それと時を隔てずに、もはや人間の心に取り憑く存在としてより、むしろ新しい役割モデルを持った病的な飢え渇きを掻き立てる存在として捉える必要が生じている。「ハリーポッター」はまさにその骨頂であり、ヒーローまたは慕われるキャラとして定着している。

これとは裏腹に、死後に関する知識を真剣に考えたいと願う者や、少なくとも興味を示す者もおり、この潮流を受けてある有名な本が出版されるに至った。「90分の天国と23分の地獄」である。

私が個人的に親しくしている友人のうち数名が臨床体験を持っている。そこで天国を体験したうちの1人の女性は、あまりの畏敬の念にうたれた驚きのゆえに、生き返ることを拒むほどであったと証言している。彼女は自分の夫に、彼との生活に戻る気を失った理由を理解してもらえなかった。はからずも、これと同様の証言が同テレビ番組に出演したインタビュー回答者からも寄せられている。
牧師婦人をしている私の別の知人などは天国を訪れ、そこでイエスと出会い彼と語り合ったと話してくれた。

霊的な事象に遭遇した当事者たち曰く、彼らの目に新旧約聖書に含まれている黙示文学を彷彿させる情景が飛び込んできたという。

さらに昏睡状態下にいた時の部屋の様子を事細かく説明していることも、このような臨死体験を裏付ける要素である。肉体を離れた霊体となったがために、部屋の外側についても詳細に描写し、さらに人知を越え、説明しようの無いような常軌を逸した物事を見たり体験したりしていたという。

世俗の研究者たちはこの問題について、どうやって人間の経験と認識の幅を逸脱した出来事に遭遇したかが理解できないゆえ、調査発見から結論が出せないでいる。すなわち、この超自然現象についてはまだ議論の余地があることを意味する。

死後の命への飽くなき探求心をもって、聖書はどのように地獄を語っているかを見ていこう。「地獄」という言葉に訳されたヘブル語の「シェオル」は旧約聖書に見られ、洞穴、くぼみ、そして自然の摂理である肉体的衰えを表すにも適用される。また死者の住まい、みすぼらしく曖昧な存在を表す言葉に使われる。

私たちがすでによく知られている肉体的な死のプロセスに限らず、かの研究者たちが明かす臨死体験者による生々しい霊的レベルの現実を紹介することが私の関心事である。

この問題について旧約聖書は、明確な定義と詳述を残す新約聖書に比べて、さほど多くの手掛かりを提供してくれてはいない。預言者ダニエルが死後の世界という概念の魁となる。ダニエル書12章2節にはこうある。2多くの者が塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

ここで死後に限らず「肉体的なよみがえり」について触れていることに注目したい。このブログでは詳しく扱うことはしないが、死者の骨を納めた納骨箱にその痕跡が残っているように、この復活がユダヤ人およびクリスチャンによって信じられていた。イエス自身が死から実る初穂としてすでに復活を体験されている。これこそ救いにおける最終的な業である。不思議な事にこれら復活した肉体は、人間の歴史が完全に終わりを告げる時点でこの世から離れ、ここにクリスチャンの信じる贖いが最終的な結末を迎える。

とにかくダニエル書に話しを戻そう。ここでは新たに「永遠」の命と「永久」の侮蔑が対比されている。無上の喜びに満ちた永遠の住処を思い浮かべるのは簡単だが、この永遠と永久という類義語を一方にのみ偏って適用すれば、この聖句と2つの概念との間にズレが生じてしまう。

旧約聖書時代の社会では「シェオル」が義人と不敬虔な者が、深い淵を隔てた状態で住まう住み家と理解されていた。一方がアブラハムの寵愛を受ける義人の居場所であり、もう一方が苦しみに満ちた場所として描かれている。福音書中のたとえ話で紹介されているイエスによる申し分ない描写は、このブログで後ほど扱う永遠の居住地について、限定的に触れている。

出エジプト3章6で神が自らをアブラハム。イサク、ヤコブの神であると称していることに絡み、マタイによる福音書22章32節ではイエスが神は生きている者の神であり、死んだ者の神ではないと宣言している。ここからも明らかなように旧新約聖書からは死後の命を示唆する、副次的な手掛かりを得られる。それによれば私たちは肉体的生命の限界を越えたところで存在し続けるのだ。

また第2列王記に代表されるように、旧約聖書では神が人をその死亡時に、先祖の数に加えるお方であることに言及する。
第1サムエル書の中に、預言者サムエルが地中の眠りからよみがえりサウルと対話する場面が登場。

永遠の命に与る者たちが記される「命のリスト」と、そこに記されないか、または削除されて永遠の滅びへと定められる者を記載した「破滅のリスト」に関する言及がある。詩篇69節28節、出エジプト32章33節、ピリピ書4章3節、黙示録3章5節、13章8節、17章8節、20章12〜15節、21章27節など、旧新約聖書の聖句を参照していただきたい。

地獄および義人の住処という概念について、新約聖書はその表現の豊かさという意味で進歩している。それはルカによる福音書16章19〜31節の「金持ちとラザロ」の喩え話からイエスが示す、死後の暮らし場所の全体像に裏付けられるだろう。

金持ちの男とラザロは、往来ができないほどの大きな淵を挟みながら、全く対照的な環境の中で暮らしている。平安と慰めを得ながら居心地良い場で暮らすラザロに対して、金持ちの男は苦悩、渇き、そして容赦ない業火に悶えているように、場所同士の濃厚なコントラストがその話しの中で浮きぼりにされている。

他にもイエスもしくはその使徒たちが叙述する地獄に該当する言葉があり、それが新約聖書中のハデスおよびゲヘナである。マタイによる福音書3章12節では永遠に燃え続ける炎として、同じくマタイの福音書8章11節では追いやられて泣き叫び、歯ぎしりする暗闇として描かれている。マタイ13章は燃えさかる炉、マタイ18章8節は永遠の炎、テサロニケ人への手紙第2の1章9節は絶えず続く破壊、黙示録14章10〜11節は延々と起こり続ける苦しみ、黙示録19章20節は燃える硫黄の湖、そして黙示録20章10節は昼夜を問わず常に人を苛む苦悩として、地獄を定義している。

クリスチャンまたはユダヤ教に認められた正典内には煉獄という概念は登場しない。
またヘブル書9章27節において、人は一度死んだ後に裁きを受けることを明言する聖書が、生まれ変わりについて教えることはない。また聖書は死の瞬間に現実として訪れる霊的状態を、肉体的復活とすり替えかねない「霊の眠り」教理を否定する。コリント人ヘの手紙第2の5章8節によると、肉体から離れることが主のもとに住むことを意味するからである。

臨死体験下の人々が即座に向かった先は無の状態ではなく、むしろ天国もしくは地獄と表されるような場所および情景であった。さらに霊体が備わっていたという彼らの一致した証言があるし、こちらの世界に戻って来た体験者は肉体的な再生を遂げたわけではなかった。

私たちが地獄に関わる聖書的説明を受容できない大きなわけは、私たちの神に対して抱いている誤解にあると考えられる。神が完全に善なるおかたであるなら、人々が永遠に苦しむことを神が是認するなど常識的にあり得ないと訴える者がいる。そして人がその罪に関わらず、それを購うことすら厭わない神の憐憫によって無償の恵みとして私たちに永遠の命が与えられることも同様に信じ難いのである。

本来の地獄とは悪魔とその使いのために用意されており、人間を収監する意図はなかった。しかし神の敵を自認している人々に対しては、マタイによる福音書25章41節にあるように地獄への道を辿ることが定められている。神が堕天使の群れを保護する意思を持たないとすれば、それよりも僅かばかり劣ったものとして創造された私たちが同様に神への反逆心をむき出しにすれば、順風に暮らせるはずがない。

私たちが神無しに生きることを人生の指針に据えるならば、私たちが自分の望むことを適えることはできないし、この願いとは裏腹な体験をこの人生を越えた先にある世で味わうことになる。今の現時点で神の影響下にあることを拒むのに、将来において神が自分の人生に優しく干渉してくれることを欲するのは馬鹿げている。

この臨死体験にスポットを当てた半宗教半世俗的な番組がことさら執心するテーマは、人の生き様はその死に様に現れ、塀の向こう側の現実に反映される。悪魔の統治は神の支配とは真逆に位置する。神は光であり、地獄は闇である。地獄は苦しみに満ち、天国には苦しみの立ち入る隙が一切ない。地獄が憎しみに満ちる一方、神は愛である。天国は平和の満ちた領域、地獄は暴力、悩み、苦痛の満ちた領域。

ローマ書1章21章で指摘されているように、自らの創造主として神に畏敬と感謝の念を払うこともせず、天国の恩恵に与ろうとするのは実に滑稽である。神を宇宙の娼婦として扱い、その関係に対する責任を逃れ、さらにはその責任を神自身に押し付けながら、ただ私たちの自己満足のために神を利用することが許されるのか?

神が支配および臨在する御国から離れ、神への不敬に身を委ねてこの地上での生活を歩む人間が、なぜ生涯かけて否定してきた神とともに天国で住まおうなどと考えるのか?望めば容易に手が届く選択肢があったにも関わらず、その時点における自分の立場や運命についてなぜ神を責めるのか?マタイの福音書11章28〜30でイエスはこう言って私たちを招いている。「28疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得られる。30私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

地獄への道に定められるのはどのような人々か?死刑囚檻房内の囚人、連続殺人犯、強姦魔、または幼児性愛者など、社会のゴミとして片隅に追いやられる連中だけがそれに該当するのか?彼らもその一部かも知れない。しかしマタイの7章13~14節で語るイエスが想定する聴衆の規模ははるかに大きい。「13狭い門から入りなさい。滅びに通じるもんは広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
黙示録21章8節は地獄を臆病者、不信心者、不道徳者、殺人者、性的不品行者、魔術を行う者、偶像崇拝者、偽証する者が行き着く、燃え盛る硫黄の湖であると定義している。

コリント人への手紙第1の6章9~10節では、以下のように別の地獄行きリストが紹介されている。9正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10泥棒、強欲な者、酒に溺れる者、人を悪く言う者、人の者を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。11しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

このみ言葉は私たちが犯す罪過をも巻き込みながら、ある逆説を示している。地獄の居場所を確保するような下劣で悪徳な行為を逆手に、神の裁きが麗しい贖いへの昇華を見せている。もはやこれらの者は神の赦しによって栄光に満ちた姿に変えられ、依然のライフスタイルを改め新しい生活を始めることができるのだ。

神の義を犯してしまっているがゆえに境界線を越えられないと感じているあなたには、ローマ書6章23節を読んで私たちの立ち位置を確認していただきたい。この聖句では罪は分類されていない。つまり、包括的にまた宇宙規模で考えても義人は1人もいないとすれば、罪とは人生の方程式内にある公分母であることが理解できる。

私たちは自分の罪過を小さく見積もり、それに伴う結果をも過小評価しさほど重大で致命的であるとはみなさない。他人の山積した罪に比べれば自分の「手違い」の小山が小さく見えるかも知れないが、他人の些細な「事件」を基準にすれば、その小山は克服し難いほど巨大なものである。

罪の大小に関わらず罪であることに変わりはない。1円玉1枚を盗んだ者も1000札1枚を盗んだ者も、両方が盗人である。1回嘘をつくことも100万回嘘をつくことも同じ嘘つきのレッテルが付く。他人と比較することで罪の程度を小さく見せようとするのが私たちの本性だ。

最後に言わせていただきたい。いかに聖なる神に対して自分の「称賛に価する行い」を誇示しようとも、全宇宙の裁き主である神は人の心と思いとを全て見抜いておられます。あなたは自分の行いだけを通じて自分の義を積立てることはできないのです。聖書ではイザヤ書64章5節にあるように、私たちの良い業が生理用品のような汚れた布切れに準えられています。私たちの善行だけを頼りにすれば、神の御国に存在して住まうことの神聖さを汚してしまう恐れがあります。神の観点からすると、罪には大きく2つの領域が存在します。1つは堕落した世界、そしてもう一方が地獄であり、もし罪を洗い清めなければ、汚れた洗濯物を天国に吊るすことは断じて許されないのです。

決して侮辱するつもりはありませんが、ただイエスはこんな「薄汚え」布切れのために死んだのではないことを覚えていただきたい。イエスが受肉し人となることの目的は、人を代表し私たちの代わりにその罪責と罰とを引き受けることにあったのである。仮に私たちがその甲斐性や長所によってのみ天国への切符を得ることができるなら、ガラテヤ書2章21節に書かれてあるように、キリストが無駄に死んだことになります。ヨハネによる福音書3章18節によれば、神を敵対視する不敬行為に該当するのは罪を通して神に背くことのみではなく、その深層には神の一人子を拒絶し、救い主による神の救いの贖罪行為をも遠ざける態度も含まれます。

私たちが犯す罪のうち最も重大なものは、イエスによる申し分なき有効な供物と対して、神の前で私たちの行いを「旨味のある」供物としてひけらかすことである。イエスの犠牲的な奉上物だけが完全に神の義を満たすものであり、それ以下については全て聖なる神の目には不愉快な物としか映らない。エデンの園における「些細な」不従順的行為が人類に「甚大な」悪の洪水をもたらすことで、人間全てが呪われてしまったことを忘れないでいただきたい。アダムの「ミス」と比べて自分の罪過をどう計りますか?「超重い」ですか、それとも「取るに足らない」ものですか?判断してみて下さい。

さて、話題を地獄に戻しましょう。聖書のテキストを嫌い、それを否定する多くの人々は、その内容を比喩的に解釈することで、実践が困難な適用を避けようとする。

しかしイエスは、全ての切断を上回る究極の切断を意味し、何があっても避けるべきである地獄の現実を伝えようと、敢えて大げさに誇張しながら地獄について語った。マタイの福音書5章27〜30節を参照していただきたい。

身体の一部を失うよりも大きい苦しみが伴う霊的報いの重大さおよび深刻さを、文字通りに語る。それにも関わらず、この聖句が示す厳しさゆえに、多くに人々がこの箇所を字義的に解釈したがらない。もし地獄という現実が存在しないのであれば、イエスは軽々しくこんなことを言うはずがない。

最後。地獄への恐怖ではなく、むしろ「愛」こそが神への従順と服従の動機となるべきであることを再確認したい。
私たちには畏敬の念と愛に満ちた称賛の心とを併せ持つバランス感覚を大切にする必要がある。神を分かりやすく喩えると、さしずめ天国の親と言い表すことができるのではないか。その親は自分の子どものためなら自身の命すら犠牲にする。子は親の躾の手に掛かるが、それは健全であり続けさらに成長するためである。その管理責任が親としての「神」に帰されるのだから。

この手の先には慈愛に満ちた神のみ腕が伸ばされ、あなたを守り安全を保証してくれる。この手と腕を絶妙に働かせながら神は子を適切に訓練するのだ。もし正しく子を扱えば、子が神の手に敵意を抱くことはなく、むしろ警告を発しながら制止を促し、自分を救いへと導いてくれる存在と認めるはずである。

親を心底愛し信頼する子はこの関係を理解し、神の手が上がった時にはその忠告を素直に受け止める。自分を丸ごと抱きかかえる愛のみ腕によるものと悟っているからだ。

我が子が道路にとび出し走行中の車にぶつかろうとしている時に、何も言わずまたは何もせずに、ただ平然と眺めている親がいたとしたら、親として大罪を犯していると考えるのが普通だろう。それでもなおあなたの永遠の魂を守るために、わめいたり叫んだりしながら必死にあなたの注意を引こうとする神を蔑ろにするのか?神の「止まりなさい」という怒鳴り声にただ怯えたり、あるいは子供騙しとして軽んじたりする理由は?

子は警告や自分を案ずる親の声に疑問を抱かない。そこで私たちも地獄について警告を発し、悔い改めを必死で促す神の声をどのように捉え、そしてまたどのように応答するかが問われているのだ。神は時に私たちの注意を引こうと呼ばわり、いやそれどころか叫び立てるお方なのだ。その声に耳をすまし、私たちを愛している父と認めて信じてみてはいかがか?

このブログを閉じるに当り、神との関係の築き方を紹介させていただきたい。これが理解できれば救いの成就、および神に自分の命を委ねる方法についても明るくなるでしょう。プロセスは至って単純ですが、私たちの視野と実践に深遠な影響を与え、人生に転換をもたらすのです。

どうか信じて欲しい。私も20年以上前に同じことを経験し、もう2度と悪魔を喜ばす偽りの人生に戻る気はありません。あなたが死後に選ぶ人生とはどんな人生でしょう?死後に命を得るか、それとも命の後に死に至るか、あなたはどちらを選びますか?罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエスキリストによる永遠の命なのです(ローマ書6章23節)

 

 

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Is Hell Real?