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私は誰で、どうしてここに?

Saturday, October 18th, 2014

「私は誰」や「私の人生の目的は何」という声に傾聴する時、この問いに対する根源的な回答は個々の精神に宿っていることが分かる、先天的本能が私たち人間の存在に関わる真の性質について各々の良心に訴えるのだ。だがこの自然に生じる認識論は欺瞞の定説を提示しながらの緻密な詭弁によって、都合良くかつ自分勝手に差し替えられてしまう。片や科学者連中は人間の非物質的な存在や魂に懐疑心を抱きつつ、それに取って代わる自然主義的な定理を示すことに精を出す。こうして全能なる起源へ向かう原初的本能に従う代わりに、それとは異なる自衛本能を働かせ自分自身の偶像を崇拝対象として選び、物質主義的な存在論という偽りの神に忠誠を誓い、その足下に跪く人々は後を断たない。だが科学から有効かつ妥当性のある回答が得られていない問題があることに注目して欲しい。宇宙が意思も行動力も持たないのにその中に何かが存在している理由は?またパズルを仕上げる資質に合わせて先見と知性という特権に与り、あたかもこの世界の筆舌し難い不思議の発見を目的に分別と理解力が与えられ、認識力による悟りから理性的に判断できる存在としてなぜ人間が選ばれたのか?科学からはこれらの問いに対する回答が得られていない。皮肉なことにその機知すらも誤謬を犯す人間によって乱用されるというジレンマが残る。このことが本能が伝える知識を抑圧し自ら偽の世界観を編み出しながら、創造者である神に楯突く人間の悪癖に拍車をかけているのだ。こうして否定し難い神の栄光の偉大さを示唆する、無限および無制限の力を示す確認可能な現実を歪め、意図的に自らの可能性を制限しているのである。私はこのデザイン(目的論)モデルの詳細について以前筆を取らせていただいた。是非そのブログを訪問し、非人間的で無作為な偶然を支持する仮説に異を唱える、至高の知的主体の存在に気付いていただきたい。

命は偶然?

ローマ書1章18〜25章
18神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。19なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。20神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。21なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。22彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、23不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。24ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。25彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アーメン。

ニーチェこそ人を神の抹殺へと駆り立てる、醸成された反抗的な怒りの持ち主の代表例である。彼は感情の赴くままに自らの哲学を誇らし気に語り、人間は自分で自分の生きる道を切り開かなければならないとする乱暴な個人主義への自己発心を焚き付け、その追従者たちに解放という救いを信じ込ませようとした。そのような自己確信に満ち一見説得力がありそうな彼の言葉は、引用されやすく中身のない修辞学的な戯れ言に過ぎず客観性に欠いた、主観的かつ盲目的に飛躍した信仰からの反動的な告白である。皮肉にも彼は不慮の死に苛まれながら絵に描いたような人間の脆弱さを露呈し、言い伝えられているその頑健さの信憑性が疑われている。

講壇を引き継ぐもう1人の人物ジャン=ポール・サルトルは人生を不合理なものとし、もし人生に意味があるとするなら人はそれを自分自身で導き出さなければならないという実存主義を提唱。彼によると、人間は自律的で絶対的な自由を保持し、自分を知りどう進化するかを見定めつつ、自分自身の本質を個人的な選択によって断定しなければならない。こうして人を主観の枠内に封じこめ真に孤独であることを宣告するのである。しかし人生の意味と参加意義に対する解決法として促されたはいいが、結局提唱者であるサルトル自身も確信が持てなかったこの理想主義を見限り離れていった者は多い。

恐らく意味なき人生という虚無主義的価値観を瞑想しながら生きた挙げ句、自分の死に直面し叫喚と恐怖の中で最後を迎えながら現実感を取り戻し、苦悩と死に関するハイデッガーの信仰に疑問を抱いたのだと思われる。まるで命題に無い現状に直面した時、人は有神論が理性的であるという確信を改めて抱くことを示唆するように、そのような時間の短さから人は素直で正直な姿を曝け出す。余り知られていない事実だが、サルトルは死の床に伏しながら人生の集大成として最後に以下のような告白を残して凱旋の道を踏んだ。「私は自分自身を偶然の産物とも宇宙の微塵とも思わない。むしろ期待と周到に準備、そして青写真を持って生まれたのである。つまり、創造主だけが現存へと引き出す事の可能な生き物である。創造の手という概念から神の存在が明らかになる。」 この考えは「し尽くし見極めた」挙げ句に得た知恵と人生経験を集約して語ったソロモンによる結論につながる。

コヘレトの手紙(伝道者の書)12章13〜14節
13 すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
これこそ、人間のすべて。
14 神は、善をも悪をも
一切の業を、隠れたこともすべて
裁きの座に引き出されるであろう。

知性に恵まれたニーチェであったが狂人として人生の幕を閉じた。一方視力を失ったサルトルは「善い信仰」に出会い、「悪い信仰」と彼自身が名付けたものへの以前抱いていた盲信を撤回し、理論武装による防衛権を放棄して武闘派無神論者の革命運動を離れた。彼は武装解除しながら自らが初めからずっと間違った敵と戦ってきたことに気付いたのだ。

このように無神論を支持する自作自演の巨人および先駆者たちは行くべき道を明確にし、盲人が盲人を導くように仲間を道連れにしながら神から離れていく。この道をひたすら突き進みながら出口の無い人生のジャングルを彷徨い、やがて幻滅を覚え混乱し、さらに喪失に陥り剥奪されて自分を見失っていく者がいる中、一方で、ある者はその先には断崖絶壁しか無い事に気付き謙虚に足を留め、どうしても退避せざるを得ないと判断し走りながら引き返す。そして自分がそれまで正当な理由も無く心底嫌い拒絶していたお方を受け入れ崇めるに至る。

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最後に、自立的な自己定義をはかっていただくために、人生に関わる人間性の問題を省察するための助けとして、解毒剤の概念を用いた例え話をしたい。あなたがこのような自己同一の危機に関わる致命的な病気に罹ったと仮定した場合、果たして一見病気を扱う方法としては好ましくなく思えても、真に効果のある治療法を望みますか?それとも偽薬による心地よさがどういうわけか奇跡的に力を発揮し、あなたをこの致死的なアイデンティティ危機から救うことを夢見ながら、快適な偽薬療法で自分の意のままに病気を治療するだけで満足を覚えますか?糖尿病患者でない方の人生には直接関わることではないが、このジレンマに直面した人々はPhDを根拠に「全てを知る」診断能力を誇りながら、不遜にも適格に自分自身を治療できると信じる。しかしその実、彼らは自分好みの哲学または宗教を選びながら薬を処方する偽薬を用いた医療過誤者あるいは偽医師でありながら、全てが相対的であることを理由に深刻な問題として扱わない。彼らにとってはむしろ、人生の個人的な意味や価値を提供することで、あなたを満足させることができるかが問題なのである。このようなアプローチはどこか温かく曖昧で受け入れやすく聞こえるが、あなたの治療法が毒であることに気付いた時に、実はそれが口に苦い薬であることが判明する。

終わりに近づいて来ましたが、もし私の意見に挑発と悪意を感じているならこの場をお借りして謝罪させていただきたい。私はただあなたに真剣かつ批判的な眼差しを持っていただき、あなたのアイデンティティは相対主義的な「自由参加」によって決定されるのではないことに気付いて欲しいだけなのです。あなたの存在理由から人生に対する責任感が生まれます。それには不死を装った過去の人物およびグルたちの遊興じみた気ままなシナリオではなく、肯定的かつ真の自己同一が要求されるのです。彼らは自分に備わったカリスマや才能を悪用し、不思議な見せ物によって信頼を得ることで催眠術的な自己陶酔に浸る情熱に取り憑かれながら、聴衆を刺激と魅惑の渦に巻き込むのです。しかし実際のところ、彼らは人間が作った劇中に個人的判断で登場させた役柄を舞台上で演じているに過ぎません。不幸にもそのショーの主人公が舞台を去りそのショー自体も閉幕し、さらに終演後のスタンディングオベーションもなく彼らが再びステージ上に現れることもない事実に、多くの人々が気付いていないのです。私はあなたに問いたい。その劇場から立ち去るのか、あるいは同じ劇の再演もしくはそれに次いで出来の良い作品を待ち望むのか?

とにかく真の探求者ならば現実と真実が招く方向へと向かいながらそれらを徹底的に突き詰めようとするはずです。たとえそれが当初彼らの望まない方向であったとしても。あなたが誰であるかについて私が理性をもって信じられる答えは、死んでしまった哲学者たちではなく生きる永遠の神によって定義されます。このブログを閉じるに当たり、この追求の旅のスタート地点に立とうとしておられるあなたに是非お勧めしたいことがあります。神との調和のとれた関係を通して再現されるとおり、聖書は主を信じることがこの知恵の初めであると宣言します。その聖書を熟読し思索してみてはいかがでしょうか。ご自身の栄光のために何にも替え難い目的というDNAを埋め込み、秩序をもってあなたを創造した天の父によって、あなたは健全な自己同一を回復し心の空虚感を埋め尽くす事ができるのです。

エレミヤ書29章11節
11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

 
神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Who am I and why am I here?

 

 

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神とは誰か?

Saturday, October 18th, 2014

確かにこれは私たちに与えられている問題としては大変重要なものの1つである。この神に関する認識のあやふやさにつけ込んで回答を提示しようとする宗教およびカルトが、この世界には非常に多く混在する。この課題の出現を受けて、私たちは全ての神観が等しく有効ではないということを確認しておくべきである。もしあなたに比較宗教学を学んだ経験がおありなら、神論において妥結不可能なほど大きく対立する宗派があり、納得のいく解決が得られないことは十分お分かりいただけるだろう。この場合、一方が正しくて一方が間違っているか、あるいは双方共に誤信しているかのいずれかであり、理論的な整合性から双方共に正しいとすることはできない。

東洋思想では混交主義および多元論的価値観が重んじられ、各支流が同じ真理の貯水池に至るように、全ての道が同じ現実につながっている。しかしこの度を過ぎた単純化はこの分岐を評価するという意味においては不実であり決定打に欠ける。むしろ1つの神観の貯水池から溢れ出た水が文化的背景を基に新しい水路を切り開き、そこを流れる過程で希釈および汚染されていくという喩えが適切である。類似した宗教の核や本質の部分を辿れば幾つかの共通項があるいは見つかるかも知れない。独立した1つの宗教でありながら他との共通性を認めるということと、キリスト教を仏教と同一化することとは別次元である。これを花に置き換えて見ると、有名な言葉にもあるように「飽くまで薔薇は薔薇(その本質は変わらないという意味)」であり、薔薇が菊になることはない。同じ神を別々の宗教的テーマのもとで解き明かす行為は、各宗教の独自性を崩しその宗教的世界観を非現実的かつ非個性的なものに貶めることになり、したがってお互いに根本的な違いがあることをここに認めなければならない。

たとえばもしもあなたが神の性質を特定しながら、ただ一つの定義と根本的原則を宗教に対して当てはめようとすれば、無神論、アニミズム、汎神論、多神論、有神論、理神論などに基づいた、数多くの目的論的相違に直面するだろう。

伝統的仏教に見られる無神論や古典的キリスト教信仰の代弁者たちによる有神論は、神観について相手との折り合いがつかず互いに排斥し合う。また悪魔崇拝はキリスト教とは真っ向から衝突し、キリスト教信仰において神聖と思われているものを徹底的に汚す。冒瀆的な黒ミサを開き悪は善であり善は悪魔などと告白しながら、人間の価値を貶める行為にその極みを見る。

類似性を説き宗教家たち全てが別々の宗教的主題に基づいて同じ神を崇拝していると考えたくなる気持ちも分かる。しかしこの道を正しいと考えあるいは語るのは、神を定義する上では理に合わないこの平等性の正体について、誤認あるいは看過していることの証拠である。ここでは人間について論じていることは分かっている。だが”類似点”に焦点を合わせた場合、身体の大部分が水から成っていることを鑑みると、私たち人間はその体質においてスイカと多くを共有していることが分かる。たとえ私たち双方が共通の起源を持つ生命体であるとしても、独立した物質として私たちをお互いから区別する相違点が間に存在する。例話にスイカを持ち出すのは馬鹿げてはいるが、宗教全てを調和させようとすることもそれに劣らず非現実な試みである。

私は宗教間に認められる幾つかの類似は、私たち全人類がある特徴を共有していることを示唆している。より具体的に言うとおそらく1つの神が存在し、その神が全ての人間をご自身の属性を持つ似姿に創造したゆえ、人間には普遍的な価値が認められるのだ。神という存在を一神論的に捉えようとすれば、そう考えた方が妥当ではある。だが遺伝子と知識を共有していることが必ずしも、人間が同じ神、あるいは神という概念を崇めることにはならない。聖書によればそれは人間の性質が堕落していることに起因しているが、この問題については新たに論じる必要のあるテーマであり、この投稿では割愛させていただく。

聖書的観点から言えば、私たち人間は知性をもって世界に鏤められた一般啓示から直感的に神を知ることができる。なぜなら私たちには良心と呼ばれる道徳的センスと、神についての包括的なメッセージを語り伝える被造の摂理を捉える認知能力が備わっているからだ。しかしローマ書の著者は、人が嘘っぱちの哲学および宗教に傾倒し不義に身を委ねながら真理を抹殺することでこの知識を蔑ろにしていると、その中の1章18節〜2章16節で忌憚なく語る。彼の発言は実に共感し得るものであり、まさに科学者、心理学者、そしてユダヤ・キリスト教的思想を持つ社会主義社に散見される傾向である。もしかするとこの世界の見事な調和や、人間が持つ精神の緻密さにつながる目的論を投影した圧巻のステージに最も近い場にいながら、その裏付けとして神の存在を認めようとしない輩がいることに、驚きを隠せないのである。偏見からの反抗に伴う思惑には、全ての事象を自然主義的に説明付けることに固執する私的な固定観念によって、人が新たな発見への敷居を跨げなくするような力がある。彼らは神という概念を形状学的な迷信の世界に歪曲しながらそれを信仰だと言い張りながら、二枚舌をもって熱く饒舌に説明の付かない仮説を真しやかに語りながら一方では神の概念を嘲っている。例えば私が臨死体験を扱った番組を見ていた時、その番組の最後にその制作者が番組を通して何を意図していたのかが理解できた。彼らは人々から死への恐怖を取り除こうとしたのだ。だが彼らは地獄を体験した人々が存在することについて説明できず、それは少数派または異例の体験として片付け、結局その放映時間の大半を天国の体験者ために割いていた。また彼らはそのような体験を脳内物質の分泌に帰そうと試みたが、自分たちの理解を越えたケースの体験者については回答を出すことが出来なかった。つまり、症例者が体験時に脳死状態であったにも関わらず自分の周囲を認知できていたケースや、盲人が初めて物理的実態の視像を持ったケース、さらに何の社会生活の経験も持たない幼い児童が自らの能力の幅を越えた内容について語っていたケースなどである。

人が科学のように、最も禁欲的な勤勉さを要求する学問からの偏見に屈してしまうなら、なおのこと哲学や宗教に関わる抽象的な概念によって欺かれやすいことは言うまでも無い。

人間には限界があるにしても、もし自らを内省しその動機を吟味しながら神への探求を始めることで幸先良いスタートに立つことができる。祈り心と謙虚さをもって神を尋ね求めるなら、パズルのピースが繋ぎ合わさって現実を映し出す1つの絵が浮び上がり、より鮮明な像を得られよう。

Josh McDowell

さらにもしあなたが躊躇わずに答えを掴もうという誠実な心でこの探求を始める気になれば道は開ける。あなたが自分の人生を委ねるに値するお方として神を信じることができるように、神は現実感に訴える形であなたに自分自身を顕されることを、私は確信しています。ここまで論じた結果私が思うに神こそご自身をあなたに顕し、そしてあなたが神を見出す事に関心を持っておられる。これは隠れん坊のようなお遊びなどではなく、神は自らの被造物との間に愛の再現を通じて成就する、親密な関係の構築を切望しておられるのだ。母が子に見せる世話と養育の行為に反映されるような、私たちに与えられている人間愛という賜物からも、そのことは容易に想像がつく。それは正に私たちのお母さんを創造した、愛なる神に帰属する人格の縮図である。

このブログでは出来る限りキリスト者としての主観を挟まずにおこうと務めているのだが、自らの信仰を前面に出さずにこの主題について深く踏み込んで論じることに限界があるようだ。しかし人はどこかで自らの模索を始めなければならないのだから、あなたには世界最大の宗教母体が依って立ちその信者の世界観の土台となっている、一神論的の見方をぜひ検討していただきたい。いずれにしても、あなたが他の宗教観との比較に取り組む際にはこの見解が1つの評価基準となるだろう。キリスト教界の株を上げる点については枚挙に暇がないが、その卓越性を可能ならしめている要素を1つ挙げたい。それは抽象的な宗教的思想に留まらず、私自身を含めその人生が劇変した甚大な数に上る人々の経験的な裏付けを持つ現実性である。

イエスについての私の証し
www1.cbn.com/700club/episodes/all/amazing-stories

キリスト教を考える上でもう一つ触れておきたいことは、不実には必然的に厳しい結果が伴うとする、誠実という価値観構造を原則として重んじている点である。それゆえたとえ偏見があってもそれは真理によって是正されるのである。とにかく学びを始める上で格好のキリスト教webサイトを幾つか紹介する。これらには他の宗教やキリスト教信仰に挑む哲学との比較検証にも役立つ豊富な情報も提供されている。

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またそれらに加え、文学、歴史、考古学、そして科学上の疑問について、信頼ある学びを行う上で有効に活用できる補足的資料があることを申し添えたい。このような問題に興味のあるかたは以下の私のブログへどうぞ。

日本人

この課題に対して各々の宗教的イデオロギーは独自の表現形式を固持しながらのぞむが、それら全てが正しいことはあり得ず、したがって必然的にいずれを選択することが不可欠となる。また真理とは私たち人間の移ろいやすさに支配されないゆえ、私たちが自分自身の要望にそうものを無作為に選び出すことは許されない。そうかといって私たちが至高の現実に対する意識を断ち切れない理性の生き物として、責任ある立場から退っ引きならない立場にある以上、私たちは現実逃避や懐疑的な不可知論を押し通す事もできない。

神とは私たちが深く掘り下げて語ることの出来ない、知られざるお方であるという考えは、私たち人間をその実像とは異なる全知なる者とみなす考えに等しい。

かといって逆に全てを理解する事を促しているわけではなく、同じ理由からそれも誤謬とされるべきである。しかし少なくとも、現在あるいは未来において神について何かを知ることができるという主張に関しては的を射ていると言える。

もしあなたがどうしてもこの冷笑的な姿勢から転向できないと言うなら、自らの人生の他の側面に対しても同じような懐疑心を向け続けるおつもりか?あるいは先を見越しながら何かを注意深く選ぼうとしている最中か?

このような辛辣な発言でこの回を閉じるのは申し訳ないと思いつつ一言。もし神が「いる」ならその事実を心に受け入れ根付かせる必要がある。特に神が私たちに命の息吹を与えたとしたら、私たち人間を特徴付けるための、何にも替え難い重要な資質となるからである。

エレミヤ書29章13節
13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。

 

 

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Who is God

進化の証拠

Saturday, October 18th, 2014

ある被造物がたの被造物へ進化を遂げたことを示すような大進化が起こった形跡は何も存在しない。

自然淘汰による種の起原を提唱したダーウィンすらその自著の中で、ある種が他の種に変異したことの証拠は存在せず、そのような変異が起こったかも定かではないと結論付けている。もし仮に起これば有益な結果を残すことになるというのが、彼の理論の大前提であるとダーウィンは言葉を続ける。

この件については、様々な科学的背景から種形成の仕組みについて議論するために、1981年ローマに集まった著名な進化論者たちの間でも決定的な結論が出なかった。

この会合に参列したハーバード大学名誉教授のアーネスト・メイヤー博士は、種形成の過程で遺伝子学的な出来事について検討がつかないことを説明し、慚愧の念に堪えないことではあるがそれを真実として受け止める以外ないと締めくくった。

想像性に富む芸術作品を通して色鮮やかなアニメーションを生み出すクリエイティブな才能を持つ者がいる。彼らは過去において想定外に同時発生した出来事を描く。化石化した骨の残骸の研究を専門とし、化石学の預言者と呼ばれるような人たちも存在する。彼らは科学界において、過去の偶発的出来事の断片を組み合わせることに長けたグルとして崇められている。

このようなカリスマ的人物は自らのハリウッド制作会社を自分たちの主催する世界的会議のために開放し、真理であると推察する内容に基づいて進化論哲学者と信仰芸術家たちが共同で別種の宗教的な仕組みへと発展させ、テキストという講壇から無謬の科学として持説を語る。しかしこの自然主義的哲学の宗教運動は実質、自らの専門分野の博士号を傘にして無知な人々を傾倒させようとする無神論的なアジェンダである。聴衆に対して提供すべきは飽くまで見解の教理に限られるべきであるはずだが、実際には人を洗脳して、学問によって欺瞞に塗り固められたカルトへと人を誘導しようと試みている。

絶滅した動物の僅かな片鱗を採取しそれを組み合わせる行為は一つの科学的営みであるが、ある種について説明するために他を適用し、自らの持論全体に摺り合わせようとするのは全くの御門違いである。科学が証明出来ることは同種内で微かな違いが生じたことや古い生物形態が淘汰され死滅したことである。自然淘汰を通して進化した、別の優性種である新型の生物が生まれたことを科学は証明出来ない。類似種が存在するからという理由で、それが進化を裏付ける証拠とはならない。その類似性から断定出来るのは、特定の化学物質を伴う地上の環境および食物連鎖下で動物たちが共存できるように、彼らに組み込まれた共通の要素が存在することである。

進化論には体系的理論として認められるだけの連結性に欠けている。それが社会を馬鹿げた進化論革命に巻き込み、神を空想科学小説に取って変えるように人を誘惑する要因だ。

 
神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Evidence of Evolution

 

 

Frances Darwin (ed.), The Life and Letters of Charles Darwin (N.Y. : Appleton & Co., 1898), Vol.11, pg.210 (Darwin’s letter to G. Benham, May 22, 1863).
Dr. Ernst Mayr, Omni Magazine, February 1983, p.78
Leon E. Long, Geology (New York: McGraw-Hill Book Company, 1974) pg.172

神を造ったのは誰?

Saturday, October 18th, 2014

人間が神を創造したという憶測があるが、私が以前宇宙論および目的論的証拠と合わせて紹介した議論に基づけば、可知・不可知に関わらず全ての結果に対する第一の主因または動因である神こそが、生命の創造者であり起源である。

日本人

この偶然という命題を何の疑いもなく普通に神にも当てはめようとしているが、原因と結果の法則が基準とするのは私たちが把握しているところの宇宙の法則のみである。しかし、もし神がこの世界の枠外において存在しこの現実を創造しているなら、全能の神が時間と空間という基準または規則に縛られ、無力にもご自分が造り出した秩序に支配されるとは限らない。

このように神「こそ」全てに優る存在であり他の要因に支配される付随的な結果に成り下がるべきお方ではない。すでにビッグバン説や使用可能エネルギーの枯渇を訴える第2熱力学の法則に基づいて宇宙がやがて終焉を迎えることが証明されており、永遠の宇宙という概念を唱えた以前の科学的および汎神論的立場は支持され得ない。したがって非常に大きな結果を残す何かしらの原因が最初に存在したと考えるのが妥当である。 またこれと同時に、無限は数学記号以外には存在せず、また絶えず他の何かを方程式に加えながら増幅し続ける累積効果によって最終到達は妨げられ、実質的無限の不可能性が証明される。それゆえ最初の効果を生み出し、宇宙の形成と発展を開始した最初の原因が存在しなければならない。神秘的で神話じみた非人格的な生命力を尻目に、神こそご自身の目的と秩序を創造する行為者として、最も妥当な説明の付く存在である。科学は、反動と推測に過ぎない脆弱な定理によってこの有限説の鼻を明かそうと、宇宙人説をも含めた別の宇宙論モデルを考案することでこの緊張をほぐそうとしている。こうして理論を犠牲にしてまで自分たちの理想主義を貫こうとし、飽くまで時の被造物ではなく時の創造主である永遠の神への信仰を否定しようとする。.

宇宙に存在するものに全てに関する概念については、決して絶対無謬の真理ではないが有望と呼べるカール・サガンが提唱した推察がある。宇宙を神として拝むことは、想像上の生気の無い対象や哲学に真の支えと価値を期待しそこに権威と命を認め、木製や石製で人の型に彫った像を崇拝していた古代における異教の偶像崇拝と何ら変わりはない。この説は経験から確認できる中立的な真実ではなく、理想とする世界観に基づいて選択した好みであり、その範疇で人格の無い無作為な偶然という「アクション指定」への忠誠と心酔、および人格的なインテリジェンスデザインに対する一貫した敵意を表しているだけである。知性を持つ者にはレンブラントならびに現代アートに見る最高作品を創作する場合、キャンバスも絵の具も偶然には揃わないことが直感および本能で分かるように、この問題についても同様なことが言える。これは科学的手法というよりも魔術、神話、民話、迷信に等しい陰謀論である。

それにも関わらず、もし別の選択肢も説も提示せずただこの不可能性を宇宙にあてはめるように人間に強要しようものなら、それは有神論的世界観に対する敵意に支配された偏執的バイアスの越権行為に当たる。この無神論的見方は、科学が熱狂的に崇拝されて物質主義や自然主義が主および基準として全存在を支配する世界から神を締め出し、この無神論宗教への信仰を補強するためにダーウィン説という預言者を使用する行為に等しい。しかしこの件について最終的にはかりに掛けられ不足を指摘されるのは人間である。なぜなら神は魂を裁く最高権威の審判者であるからだ。
終わりに際して一言。あなたは「誰か」よりも「何か」が世界を創造したと認識しているかもしれません。またもしもあなたがあらゆるものに恵まれた人に敵意を向ける反社会的傾向をお持ちなら、その動機から、真理とはかけ離れたあなたの現実の立ち位置が見えてくるでしょう。あなたの幸福にとって支障を来すという理由で神という概念に嫌悪感を覚えるなら、おそらくあなたは中立的な研究に裏打ちされた確信よりも、恐れに支配されているのでしょう。
文献を舞台とした現実を根本原理とし、それに反する有神論をサイバースペース中の仮想現実に類する発明とみなすのは、科学よりむしろ空想科学小説的な発想である。

詩篇 90章2節

2 山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神

 

 

神と関係を持つ方法

 

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日本人

Who created God

神は何処へ

Saturday, October 18th, 2014

天変地異とも思える大災害を想起しながら、「神は何処に」と疑問を抱く者もいるだろう。苦痛および苦悩と悪との関わりを題材にして投稿した記事があるので是非ご覧頂きたい。

Pain, Suffering and Evil


また、その純粋な性質について論ずる神の存在論という観点からこの問題を捉えようとする者もいるかも知れない。この見解によると神は遍在であり、かつ体現されない霊として描かれている。つまり神はその普遍性から、私たち人間が支配されるような時空による制限を受けない。この概念が神を全世界の一部とみなす汎神論と混同されるようなことがあってはならない。むしろ神は偶発的に起こり得る自然的および物質的な現象とは完全に分離・独立した位置にある。彼は世界をご自身の臨在で満たすお方だが、本質的に世に属してはいない。

より厳密に言うと、この問題に関して人々が本当に知りたがっていることは神が本当に存在し、さらに神が人格を有した存在かの是非である。これについては哲学的なアプローチも可能だが実用性を考慮して経験レベルで議論していこうと思う。

まず神はご自身を顕現なさる上で幾つか異なる手段をお選びになる。その中でも最も初歩的かつ主たるものは、創造された宇宙の摂理や理性的および道徳的意識を通してご自身を全てに知らしめる、普遍性と一般性に訴える方法である。

ローマ書 1章 18〜20節
18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

詩篇 19編1〜4節
2天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
3昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
4話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
5その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

ローマ書 2章14〜16節
14 (たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。) 16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

2番目に、顕現など人の五感に訴えるような神の徴を通して、特別な啓示に遭遇するといった特殊な場面や希有な方法も確認されている。 これこそ私が嘗て少年時代に経験したことであり、他にも夢の中で経験した証を持つ者がいる。この夢を通して起こる現象は、そのダイナミックな出会いを経た敬虔なイスラム教徒をして、イエスへの信仰に回心させたほどの力強さを誇る。

More than Dreams Videos


また私にはイエスとの関係を拒否していたユダヤ教の友人がいたが、彼女が最後に息を引き取る前の数ヶ月、彼女は入院中に数回に亘ってそのような経験をしたと語っている。

A testimony from a Jewish friend


臨死体験の最中、神の顕現を目の当たりにしながら天国と地獄を肌身で触れた人々もいる。その1人である医者が自らの経験を語った証言ビデオを紹介しよう。

それに加え私には臨死体験を持つ2人の親しい友人がおり、非常に生々しくその様子を語ってくれた。

最後に、神があからさまにご自身を顕現するために選ぶもう1つの方法を紹介しよう。それは契約の民である教会において体現される人間イエス・キリストを通して適用され、あらゆる職業のクリスチャンは考えもせずにある宗教の信条告白を唱え受け入れる人々とは異なり、自らの信仰に確証を与える個人的な証を持っている。私のこの道の確固たる信用性を打ち立てる上で有益な様々な人々の証に、私の家族のものも含ませていただいた。
イエスについての私の証し

My wife’s testimony of Jesus

www1.cbn.com/700club/episodes/all/amazing-stories
イエスの信憑性を検証できる道は他にもある。それはイエスについてご自分が成就なされること全てを、神は予め預言者たちに啓示しているという事実である。聖書に見るイエスの働きについては、彼がイスラエルの地に片足を踏み入れる何百年も前に既に語られていた。このような聖句の幾つかはお互いに一致してはいても同時発生的に筆記されたものではないため、人為的な操作によって成就させることは不可能であった。したがって癒しと奇跡を含めたイエスの生涯と死の性質を、彼の伝記と辻褄が合うようにでっち上げることが出来なかったのである。神は預言による啓示の論理と知性によってイエスの神としてのアイデンティティを確立しさらにそれを追認し、単なる宣告に終わらせなかった。これは神秘主義の信仰対象とされる抽象的概念ではなく、信じる内容の現実性を証言する具体的な証拠に基づいている。
www.bibleprobe.com/365messianicprophecies.htm
またイエスは井の中の蛙ではなくその奇跡が無数の人々によって目視されていたにも関わらず、それを受け入れない人たちもいた。当時の懐疑論者たちは決して回心に至らず、既に出ている経験に基づいた証拠からは確信が得られないまま、常に新しい徴候や定説を探求し続ける私たちの時代における科学者の一部と重なる。驚くべきことに、史的イエスに対しては何ら傾倒を示さないタルムードにすら、否定し難いイエスの活動の信憑性をほのめかす古代のユダヤ教徒たちによる文面が残されている。因みに彼らはイエスの霊感を魔術によるものと誤認していた者たちである。

さらに神によるご自身の顕現に関する疑問に触れる際に留意すべきことは、神はただ私たちの知的好奇心に応える目的でそれを為さらないということである。原則として神は、人にご自身を神として認め受け入れさせるというより厳密な目的をもって自らを啓示される。神がその全容が明かさないのはご自身の権威によるものである。福音書内のイエスの伝記を見ると彼が幾度にも亘って身近な自然の法則または情景を引き合いにして、たとえ話を用いながら霊的な現実について語った事実が描かれている。これは福音という光を照らしながら天啓を教示・伝達するために用いた常套手段であり、同時にメッセージを信じようとしない者たちから覆い隠す上でも有効であった。

イエスがこの真理のメッセージ伝えるために採った方法は、神がご自身を顕現するのに採用する方法と全く同じである。その恵みは人が御国の不思議さを知りながら、様々な啓示を直感的に感受できる状態下にある場合がほとんどだが、一方で聞く耳を持たない者に降り注がれる場合もある。これは神が恵みによって直接的に介入し信仰の目を私たちに与えることで、私たちが神の啓示に反応することができるようになってこそ実現する。「あなたはメシア、生ける神の子です」という有名な告白を残したペテロと、それに対して「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と返答したイエスとのやり取りがそれを象徴する。私たちの自身の自発性ではなく不動の確信を与え確固たる信仰を約束する聖霊の働きを通して、私たちを御許へ引きつけることでご自身を顕現するのは、神の特徴的な方法である。

他にも聖書に記録される神からの実在的証明として、イスラエルの子孫たちがエジプトで見た奇跡や荒野を巡る道中で受けた天恵による手厚い加護が挙げられよう。そしてそれにも関わらず彼らは不満と偶像礼拝に堕したのである。壮大な脱出劇によってエジプトの地から出てきた彼らではあったが、その夥しい大共同体のうち僅か2人を除き、神から約束された聖地への入植を果たすことができなかった。その昔預言者エゼキエルが見た「渇いた骨」の幻の成就を意味し、今の時代への奇跡的介入を通して今まさに起ころうとしている現代イスラエルの新生を通して証言されるように、エジプトを出たイスラエルに起こった出来事は今日にも当てはまる現実である。残念なことに、この話を耳にした多くの人々が世俗に浸ったままである。つまり「見ること」が常に「信じること」を意味するとはあ限らないのであり、神に従う信仰を保証することにはならない。
www.bibleprobe.com/angelinlebanon.htm
ここであなたに問いたい。「神は何処に」というあなたの質問が、「実物提示教育」的な顕現をカモフラージュとして要求し何とかして不信仰を正当化しようとする、神に対しての否定的態度に端を発してはないだろうか。もし仮に神があなたの訴えに屈して今日あなたの前に現れた場合、果たしてあなたには誠実に神を主および救い主として受け入れる意志と用意があるだろうか?自分の動機に関するあなたの正直な答えが、神があなたの要求と期待に応えなければならない理由に関する、あなた自身の考えを反映することになる。結局、これこそあなたが現実に、そして個人的に神を知ることを妨げていた大きな障害であったのかもしれない。神がある特定の範囲内で語り、そして啓示しているのだから、その神に出会い神を知る上で私たちの能力は大して大きな問題にはならない。むしろ私たちに問われるのは、修辞的技法で凝り固まったアンチゴッドの決まり文句に波長を合わせ傾聴したり、あるいはメッセージの混じり気の無い受容を妨げる社会的または個人的な固定観念や、偏見に満ちた思い込みに影響されたりする態度である。

私たちが子どもの時分ウォーリーを夢中になって探したように神を必死に探すならなら神を見出すことは難しくありません。ただ探す気がないだけで神はウォーリーのように絵の中にいるのです。

今日、もしもまだ神を信じる用意ができていないなら、少なくとも私が語ってきた意見の是非を考察し、私の以前のブログも参考にしながらより深く調べる姿勢を持ってみてはいかがでしょうか?
日本人
神は自然、良心、預言の成就、そして現代の癒し、奇跡、幻、夢など経験的な裏付けのある超自然的な領域によって、神は理性的にご自身を啓示される。しかしより重要かつ確かなことを言えば、神は人なり私たち人間の生活の場に住まわれ、最終的に聖霊という慰め主を送り信じる者の内に住まわれるイエスを通して、個人的かつ親密にご自身を知らしめる。では、私たちが天国への凱旋以外に求めるべきことは何か?

神があなたの心を開き、あなたにイエスの人格と働きに関するご自身の持つ真理を啓示していただくように、是非あなた自身の簡潔な言葉で神に祈っていただきたい。

 

神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

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Where is God

人間の進化

Saturday, October 18th, 2014

このセオリーを考察するときに質問者がまず自分自身に問わなければならないことは、この問いの解答を探す動機は一体何であるかということである。
目を凝らしながら過去の時代を振り返って見る時、その心に事実を知りたいという純粋な願いがあるのか、それともバイアスや偏見というフィルターが掛かっているのか?もしかしたら私が真理を追求した果てに本当に探し当てたいものを、あなたは自分自身に問い質しているのかも知れない。
もしあなたが誠実または真摯に中立的なアプローチでこの解決を探るなら、この定説の土台が科学的問いとはほど遠いことに衝撃を受けるだろう。このイデオロギーは実質があるように見える化粧張りのように薄い1枚の貝殻を持つが、その実、科学界に訴える持説には中身がなく、実質的には空想科学小説という見方のほうが妥当である。

データの収集と解説のためのあらゆる科学的方法を採用しつつ、答えを恣意的に導き出そうとして立てた前提に基づき議論を運ぶのが、いわゆる科学者と呼ばれる人たちの姿だ。彼らの目標について簡潔に述べるなら、神が存在しない無神論の世界を支持することだと言える。彼らは真理に関する持説を補強するための証拠を操作または制御することに必死になっているが、それは真正な科学というよりむしろ哲学または宗教的な営みである。

彼らはあたかも真実であるかのようにジャーナルや学術書に研究成果を発表し、またテレビでも披露できる立場にある。また想像や創造を通して人をあっと言わせる不思議な離れ業を示すプロの芸術家としての立場を固めるため、その内容を装飾することもできる。この哲学の支持者たちは考古学的な発見の裏側で、自ら研究した事例をPh.D.の称号を翳しながら専門知識として提示し、難解な解説や人を驚嘆させる映像をもって自己を顕示する。こうして聴衆の心を捕えて科学コミュニティに十分な信仰を植え付けたと確信するのである。しかしこれは回心者を募る目的で学界という講壇から語られるプロパガンダに過ぎない。

あなたはこの問題について自分に本当か嘘かを見分ける資格がないにも関わらず、私たちは何の助けもないまま、あらゆる事柄を識別し個人的な決定を下していると考えているのではないか?どこか思い当たる節があるなら、政治家や社会の他分野の専門家たちに対して行うように、科学者たちに彼らが流す情報についての説明責任を課してみてはいかがか。あなたはきっと彼らが知的で教養があり、自分たちの信念に対して情熱的でその学問分野に全てを捧げている人たちと信じているのだろう。だが真実か否かについての原因追求に身を捧げることは他のどの種の集団にも言えることである。また世界史の流れを通じてその時代の専門家たちにいとも簡単に騙されてしまう人々がいたことを忘れてはいまいか。

人が容易に騙される要因として、有神論的世界観と対峙する自然主義のように、人を信じる気にさせるような魅力さが挙げられよう。またこのことを理由に私たちは、自らの存在を脅かしかねない階層システムがあることも鑑みずに、その未来に責任を持つ神としてこの世界で孤独に生きることを選んでいる。
これこそ私たちがこのような科学的グルによって、いとも容易くその教理に感化される理由がそこにある。

道徳的選択かそれとも知的探求かという問題がこの議論の要因として横たわっている。
そこでどれだけ証拠が熟慮・検討されているか、あるいは証拠不足が指摘されるのかを判断しなくてはならない。実際にこの分野において提示された科学データやでっち上げを見た人は、進化論に結びつけようとする事柄に対して疑問を抱かざるを得なくなるに違いない。

第一、私たちは科学の時代と呼ばれる今日に置いて益々技術的進歩を遂げているにも関わらず、生命について説明付ける根拠としてその存在が信じられている、あらゆる中間的な生命態を未だに示すことできない。私たちが分子から進化したという自らの学説を補強するに十分な、持続的信用を持った証拠を提示せずにいる人類学者にも当てはまる。進化論者たちは私たちの先祖を原始的な単細胞アメーバの液状物体に遡らせておきながら、いわゆるヒト科内における人間の進化すら証明できないでいる。

たとえば、ラマピテクスのあご骨については科学者たちの間で随分議論されているにも関わらず、その標本からは納得のいく結論が導き出せていない。1953年に捏造が発覚したピルトダウン人事件を思い出して欲しい。当事者は古代のものと見せかけるようにヤスリで削りシミをつけた歯や骨を使用した。また1922年に発見された1本の歯からネブラスカ人の存在がでっちあげられた。数年後、その歯に合致する窩を持った頭蓋骨が発見されたが、後にそれが豚のものであることが判明した。

進化論者の中にはネアンデルタール人やクロマニヨン人が普通のヨーロッパ系「ホモサピエンス」であると信じる者もいる。
もう1つの例を紹介したい。最早見つからないとされている北京原人の骨について、もしそれが発見された場合には大変な話題になるところだが、胡散臭くも、その発掘を支援している人物とは例のピルトダウン人事件の共犯者である。

ジャワ原人を発見したユージーン・デュボワ博士はそれをホモエレクタスと名付けたが彼は晩年に自分の発言を撤回し、発見した断片を区別して頭蓋冠を巨大猿人または類人猿に帰して、足の骨についてはホモサピエンスに属したものであると改めた。こうして私たちの先祖の末席に加わりつつ、彼は自らの発言に対する信用を損ねてしまった。

ハイデルベルグ人は歯の付いた低い顎で構成されるたった1つの化石であって、このような骸骨の発掘には未だに不明な点が残る。
また、近隣ではあるが間近ではない場所で発見された様々な発掘物で組み合わされた、ルーシーと呼ばれる骨格の発見も同様、未だに特定するための決定打に欠けている。

実際浅い墓穴を埋めるだけのいわゆる化石化した人間の断片が十分には存在していない。結論を申し上げれば、これらの骨格は霊長目の動物か人間であり、決してその中間層のものではないのである。
それにも関わらず彼ら進化論者は、無神論という自らが信じる宗教に対立するインテリジェントデザインの反駁に焦点を置いた、観念的な科学を貫くための有効なモデルを発見したと言い張っているのだ。

霊長目動物と人間との間には折り合いの付かないほど大きな違いが31点ある。たとえば類人猿の足の親指には手の親指のように物を掴む機能があることから、人間のそれとは随分と異なっている。彼らが適者として生存し次世代を残すには、この足の親指の機能が不可欠であるため、この特徴無しに彼らが進化の過程を踏む事はあり得ない。それに加えて、この親指が移動したという突然変異説を支持するための目視可能な証拠が確認されていない。
また霊長目動物と人間との間に見る頭の位置の違いが別の良い例である。私たち人間の頭は直立体勢で歩いたり走ったりするために脊柱の天辺で平衡を保っている一方、類人猿の頭は四方移動に向くように背骨の前方に位置している。
両者の頭の位置が段階的に変化したという説を援護する有力な証拠が存在しない。また1つの進化に目を奪われるばかり、種の生存の問題がなおざりにされている。

類人猿の乳児は人間のそれとは異なり、人間の子供が生後には完全に非力である一方で、類人猿の場合は生誕後間もなくして走ったり母親の背中に上ったりするなど、ある程度のことを独立して行えるようになる。この退化現象から類人猿生存を導き出そうとするのは甚だしい信仰の飛躍である。寧ろ自然淘汰の概念からすれば、地上で発生した偶然かつ劣性の存在は絶滅するはずである。

一体、一組の類人猿の両親が(男女の)二卵性双生児をつくり、それが最初の非類人猿の乳児として生存し、生殖活動の循環を巡りながら自分たちの子孫を繁殖するなどという偶然が起こり得るのだろうか。
他にも進化論神話をすっぱ抜くために話題にすべき事柄は、どういう訳か人間が既に100万年この地上に存在するという進化論者たちの持説である。もしこれが事実であれば数学的定理から1970年までには人口が10の5千乗に達するなど、この世界が存続し得ない規模の人口過多が発生するはずである。病気の蔓延や止まない戦争から史上最も血腥く疫病に満ちた時代とされた前世紀に続き、全人類に致命的打撃をもたらしかねない一層進化した手段によって、益々人類に破壊をもたらし続けるグローバル化および産業化が進んだ今にも残る戦争、疫病、および飢饉などを加味しても、人口がその数を下回ることの根拠にはならない。

確かに技術の発展によって生命が維持されてきた一方、産児制限、堕胎、乳児殺し、安楽死などによって人口の増加は食い止められてきたのは事実だ。もしそのような夥しい規模で人類が地上から消失し人口統制がなされてきたというなら、死んだ人を葬った浩々たる人墓の存在を示す化石上の証拠はどこにあるのか?

実のところ、人類はそれほど長期間にわたって地上に生息していないため、そのような化石の証拠は存在しない。さらに現在における人口の静的状態を鑑みても、人類誕生を100万年前とする進化論者たちの仮説モデルたちに対し、数千年前に人類が創造されたとする聖書モデルが有力であることが裏付けられる。
私たち人間はその生命の存続のために、緻密に調整された酸素、二酸化炭素、日光、磁界、地球の自転および公転速度、月からの距離、太陽からの距離、オゾン層、水、重力などを、適切な時と場所においてお互いが調和された状態で享受しなければならない。
つまり、そのような人間原理と表されるものを制御してくれる超越的な外力に自らの存続を負っているため、遺伝子プールの創造および維持には決まって熟練したデザイナーの存在が浮上する。こうした分析の結果から私が思うに、進化論の全てをはぎ取られその脆弱さを露呈してしまった進化論者たちは、隠れ蓑にするための別のモデルを探し当てるのに必死なのであろう。

 

 

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無神論と不可知論のための参考資料

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The Evolution of Man

 

 

Copyright Permission by “The Evolution of a Creationist” by Dr. Jobe Martin

Henry M. Morris, Biblical Cosmology and Modern Science (Nutley, New Jersey: Craig Press, 1970), p.75
Shattering the Myths of Darwinism by Richard Milton, Park Street Press,
© 1992, 1997 Inner Traditions / Bear & Co.

教科書は嘘つき

Saturday, October 18th, 2014

学術書を読む時、私たちはしばしば現実的事実の説明を読んでいるという固定観念に見舞われてしまうことがよくある。しかしそれらの資料は一般大衆には把握しにくい内容が書かれてあるにも関わらず、世間からは批評もなくいとも容易に承認されてしまうことが少なくない。これは実際、研究および発見に関わる事態であり、偽造どころか知的探求に対しての不誠実および正真正銘の腐敗に当たる。このような幻想と誤解は、この疑似科学の虚栄が生んだ進化論説による誤った世界観を全世代に植え付け、その心を蝕んでいる。

その一例が自然淘汰の事例に適しているとされる「大霜降枝尺」研究である。これらの学術書ではこの種の蛾が木の幹に自然に現れないこと、そして使用されている写真は蛾を作為的に木に貼付けて撮影したものであることに、触れようとしない。

自身の絵の才能を生かして様々な動物の胎児を、無関係な種同士が同類に見えるような見せ方で描いたエルンスト・ヘッケルによる誇張された図が有名である。全ての生命は共通の祖先を通じてお互いに関連し合い、かつ同じ段階を経て進化することを説明するために採用される方法である。このような観察者たちは、これらの生命体が初期段階ではほとんど識別不可能であるということと、全ての生命体にとって不可欠であり、自然環境内で同一の要素を使用する生命維持の成分が存在することを考慮に入れない。この図に反論すべく1997年に、マイケル・リチャードソン博士が実際の様子が確認できる写真を撮影することで、ヘッケルの芸術的な想像を批判した。

別の神話では、私たちには100 以上存在することが確認されている退化した器官が、過去の進化の過程で体内に残ったことで人間にとって余分な手荷物として描かれている。しかしこれらの器官は時の経過に関わらず現代の人間にとっても有益であることが証明されている。また盲腸および扁桃など、手術によって切除可能な器官があっても、それをもって私たちが体内の不要な部分を除去していることを意味しないし、むしろその結果として私たちの健康と生活に危害および変化が生じる場合もある。

ネアンデルタール人の像中、低い位置に置かれるあごは猿に似せるための突起物である。この容貌を作り出すトリックは、あごの骨を外し前方に突き出すことで可能となる。つまりあごが正常な位置にあれば、現代人と何ら変わりなく見えるわけだ。

これに加えどういうわけか種ごとの関係性を示すとされる進化系図を目にする事がままある。しかし実際それは、強引に種族ごとの関連性を操作した進化論者たちの願望から案出されたに過ぎない。この図の抱える問題はその説の理論を成立させるために不可欠な、ミッシングリンクと呼ばれる生態間の連続性の欠如である。これが解消されないかぎり、この定説は意味不明な哲学でしかない。皮肉な事に年代を証明することでかような間隙を埋められる標本が存在しない。与えられている化石の証拠からもこの持説が人為に編み出され思い描かれた虚構であり、この誤謬の理論や絵空事を説明付けるための信仰の飛躍であることが明らかである。

最後にスタンレー・ミラーとハロルド・ユレイの例を挙げておきたい。彼らはアミノ酸の生成をはかりながら、生命の初期段階を再現することに成功したとされたが、使用された混合気体が豊富な水素ではなく火山ガスを含んでいた地球環境のものと合致しないなど、彼らの実験は誤った条件下で実施されていた。つまりその実験結果は無効となる。

結論として、これらの空論上の信念やでっち上げの背後に、それらを現代の教育システムで未だに採用するといった陰謀が認められる。科学業界では個人の無知を良い事に、神への反逆を煽るのに有利なプロパガンダを喧伝しながら、大衆の耳を喜ばせることに益々関心を寄せている。こうして真理を発見するための科学的努力を犠牲にして科学を悪用しているのが現状だ。

 

 

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無神論と不可知論のための参考資料

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Textbook Lies

 

 

Jonathan Wells, Ph.D., “Survival of the Fakest,” The American Spectator, December 2000/January 2001, p.20

宗教は世界における諸悪の根源である

Friday, October 17th, 2014

これは盛んに復唱され世界中にこだましてきた神話であるが、未だにその確証は得られていない。この合言葉は、宗教家たちの偽善を暴くことで、神を宇宙から締出し死んだ存在として扱う論議と共に持ち上がっている。
20世紀はこの地上において史上最も多くの血が流れた時代であったが、その大半は神という概念を持たない人間に由来していた。その代表者であるイディアミン、ポルポト、ヒトラー、スターリン、裕仁、そしてレオポルド11世たちは、大量虐殺によって社会を混乱へと貶めた。
無神論の共産主義政権は1億以上もの人命を奪った。例えば中国では7200万人、ソ連では2000万人、カンボジアでは230万人、北朝鮮では200万人、アフリカでは170万人、アフガニスタンで150万人、ベトナムでは100万人、東ヨーロッパで100万人、そして南アメリカで15万人にも及ぶ人々が虐殺された。
人間と至高の存在を分け隔てずに同一視する世界観から、自ずと「勝てば官軍」という思想が芽生えるのは瞭然だ。責任や人間に帰される価値や尊さに対する感覚が損なわれたとき、人は正否の基準を定めることで自分自身を「神」の座に据える。
人間が真に目を留めるべき究極の目的や価値を持たず、また自らを高め有頂天になっていることが明らかなとき、「適者生存」という進化論的プロセスが唯一無二の真理と化してしまう。
この人命に対する観点は人の目標、関心、そして人類を再び破滅へと陥れる立場へ上り詰めるために、目下必要な権力などを基にした相対的考えを構成する。
しかし人命や人間の神聖さという視点から、特にユダヤ教およびキリスト教ではこれとは反対の立場を固持する。聖書は人間を神の似姿を帰した被造物として紹介することで、人類に与えられた保護を受ける権利を示唆するからだ。
ユダヤ教ならびにキリスト教の価値観を求めている者は多い。しかし神が個々人を尊ぶお方であるにも拘らず、彼らはその支配下あるいは影響下に置かれることを拒む。これは1つの逆説である。人がその心を神に明け渡さなければ、すなわち、絶対的権威のもとでそれを守り抜く神の超越的な力を遮断したままでは、やがて人間社会の絶滅を引き起こす種となる。
また過激派イスラム教徒、ヒンズー教国粋主義者、急進的仏教徒など、自分たち以外の者たちを殺戮するような、過激な排他主義の宗教が存在することも忘れてはならない。どの宗教にも関わらず、自らの存在意義を殺人に求めるものはその影響を把握しておくべきだ。キリスト教を名乗る宗派にも、イエスに楯突きながら自分たちの人生を異端者および偽聖徒で構成される宗教組織に捧げ、流血沙汰を起こすものもある。
イエスはその名を語りながら十字架については触れようともしない輩について警告を発している。信徒にとって十字架とは、自らの命を神と隣人への奉仕に捧げることを意味する。十字軍戦士たちは十字架を剣として用いない。イエスは敵への飽くなき愛という概念を踏まえて、暴力および他者への侵害行為に対する神の評価を改めて強調する。最初は馬鹿げた立ち位置に思えるかもしれないが、やがて神が敵対関係であった私たちを愛して下さっていたことに気付く
ルカによる福音書6章27〜36節の中で、イエスは敵を愛することについて以下のように述べる。
27 「しかし、私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33 また、自分に善くしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でさえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがありいと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」
人間の良心からすれば人命保護は極々自明のことであり、いずれかの哲学または宗教が人間の価値をゴミとしか扱わないなら、それは人間に命を与えた神との対立または矛盾を意味する。死は避けられないが、果たして私たちが生まれたのは生きるためか。それとも死ぬためか?あなたの世界観とは異なるかも知れないが、無力な幼児であった私たちを嘗て援助してくれた両親の保護および養育を通して、神は人間が果たすべき責任に関する手掛かりを与えてくれている。
安全と庇護の感覚を保つため、親の世話という賜物を神は与えて下さった。これは子が父母から自立を果たした時点で止んでしまうものではない。神は人を愛しているし、人類を保護することこそ、神が創造した秩序における最大の目標であり、最優先課題なのだ。
別の時代に神は人間を裁いているがその意義は、神ご自身と隣人に対しての振る舞いに基づいて義を貫き人命を守るという秩序を維持することにあった。明らかな原因や理由もなく不注意かつ無駄に人間を地上から掃討したわけではない。ご自身の審判を通して神は社会で虐げられている弱者が持つ尊厳を確保するのだ。
神がその愛と許し、そして誰をも傷つけたくないという思いから全ての事件を見過ごしているだけなら、果たしてそのような裁きを「良い」と評価できるのか?これらの犯罪行為によって虐げられる犠牲者たちはどこに逃げ場を求めたら良いのか?何に憐れみを請うべきか?神はその審判において、人が法廷における赦免では決して矯正されないこと把握している。また各々がその行為に応じて犠牲が課せられることで、命を保護し秩序を保つための裁きに意義があることを熟知している、
だが御国の法廷については、神の義と憐れみが拮抗しており、正にイエスの人格および業にこそ、その極みを見るのである。
世に注がれる神の思いはただ「愛」の一言に尽きる。その愛は、自ら無実の罪で悪人からの拷問を受けたイエスを通して私たちに差し伸べられた。私たちに注がれた彼の自己犠牲の愛は、上述した憎悪を赦免される道を私たちの前に開いてくれる。なぜなら、その程度が悪の逸材ほどではないにせよ、私たち全人類は他者に対する不断の犯罪行為に対して責めを負っているからである。
命がけの場面で他人のために自分の安全も幸福も省みないような、勇敢な行為で人を魅了する「ヒーロー」を思い浮かべると理解しやすい。私たちのために宇宙全体を網羅しながらこれを実践してくださったのが神なのである。しかしたとえ神の法廷での協議を経て赦免されたとしても、この地上で私たちが犯す人間性を害する行為の結果と責任からは目を逸らすことは許されない。
とにかく神が如何にしてこの贖いの業を完遂されるかに注目してほしい。私たちが罪を赦す救い主として神を受け入れ、その支配と統治に心と人生を捧げるべき主と認めるときに、神は奇跡的に私たちの人生に介入してくださる。
ひとたび神を受け入れれば、神は石の心を肉の心と取り替えることで私たちを再創造して下さる。まさに聖書が「新生」と呼ぶように、この改造によって私たちの内面の状態および性質に変化が訪れるのだ。
このように新しい者とされることで神や隣人と真の和解を果たすことができるのです。この恩恵に与ることを通して不必要かつ的外れの人命破壊と、私たちの創造主への敵意を制止し、損なわれた関係が回復されます。
最後、この「命」という概念について最も上手く解き明かしかつ簡潔にまとめた、ヨハネによる福音書3章16節でイエスが語る言葉をご紹介しましょう。
16 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

 

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無神論と不可知論のための参考資料

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Religion is the source of all the trouble in the world

 

 
Copyright permission by Bridge-Logos “The School of Biblical Evangelism”

神との平和と調和

Friday, October 17th, 2014

平和と調和という語ついては、個々人を取り巻く自然的成り行きに委ね葛藤ないまま静寂に時を過ごすという定義を耳にする。私たち人間は自らの人生に大破壊をもたらしかねない、ネガティブな外因的影響を遠ざけながら、痛み苦しみという歯車のずれを無くすか、あるいは何らかの形でそれに対処をはかろうとする。その結果、私たちの抱える問題がとても自分たちの手に負えるものではないことを悟り、死に物狂いで「心の安らぎ」を探り当てようとする。

制御し切れない何かが起こった時にも平常心を保つことを理想とし、その実現のために私たちは処方術を模索する。自助グループのグルやヨガ行者などの偽預言者に影響され、幻想や知覚鈍魔法、または悦に浸らすマントラなどにより精神を現実乖離や無感覚の状態に陥れながら、東洋思想的な宗教または哲学から派生したスピリチュアリズムの虜になっている。

形而上学的なものより自然主義的なアプローチを探求している人々は薬物乱用、薬物または精神療法を生活上の葛藤を緩和させる手段として選ぶ。
一方で他力本願を好まない人々は、豊富な経験を誇るように「何があってもわたしは平気」と豪語し実のところ穴だらけであるにも関わらず、起業家さながらの処世術に確固たる自信を覗かせて自力本願的な態度を貫こうとする。常に人間は工夫を凝らしながら問題解決の道を編み出すことに余念がないが、もし適切なアプローチと理解に基づいていなければ、真理を嘘とすり替えるような見せかけの方法を選んでしまいかねない

人は時に安価なワインを飲む貧しい酒飲みのように、しらふ時の現実に真摯に向き合うことをせずに、この切望する理想と現実の狭間にある葛藤を忘れさせることで、苦痛を紛らそうとする。このような形で問題の解決をはかろうとする試みは、ほんの束の間の効果と熟知しながらも「いつかきっと」という希望を標榜のもとで行う、生温い緩解的措置に過ぎない。

事実、通常外界から起こり得る悲惨な事態は必然的であり、私たちが制御し切れるものではない。しかし問題の核心はそこにはない。 仮にそれらの事態を何とか回避あるいは解決できたとしても、そのことで心中にある聖所に安らぎを得られるとは限らない。「持つ者」、つまり夢のような生活を送っている「持つ側の人間」でも、その内に不安を秘めている人々が大勢いる。私たちは、富も名誉もありながらその豪華絢爛なライフスタイルから転落し、人生の旅路における儚さに他者と同様に気付く人々を思い浮かべる。とにかく安らぎという凪の状態は、外側ではなく内側から沸き起こる安らぎによって成就するものである。

この内側の安らぎという概念については、この不穏さの陰に隠れる秘密を解く鍵となる良心によって、私が神と信じる究極的現実との相互関係の下、人間に与えられたアイデンティティが明らかになることで私たちに伝えられる。これは人生に必須の要素となる。なぜなら私たちの心の中には人間が人間であるための根本的要素として、至高かつ超越的な真の現実と交わる本能が意図的に備えられているからである。それは人間の霊性が持つより深遠な属性への表面的かつ周縁的な感情という枠を越える。まさに私たちの差し迫る審判に対する緊迫感に訴え、道徳的腐敗からの予後を解決する最後通牒である。また、私たちが責任義務からの道徳的ジレンマから解放され魂に安堵を得るために、罪責の念や恥という症状を通じて私たちに適切かつ効果的な治療法に窮乏していることを痛感させてくれる。

聖書はこの統合失調状態を神からの隔絶として説明する。神はこの緊張を治めるために、  必ずしも宗教を探したり開宗させたり義務を人間に負わせない。真理を探求し、かつそれが指し示す方向に従う覚悟がなければ何も始まらない。たとえそれがあなたの固執する価値観と全く相容れないとしても。
さらに聖書の診断によれば、この疾病の根幹にある問題および原因は、聖なる神に対して憎悪と反逆心を抱く人間の罪深い性質である断定される。もしやこのブログ記事を読んでいるあなたも、既に神に対して敵意をぶつけているかも知れない。

生まれ持った喪失感と空虚感から生ずる自意識が働き、既にこの不安に反応を示している人もいるだろう。正義に基づき義とされていることへの、確証および確信に対しての思いを示す霊的なバロメーターが作動している証拠だ。このプロセス全体は私たちの神を求める意識を呼び覚まそうとする神ご自身からの心の声として、人の心のメインフレーム内に伝わっている。たとえ私たちから遠く離れてはいないにしても、神はご自身の負担を減らすために私たちを目覚まし音で急き立てて、その問題の解決法を要求するお方では決してない。むしろ内容に富んだ特別な啓示を見出し、私たちの創造主との本来埋められない差を除去するための呼び出しである。

このような過敏な状態に陥っても、恐怖と絶望にはまり込むことを案ずるには及ばない。神は愛をもって私たちとの交わりと関係の回復とを願っておられるからだ。その事実は、神がイエスの人格と業を通して人類の間に内住してくださったことから、肉眼でも確認可能である地上での体現によって証明される。イエスは比類なき優秀なピースメーカーとして、人類と神との間を取り持ち、双方の間で和解を成立させてくださったお方である。私たちは、天の父との緊密な関係から与えられる永遠の命によって、イエスにその破損した人生を変えていただき神との和解を得たのである。こうして私たちは息子および娘として神の家族に加えられたのである。このダイナミックな神との関係については、下のリンクでより踏み込んで詳述している。
この救いのプロセスを理解するためには必見の記事なので是非読んでいただきたい。

神と関係を持つ方法

最後、あなたがこのブログを読み始めた当初、あなたの興味と関心は私からあなたへ持ちかける、あなたの人生に深く関わるような、堅固で恒久的な平和へと至る大切な境地よりも、むしろ実用的でかつ手頃に入手できるような平和にあったかも知れない。
既にあなたは我流でこれを達成するべく、ピースをかき寄せ集めながら心の穴を埋めようとした挙げ句に、収拾不能な状態に陥って途方に暮れているのかも知れない。そんなあなたの破損した心を再びつなぎ合わせる力がイエスにはあるのです。

さらに神の安らぎは、乱高下するローラーコースターのような人生からあなたを解放します。神は決してあなたを見離しません。あなたが天にも昇るような最高潮の最中にいる時も、奈落の底に落とされたように沈んでいる時も、神は常にそこであなたと共にいます。さらにあなたが人生の重荷を背負いながら問題の中をかい潜って歩んでいる時、神は恵み深くも脱出の糸口を備えてくださいます。それゆえあなたにはあらゆる逆境にも打ち勝つことができ、どんな嵐が吹き荒れようとも人生のボートの中、あなたの魂の船頭を知りそして信頼しながら、安らかに憩っていられるのです。

終わりに一言。聖書は、もしあなたが心を尽くして神を探し求めるなら神を見出すと約束します。それに応答するあなたに「平和の君」からの安らぎが豊かにあるように祈ります。何にも替え難く、あなたの理解を遥かに超えた安らぎを。

マタイによる福音書 11章28〜30節
28 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。. 30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからある。

ヨハネによる福音書16章33節
33 I これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書14章27節
27  わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える、わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
ピリピ人への手紙4章7節
7 そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

テサロニケ人への手紙第Ⅱ 3章16節
16 Nどうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。

ガラテヤ人への手紙 5章22節
22 Bこれに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

 

 

神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Peace and Harmony with God

変異と進化

Friday, October 17th, 2014

変異は進化論の概念に基づけば、自然淘汰による生命の進化に貢献すると考えられる。しかし変異によって生命の進化が生じたことは立証されておらず、有機質の個体にとっては中立あるいは有害のいずれかであることが分かっている。また DNAの進化はあり得ない以上、変異は遺伝子プールに新しい遺伝子情報を加えることがなく、むしろ情報の欠損のみを誘発し、生命の繁殖どころか絶滅および死滅を招く傾向にある。

この変異現象は例外なく新種の形成を促すとされるが、化石の痕跡を見れば、新しい遺伝子情報を伴うべき生成または変化した種よりも、むしろ絶滅を裏付ける証拠だけが目に付く。このことから生命の起源が本当に数十億年前に遡るのか疑わざるを得ない。証拠を伴った絶滅の事実を考えると、生命の存在が全く不可解になる。したがって、種の出現よりもその消滅をこそ、起こり得るケースとして考える方が妥当ではないか。絶滅について耳にすることは日常茶飯事ではあるが、では果たして新種の発見についてはいかがだろうか?

それに加えて、このプロセスが適者生存の実現に不可欠であるなら、何故歴史的あるいは自然的な絶滅の流れに逆行してまで、現代的な保守主義を掲げながら、絶滅危惧種を保護する必要があるのか?

変異が生命の進化を意味すると信じる科学者たちが、自分やその家族、そしてペットをチェルノブイリやスリーマイル諸島などの放射能エリアで、恩恵に与ろうとしないのは何故か?それは放射能に当たることが社会発展にとって百害あって一利無しであることを実際に知っているからだ。もし人口統制を支持するなら話は別だが。

社会的に違法とみなされるような、不慮の妊娠を強いられた女性たちへの堕胎処置について、それが漸進的に起こった進化と矛盾するのは何故か?遠い未来、変異が発生することで人間の遺伝子が進化する可能性を考慮すれば、堕胎は裁きや直接的な介入を意味し、やがて害をもたらす存在と言うかも知れない。

この見解を支持するなら、なぜ変異が有益になるまで長いスパンを要するのかについて、化石痕および現代において変異種が不在である事実に基づいた、それ相応の弁解が求められる。変異の恩恵に関する演繹的仮説と擦り合わせながら、自然主義の帰納的論理に科学を準拠させることは、もはやそれは科学的方法ではなくただの神話の考察や想像に過ぎなくなる。

例えば、愛犬王国で千種万様な犬種が存在することを鑑みても、巧妙な遺伝子組換えによって純粋な遺伝子情報が失われようと、彼らが犬であることに変わりはない。既に私たちは同種同士の違いがあることを認めているように、種内における小進化は問題としない。しかし時代に連れてこの小さい種別が、分子から人間という大進化にまで発展するなどと教え信じ込ませることは、明らかな詐欺行為であり根も葉もない戯言である。生命の疑問について、有神論的観点をよそに、自然主義哲学から解答を導き出すことはもはや絶望的である。

科学が将来どのような道を辿るにせよ、異質性への明確な先天的感覚を否定するものに固執するような、偏見かつ誘導的なアプローチであることに変わりはないだろう。現在のところ進化論は世間一般において広く支持を集める学説ではあるが、それ自身の哲学的な前提に基づけば、ほぼ全てのものを一定の流動状態におく自らの見解通り、古臭くまたは不十分であることが証明され続けているこの学説も、インテリジェントデザインを確証付ける明白で優れた証拠にとって代わられるだろう。この勢力が早晩廃れることは一目瞭然である。

科学がその見方を変えてインテリジェントデザインを支持する立場に転じた場合、おそらく不可知で進歩的な宇宙生命体によって、はからずも生命が生じたと主張し、是が非でも神の存在を問うことを避けようとするだろう。未来修正論者による起源に対しての観点からは、客観的真理よりも現実逃避のために存在する科学しか見えてこない。

私たちがあらゆる技術革新や現代技術に囲まれ、それらを活用することを許されていながら、これまで新種のホルモン、酵素、単純器官の突然変異を確認した科学者は皆無である。

DNAを人生の文書パーツになぞられると、そこには生命の機能性全体にとって不可欠かつ根本的な、複雑かつ厳密な情報が数千ページにも亘って書き込まれている。一方、この情報には意思を持たない不規則かつ偶発的な作用によらず、意思と知性を持つ源を条件としたコーディングが必要である。この生命に満ちあふれるDNA細胞の言語を見る時に、私たちが氷山の一角ほどしか確認できない驚異的な知性が、果たして知性の存在しない状態から生成することなどあり得ようか?

膨大な宇宙空間を通しても、また微細な細胞を通しても私たちに語りかけないような「創造者」が 、果たしてDNA細胞の言語をプログラムすることなどできようか?

詩篇19編1〜4節
1 天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
2 昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る
3 話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
4 その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

ローマ書 1章18〜23節
18不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。21 Fなぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 (偽りの宗教と哲学)

 

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Mutations and Evolution