Archive for the ‘Atheist and Agnostic’ Category

神様、助けて

Friday, October 17th, 2014

私たちは窮地に陥った時、「神様、助けて!」と悲痛な叫びをあげることが少なくない。しかしそれも束の間、葛藤が過ぎ去るかあるいは問題が解決されればすぐに私たちは独り善がりの世界に退いてしまう。こういう危機からの改心は表面的に過ぎない場合が少なくなく、また予期しない状況下での苦肉の策である場合が多い。私たちは神を「レッツ・メイク・ア・ディール (アメリカのクイズ番組)」のモンティ・ホールになぞらえて見てしまうことがある。つまり、私たちは人生という神のゲームの意欲的な競技参加者として、どうにかして神を喜ばせることを期待されているとする発想だ。そして神は私たち自身の関心に応えるより、私たちに救いを与えることを望んでおられると聞くと、神がブービー賞のようなもので私たちを欺いているかのように思い込んでしまう。

苦境に喘ぐという経験が、実は神による恵みと憐れみのみ業である場合がある。どんなに親密な関係にある人々も私たちを救い出せない、あるいは救い出そうとしない様を見、絶望的な状態に遭遇するからだ。人生の荒波による衝撃と混乱の中で溺れかけている時、このような窮地こそ現実を映し出すバロメーターとなることがある。私たちが自身の限界に直面し心が最も刺激されやすい状態になって、自分と神とに対して正直になる瞬間と言っても過言ではない。まさに身の安全とボートの退避、またおそらく嵐の小康化を願って自分の手を神に差し伸ばした、使徒ペテロがそうであったように。

しかし神に対する反逆心から拳を振り上げるような、私たち自身の行動によって窮状を招くこともしばしばある。しかし神から差し伸ばされた手は、私たちを取り巻く世界が壊滅な状態になっている中、拾い上げられた後も再び転落しないようにしっかりと握られたままでいる。

私たちは神を呼び求める時、その動機が何であるかを吟味しなければならない。そえは苦境から脱するまでの間、神の機嫌を取るために猫をかぶるような、ただの欺瞞によるものではないだろうか?

神の助けに反発する人々はおそらく宗教や神を批判し、そんなものはただの杖にしか過ぎないとお考えかもしれない。しかし実際に困難に面したとき、自分たちがプライドという実に儚い下肢に支えられた、有限かつ脆弱なものである事実を受け入れざるを得ない。その支えは人間の体験によって脆くも崩れ去るのである。

問題の最中、彼らは神に頼る代わりに自力で事を解決し自己治癒を試みた挙げ句に失敗し、完膚なきまでに叩きのめされて初めて助けを求めようとする。災難が降りかかる中、宗教に手を染めて瞑想によって苦痛を取り除くことを試み、ネガティブなエネルギーを遮断しながら処理しようとする。また宇宙を覆う因果の原理やカルマの法則など、極端な運命論によってその状況を容認しようとする。またある者はこのような経験を錯覚だと判断し、催眠術による現実逃避をはかりながら、自分自身と問題とを切り離そうとする。

また自助プログラムに手を出し、ボブ・ザ・ビルダーの「そうだ、修復は可能」的態度を地でいくようなアプローチで事態の鎮静化を図る者もいる。またさながら小さい蒸気機関のように、「できると信じる自分」のイメージをさらに進化させ「できたと信じた自分」を思い描きつつ、お題目を猪突猛進的にひたすら読み上げる人々にも出会う。しかし結局、人生の終わりには蒸気も尽きてしまい、自分たちの最終的な定めに対しては、いくら自分ができると信じてもそれには至らないことを悟らざるを得ない。他にも一般的な心理学による解放術が世の主流となっている。人生の困難を処理するため、まるでオズの魔法使いに登場する機能障害のライオンが魔女を求めるように、心的障害による苦痛を薬物治療や専門技術によって除去するというものだ。

物事をコントロールできる無敵な存在という自負は、自身の限界に気付くまでの錯覚に過ぎない。傾向として、四面楚歌の状況下で改心する無神論者にように、必然的な何かに直面すると人生観がガラリと変わることが多い。

神が最後の頼みの札として位置づけられることはよくある。人々は神を全宇宙の親として、まさに10代の若者が時折、自己中心的な理由で幾度となく両親に助けをせがむように、ほんの一時的に神に寄りすがるのだ。このようなSOSの嘆願は、神を出し抜くために誠実さを装いながら、その全能なお方に一時的な厚意をせがむための、死にものぐるいの足掻きにも映る。

私たちが何とかして神を避けようとする本当の理由は、神とは誰であるかという問題に絡み、それは私たちを取り巻く環境よりも遥かに重大である。第一に私たちにとって現実的かつ重大な問題とは神に関わることである。私たちがより重要かつ深遠で人間にとって永遠に意義深くあり続ける疑問を思い巡らしながら我に返るのは、人生のローラーコースターが底に目がけて急降下する危険に晒されている時であることが少なくない。こういう事態が起こる前は神を潜在意識下に追いやり深く立ち入らずに逃れようとし、個人的な願いや必要についての独立した考えに基づいて行動することを好みがちだ。物事が自分たちの思い通りに運んでいる間はこの状態を保ち続け、一旦歯車が狂い始めると埃まみれの聖書を命綱として引っ張りだしてくる人もいるだろう。

この憎しみ、敵意、疎外について触れながら聖書は、私たちの罪の性質が私たちに真剣に神を探求させることをさせないことを指摘し、神の正義の基準に照らし合わせる時に全人類が罪人でありその基準には達していないと述べる。人はこうして罪責の念と恥に陥り、先ほど触れた本質的な問題を増幅させていく。ただし、神が私たちをご自身の憤懣による窮地に放置したままにせず、求める私たちに「助け」の手を差し伸べることを願っている事が、私たちにとっての救いである。

凍死しかねないほどの人生の厳寒地に追いやられてしまう経験を持つ時、神が提供する避難所や暖を求めて、ただ事が足りる範囲で神に近づこうとするが、決して炉の炎には近づこうとしない人々が大勢いる。そういう人々は神の介入によってもたらされる暖みと慰めだけに関心があり、神を単なる一晩の宿泊所としかみなしておらず、彼に深入りしようとはしない。

さらに、その私たちとこの世が直面する混乱の原因を神に帰して、挑戦的態度を正当化しつつ神を全面的に回避し遠ざけようとする人々もいる。この様子については別のブログで、苦痛と苦悩を題材にした記事を投稿しているので、是非参照していただきたい。

Pain, Suffering and Evil


しかしこの方程式の裏側には、ご自身に近づき出会わせるために神が敢えてトラブルの迷路におびき出した、正真正銘の選ばれた民がいることを確信している。

人が裏切られ傷つき、この敵意に満ちた世界に絶望しながら途方に暮れている自分に気付いて、人生の津波から自分を守り心の渇望を満たす事を期待する全能なお方が常駐する避難所を求めることで、このことが実現する。この種の気付きによって得られる謙虚さと感受性によって、これまで大勢の人々が悔い改めへと導かれ、自らの霊的な状態の真の有様に気付き、仮面を被り全てに満ち足りているかのように装いながら生きるより、自分そのものも含めて人生に何かが欠けていることを思い知らされている。自力で生まれ育ってきたかのような偏見に取り憑かれ、依然傲慢であり続ける者たちは、人間の非凡さを過大評価する錯覚に支配され自分を神格化する愚行を犯す。しかしやがてその姿を映す鏡が粉々に砕け散るときその態度が致命的であることが証明される。

最後に申し添えておきたい。私たちの人生における真の悲劇とはこの世で私たちが被る一時的な苦境ではなく、私たちが聖なる神に対して責任を負う道徳的性質に関した、永遠かつより重々しい問題である。私は決してあなたが直面している状況に配慮しないまま、その問題の重さを軽視しているわけではない。必要な時に応じて私たちを助けてくださる方も、「わが避けどころ、わが力、苦難のときの永遠の助け」である神なのだから。神に助けを懇願した人物が聖書には数多く描かれており、特に詩篇にはそのような聖句に満ちあふれている。しかし神が今まで私たちに与えてくれた「助け」の中で最も偉大で尊いものは、イエスの人格と業を通しての永遠のいのちである。

終わりに際して一言。神またはイエスについて、聖書が語る空腹の大群衆に食物を与えた話や、井戸の傍らで渇きが失くなるように最初にイエスに「助け」を嘆願したサマリアの女の話のように、「助け」を供してくれる一時の特典としか見ていない人がいるだろう。両者とも共感し得る喫緊な課題を抱えていたが、イエスこそが彼らの絶え間ない飢え渇きを真に満たす「いのちのパン」、そして「生けるいのちの水」であることを悟り得なかった。

あなたが唯一神のみにある、自分自身にとっての「助け」の源を見出すように祈りながら、締めの言葉とさせていただきたい。

 

 

神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

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Help God

神は愛している

Friday, October 17th, 2014

60年代の漫画シリーズ(米国)の「Love is(愛とは)…」というフレーズのように、私たちもつい自分で愛を熱弁してしまう。ある人にとって愛とは対象や物事への心酔を意味し、また人間の性的な表現にまで貶められることもある。他にも愛を温かく曖昧な感情か、もしくは一時的な気分の昂揚として解釈されることもある。霊的であると自負する人は、愛とは神であり相応しく行動することで悟りを得て神的な存在と結ばれるといった、神秘主義的な汎神論の視点で愛を説明しようとする。一方、人間関係の麗しさに真の尊い愛の現れを見る人もいる。しかしそのいずれも愛の豊かさや純粋さを語る上では不完全と言わざるを得ない。慈愛そのものである神のみがそれらを表現できるからだ。従って愛とは、ヨハネの手紙第1の4章8節にあるように、神の本質を示す際の鍵となる、根本的要素である。

神は愛なり、この告白はこれ以上説明を要さないほど、それ自身で完結している。そしてこれこそ人間が渇望している愛の型なのである。なぜなら私たち全て、人間関係が壊れ不完全な人間の愛への失望を経験するなど、不幸の先にこそ得られる愛があることを信じないで、それを荒唐無稽な形に歪め、条件付きで一時的、不完全で浅薄、主観的で信頼性に欠ける愛と摺り替えてしまうからだ。偽りの宗教ですら、この愛不足というジレンマには手を焼いているようだ。それゆえ愛の足りなさを哲学的に思索し自我忘却によって欲を退けるか、または誰もが愛を訴えもしない中でただの絵空事として愛を扱い、それとは真逆の概念である暴力を必然とする世界征服に焦点を定めるしか選べない。

状況を取り繕ったり、愛の喪失感を処理しようとカウンセリングやセラピストを探したりするなど、自然主義的な解決方法を模索する人も多い。こうして人間社会に蔓延する疫病を治療しようと、何十億単位ものお金をつぎ込む。聖書もこの自己陶酔に陥った人間が抱える深刻な傷害を指摘する一方、人間にはその傷心を癒すために、魂の欲する真の愛と出会う道が用意されているという福音を示す。

テモテヘの手紙第2 3章2〜4節  「自分を愛する者」
2 そのとき人々は自分自身を愛し金銭を愛しほらをふき高慢になる神をあざけり良心に従わず恩を知らず神に恐れなくなります。3 また情けを知らず和解せず中傷し節度がなく残忍になり善を好まず 4 人を裏切り軽率になり思い上がり神よりも快楽を愛し、

ルカによる福音書 4章18〜19節  “イエスは愛が人格化したお方”
18主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。種が私を遣わされたのは、捕われた人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。

私たち人間にとって神の愛は、愛という言葉により豊かで深遠な意味を与え、限りある人間的価値とは異なり、推し量れないほど高い標準とその適用を要求する。

神に言わせると、愛とは状況に左右される陳腐な、古い金言で「愛迷」と表現されるような、一過性の出来事や瞬間に制限される薄っぺらなものを指す言葉ではない。むしろ元来堅固かつ持続的で永遠不滅のものである。神がその慈愛により、私たちを愛する被造物としてご自分と和解させようとする、懸命な試みにその愛の重みと権威が裏付けられている。

Romans 8章35-39節
35「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。36患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か、私たちはあなたのために一日中死にさらされ、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37しかしこれら全てのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利をおさめています。私は確信しています。38 死も命も天使も支配するものも現在のものも未来のものも、39高い所にいるものも低いとこにいるものも、他のどんな被造物も私たちの主キリストイエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

コロサイ人への手紙1章20〜22節
20その十字架の血によって平和をうちたて、地にある者であれ天にある者であれ万物をただ御子によってご自分と和解させられました。
21あなたがたは、以前は悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし、22今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なるもの、傷のないもの、咎めるところのないものとしてくださいました。

私たちが理解可能な最も高潔な愛の形は母性/父性であろう。確かにそれに劣らないかもしれないが、天におられる父の愛がそのような人間同士の親密さの根源である。したがって親の愛を神の愛と比較することには自ずと限界がある。

マタイによる福音素7章11節
11 このようにあなた方はわるいものでありながらも自分の子どもには善いものを与えることを知っている。ましてあなた方の天の父は求める者に善いものを下さるに違いない!

神の愛は、「愛する」という動詞が示す行動を、自分のひとり子を犠牲に差し出すというレベルにまで引き上げている。それゆえその愛が本質的に犠牲的であり、私たちはイエスの人格およびみ業にその明らかな受肉を見るのである。

ヨハネによる福音書3章16節
16神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じるものが1人も滅びないで永遠の命を得るためである

神の愛は生まれながら神を敵として憎悪するような者たちの心を勝ち取ろうとして手を差し伸べるほど、忍耐強いもの。

ローマ書5章8節
8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。

ローマ書5章10節
10敵であった時でさえ御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

ヨハネの手紙第一 4:10
10わたしたちが神を愛したのではなく神が私たちを愛してわたしたちの罪を償う生け贄として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

この回を結ぶ前に皆様にお聞きしたい。あなたは今まで愛を空想上のおとぎ話として片付けてはいませんでしたか?あるいは代替のジャンクフードで空虚感や心の隙間を埋めようとするなど、人工的な解決で妥協してはいませんでしたか?その何れにしてもあなたを不健康かつ無気力に陥れだけで、本当の満足を与えてくれるものではないのです。一時だけ空腹を抑えるだけの間食では満たせない、魂に健康に不可欠な要素を盛り込んだ真の栄養食への飢え渇きが続くからです。

こういうわけで、あなたに欠乏しているものは神の愛であると断言できます。あなたの知らない、また経験したこともない快活さや満足感を得ることでそれがはっきりと分かるでしょう

コリント人への手紙 13章4〜7節
4 愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず高ぶらない。
5礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、罪を抱かない。;
6 不義を喜ばず真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、全てを忍ぶ

ガラテヤ人への手紙5章22〜23節
22 これに対して霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和寛容、親切、善意、誠実
23 柔和節制です これらを禁じる規定はありません

最後に一言、以前にも書かせていただきましたが人間の愛は限定的です。何よりも人の一生が極めて短いこと、そしてたとえ人間関係は不可欠でも、それが究極の現実と満足感を約束するものではないことが理由にあります。神のみがこの期待に応えることのできるお方なのです。

もしやあなたは間違った場所に愛を見出そうと、神を別の贋物と取り替えてきたかも知れない。しかしそれでも神はあなたを「Lover of your Soul(あなたの魂を愛する者)」として慈しんで下さいます。その愛は完全な愛であります。親愛なる皆様、どうか神の愛を今日からとこしえまで体験してください。以下のリンクで神からの愛の賜物を知って、それを受け取るための方法を紹介しますので。是非ご覧下さい。
神と関係を持つ方法 
終わりに、神の愛によって人生の変化を経験した人々の実話を紹介します。この後の選択はあなたに委ねます。
イエスについての私の証し
www.cbn.com/700club/features/Amazing/

 

 

神と関係を持つ方法

 

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God is loving

神は杖

Friday, October 17th, 2014

この表現は人々が神という存在に対して持ちたがる、一般的な情緒的イメージである。無論、それは信仰者に啓示された真理の内容に反するものではない。私たちには仕事、車、銀行、医者、病院、光熱のほか、様々なものが必要である。危機的な状況に陥った時、私たちはカウンセラー、精神科医、支援グループ、薬、そして家族にすがり、人生に付いてまわる心の痛手をケアする。正に相互依存し合う人間社会のあり方を映し出しているのだ。ではその実態と神という概念との違いはどこにあるのか?それはただ神か否かの違いだけで、それ以外は何も異なることなどない。私たちはその取り巻く文化との共依存関係にあり、自分たちの存在や命と切り離すことはできない。

私たちの過ちは自分たちが誰にも依存せずに人生を歩んでいるかのように錯覚してしまうことである。私たちは自分の存在や現実についてはほんの僅かな知識しか持たない有限な者であり、人生の初めからこのかた、よろめきながら歩んでいることを忘れてはならない。

私たちが人生の溝や死の危機に直面し現実に向き合う時、この真実が私たちの目から鱗を落とし、驚くほど強烈に胸に迫ってくる。

既に現実に気付いているか否かは別として、あなたにも避け難い必然に直面する前に、この真実を悟る道が開かれていることを覚えていただきたい。

 

神と関係を持つ方法

 

 

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無神論と不可知論のための参考資料

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God is a Crutch

熱力学の第1法則は創造主としての神の存在を反証するのか?

Friday, October 17th, 2014

熱力学第1法則は恒久的な科学的法則ではない。その「エネルギーは生まれもせず、また消滅することもない」という視点には、ある意味で哲学的な側面が伺える。この見解は現時点で確認可能な、エネルギー総量の一定性に関するデータを拡大解釈するものだ。そして憶測によってそれらを、永遠へと向かう時間の旅を提唱したあの有名な不朽の理論と関連付けているに過ぎない。しかしこの自然主義的な立場はその正当性を証明できておらず、実質、願望からの思い込みの域を越えていない。それにも関わらず「これが真実」という調子で独善的に持論を展開する。

このような強硬路線を敷く科学者たちの実情を見ると、経験主義を本分するその分野から形而上学的立場へと転向する動きが確認できる。つまり「ある、ない」と、白黒の解明を目指した一般的な科学的探求に代え、物事を「あり得る、あり得ない」という視点から説き明かそうとする姿勢が窺えるようになった。このように生物学的にも限りある私たち人間には、科学の認識論的な考えや価値観に確信を抱くことは土台不可能であることを認め、そこからの脱却をはかろうとしている。こうして科学のみでは全宇宙の起源について、いくら博識ぶってもその永遠性を解説することはできず、それゆえその永続と消滅のいずれも占うことはできないことが露見される。

次に熱力学の第2法則に注目してみよう。これによれば宇宙は明らかにエントロピー(均質化)の勢力に屈しながら、使用可能エネルギー量の減少により徐々に活動を鈍らせつつ均衡状態へと向かっているという。この現象が本当ならば宇宙を永遠不朽の機械とするよりも、むしろその開始の存在を裏付けることになる。そしてもし明確な起源があったとするなら、そこには何らかの原因、つまりそれを引き起したものが存在しなければならない。この因果説は最高権威者として世を統治する神の創造を支持する、聖書の創造論モデルと合致する。神こそ全ての物事および現実を、時点と空間に合わせて生み出す外的な原動力であり、宇宙をその終末へと導き、その先に新しい秩序を造り出すお方である。

この主題の結論として、根拠のない永遠的存在を信じる物質主義的な無神論に傾倒することは、最も偉大な超越的な神という概念を受け入れることに優って荒唐無稽であると訴えたい。その創造の業の付随的または従属的な効果が、全能者の摂理とそれが反映する知性を体現。そして精巧な仕組みを体験可能にし、それが偉大な設計者による意図的な産物であることを明らかにするからだ。

生命は偶然によるもの?

最後に一言。創造主としての神を否定するために立てられた証明に、議論の声が上がっている。贋物の科学というある種の宗教による教理は、神をその被造物である宇宙から追放できないばかりか、宇宙の起源となる要因の存在が信憑性を増すに連れ、神を歓迎し招くためのドアを開けざるを得なくなっている。

創世記1章1節
1 初めに、神は天地を創造された。

 

詩篇102編26-28節
26 かつてあなたは大地の基を据え
御手をもって天を造られました。
27 それらが滅びることはあるでしょう。しかしあなたは永らえます。
すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると
すべては替えられてしまいます。
28しかし、あなたが変わることはありません。
あなたの歳月は終わることがありません。

 

ヨハネの黙示録21章1-5節
21 最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4  彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

 

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Does the First Law of Thermodynamics disprove God as the Creator?

進化論はサイエンス・フィクション

Friday, October 17th, 2014

私たちは教科書から得た情報全てを信じ込む傾向にある。私たちが出版された物を読む時、無意識に働くバイアスによってより踏み込んだ検証および分析が妨げられ、伝えられていることをそのまま真実として受け入れてしまう。こうして著者の知性と偏見からのひらめきや観点に縛られた紙切れによって得た考えが、自分の世界観を形成していく事態を招いている。情報を満載したプロパガンダは実に巧妙であるゆえ、私たちはそれを見抜けずについはまり込んでしまう。ヒトラー曰く、何かを声高にしかも長い時間語り続けるなら、人はそれを信じ始める。

科学者が実際に起こったと推定される現象を説明するために編み出した、進化論というキーワードはよく知られている。理論または仮説といった立派な言葉が使われるが、必ずしも真剣に議論されているとは限らず、忘れ去られることも多々ある。何事も否定的に見るその傾向ゆえ、人は的を射た反論を正統な理由もなく退けてしまうためだ。また彼らにとって持論以外を認めることは無神論の敗北を意味しかねない。もし自らの理論を構成する方程式に神という要素が浮上すれば、生命について仮説を立て直す必要が生じ、今まで自分たちが積み上げてきた知的業績に汚点を残すことを恐れるのである。しかし大前提として理論構造の土台を成す推論および仮説に絶対的なものは存在しない。いつか構造的理論が瓦解して被害を被らないようにお気を付けを。

進化論は一つの説に過ぎず、まだそのストーリーは未完結のままである。現代の技術的進歩や考古学的発見にも関わらず、ミッシングリンクのパズルは依然解けず終いのまま。そのことは生命を知的な何かによる被造物として説明するほうが至って合理的であることを証明している。

変則的偶然のどこを議論の起点とし、またどの課程を掘り下げるにしても、科学者は時に原点を見失い、起源に触れないまま熱く持論を展開するという失敗を犯します。科学は創造主の非存在を証明することはできない。それどころか生命の繊細さと複雑さ、および見事な調和から、創造科学という概念を支持せざるを得ないところまで来ている。そもそも科学者がビッグバン説を唱えるのは、宇宙が拡大していることを彼らが知っているからだ。つまり永遠に存在する無限の空間としての宇宙より、創造されたという聖書的宇宙観を支持していることになる。奇妙なことに科学者はビッグバンが巨大な連続的爆発に起因することに触れながらも、その爆発の原因については言及していない。

ダーウィンは考古学的証拠が存在して初めて、自分が打ち立てた学説の信憑性が確保されると明言している。しかしミッシングリンクや中間形態のように彼の説を詳細に裏付ける証拠は発見されていない。むしろ証拠として提示または確認されたものは後に偽造あるいはねつ造であることが発覚しています。一方、知的存在による意図的創造を唱える理論モデルについては、生命が同種内の遺伝的継承によって成り立っていることを裏付ける証拠が挙がっている。

進化論の問題はその知性よりもむしろ道徳的な意思にある。進化論は神の存在を容認したがらない人々を心酔あるいは満足させるおとぎ話に成り下がってしまった。科学者の無知による信念を持続させ保護するための仮説という脆弱な壁は早晩崩壊し、創造された生命秩序を支配する至高の存在を訴える声に変わるだろう。ローマ書1章18〜32節がこのロジックについて語っています。

このブログでは歯に衣着せず単刀直入に物を言いますが、ではあなたなら科学に取り組むときと同じ程度の関心および真剣さで、バイアスを抜きに神の存在を証明する可能性の研究に臨めますか?教授や教科書からの情報も使わずに、ただ証拠だけを持って自分の考えを形成することができますか?また自分に関する同業者からの定義を拒み、自分で自分自身のことを説明できるでしょうか?

この世界とあなたご自身の創造主に祈りを捧げてみてはいかがでしょうか?神が現実に目に見える形でご自身を顕現され、あなたが神を信じることができますようにと、疑わずに本当に真実を探求する者として、誠実な心で祈ってください。科学によって神の存在を否定しようと試みる多くの人々が、皮肉にも神への信仰に入っているのです。ジョシュ・マクドウェルやリー・ストローベルのように、キリストの証人を論破するという使命に燃えていた者たちが、聖書の真理が心に鳴り響き始めてからというもの、神から来る声を抑え切れなくなったのです。

詩篇19章1〜3節
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく 声はきこえなくても。

 
神と関係を持つ方法

 

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Evolution is Science Fiction

快楽主義は幸福の源?

Friday, October 17th, 2014

私たちの文化では「快楽を得る」ことが持て囃されている。快楽主義とは、このキャッチフレーズをその価値観ごと包み込んだカプセルを、快楽が成功や満足のツールとして売られている消費者中心のファンタジー世界に詰めることを指す。

この衝動主導型ライフスタイルは物質主義の王道を意味する。アメリカには「最もたくさんのおもちゃを持つ者が人生の勝者である」という諺がある。人の価値観や欲求が、物や富の蓄えに対する執着につながることを示唆するものだ。

この哲学の傾倒者は自らの信念に従い、日常生活全般にわたって体験や好色の貪りに執心しがちになる。 快楽主義は仕事、セックス、ドラッグ、娯楽、物質主義、知識、または苦痛を最小限にするか、または回避しながら、快楽のユートピアを味わえるような物すべてに潜んでいるのだ。

快楽主義者曰く、苦痛は回避すべき敵だ。しかしこの世界で生きる限り苦悩を避けることは不可能である。それゆえ快楽を最大限にすることで必然を回避しようと試みれば、快楽主義を現実逃避主義の一形態に変えてしまうことになる。苦痛を遅らせることは可能でも排除することはできない。私たちがどれだけこの死神を食い止めようと足掻いても、早晩、必ず我々の前に現れるだろう。

快楽主義が破滅的であると言われる要因の一つは、それが目標達成のために他人を傷つけるようながさつさにある。心に浮ぶみだらな欲求を支えに、自分を神の位置にまで高めてしまうような混じり気の無い自己中心さがこの精神の根底にある。私たちの間では「お人好しが馬鹿をみる」と吹聴される。そう考える人にとっては、社会の犠牲を省みずに自分の欲望すべてを満たすために先を争うことで頭がいっぱいなのである。

罪深い人間の欲情、好色に満ちた目、所有や行いによる慢心を約束するエデンの園にある禁断の果実には、常に犠牲を孕んでいる。その犠牲は神との断絶にまで発展し、やがて最終的に死の宣告を意味することになるのです。

今日私たちの社会では、この犠牲が非常に現実味を帯びながら個人化している。宝くじ当選者が全てを獲得した後で全てを失い、セックス体験を誇る人が性感染症やエイズを発症し、出世欲に取り憑かれた人々が“ワーカホリック”と呼ばれながら、ある日退職あるいは失職した後で燃え尽きてしまっている姿を見ます。また同じ程度の「快感」や効果を得るために投与量を増加せざるを得なくさせる性質によって、「ハイ」な気分を求める人々を虜にする薬物依存もその良い例だ。

中毒化した欲望から生ずる止まない空腹痛を抑えるための、新奇な体験への飽くなき探求は真の「欲求」解消のためのメインディッシュを先延ばしにするような、その場しのぎの前菜にしか過ぎない。これは快楽の問題全てに該当する点である。実際、それは到達しない人間を欲求不満に陥らせるか、または到達した人間が飽きを覚えるような、自分の妄想や空虚話を追いかけることを意味する。

幸福は一過性のものであり、さらに環境が影響することも少なくない。ジェイクミラー(アメリカのポップシンガー)の言う「ハイライフ」という究極の「呼び音」に応答して、その中にひたすら詰め物をすることで心酔できる幸福に、多くの人が価値を認めます。しかし、ほんのわずか数時間後には苦痛の現実に戻り、ちょうどしらふになった時の二日酔いの気分を味わうのが関の山だ。

そこから何かを学ぶのか?答えはノーだ。その道しか知らないゆえ、後には引けなくなるくらいまで深い轍にハマってしまいながら、それでもなお再び「荷馬車」へと戻っていくのです。

しかし幸福は本質的に瞬時に過ぎ去りなおかつ間断的に訪れるため、一挙に全てを捕えることは不可能である。それは最後には止まることが決まっていながら、起伏の激しいサーキットを疾走するローラーコースターに喩えることができよう。制御することを覚えないと、同じ生活サイクルを繰り返しながらその儚い爽快気分を再体験しようと、再び乗り物に駆け込むという悪循環に陥ってしまう。

では、ある快楽から別の快楽に移るという狂気沙汰じみた究極のアドベンチャーへの探求はどこで終わるのか?不幸にも行き着くところまで行き着かなければ終わらないケースが大半をしめる。だが、なす術も無い惨めな人間にも、この快楽主義人生という遊園地の外に希望が用意されている。

私たちは快楽主義が自滅に至ることを理解していながら、その欺瞞を見抜けずに人生を送ってしまうものである。私たちの人生は快楽を追求することでその現実を見出せるようにはできていない。むしろ愛・喜び・平安といった絶えることのない永続的な内面的価値にこそ認めることができる。この源泉はこの世のシステム中には存在しない。神を抜きにしながらこれらの徳を虚飾に満ちたライフスタイルと比較するなら、まったくの的外れと言わざるを得ない。

神が支配する世界では、厳しい困難、試練、苦悩の最中に体験できる、内面的な性質として喜びを位置づける。平安は嵐の中の静けさを指し、愛は止めどなく溢れ出る泉のようなもの。私たちはキリストにあって、語り尽くせないほどの栄光に満ちた喜びを味わうことができ、人知にまさる神の平和を得られるのだ。

人間の自己実現や快楽への探求という肉体的欲望に浸りながら、あらゆる束縛から解放される道を模索した、伝道者の書の「伝道者」こそ快楽主義者の極みであった。彼の欲求を満たすために必要な手段を駆使し、その時代を通して太陽の下で行われる人間の営みを観察した結果、その書物の冒頭で示されるように「なんという空しさ、すべては空しい」という結論に達したのだ。

富や名誉を好む志向が打ち砕かれているにも関わらず、未だに快楽主義者たちがこのようなライフスタイルを喧伝し続けるこの時代、この伝道者の言葉は真実味を帯びながら鳴り響く。快楽主義のライフスタイルは全くの嘘かあるいはごまかしであり、「自己達成」という仮面を被りながらエデンの園に現れた蛇のように私たちに忍び寄るのだ。

私たちはアメリカ人として現代社会が生み出す便利さや贅沢さの全てを享受する特権に与っている。この21世紀に私たちが持てる量は、人類史上99%を占める過去の世紀の人々のものより遥かに上回っているのだ。それにも関わらず今でも精神病棟や刑務所が存在し、医療スタッフは必死に過剰医療の人々のニーズに応えようとしている。この文明の進化論に酔いしれながらの幸福の追求に終止符を打つべきではないか?

私は、幸福が子供染みた自己中心的な満足感から得られるものではないと確信しています。幸せにはなれないという宿命論的人生観を持ち出し、人生の早い時期にそのレールにハマってしまう人がいます。そんな彼らにとって死は人生の苦しみから逃れるための合理的な選択であるのかもしれません。その他、そのレール上でただ「虹の彼方に」を歌い、やがて夢の実現に行き着くというおとぎ話を想像している人もいます。
「幸福」という枠に納まった人生は多くを約束しますが、最後にはあなたを孤独、空虚、破産に陥れ、または拒絶を味わい快楽主義の神々との共依存を深めていく中毒者となるでしょう。

人がなし得る業の全てに思いのまま耽ったあと、伝道者の書の著者は万事に関する目録を作成し、人は神を恐れその戒めを心に留めるというその本文に勤しむべきであると説きました。この人物はその人生を通して、人間の栄華を極めた知恵の体現者という地位を得たのです。

知恵者であるこの「伝道者」の招きに応答しますか?あるいは飲み食いについての歌詞をメロディにのせて歌う愚者の歌に心酔しますか?それとも死にゆく明日を前に思う存分快楽を堪能しますか?たとえ蛮行によってある程度幸福を得たとしても、最終的に聖書は罪から来る快楽が儚いことを警告します。しかしこれとは裏腹に、「今、この時」、もし神から下る富を享受するなら、未来永劫に続く非常に価値のあるものが得られるのです。
神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Does hedonism promote happiness?

無神論者は存在しない

Thursday, October 16th, 2014

神の存在を声高に否定する人々がいるが、この立場を確証づけることは不可能であり、真実性を認めることはできない。ある特定何かを信じないということは、それが存在しないことを証明するものではなく、むしろ単なる1つの信仰体系に過ぎない。神は存在しないという独善的な信念を訴えるには、宇宙の隅から隅までを調べ尽くした全知全能なものが存在することを前提とする。神は存在しないことの明確な論拠を打ち立て、それを絶対的な真理として公開することは、精神異常以外のなにものでもない。

 
神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Atheists Do Not Exist

命は偶然?

Thursday, October 16th, 2014

私たちが幸運な出来事あるいは偶発的に訪れた機会による産物とする考えは、科学によって完全に証明されていない。私たちの宇宙に関する知識が増し加わるに連れて、この洞察への真摯な検証が可能になった。さらに私たちが天性の意識によって、人間だけがこの不条理な宇宙に存在しているわけではないことを知るに至った。その背後にあるのは偶然を超越した現実の存在である。

生命については、その美しく精緻で、かつ説明しがたい複雑な性質を裏付ける膨大な量の証拠がある。それによって、私たちが観察できるものも仕切れていないものも、目的と計画を持った設計者兼管理者によって創造されたことが証明される。

創造の背後に意図および配剤を認める目的論の確証に貢献する、目を見張るようなデータを以下にリストアップした。様々な現象についての圧倒的観念を支持する幾つかの真実を紹介したい。

もし宇宙の膨張率が1055分の1速かったら銀河は形成されず、またもし100万分の1遅ければ地球の温度は1万℃に達する。

もし地球の軸が傾いていなかったなら、地球は生命を維持できる表面温度を確保できない。

もし地球から太陽までの距離が少しでも違っていたなら、水分の安定した循環が損なわれる。

もし星同士の間隔がほんの少しでも違っていたら、地球の軌道は変わり深刻な温度変動を招く。

もし地球の地殻が少しでも厚ければ大量の酸素がその表面に流れ込み、逆に少しでも薄ければ火山活動および地殻変動が著しく活性化する。

もし重力による月と地球との距離が違えば、潮が大いに乱れ深刻な大気上の問題が起こるでしょう。

もし重力が1040分の1でも違えば、太陽は消滅し月が地球に飛び込んでくるか宇宙空間に向かって方向転換してしまいます。

もし重力が少しでも増加すれば、太陽は急速かつ不規則に燃え上がり、生命体の存続は不可能になる。

もし地球の重力が少しでも大きければアンモニアやメタンガスが溜まり、逆に少しでも小さければ地球上の大気から大量の水が失われてしまいます。

もし一日の長さが異なれば気温が極度に上下しさらに風速が上がることで、生命存続が極めて難しくなるでしょう。

もし酸素レベルが上下に関わらず今よりも5%違った場合、酸素過多によって制御不能な火事を引き起こし、酸素不足によって人間は窒息してしまいます。

もし惑星運動にかかる遠心力と重力とのバランスが損なわれた場合、太陽を取り囲む軌道経路に存在するものはなくなってしまうでしょう。

もし光速にわずかな違いが生じた場合、様々な定数を変えてしまい寿命の予測が立たなくなります。

もし木星が現在の位置になかったら、宇宙の塵屑が地球に降り落ちてくるでしょう。

ここで見たようにただ偶然的な巡り合わせと一概に断定し難いほど、多くの「もしも」が存在する。これら全ての出来事や物理的動作が全知全能なる存在の介入とは関係のない、単なる偶然の出来事であると明言するのは少し無理があるのではないか。科学にこそ極端に走る傾向が認められ、一般市民とは全く関わりのない地球外生物の存在を信じ、SETI(地球外知性体探索)のような神秘主義的な調査からの論理によって、これらの事象に関する弁解をはかり、さらに有神論的世界観を否定し、何の裏付けも無い哲学的な多元宇宙論的な発想を生み出している。

科学者は自然主義と同じく、自分たちを有神論から救ってくれるような、無人格の神的存在としてその持論や仮説を信奉する。さらにそれらを進化論に結びつけようとする大自然主義は、科学というより寧ろ民話・神話・想像・そして迷信じみた下世話なおとぎ話を、あたかも魔法の杖を振るうごとく巧妙に利用しながら、生命を真しやかに組織立てて管理するものである。

スティーブン・ホーキングはそのような神格について触れることは避けている。そんな彼も生命が「どうやら」「明らかに」に何者かによって設計されていることを認め、なぜ宇宙が存在するかについては実際のところ分からないとして切って捨てます。アインシュタインはさらにもう一歩踏み込んで、ビッグバン的宇宙論や自然淘汰などの無生物的力とは異なる、人格に語りかけるような知性を創造者の属性に認める。一神教的な思想を抱く宗教でも、生命を持つ力について抽象的に言及する。一方科学については、観点が宗教的あるいは非宗教的であるかを問わず、実に明白な真実を軽んじながら、自己の関心に都合の良いバイアスに執心しているかが分かる。

無神論者および不可知論者は当然のように、聖書が語る人格的な神に対して敵意を抱く。また惨禍や混沌を「神の仕業」に帰したり、呪いの言葉として神の名を語ったりするなど、ネガティブな形で神に言及するが、何れにせよ、自分たちの想像の域を超えた虚空の存在を援用する皮肉からは自由になれない。

ローマ書 8章7〜8
7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

聖書の神に対する反論の一つによれば、信仰を持つ前にその存在を確かめるに十分な証拠がなく、要求する人々の期待とは裏腹に、その存在に確信が得られないと言う。それはずる賢くも神を無視して遠ざけ続けることを正当化し、うさん臭い弁解を繕いながらカモフラージュであり、誠実かつ平和を装いながら、実質神を軽んじながら拳を振るう態度に他ならない。

だがもし神が神であるなら、人間が神の介入と顕現に関するルールを設けることが果たして許されるのか?もし神が一般的かつ基本的啓示を通して、既に十分な証拠を与えて下さっているにもかかわらず、人がその本能的知識を伝達かつ共有しながら、なおもそれらを適切に活用または統合しようとしない中で、どうして神の性質に関わる特別かつ詳細な啓示を要求し得ようか?さらに、陶器を形造る陶器師のように、被造物に対して絶対的な権威を持つ創造主の永遠の摂理を、一時的な不慮の出来事をもって規定することがどうして正当化できよう。信仰対象が何であれ、言うまでもなく懐疑論者はあくまで懐疑的であり続け、批判者は間違いなく常に批判的であり続ける。それはキニク主義の神に仕える信者とて同様だ。

これはまさにイエスが行う多くの奇跡を目の当たりにしながらも信じようとはせず、さらなるしるしを要求した当時のユダヤ人宗教家たちと同様である。彼を批判する者たちは神の概念を持ってはいたけれど、イエスを救い主として受け入れることを拒否し、断固として極端主義的な道を曲げようとはしなかった。

これは金持ちのたとえ話を通して、自分の兄弟に差し迫っている地獄の危機について兄弟に警告しに戻ってくれる誰かを探し求めている男に暗示されている。これでも彼らを悪から立ち返らせるには至らなかったが、預言の通りにイエスの復活することで要約イスラエルの国に成就した。

神に全ての開示を要求しても、人間が完全に理解することは不可能である。少なくとも信仰の旅路を出発するには、神が既に与えてくださっている情報で十分なのだ。

実験台の明かり下で照らしながら、人間の道具を持って神を検証または解剖することを欲するかもしれない。しかし神はこのような形で観察されることを了承しないし、まさにアインシュタインが指摘するように、神の全知と比較すれば実に限られた知性しか持たない私たち人間には断じて不可能である。さらに神は霊であって有形の物体におさめることは不可能である。例え神が宇宙の中において働かれることはあっても、そこに拘束または収納されることをあり得ない。私たちは人間であるがゆえにその知識は極めて限定的であり、断じて神たり得ない。さらに天におられる建築家が手塩を込めたこの物質世界における雄大な構想を理解するために、私たちにも認識可能な証拠が十分そろっている。それゆえ人間側のより豊富な情報に係る要求に応えない理由だけで、神が無視されるようなことがあっては決してならない。

神による創造の業について、研究による認識に留まるような有限な被造物には、物質的事象からの分析が不適切であり、それゆえ氷山の一角を発見しただけで、氷山全体である神にその全てを曝け出すように要求することは正に愚の骨頂である。

とにかく言葉や文字によるコミュニケーションは、グノーシス主義の曖昧で分かりにくいメッセージとは一線を画す、現実的な発見方法として意味がある。私たちを神存在に関する基本的理解にのみ導くのではなく、神が創造された摂理に仕える僕として私たちが神と他人とを愛することを念頭にし、神の卓越した知性に応答できる道徳的主体であることの自意識を通し、神に結ばれながら親密な関係および交わりに至らしめる。この知識は神の存在に関する一瞬のひらめきからの仮説より、私たちの創造主に対する畏敬の念を触発させる証人として私たちに仕えるのであり、脳内の前頭葉を刺激するような陳腐な脳内トレーニングとはわけが違う。

詩篇19章1〜4節
1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。

おそらく神を無人格な時計職人のように、宇宙のネジを回した後は一切関与せずただ成り行きに任せるような存在として観るような、いわゆる理神論を好む人々もいるだろう。しかしこの立場も信用性に欠いている。なぜなら様々な場面や行為において鮮明に現れる愛の性質を肌で実感し、さらにそれを関係構築の道具として用いる能力を持つような人格的かつ社会的な被造物を、無人格な神が創造することほど荒唐無稽な話しは無いからだ。私たちが調和を保ちながら互いに結び合う一方で神だけが孤立を選ぶのは信じ難い。それに加え、理神論では神が時間と労力を費やしてまで創造を行った理由について十分な説明がつかない。他にすることがなく時間を持て余していたため嫌々創造を行い、その後、自分の作品が破壊されている間、傍観者として何の感情も覚えずに、ただ漫然と遣り過ごしているとでも言うのか?

まるでカウボーイやインディアンになり切る子どものように空想と現実とを錯綜させながら、神は人生に起こる災禍に対して責任を負うべきだと言い張る人もいる。だが神にとって公平な愛も気まぐれも同じく混乱や混沌をもたらすもの。それは私たちにも確認できる神の秩序を受容する人生とは明らかに異なる。神の地位は諸悪の問題に対処する領域を超えているのだ。しかし誤解が無いように言いたい。問題の根源は神にはなく私たちの側にあり、それは私たちの良心がこの現実や責任について証しているところと合致する。

ローマ書2章14〜16節
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。15 Tこういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。16 そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリストイエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

学問の対象として神を検証するような特権は私たちに与えられておらず、神の方にこそ私たちの考えを露にすることで私たちの心の動機を探り出す権利を持っている。

たとえ私たちが真理を確認するために真剣な努力を積んでいるという自負があっても、最も義なる永遠の裁き主として人間を鋭く見分ける知識を持ち、人間が隠蔽しようとするその心の内を読み通す全知なる神は、私たちをいとも簡単に丸裸にしてしまう。

神を切り離したまま自分の考えに確信を抱くことは愚かであり、それは単なるまやかしに過ぎない。まるで壊れた松葉杖のごとく、もたれ掛かることで折れてしまい奈落の底に落ちてしまう結果を招くのが目に見える。詳しくは詩篇139編とエレミヤ書17章9節の言葉を参照していただきたい。

ヘブル書4章12〜13節
12というのは、神の言葉は生きていて、力があり、もろはの剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の前には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

仮に無神論や不可知論から嘘偽りのない答えを引き出せたとしましょう。しかしそれらの論理が抱える問題の本質は情報不足による知性の欠如になはなく、むしろモラル上のジレンマにこそ認められるものである。自己陶酔に浸りながら、行く末も考慮しないまま傍若無人に心と人生を支配する者として、自分を崇めるような高慢さがそこには見え隠れするからだ。

しかしパスカルは、特に人間に分が悪いことを考えると、自分自身にその一生を賭するような立場には同感できないと語っている。神を否定してまで自治を追求することに何か価値はあるのか?イエスは自分の魂以上に価値あるものがあるだろうかと問う。この全世界を手に入れたとしてもそれで十分だと言えるだろうか?世界を手中に収めても幸福や満足を得ていない人を思い浮かべるだろう。神無しの人生はその人生を壊滅させることを約束し、あなたが見返りとして期待していたものを決して与えはしない。

終わりに際して、神学ではなく物理学を基とする人間原理の概念は神についてのあらゆる側面に答えを出すことはできませんが、神を誠実かつ真剣に知ろうとして一歩を踏み出すならば、神を求めていく先でより多くのものを見出せます。何にも先んじてお勧めしたいことは、リー・ストロベルの「Case For(弁証)」シリーズやジョシュ・マクドウェルの著書を通して、懐疑論者と同じ道を辿った挙げ句人生に行き詰まった過去の無神論者たちの知的営みを参照しながら、人間としてのイエスからご自分の探求を初めてみることです。より深く高度なレベルに踏み込みたいと思われるなら、ウィリアム・レーン・クレイグのようなタイプがお勧めかも知れません。とは言え、科学者も含めたあらゆる職業の人々の中に、その合理性を認めながら生涯にわたってキリストへの信仰を貫き通した人々がいることを覚えていただきたいのです。あなたの学びに役立つリンクをご紹介します。
www.leestrobel.com
www.josh.org
www.reasonablefaith.org
en.wikipedia.org/wiki/List_of_Christian_thinkers_in_science
科学の専門家としてあなたは科学的かつ統計分析的な思考過程を与えられているかも知れません。情報やデータを獲得・集積・解釈を行う使命を帯びる人間として、この問題の複雑さを肌で感じている誰かに対して責任を負っているのです。よりよい調整法や思慮深さからも、この深遠な真理に対してあなたが与えられている弁解の余地は少ないのです。さらに研究の結果が誤用され、思い上がったメッセージを研究所という説教台から言葉巧みに語り、思いがけない魂を転向させてしまった場合、それは専門職としての質を疑われるばかりか、科学の背信者として異端視される恐れもあります。

中立性の真空地帯の中でバイアスを排除しながら自分の専門分野の研究に取り組んでいると思われている方々が入るかも知れません。しかし神という要因を除外するなら、それは全く信憑性のないものに成り下がってしまいます。何ら確証性がないまま、用意済みの科学的枠内での解釈的予想に合致させながら、説明可能なモデルまたは成果を望む本人または他人の期待に応えるだけのものだからです。多元宇宙論や循環論など、ある特定の宇宙論モデルの立場を強くすることは、世界で唯一正しい自然主義的論理があることを前提とする。さらに自身を仮説へと閉じ込めて何の根拠も無い馬鹿げた説を信じる類いの行為は、偽科学の名の下で立てられた祭壇において、神を冒涜する迷信的な宗教的儀式を行いながら、目に見えない想像上の自然主義の神に心酔する行為と何ら変わりはありません。

中立性の保証は結果もしくは真実を前提として要求するため、たとえ科学界の共通理解の範疇を超えていたり、ジャーナルの紙面外での紹介しかなくても、そこには真の探求的姿勢を認めることができます。その探求が新奇なため確信が持てないために恥を覚えるかも知れません。しかし人間の恐怖感がその結果に影響を及ぼしてしまうなら、科学としての信頼性を損ねてしまいます。自らを内省しその誠実さの度合いを計り出すために自問してください。神が本当に実在する場合、自分にはその神を知ろうとする意思があるのか、あるいは神に自分の人生の主権を譲ることを躊躇して、神を遠ざける懸念や理由があるのかと。きっとあなたがこれまで神という概念に拒絶反応を示してきた根源を見出す助けとなるでしょう。

またおかしくもあり羨ましくもあるが、明らかに一つの正論しか存在しない弁論の場で、双方の立場から上手く弁舌を振るうことができるほどの豊富な教養の持ち主がいます。

イエスに敵対するパリサイ派ユダヤ教から改心し、改心前からほぼ全て備わっていた知識を武器に、多大な功績を残すキリスト教の護教者となった使徒パウロがまさにそうでしょう。もしかすると例えば科学の専門家が同じ役割を担うことができるではないでしょうか?その道を閉ざす唯一の問題は好みや趣向であって、真理への固い確信ではありません。

とどのつまり、神は絶対に存在しないなどと語るための十分納得のいく理由はないのです。たとえ完全には知覚されたり理解されたりしなくても、神の存在を疑う余地がないほど、人目憚らずにご自身を明らかにされるからです。チャンス・偶然・幸運の神に信仰を置いてしまえば、ライバルである有神論者に差し置かれたまま盲目の悪循環にはまり込んでしまうでしょう。

もしやあなたの信仰は現実の極みとしての物質主義的な世界観にしっかり支配され、神を探求することは目下の研究や専門分野からは全く乖離しているのかもしれません。しかし科学的発見の持つ高尚な目的とは、結果ではなく元の原因を見出すことにあるのです。自分が誰でありなぜ存在するのかという、私たちの存在の根幹を占める深遠かつ個人的な関心事である人生の最終目的の発見は、重大な発見すべてに対して意味を持つからです。

したがって物質主義的な箱の中にすべてを収めようとすることは単なるその場しのぎにしかならず、顕著な結果を残さないままただニーチェのニヒリズム的袋小路にしか行き着かないでしょう。

あなたの専門分野とは違う、神学者の仕事または関心事としての超越的な現実を否定しても、神秘主義の産物を理解するよりも容易な、重要かつ直接的な推論に満ちた偉大なメッセージを否定することはできません。これもまた要点全体が見落とされる点ですが、科学は第1に万事に起こる効果や現象を超えた崇高な発見につながる道として期待されているのです。科学は大切です。しかしそれ自体では、最終的に出ている結果や現実を超えた大きな問題に対して、メッセンジャーとして役割を果たすだけの答えはほとんど持ち得ません。

宇宙論や天文物理学的発見に存在する、神の存在論の目的論的証拠を見過ごすことは、自然主義または自然主義的哲学への深い傾倒の根拠となる包括的な原則を見過ごすと同様、不誠実に見られます。より深遠な神学的応用へ移行しないままただ探求に止まってしまうなら、ただ皮相に過ぎない知識の表面を削るようなものです

結局、個々の事象全てを窮屈な定数の領域に収めようとすれば、闇に覆われようとしている地球を振り返りながら、その魅惑的かつ美しく他の全てと見事なコントラストを描く生命に満ちた青色の珠玉を眺めるような、神の栄光を現す壮大なショーを世界で初めて観る、宇宙飛行で最前列にいた宇宙飛行士のように、言葉を失う経験をするでしょう。科学も同様、DNA発見を例に見るように、様々な専門分野が有神論とのかけ橋を照らす光となるのです。あなたはそんな貴重な知的産物を間近で確認できる特権や責任を与えられているのです。これをお読みになるあなたがその1人になることを切に望みます。

最後、簡潔化できない複雑な仕組みを持つ人の眼の中にも、神による創造の摂理を観察できます。眼球が適切に機能させるために40以上もの異なる部分が同時に働くことが前提であり、もしそれを果たさない場合は退化していた可能性もありました。果たして眼球はどうやって自らを機能させ、脳と連携することを覚えたのでしょう。深く考えさせられます。

有名なラビがかつて、見る目を持っていながら知覚しない者は神の現実に対して盲目であると語りました。しかし、堕落し罪で汚れた状態の人間が陥る、神に反抗する道しか目に入らないような近眼とは異なり、イエスが癒すものは理解されるべき真理を悟るでしょう。皆様が神に出会うことを切に願います。神は遠く離れてはいません。その驚くべき創造を通して神を理解しようという意思を持つ人に、神はご自身をはっきりと現して下さいます。

 

 

神と関係を持つ方法

 

その他のリンク

無神論と不可知論のための参考資料

日本人

Is Life an Accident

 

 

Encyclopedia of Religion Second Edition, copyright 2005 Thomson Gale a part of The Thomson Corporation, Lindsay Jones Editor in Chief, Vol.12, pgs.8180-8192, Ted Peters

Holman QuickSource Guide to Christian Apologetics, copyright 2006 by Doug Powell, “Reprinted and used by permission.”

無神論と不可知論のための参考資料

Wednesday, October 15th, 2014

情報満載の大変素晴らしいwebサイトです。
carm.org/atheism

 

このwebサイトには著名で信用性のある、創造論を支持する科学者のリストが掲載されています。
www.christiananswers.net/q-eden/edn-scientists.html

en.wikipedia.org/wiki/List_of_Christian_thinkers_in_science

 

このwebサイトには臨死体験を持った方々の証言が含まれています。
www.freechristianteaching.tv/index.php/the-final-frontier-movie

www1.cbn.com/content/dr-chauncey-crandall-patient-raised-dead

 

死からの生還を果たした男


www.youtube.com/watch?v=ZPZHWbe9dF4

 

Visions and Dreams of Jesus

 

Stories and Testimonies of Jesus’ Healing Miracles

www.cbn.com/700club/features/Amazing/

 

四つの霊的な法則

Four Spiritual Laws

 

イエスの映画

Jesus Film: view in Japanese

 

新約聖書/聖書

Japanese Living Bible

 

オーディオ聖書

Faith Comes By Hearing

無神論者も信仰者

Wednesday, October 15th, 2014

無神論者は絶対的な知識や真理の保証が無い中で、自分自身の思想を信じると言う意味では立派な信仰者であります。それゆえ無神論も他の世界観と並び、一宗教として数えることが可能だ。

無神論者は、天気予報、新聞、車のブレーキ、歴史本、医療雑誌、そしてエレベーターなど、自身の理解や制御の域を超えた存在すべてを信仰の対象にしてしまう。しかし私たちを乗せたエレベーターが急降下することもあるし、常に歴史本に書かれてあることが正しいとは限らない。また時折飛行機の墜落事故も耳にする。

無神論者は抜け目ない理論武装によって弁証を展開しているように見えるが、ただ神に果たすべき道徳的責任や、人生に対する神の支配と介入という問題に蓋をするための、単なる虚飾に過ぎないのではないか。

 

 

神と関係を持つ方法

 

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無神論と不可知論のための参考資料

日本人

An Atheist has Faith

 

 

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